その2 6歳からひとりぼっちを生き抜いたカノジョのスーパー危機管理能力 ー 近藤大介さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

近藤大介さんとカノジョに友人を加えた4人は、旅行先の雲南省麗江の木造2階建ての食堂で夕食を終え、地元の黒米酒を飲んでくつろいでいた。その時、いきなり「バーン!」という大きな音とともに、建物が崩れだした。生まれて初めて聞く驚愕的な音に何が起きたのかまったくわからない。戦争が始まって爆弾でも落とされたのか? 崩れかける建物の柱に猿のように捕まりながら2階から滑り落ちると、一階の台所は火の海だ。火の粉をよけながら4人は外に飛び出した。周りの建物も崩壊し、そこら中に火が上がって近藤さんたちを照りつけた。
 1996年2月3日、マグニチュード7.0 死者300人以上、1万7千人の負傷者を出した麗江大地震だった。近藤さんたちは幸い、この地震から無事に北京に戻ることができた。それは近藤さんの中国人の妻、「カノジョ」の力によるものだった。

 東京大学教育学部を卒業し大手出版社に勤めていた近藤さんは、大学時代から韓国に興味を持っていた。韓国の文化や歴史を研究していくと中国に突き当たる。1989年の天安門事件で、同じ若者が命がけで民主化のために行動を起していることに衝撃を受け、ますます中国への興味は募った。近藤さんは会社の研修制度で中国語を習い始めた。その担当教師がカノジョだった。近藤さんは当時「アッシー君」「メッシー君」という感覚で男性を見る日本女性たちとの会話にあまり興味を持てなかったが、カノジョとは哲学の話、文学、歴史、何でも同じスタンスで語り合うことができた。

 彼女の知識と見識の広さの背景はこうだ。北京生まれのカノジョは幼少期に1966年から10年間続いた文化大革命に巻き込まれた。大学教授で地主だった両親は最悪の階級とされ、父親は農村に下放され豚の世話をさせられた。母親は3年間監禁・拷問され、その後も軟禁生活を強いられた。両親がいなくなった家で、カノジョは6歳の時から3年間たった一人で暮らしていた。孤独な時間だけが有り余っていた。遊び相手もすることもないカノジョは、家にあった両親の書物を読みあさりその孤独を埋めた。その間にカノジョはほとんどすべての中国古典を読み終えていた。大学生になると、カノジョは民主化を求め天安門事件に参加した。その時、学生を武力鎮圧した中国政府に落胆し、カノジョは日本に渡ってきたのだった。
 子どもの頃から人間の暗の部分を見て育ってきたカノジョは近藤さんと出会い、中国で出会ったことがない正直で真っ白な人だと思った。1994年、近藤さんが29歳、カノジョが30歳でふたりは結婚した。

2度の革命をくぐり抜けた経験と直感が命を救った
 

 2年後、近藤さんはカノジョを伴って北京大学に社費留学した。
 冬休みを利用してふたりは留学仲間とともに雲南省を旅行し、麗江で歴史的大地震に遭遇したのだ。カノジョはどちらかというと体も弱く、普段は自己主張が強いわけではない。しかし、この旅行の時は最初から、カノジョは近藤さんが理解できないほど危機管理意識が強かった。
 まず、旅行のガイドは麗江の地元の人でと契約をしていたが、実際に来たのは地元民ではない漢族の学生アルバイトの女の子だった。ガイドを現地のプロに換えなければ絶対にツアーには行かないとカノジョは主張し、ガイドの女の子は泣き出した。近藤さんは「いい子そうだし、この子でいいじゃん」と言ったが、カノジョは絶対にダメだと譲らない。旅行社との口論の末、代わりに地元の納西(ナシ)族の男性ガイドがやってきた。
 ホテルにつくと、麗江で一番いいホテルで契約したはずが、3つ星ホテルになっていた。カノジョはこんなホテルには絶対泊まらない、もっと頑丈なホテルでなければダメだという。近藤さんは旅行の疲れもあり、このホテルでいいと思った。きれいな庭には大きな毛沢東像もあり、
「毛沢東像もあるし、ここでいいじゃん」と言ったが、カノジョはどうしても聞かない。仕方なく、一番ランクの高いホテルに移動した。
 その後一行は食事に出かけこの大地震に遭遇したのだ。

 燃え上がる民家の炎以外の明かりはなく、右も左もわからない近藤さんたちはうろたえるばかりだった。しかし、カノジョはすぐに地元ガイドを伴って、近くに水と食料を手に入れに行った。それから、安全な場所に移ろうとガイドと相談し、一番安全な場所は近藤さんたちが宿泊しているホテルだということになり、ガイドの案内で暗い道を歩いてホテルへ向かった。もし、これがアルバイトのガイドだったらどうなっていたかと近藤さんは想像した。
 途中の民家は総崩れだった。全壊した建物の中に、昼間に見た毛沢東像もあった。そうして山道を5時間歩き宿泊先のホテルに到着すると、そのホテルは崩れることなく地域の避難所になっていた。
 翌朝、カノジョは言った。
「とにかく、空港に向かわなければ私たちはここから出られない」
 だが近くには空港はなく、麗江空港が建設中なだけだ。カノジョはどんなにお金を使ってでも車を借りてその空港に行くと言う。近藤さんは使われていない空港に行くことにどんな意味があるのかと思ったが、他になす術もなくカノジョの言う通り空港へと向かった。空港はまだ何もないただの広い空き地だった。途方に暮れながら立ちすくんで30分ほどすると、そこへ何と政府の専用機が飛んできて当時の副総理(現在の全国人民代表大会常務委員長=国会議長にあたる)・呉邦国が降り立った。2度の革命をくぐり抜けて来たカノジョは、こういう大災害のときには国の要人が必ず現場に視察に来るとカンと経験で感じ取っていたのだ。カノジョは飛行機に向かって駆け出すと、関係者に救出の交渉をした。専用機は崑明空港に給油に寄るので、そこまでは搭乗してよいということになった。

 近藤さんたちは政府専用機で崑明に着き、そこから北京に無事戻った。被災地を脱出した最初の旅行者だった。


SadoTamako

投稿者について

SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト