第11回 長江商学院MBA Tony(男性)27歳
知的好奇心の強さはクラス一。8月から米国コロンビアビジネススクールに交換留学へ

(写真)クラスメートとスペインのバルセロナ旅行へ出かけたTony。 8月から交換留学のためニューヨークへ。常に世界を見据えています

<プロフィール>
1984年生まれの一人っ子、北京市出身。両親ともにエンジニアとして長らく国営企業勤務。その後、父親は起業し、会社経営に従事。学生時代は知的好奇心が強く、勉強だけでなく、水泳、合唱団を経験。特に大学時代は朝から晩まで図書館に入り浸るのが大好きだった。大学卒業後、父親の会社でエンジニアとして約4年間勤務。長江商学院MBAに入学し、エンジニアからファイナンスの世界へキャリアチェンジを目指す。四川省出身の美人な嫁がいる。

厳しい教育・しつけの両親の下、6歳から英語漬け。学生時代は勉強、水泳、合唱団とマルチタレントを発揮

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親は国営企業(重工業)で長らくエンジニアだったが、2年間ハルビンで技術経営を学んだ後は起業し、エンジニアとして現場で働きつつ、マネジメント職に就いた。母親も国営企業でエンジニアをしていた。教育・しつけに関しては、母親はすごく厳しかった。小学校に入る前に母親から英語を勉強するように催促され、友達が遊んでいるのを横目に英語の勉強をしていた。当時としては珍しかったと思う。ただ、私の性格上新しいことにチャレンジするのが小さい頃から好きだったので、自ら進んで英語の勉強を続けることができた。父親は寛容で、私の選択をいつも支持してくれた。父親からは新しいことにチャレンジする大切さを教わった。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 高校時代は、周りの生徒たちと同様によく勉強し、歴史が大好きだった。歴史は繰り返すものなので、歴史を勉強していると、現在や未来のことがある程度予測できるのがとても面白い。歴史上の人物では、社会を良くするために革命や改革を起こした人たちが好きだ。スポーツは水泳が大好きで、家の近くにあった水泳場に毎日のように通って練習していた。高校時代の同級生の7割以上はエンジニアになるため、技術系の大学に。私もエンジニアであった父親の影響があり、エンジニアを目指し、北京航空航天大学に入学した。大学時代もよく勉強したが、図書館にいるのが大好きだった。本当に様々な本を読んでいた。歴史や経済を中心に、授業がない日は一日中図書館にいて本を読んだ。ここで自分の知的好奇心の強さに気づくことができた。新しいことを学ぶのは本当に楽しい。また、大学の時はコーラスクラブに入って合唱にのめりこんだ。3年生の時に副部長に昇進し、クラブの管理全般を担当し、組織を運営していく大変さを学ぶことができた。また、コーラスクラブではチームワークの大切さを学んだ。コーラスでは個々のパートだけが飛びぬけてはダメで、全体のバランスを保つこと、チームが一丸となって調和することの大切さを学んだ。あのときは皆必死に最高の合唱をしようとして、素晴らしい一体感だったと思う。この経験から、中国人は決してチームワークが不得意なのではなく、一つにまとまるゴールや目標が少ないために、チームワーク力が醸成されにくいのではと思う。

父親の会社でエンジニアとして働くも、自分はエンジニアに向いていないことに気づき、長江商学院MBAに入学し、キャリアチェンジ

Q. これまでのキャリアは?

A. 卒業後は父親の薦めから、父親の会社(測定器製造販売)とその関連会社でエンジニアとして約4年間働いた。プロジェクトマネージャーとしてチームを率いたり、開発に従事したりと、やりがいのある職場だったが、徐々にエンジニアの仕事は退屈だなぁと感じてもいた。毎日同じことの繰り返しで、ロボットのような一面があると思う。そう感じるということは私には向いていなかったということだろう。私の性格はとにかく効率を追求し、どんどん自分で仕事を片付けていき、成長・変化していくのが好きなタイプだ。国営企業のような大きな会社よりも小さな会社やチームで仕事を効率よく仕上げていき、社会にインパクトを与えることができる仕事がしたいと感じていた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. とにかくキャリアをエンジニアからファイナンスに変えたかったのと、私と同じような考えをする仲間を見つけたかったのが大きな理由。長江商学院は豊富なビジネスネットワークがあるので、様々な業界、年齢、異なるバックグランドの人たちに出会え、私の知的好奇心が満たされ、とても楽しい。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、投資銀行でバンカーか株式アナリストになりたいと思っている。この二つとも幅広い企業にアクセスでき、私の知的好奇心が大いに発揮できる領域だと考えている。それに、効率を求める、優秀な人たちと仕事ができるのが特に楽しみだ。遠い将来は、ウォーレン・バフェットのように、ファンドを立ち上げ、世界中の企業に投資していきたい。



第12回 長江商学院MBA Sophie(女性)34歳
目標は母。母のように女性起業家として成功したい

(写真)8月から交換留学に行く同級生のためのフェアウェルパーティーで。いつもオシャレなSophieはこの日もとってもきれいです。

<プロフィール>
1977年生まれの一人っ子、遼寧省鞍山出身。父親は営業マンから脱サラして会社経営者、母親はファッションデザイナーなどを経て、今は父の会社の社長に。学生時代は勉強があまり好きではなく、バスケットボールに熱中したり、大連にてファッションモデルの派遣ビジネスを企画・実行したりするなど、人をまとめるのが得意だった。大連工業大学卒業後は、中国最大の電子情報メーカーHuawei Technologies、米系UTStarcom、友人が起業したベンチャー企業でジェネラルマネージャーを務める。8月からアメリカへ交換留学予定。

バイタリティあふれる母親に刺激され、常に「楽しい」を追求し、自分らしい学生生活を送る

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 私が生まれた1977年はまだ一人っ子政策はまだなかったが、家庭が貧しく、両親が全力を注いで私を育てたいという気持ちから第二子は産まなかったと聞いている。両親の気持ちは理解できるが、やっぱり一人っ子は寂しいので、弟妹が欲しかった。私が小さい頃、母親はファッションデザイナーや縫製工場のマネージャー、父親はガラスメーカーの営業マンだった。私が大学生の頃(1997年)、父親は脱サラして建築資材の販売会社を起業した。父親は中卒、母親は家庭が貧しかったため小学校2年生までの教育しか受けておらず、両親ともにハングリー精神で自分の道を切り開いていったのは本当にすごいと思う。その後、母親は父親の会社に移り、今は社長として会社経営をしている。母親のことはすごく尊敬しているし、人生の目標とする人だ。私に対する教育やしつけは厳しくなかったが、とにかく後悔だけはしない自分の人生を歩めと諭してくれたことは特に印象に残っている。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 高校時代、北京大学や清華大学など一流大学には興味はなかったので勉強はあまりしなかった。その分、熱中したのはバスケットボールで、「楽しく」をモットーに練習に励み、多くの仲間と青春を過ごすことができたのは最高の思い出だ。バスケはチームワークの楽しさを味わえるし、うまくプレーした時は皆から褒めてもらえるので大好きだった。これも一人っ子で寂しかったからかもしれない。
大学は実家から近かった大連工業大学に進学し、専攻は電子工学。特に興味はなかったが、両親が薦めてくれた。1年生の時からあまり勉強せず、キャンパスライフをエンジョイしていた。2年生のときに4年生の彼氏ができて、彼と一緒に過ごす時間がぐっと多くなった。彼はプロ並みのバスケットボール選手、成績はトップクラス、学生会の会長を務めるなどとても素敵な人だった。勉強以外では、大連はファッションビジネスが盛んで、私もファッションモデルに挑戦し、自動車展示会などに出演していた。ただ、自分はファッションモデルよりもその子たちを束ねる方が好きだったので、ファッションモデルの派遣会社みたいな仕組みを考えだし、大学できれいな女子学生を探し出し、20人ほど登録してもらって、いろいろなイベントに派遣していた。これも両親が独立して会社経営をしていたので、それが大きく影響していると思う。

母親のように将来起業家になることを意識して、着実にステップアップを図る

Q. これまでのキャリアは?

A. 大学卒業後は、中国最大の電子情報メーカーHuawei Technologiesを選んだ。大学の時からつき合っていた彼氏はすでに働いていたが、私が深圳にあるHuaweiに決まった時、両親や彼は大連からは相当遠いので当初は反対していた。しかし、私が熱心に説得した結果、彼は会社を辞めHuaweiに転職し、彼と一緒に行くことになった。Huaweiは北京大学や清華大学など超エリートが集まる会社で、上司や同僚はとても素晴らしい人たちだった。そのおかげで、私はぐんぐん成長でき、プロジェクトマネジャーとして部下を率い、多数のプロジェクトを成功に導くことができた。3年後、米系UTStarcomにプロジェクトマネジャーとして転職し、給料は2倍になった。英語が社内公用語で、上司はアメリカ人というグローバルな環境で5年間仕事をすることができ、仕事内容は満足していた。しかし、ジェネラルマネジャーまで昇進するためには後5年待つように上司から告げられ、当時29歳だった私はもっと早くジェネラルマネジャーに就きたかったため、転職を考えていた。その時、ちょうどHuawei時代の友人が独立し、彼がエンジニアだったので、私に会社全体をマネージするポジションを引き受けてくれないかとの依頼があり、ジェネラルマネジャーになれるチャンスだと思い、立ち上げたばかりの彼の会社に転職した。当時の従業員は30人だったが、今では150人まで拡大し、採用、オペレーションなどマネジメント経験を多く積むことができた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. ジェネラルマネジャーの仕事をひと通り経験してみて、すべてのマネジメントの仕事は私にはできないし、足りない分が多いと気づき(特にファイナンス)、MBAでしっかりとマネジメントを学びたいと考えた。なぜ長江MBAを選んだかというと、アメリカや香港のMBAも検討していたが、MBA後は中国で仕事がしたいと考えていたので、中国でのビジネスネットワークが築ける中国国内のMBAが賢明だと考えた。その中で、長江MBAと上海にあるCEIBSからオファーをもらったが、CEIBSはコンサルや投資銀行で働きたい若手が多く自分とは目標が違うなぁと感じていた。一方、長江MBAは中国ビジネス界でのネットワークがかなり強く、EMBAでは多くの起業家が入学・卒業しており、EMBA卒業生とのネットワークを考えるとこちらの方が私には合うと感じ、長江MBAに決めた。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、大企業ではなく、スタートアップ企業など小さな企業でジェネラルマネジャーに就き、長江MBAで学んだことを活かしつつ、マネジメント力をさらに磨きたいと考えている。長期的には、母親のように成功した起業家になりたい。



第13回 長江商学院MBA Sasha(女性)27歳
田舎者から上海、マカオ、そしてアメリカへと人生ステップアップ

(写真)スペインで思いっきりリラックスし、鳥さんとツーショットのSasha。「楽しく」「幸せ」が生きるモットー

<プロフィール>
1984年生まれの一人っ子、甘肃省出身。両親は地元のアルミニウム生産工場に勤務、普通の家庭に育つ。学生時代、勉強はトップクラスで、大学は上海外国語大学に入学し、英語とロシア語を専攻。上海で行われた国際会議やイベントの通訳や翻訳のボランティア活動に従事し、3年生時には代表を務める。大学卒業後は、上海建工集团に勤務し、コマーシャルマネジャーとしてマカオに赴任。4人の部下を率い、マカオでカジノやホテル建築プロジェクトに従事。会社全体のマネジメントを学ぶために、長江商学院に入学。

大学時代は数々の国際会議やイベントの通訳や翻訳のボランティアを務め、社会活動に貢献

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 両親ともにアルミニウム生産工場に勤務していた。当時、甘肃省は中国の中で最も貧しい省のひとつで、この境遇を抜け出すには必死に勉強して、トップ大学に入る以外に術はなかった。しつけに関しては、特に言われたことはない。父親は麻雀が大好きで、仕事が終わって家に帰るとよく夜中まで仕事仲間と麻雀をしていた。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 小中高時代、勉強はよくでき、甘肃省全体(15万人)中、20位くらいだった。当時は勉強の毎日で、放課後のスポーツなどのクラブ活動はなく、勉強以外は友達と遊んだり、テレビを見ていた。高校の時は学級委員長を務めた。話は飛ぶが、「楽しさ」や「幸せ」は本当に生きていくうえで大事な要素だと思う。私は楽観的に物事を考えることが好きで、いつも前向きに生きていきたいと思う。大学入学は成績と出身地が重要で、例えば北京大学や清華大学は北京在住の生徒の方が入学枠が多く、一方、地方出身者の枠は少なめで、成績も高い水準が要求される。私の成績は北京大学や清華大学の入学レベルに十分に届いていたが、当時祖父母が上海在住、両親も以前上海在住しており、上海は私にとって故郷のようなもので、上海の大学に行きたかった。そして、上海外国語大学に入学し、英語とロシア語を専攻した。大学時代は英語とロシア語を集中的に勉強しつつ、3年生の時に社会活動クラブの代表を務め、ロシア語から中国語への通訳や翻訳のボランティアをよくしていた。上海は国際会議や国際的なスポーツ大会が多く催されており、通訳者や翻訳者が必要で、それをボランティアで引き受けていた。テレビや新聞に私の翻訳がよく載っていて、とても充実したクラブ活動だった。他に、地方の貧しい地域に行き、小学生に中国語や英語を教えたこともあり、社会活動に夢中になっていた。こうした社会活動のおかげもあり、英語、ロシア語ともに国内の語学検定試験で最高ランク(レベル8)に合格できた。卒業生の多くは、同時通訳者や外交官になっており、今の外務省トップは私の大学の卒業生だ。

マカオでカジノやホテル建設プロジェクトに従事し、猛烈に働く。MBAで会社全体のマネジメントを学びつつ、人生ひと休み

Q. これまでのキャリアは?

A. 卒業後は、上海建工集团に就職した。なぜかというと、2006年に私は大学を卒業したが、その年は中露友好の節目の年で、この会社がロシア関連の建設プロジェクトを多数抱えており、ロシア語が流暢にできる学生を探していたためだ。この会社は上海にある有名な建築物の多くを手掛け、中国でもトップの建設会社だ。入社後はロシアに出張し、ロシアの不動産市場調査などに従事したが、当時はマカオ関連のプロジェクトも多く、ロシアと違って、マカオや香港は効率重視の仕事姿勢で、マネジメント力を含め多くを学べると思ったので、マカオに赴任することに決めた。マカオではコマーシャルマネジャーとして、カジノやホテルの建設プロジェクトに従事し、コスト・収益・予算管理、市場可能性調査、事業開発などを担当した。4人の部下を率い、土日関係なく、猛烈に働いた。その甲斐あって、2008年には会社から海外プロジェクトのベスト賞を獲得できた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. 会社で4年間働いたが、プロジェクトベースの仕事が多く、会社全体を見る機会が少なく、もっと大きな視点で会社を見たかったのでMBAに入学することを決めた。ただ、ハードワークな日々だったのでリラックスしたかったのも理由のひとつ。マカオや香港はハードワーカーの集まりで、非常にストレスフルな仕事場だと思う。

Q. 卒業後の進路は?

A. いろいろと悩んでいるが、前の会社に戻ることを考えている。会社全体を見るポジションに就くことも可能だし、給料も2倍くらいに上がる可能性があり、魅力的なポジションだ。8月から12月までアメリカへ交換留学に行くので、アメリカ中を旅行してリラックスしたい。とても楽しみにしている。



第14回 長江商学院MBA Gerry(男性)27歳
アメリカ人には負けない!熱い思いで秋からアメリカ留学

(写真)トップクラスの成績を誇り、発言力も抜群のGerry。ヘビーMacユーザーの一面も。初めての米国に内心は期待と不安でドキドキしています。

<プロフィール>
1983年生まれの一人っ子、広州出身。両親は大学の教師。小学校の頃から、ピアノと水泳を習い始め、どちらも10年間以上続ける。水泳は大学時に広東省大会で2位を獲得。高校時代は化学が大好き、広東工業大学では化学に関係したマクロ分子工学を専攻。卒業後は、世界4大監査法人であるデロイトに2年間勤務し、監査やM&Aなどのアドバイザリー業務、その後、ATM製造で国内2位の広州御銀科技股份有限公司で投資やIR関係業務を手掛ける。次は投資銀行家にステップアップしたく、ファイナンスを鍛えるために長江商学院MBAに入学。8月から米国コーネル大学に交換留学。

学生時代は勉強はほどほどにして、ピアノと水泳に熱中。水泳は大学時、広東省大会2位を獲得

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.両親ともに大学の教師で、父親は数学、母親は機械工学を教えていた。しつけは厳しくなかったが、自分を律することの大切さを学んだ。例えば、小学生から水泳とピアノを習い始め、10年間以上続けられたのは自分を律することができたからだと思う。そして、両親が教師だったので、勉強の仕方、時間の過ごし方、計画の立て方など様々な生きる術を両親から教えてもらった。両親にはとても感謝している。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.母親の薦めで小学校の時からピアノを習い始め、高校を卒業するまで10年間以上続けた。ピアノが大好きで、弾いているととても楽しい気持ちになれる。私は約40名のオーケストラの中でピアノを担当していた。指揮者が全体をまとめ上げ、調和していく過程は本当に楽しい。ピアノを通して協調性の重要性を学べた。勉強はほどほどにして学校で上位20%内で、北京大学などトップスクールにはそれほど関心はなかった。勉強のために自分を犠牲にするのは嫌で、趣味や遊びとのバランスを重視してきた。水泳も小学校から大学卒業まで10年間以上続けた。大学でも毎日欠かさず練習し、大学3年時に広東省大会でシルバーメダルを獲得できたときは本当に嬉しかった。何事も好きでないと続けられないし、好きであることが最も重要だと思う。好き、固執、集中、効率などが、私が何かをするときに大事にしている要素だ。高校の時は化学が大好きで、化学だけは成績はいつも一番だった。大学は広東工業大学で、化学に関係しているマクロ分子工学(Macromolecular Engineering)を専攻した。プラスティック、ポリマーなど物質・材料の応用に関する研究がテーマだ。ただ、2年生の終わりごろからこの研究に対する興味が徐々になくなってきて、経済系の科目に関心が移り始め、経済学部の授業を多く受講するようになった。3年時にベンチャーキャピタルでインターンシップを経験し、4年時に世界4大監査法人のひとつであるデロイト(Deloitte)から内定をもらった。私は理系で金融が専攻でもないのに難関のデロイトから内定をもらえたのは、水泳で大きな賞を獲得したり、単位が出ないにもかかわらず経済系の科目を受講して、積極的に勉強してきた熱意があったからだと思う。

理系ながらもビック4の監査法人に勤め、ファイナンスを専門とする。将来は、中国国内で米国人に負けない投資銀行家を目指す!

Q. これまでのキャリアは?

A.デロイトには2年間在籍したが、多くのことを学べた。金融専攻ではなかったので、金融、会計、監査など専門知識を深く学べたし、プロフェッショナルマインドや激務にも耐えうる根性や忍耐を身に付けることができた。その後、監査よりも事業会社でのビジネスに興味が移り、国内2位のATM製造会社の広州御銀科技股份有限公司(Guangzhou KingTeller Technology)の証券開発部に転職した。他社との提携・出資やIRなど上場周りの仕事を主に担当した。ここに在籍した2年間は、仕事は充実し、上司からも信頼されていたが、自分の目標とする場所ではないと感じていた。もっとグローバルに、プロフェッショナルに、効率よく仕事がしたくなった。具体的には投資銀行で働いてみたくなり、そのためには私の大学時代の専攻やこれまでの職務経験では不足している能力を高める必要があり、MBAを取ることに決めた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?MBA生活はどう?

A.ファイナンスが強いことに尽きる。世界中の有名大学MBAで教えている中国人教授が授業をもっており、投資銀行で働くのに十分な知識を得ることができる。8月から5ヵ月間、米国コーネル大学に交換留学するので、長江で履修できる授業はすべて終わったが、教授やクラスメイトの質の高さ、ここで学べたことは本当に満足している。

Q. 卒業後の進路は?

A.ゴールドマンサックスやモルガンスタンレーなどグローバル投資銀行で働いてみたいが、国内トップの投資銀行であるCICCやCITICでも十分に満足だ。実際、ここ中国の金融業界は政府の規制が厳しく、外資系投資銀行に不利なビジネス環境であるし、上海証券取引所がグローバル化されれば、もっと国内系投資銀行にチャンスがやってくるはず。中国人は頭脳や根性などファンダメンタルの面でアメリカ人に負けていないし、十分に勝負できると思っている。



第15回 長江商学院MBA Judy(女性)27歳
超エリート街道まっしぐら!清華大学→GE→MBA→次は外資コンサルへ

(写真)頭脳明晰に加え、心も優しいJudy。エリートキャリアを追求しつつも、家庭との両立を目指す

<プロフィール>
1984年生まれ、河北省出身、両親と弟の4人家族。両親は教師で、恵まれた教育家庭に育つ。中学・高校は勉強に専念し、難なく清華大学工学部に入学。大学時代は勉強に専念しつつ、動物愛護協会の代表を務める。大学院を卒業後、GEに入社。3年間、ソフトウェアプロダクトマネージャーとしてマーケティング職に従事後、長江商学院MBAに入学。8月から米国コーネル大学に交換留学。

勉強だけが豊かに暮らすための唯一の道。猛勉強の末、清華大学に進学

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.父親は中学校で数学の先生と事務職を兼務、母親は小学校の先生だった。両親は私の教育やしつけに関しては口うるさくはなく、私に任せてくれていた。私は自分を律するのが得意だと思う。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.中学、高校の時はとにかく勉強しかしていない。私の町は小さなところで、北京のような大都市と違って、遊ぶところは少なく、学校にはクラブ活動もなかった。学内の寮に住んでいて、学校と寮の往復の毎日だった。唯一の趣味は読書で、図書館から借りてきた海外作家の小説をよく読んでいた。当時の中国はとにかく勉強して、いい大学に入ることがよい人生を暮らす唯一の方法だと信じられていて、子供に勉強以外のことを薦める親はほとんどいなかったと思う。よく勉強した甲斐があり、中国の最高学府の清華大学に進学することができた。私の高校からは800人中3人が清華大学に進学。
清華大学では自動化工学(Automation)を専攻し、基本は高校同様に勉強に専念した。そのおかげで2年次、3年次にトップ10%に与えられる奨学金を得ることができた。勉強以外では、ある人の影響で動物保護協会を立ち上げ、私は代表として、メンバー約20人とともに活動した。大学の同級生の半数以上は大学院に進学していたので、私も大学院に進学した。大学院の時にGE(General Electric)で3か月インターンする機会があり、インターン後、GEから内定を獲得し、卒業後はGEで働くことにした。同級生は卒業後ほとんどが外資系企業か国営の大企業で働き始めた。特に当時はIT企業が人気で、グーグルやマイクロソフトなど米系企業が中心だ。

GE時代は専攻を活かしたマーケティング職に従事。MBA卒業後に狙うは、外資一流コンサルティングファーム

Q. これまでのキャリアは?

A.GEではソフトウェアプロダクトマネージャーとして、マーケティングサイドの仕事に就いた。大学ではオートメーションを専攻したが、私は特にプログラミングが嫌いで、専攻を活かしたマーケティングサイドの仕事の方が自分には向いていると思う。市場や競合分析を通してマーケティング方針を決定し、営業部隊と綿密に連携し、商品を市場に送り出す仕事だ。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?長江での生活はどう?

A.3年間GEでマーケティングの仕事をし、仕事内容、職場環境ともに満足していたが、取扱い商品が狭く、もっと大きな舞台で仕事をしてみたくなった。MBAを通して、マネジメントコンサルティング業界にキャリアチェンジするのが目的だ。MBA卒業後は中国で仕事をしたいので、当初から欧米のMBAは選択しなかった。特に長江はビジネスネットワークが魅力的で、将来のビジネスを考えるとここがベストだと思う。実際に長江で授業を受けた感想は、教授や学生の質はしっかりしており、クラスサイズが小さいため皆と深い関係になれたのがよかった。8月から5カ月間コーネル大学で交換留学があるので、今はとても楽しみにしている。

Q. 卒業後の進路は?

A.卒業後は、マッキンゼーやボストンコンサルティングなど外資系一流コンサルティングファームで働きたい。既に結婚しているので、早めに子供を生み、仕事と家庭を両立させたい。



第16回 長江商学院MBA Conan(男性)29歳
地方出身の若き秀才、中国の環境問題をビジネスで解決したい!

(写真)万里の長城近くの鉄道路線で一休みするConan。山登りが大好きです

<プロフィール>
1982年生まれの一人っ子、四川省自貢出身。両親はメーカー勤務でごく普通の家庭に育つ。6歳の頃から母の薦めで読書を始め、学ぶことが大好きになる。学生時代、成績は常にトップ、高校時代に英語クラブを仲間と立ち上げ、総勢100名を束ねる副代表を経験。大学は北京大学で化学を専攻。大学時代はロッククライミングに没頭する。大学卒業後、P&Gに就職し、R&Dマネジャーとして消費者調査や製品デザインの仕事に5年間従事。MBAを通して、消費材ビジネスから環境ビジネスへキャリアチェンジを図る。長江商学院MBAでは、エネルギー・環境クラブの代表を務める。

読書が秀才への第一歩。北京大学時代はロッククライミングに夢中になる

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.両親ともにメーカー勤務で、私が小さい頃は製品の品質保証を担当していた。1990年代半ば以降、中国の経済政策が計画経済から自由経済へと大きく変化し始め、国が抱えきれなくなった国営企業の多くは、国の管理から離れ、証券取引所に上場したり、他社に買収されたりして、急速に合理化が進められた。父のメーカーも一時経営難に陥ったが、1997年に上海証券取引所に上場して、2000年以降は業績が上向き始め、父はこの会社を勤め上げた。母のメーカーは倒産に至り、母はその後様々な職業を経験し、最後は地元の自治体のリーダーとして地域のために仕事をしていた。なので、決して恵まれた家庭ではなかった。普通の家庭ながらも、両親は私の教育に投資は惜しまず、いつも私の意思を尊重してくれた。教育やしつけに関して特にうるさく言われたことはない。学校の成績が小学校の頃から常にトップだったのも、親を安心させた要因かもしれない。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.6歳の頃、両親が私を図書館に連れて行ってくれ、そこで様々な本を読み始め、夏休みや冬休みは図書館にこもってずっと本を読んでいた。学校の成績がこれまでいつもトップだったのは、小さい頃に読書の習慣がつき、学ぶことが大好きになったからだと思う。中学・高校の頃は数学や化学のオリンピック大会のために必死に勉強したのを覚えている。
 高校2年生の時に英語を勉強するクラブを友人と立ち上げ、副代表として活動した。新聞、ニュース番組、映画などを題材にメンバーと楽しみながら勉強した。メンバーは約100人まで増加し、チームでクラブを運営したり、勉強する楽しさや苦労を学ぶことができたのはとてもいい経験になった。私の高校は比較的オープンカルチャーでこうしたクラブ活動に対しても寛容で、みな生き生きと高校生活を送っていた。一般的に、中国の高校は生徒を勉強だけに専念させ、勉強以外のクラブ活動などはさせないのが普通だ。
 大学は北京大学に進学し、化学を専攻。化学は常に高校で1番だったので、大好きな科目だ。当時(2001年)、四川省全体から北京大学と清華大学にそれぞれ50名弱進学することができ、私の学校からは600名中、私を含め4名が北京大学に進学した。北京大学時代は、もちろん大好きな化学を必死に勉強したが、勉強以外では、大好きな山登りとロッククライミングに多くの時間を費やした。1年生から山登りクラブに入部し、週2回、50人ほどのメンバーで北京西部の山に出掛け、仲間と楽しい時間を過ごした。私の学部の3分の1は米国へ修士号と博士号を取得へ、3分の1は国内の大学院や中国科学院で科学者への道を選んだ。私は3年生の時に科学者になるより、ビジネスサイドの方が向いていると思い、米国への留学を辞め、卒業後は会社で働くことに決めた。化学を専攻していたので、化学製品を多く取り扱うP&Gに就職することに決めた。

P&GでR&Dマネジャーとして成長著しい消費財ビジネスに従事。MBA後は、中国が抱える環境問題を解決する環境ビジネスに挑戦

Q. これまでのキャリアは?

A.P&GでシニアR&Dマネジャーとして5年間働いた。主な仕事は、マーケティング部とR&D部を繋ぐ仕事、消費者調査や製品デザインを担当した。具体的には、ある商品のブランド差別化戦略の構築、製造ライン拡張のための予備調査と実行計画策定、消費者への定量及び定性インタビュー、それに続く製品開発計画への落とし込み、東南アジアへの市場参入計画などだ。P&Gで消費財ビジネスに5年間従事し、成長著しく面白い分野ではあるが、興味としては中国が抱える環境問題を解決するビジネスに移っていった。ビジネススクールを通して、消費財ビジネスから環境ビジネスにキャリアチェンジしようと考えた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A.将来は中国でビジネスをやりたいし、長江商学院の起業家のネットワークは中国で最強なので、このネットワークに入るべく、ここのMBAを選んだ。当初より米国は考えておらず、また、北京大学を卒業したので、北京大学が持つネットワークは既に持っており、北京大学のMBAには興味はなかった。

Q. 卒業後の進路は?

A.クリーンテック企業など環境ビジネスに特化した企業で働きたい。そして、10年以内に起業して、自分の会社を持ちたい。人生を楽しみつつ、社会に貢献した人生を送っていきたい。



第17回 長江商学院MBA Li(女性)26歳
高校、大学はイギリス留学。抜群の国際的視野と優しさを併せ持つ中国美人!

(写真)10月4日に結婚式を控え、準備に忙しいLi。今は幸せいっぱいです☆

<プロフィール>
1985年生まれの一人っ子、浙江省温州出身。両親は大手通信業者向けにモニターシステム会社を起業。幼少期は祖父母に育てられる。父親の影響で読書が大好きで、成績は頗る優秀。高校、大学はイギリス留学。大学時代はラテンダンスにのめりこむ。新卒でゴールドマン・サックスに入社し、ポートフォリオ管理を担当するバックオフィスに2年間勤務。家庭の事情で上海に戻った後、長江商学院MBAに入学。10月4日に挙式予定。

小さい頃、父親から薦められた読書のおかげで、成績優秀。高校、大学はイギリスへ留学

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.両親は1996年に大手通信業者向けにモニターシステムを製造販売する会社を設立した。現在は従業員約300人、服や靴のメーカーなど伝統的な企業が多い温州の中では珍しいハイテク企業だ。小さい頃は両親が起業して非常に忙しかったため、祖父母と一緒に過ごすことが多かった。ただ、両親は勉強家で、読書をよくしており、私にもたくさんの本を買ってくれた。両親のおかげで、私も読書が大好きになった。読書のおかげで、自分から進んで勉強するようになり、小学校では成績は頗る良好。とても自由な幼少期を過ごした。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.母親の健康問題で、家族全員で温州から父親の実家がある上海に移り住んでため、上海にある中学校に入学した。温州よりも上海の方が小学校の時から勉強の進捗スピードが速く、上海では既に小学校から英語の授業が始まっていたり、数学の進捗がかなり進んでいたため、中学入学当初は特に英語と数学はひどい成績だった。ただ、小さい頃から読書好きで、勉強が得意だったため、半年後には同級生に追いつき、その後はトップの成績を維持することができた。英語はとても良い先生に巡り合い、上達は早かった。その先生の夫が复旦大学の教授で、彼がよくイギリスに行っており、彼からイギリスの街並みの美しさ、教育環境の良さを度々聞いていた。そんな彼のおかげで、イギリスにとても興味をもつようになった。ある日、上海でイギリスの教育機関の展示会があり、イギリス留学を真剣に考え始めていた頃で、父親と一緒に行くことになった。そこで出会ったイギリスの方が私の英語をとても褒めてくれ、その場で英語の試験を受けることになり、イギリス留学の許可までいただいた。当時の夢は外交官になって、世界中を飛び回って仕事をすることだったので、家族と相談して、イギリス留学を決めた時は不安より興奮や期待が大きかった。イギリスでの高校はインターナショナルスクールで、日本やベトナムなどアジア、欧州など多国籍のクラスメイトと2年間を過ごした。初めての海外でとても楽しかったし、ホームステイ先で2年間過ごし、その家族にもとてもお世話になった。ただ、親元を離れ、一人異国の地で生活をするのはやはり大変で、ホームシックになったり、友達と楽しく遊べても、深い友達関係になれなかったりと、いろいろと苦労したのも事実。でもこれが私の内面を大きくしてくれたことは確かだ。大学はそのままイギリスに残り、イギリスのBathにあるBath大学の経営学部に入学した。Bathは綺麗な町で高校生の頃訪れて、一目惚れした場所だ。大学ではもちろん勉強は進んでしたが、ラテンダンスクラブに入部してからは、ダンスが大好きになった。Bathにはラテンダンスの先生が少なかったので、電車で1時間ほど離れた町にいた有名なラテンダンスの先生のところまで毎週1回必ず通い続けた。ラテンダンスから、ラテンミュージックも好きになったり、ダンスを通していろんな方と友達になれたのは本当に楽しかった。中国では当然勉強が重んじられるが、イギリスでは勉強より趣味の方が働く上では大事という考えがあり、仕事場では機械みたいな人と働きたくないし、面白い、素敵な人と仕事をしたいという価値観も強い。

新卒でゴールドマン・サックスに入社。2年間勤務後、家庭の事情もあり、上海に戻ることを決意。

Q. これまでのキャリアは?

A.大学卒業後は、イギリスにあるゴールドマン・サックスに入社し、ポートフォリオ管理を担当するバックオフィスで働いた。予想以上に忙しく、毎日平均12時間ほどの仕事量だった。仕事自体は充実していたし、周りの同僚はとても優しく、思いやりがある人たちで恵まれた環境ではあった。ただ、仕事時間がかなり長く、どうしても私には合わないと思って2年間働いた後、家族の事情も重なり、会社を辞め、上海に戻ることに決めた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A.上海に住んでいた祖父の肺がんの症状がかなり悪化し、一度上海に戻り、祖父の看病をすることに決めた。小さい頃からずっと私を育ててくれた祖父に感謝していたし、最期が近いと聞いていたので、上海に4か月ほど看病をしていた。ただ、ずっと看病をするわけにもいかず、上海で働き始めようかと考えたが、その前にMBAでもう一度勉強してから働くことにした。

Q. 卒業後の進路は?

A.現在、インターシップをしている企業が株式公開を控えており、卒業後2、3年はこの会社で株式公開を成功させるまで勤務したいと思っている。その後は、10月4日に結婚する彼と上海に戻り、父親の会社で働こうかと考えている。父親の会社も株式公開を考えているので、卒業後の会社の経験が活かせればと考えている。長期的には、彼と一緒にウェディングプランナーとして独立したい。



第18回 長江商学院MBA Erica(女性)30歳
中国の超人気お見合い番組「非誠勿擾」に出演歴あり!キャリア志向の中国美人




(写真)女性の中ではクラス一発言するErica。タオバオのヘビーユーザーの一面も。

<プロフィール>
1981年生まれ、広東省出身。5歳年上の兄がいる。母親の教育熱心のおかげで、小学校に同い年より2年早く入学。小さい頃から読書が大好き。中学・高校時代は、成績はトップ5以内で、部活はバスケットボール部に所属。大学は武漢にある華中科技大学の英語科に進学。大学ではインターネットにはまり、ネットサーフィンの日々。大学卒業後は、米系、日系企業など外資系企業のマーケティング畑を一貫して歩む。東風日産に勤務経験あり。長江商学院MBAを通して、シニアマネジメントにキャリアアップを図る。

小学校から2年飛び級入学。いつも2歳年上の同級生に囲まれた学生生活を過ごす

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.父親は国営企業勤務、母親は小学校で中国語の先生をしていた。教育やしつけには厳しい両親で、3歳から母親は私に中国語のピンインを教えていたし、箸の持ち方や服の畳み方など厳しくしつけされた。特に母親は教育熱心で、私は3歳から母親から教育を受けていたおかげで、同い年よりも2年早く特別に小学校に入学できた。小学校からずっと、同級生はみな私より2歳年上の1979年生まれの人たちだった。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.母親の影響で、読書が大好きになり、休み時間になるといつも本を読んでいた。成績は上位トップ5をキープ。特に中国語と英語は得意だった。高校では理系クラスだったので、化学や物理も勉強した。部活はバスケットボールをして、よく放課後や週末に練習したものだ。高校の時は具体的な将来の目標はなく、大学は父親の薦めで、武漢にある華中科技大学の英語科に進学した。ちょうど私が大学に入学した頃(1998年)、ITが普及し始めた頃で、時間があればインターネットで毎日ネットサーフィンを楽しんでいた。海外の情報にアクセスしたり、友達とのチャット、他大学の生徒とのディスカッションなどしていた。英語に関しては、広東省は香港と近いため英語のテレビ番組を見ることができ、中学・高校生の頃からよく英語の番組を見ていたため、自然と英語力は上達していった。

米系と日系企業のマーケティング職を両方経験。日系企業の弱点は組織構造にあり

Q. これまでのキャリアは?

A.大学卒業後、コミュニケーションに強い興味があったので、一貫してマーケティング分野でキャリアを築いてきた。広告代理店で約2年半、米系Heinzでマーケティングスーパーバイザーとして約2年、日中合弁の東風日産でモデルストラテジーとして約1年、米系Amwayでアシスタントブランドマネジャーとして約2年半を経験してきた。経験社数は4社だが、一貫してマーケティング畑だ。米系企業と日系企業の違いを2つ上げると、1つ目は、米系は組織がフラットで、意思決定が早い、昇進基準が明確、日系は組織のヒエラルキーが強く、意思決定に多くの時間をかけすぎ、昇進基準があいまい。2つ目は、米系は本国からシニアマネジメントクラスしか派遣しないが、日系はミドルマネジメントクラスまで派遣し、会社に日本人がたくさんおり、中国人がマネジャーに上がるのに時間がかかる点だ。さらに、日系は駐在員に対する待遇が頗る良く、現地の中国人が明確な差を感じるのは好まれないと思う。これまでの私のマーケティングキャリアから日本企業にアドバイスすると、中国人の間では、日本の商品は品質が高いことは有名で、日本の企業はもっと品質、責任感、信頼など、キーメッセージを発するべきだと思う。それに有名人やアスリートを使ったマーケティングキャンペーンを大掛かりにやるべき。付け加えると、消費財セクターでは、メイドインチャイナの商品は最近本物かどうか疑いがかかることが多くなったので、メイドインジャパンブランドの方が信頼が増すと思う。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A.これまでマーケティングキャリアを歩んできたが、MBAを通してマネジメントを学び、次はシニアマネジメントのポジションで会社全体を見ていきたい。長江商学院は1年MBAで奨学金が充実しているため、CEIBSと比べてコスト(機会コスト含む)が半分ぐらい安い。米系Amway勤務時代(2009年)に広州市のビジネス中心街に家を買ったが、それがぐんと値上がりし、MBAで払った授業料を既に回収することができた。ビジネス中心街は今後も不動産は値上がりが続くと思う。

Q. 卒業後の進路は?

A.卒業後は、これまでの経験を活かして、消費財セクターの経営企画室や戦略部門で働きたい。5年以内にディレクターレベルまで上がれればいい。外資系戦略コンサルティングファームも考えている。



第19回 長江商学院MBA Flora(女性)30歳
父親は医者。恵まれた家庭でも人一倍の努力家!




(写真)クラスで最も日本好き!早く日本で桜が見たい!

<プロフィール>
1981年生まれ、山東省威海出身。6歳年下の弟がおり、現在軍隊へ入隊中。父親は医者、母親は中学校の数学の先生。中学校から大学まで陸上部に入部し、中学時代は100メートル、1500メートルで学校でナンバーワンを獲得。高校時代は勉強漬けで、大学は北京交通大学工学部へ進学。大学卒業後は、華為(ファーウエイ)技術、チャイナ・ユニコムでネットワークやITソリューションのマーケティングを手掛ける。マネジメント、ファイナンス面を強化すべく長江商学院MBAに入学。卒業後はベンチャーキャピタル業界へ。大学時代に初の彼氏ができ、彼と近々結婚の予定。

医者と教師の両親の影響でしつけが厳しい幼少期。中学以降は、文武両道を貫く

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.父親は医者で、大学卒業後30年以上医者を続けている。母親は中学校で数学の先生をしていた。両親ともにしつけや教育には厳しく、帰宅時間やテレビを見る時間はいつも制限されていたし、本をたくさん読むように薦められた。自然と読書が趣味になった。一方、これまで学校の選択やキャリアの選択は自分の判断で、親はいつも応援してくれた。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.中学時代はもちろんよく勉強したが、陸上部に入り、短距離、中距離両方の選手として頑張った。おかげで、100メートル走、1500メートル走の2種目で校内1位をとった。一転、高校時代は地獄のような勉強生活。毎日毎日勉強漬けで、ちょっと退屈だった。高校は地元の普通科でそれほどレベルは高くなく、常にトップ3以内の成績。高校でも陸上を続け、心身ともに鍛えた。私は理系で、数学、物理、化学が好きだったので、大学は北京交通大学の工学部電気工学科に入学した。大学時代は、3分の1は勉強に、3分の1は陸上に、3分の1は恋愛に使ったかなぁ。大学2年生の時に初めて1つ年上の彼氏ができ、それからは楽しい大学時代に変わった。彼とは今もつき合っており、近々結婚する予定。私の人生で最初で最後の彼だ。大学卒業後は北京理工大学大学院に入学し、オートメーションを専門とした。オートメーションは学部時の電気工学と同じ専門だ。

IT・通信分野の一流中国企業で着実に経験を積む。卒業後はVCなど小さな企業で自分の力をフルに活かしたい

Q. これまでのキャリアは?

A.大学院卒業後は華為(ファーウエイ)技術に入社、エンジニアではなく、マーケティング職に近い製品のプレセールスを担当した。私の工学の専門性から製品技術を理解しつつ各市場に投入する戦略を構築し、それを実行する部隊だ。ファーウエイで2年2か月勤務後、チャイナ・ユニコムに転職し、ネットワーク機器のマーケティングやソリューションビジネスを担当した。顧客は欧米の大手企業が多く、例えば、イーベイ、アウディ、アンハイザー・ブッシュ・インベブなどだ。AT&Tやブリティッシュ・テレコムなど欧米の通信メーカーと組み、部下を8名率い、国内外の大手企業にネットワークやITソリューションを提供していた。チャイナ・ユニコムに3年8か月勤務したが、自分に足りないマネジメントやファイナンスの知識を得るためにMBAに入学することに決めた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A.長江は中国では有名で、1年MBA、60人という少人数なところが良かった。清華や北京大のカルチャーは私には合わないし、2年のMBAは長いと感じた。

Q. 卒業後の進路は?

A.これまでは大企業で勤めてきたので、次は小さな会社で自分でビジネスをリードしていきたいと考えている。現在あるVC(ベンチャーキャピタル)でインターンしており、VCはこれまでの仕事経験と長江のMBAの知識が活かせる場としてはとても良いと思う。5年以内にはバイスプレジデントレベルまでは昇進したい。



第20回 長江商学院MBA Julia(女性)31歳
二児の母親がMBA後、起業を決意!超タフな中国人女性の代表格




<プロフィール>
1980年、北京市東城区生まれ。両親はともに大学の教授。中学時代はシンクロナイズドスイミングに没頭し、国内2位の実績。高校時代は転校後の新しい学校になじめずほぼドロップアウト状態に。大学はデザインを専攻し、マーケティング、広告ビジネスに高い関心を示す。大学卒業後は、香港系、シンガポール系企業でマーケティング職に従事。長江商学院MBA終了後は、起業を決意。二児の母親。

中学時代にシンクロナイズドスイミングで国内2位の実績。高校時代はやんちゃに過ごす

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A.両親ともに大学の教授(父親は数学、母親は社会学)で、私の幼少期に両親は私を連れて、博士号を取得するためにパリへ行った。両親はあまりに勉強に忙しかったので、半年後私を北京に帰国させ、その後は祖父母が私を世話してくれた。父親は8年、母親は5年パリで過ごしたので、伝統的な中国の両親とは違って、おおらかで、寛容的だ。私はこれまでも自分の判断で学校やキャリアを決めてきたし、親に相談するといつも適切なアドバイスをくれた。とても自由な家庭環境だった。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A.小学校から中学校にかけて6年間、シンクロナイズドスイミングに熱中した。毎日3時間以上の練習を続け、中国国内の大会で2位を獲得したことがある。私は当時から身長が高く、足が長かったので、このスポーツにとても合っていたし、大好きだった。私は何か好きなことを見つけると、とことんやるタイプだ。一転、高校時代はトラブルメーカーだった。その原因は、両親の仕事の都合で転校し、新しい高校に移った時に友達とうまく馴染めず、寂しい思いをすることが多かったからだ。学校では勉強もせず、友達とも遊ばず、学校の外の仲間とよくつるんでいた。バンドをやっている少し悪そうな人たちとよく遊んだし、ケンカしたり、暴れたりして、やんちゃな高校時代を過ごした。今となっては良い思い出だ。音楽や芸術が好きだったので、大学は北京工商大学に入学し、マーケティングと広告ビジネスを専攻した。特に広告のクリエイティブサイドに熱中し、デザインの基礎から学び、実際の広告デザインまで幅広くデザインを学んだ。さらに、アメリカの大学院でデザインをもっと学びたかったので、大学院に入学するための英語のテスト(TOEFLやGRE)を猛烈に勉強し、数校からオファーをもらった。しかしながら、不運なことに、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起き、大学院への入学許可はあったもののビザが下りず、米国留学は断念せざるを得なくなった。本当に残念だった。その後はずっと広告会社でインターンをして大学時代を過ごした。

香港系とシンガポール系企業でマーケティング職に従事。MBA卒業後は起業に挑戦!

Q. これまでのキャリアは?

A.大学卒業後は、香港にある世界一のゴルフ場運営会社でマーケティング職に就いた。香港は英語と広東語が公用語で、純粋な北京人の私からすると生活しづらく、寂しく感じることが多かった。そのため、1年半でこの会社を辞め、北京にあるシンガポール政府系のKepplelandに転職した。この会社は不動産業、オイル業、建築業の3つを経営し、私はマーケティング全般を担当した。このシンガポール会社は、シニアメンバーはすべてシンガポール人で、ミドルメンバーやジュニアスタッフは中国人を採用していた。シンガポール人は中国語は理解できるが、あまり話そうとせず、仕事はいつも英語でやっていた。私は4年半、Kepplelandで働いた後、二人目の子供ができたので退職し、MBAを通して少し休みつつ、経営を勉強することに決めた。MBAに入学まではGMAT試験の準備をしたり、私の夫の会社を手伝っていた。私の夫はフランスで10年間ワインビジネスを手掛けていて、私の叔父が中国で経営していたワインの会社を夫が引き継ぎ、今は彼が社長として経営している。従業員は約260名で、中国国内で6つの支社を持つ規模にまで成長している。

Q. 卒業後の進路は?

A.自分で新しい会社を立ち上げることに決めた。ユニークなアクセサリーやグッズをネットで売るビジネスだ。中国人は価値観が多様化してきており、高級品やブランド品だけに目が向いていたのが、ユニークなもの、自分だけのオリジナルなものを求める傾向になってきている。これまでのデザインやマーケティングの経験を活かし、優れたアーティストを発見し、彼ら彼女らの商品を中国国内でネットを通して販売していきたい。アメリカに同じようなビジネスモデルが既にあり、それを参考にしている。日本にも優れたユニークなアーティストがたくさんいるので、ぜひ見つけたら私に紹介してほしい。