黒四角

釜山国際映画祭やロッテルダム国際映画祭での受賞歴を持つインディペンデントの映画監督・奥原浩志監督は、2008年9月に文化庁新進芸術家海外研修員として北京にやってきました。研修目的は「中国で映画を撮る」。

1年間の研修期間終了後も中国での映画製作を目指し北京に留まり続けた奥原監督が2012年3月に制作開始した映画「黒四角」が、昨年9月に完成しました。

近くて遠い国、日本と中国の「戦争と現在」を扱った本作品は、同年の東京国際映画祭コンペティション作品にも選出。
2014年5月より東京新宿K’s CINEMAを皮切りに全国ロードショーが決定しています。これは、奥原監督が北京に渡り「黒四角」を完成させるまでの道のりを振り返る8回連続の書き下ろしエッセイです。



初到北京



(写真)北京へ


先日、友人のKが北京に来た。Kもかつての僕と同じで、文化庁の海外研修制度を利用し、これからの1年間を北京で暮らす。空港に迎えに行き、二人で市街に戻るタクシーに乗った。昼下がりの高速道路は込んでいて、近づきつつある春の陽があちこちに反射して目に眩しい。運転手のおじさんが「煙草を吸ってもいいか」と同意を求めてきた。問題ない。あなたが吸うなら僕も吸う。窓を薄く開け、煙草に火をつけて僕は思い出した。2008年9月3日、僕は市街に向かうタクシーの中にいて、やはり陽の光が眩しくて、高速道路は渋滞していた。「煙草を吸ってもいいですか?」と僕は運転手に聞いた。日本で覚えてきたいくつかの中国語のフレーズのうちの一つだ。問題ない。君が吸うなら俺も吸う。窓を薄く開け、僕とおじさんは煙草を吸った。中国人相手に喋った初めての中国語は通じたようだ。僕は何だか晴々とした気持ちになった。恐れるものは何もない。
 「どうして行き先に中国を選んだのですか?」。今までに何度聞かれたことだろう。答えだってスラスラ出てくる。「初めはニューヨークやパリみたいな場所に行こうと思ったのですが、映画を撮るとなるとやっぱその場所と自分の関係性を見つけないと撮れないじゃないですか。例えばニューヨークで映画を撮る自分の姿がイマイチ想像できなかったんです。それで中国だったらと思いまして…云々」。それで納得してくれてるのかどうかは分からないが、ともかくそれ以上は聞いてこない。僕は少し白けた気分になる。なぜならそれは本当のことではないから。理由のひとつには違いないが、本当のことを言えば本当はもっと別な事だ。言葉にするのが億劫で、話そうとしても言い淀んで伝わらないのを知っているから言わないだけだ。僕がそれまで生きてきたすべての時間に関わるようなことだから。「逃避だろ」と、中国に渡る前、何人かの知人に言われたし、面と向かって言わないにしてもそう思っている人は多かったかと思う。否定はしないよ。僕は逃げたんだ。でもその場の現実から逃げたところで行った先に別の現実が待ってることをさすがにこの歳になれば知っている。これからは別の答え方をしようかな。「中国に来たのは『黒四角』を撮るためです」。ひょっとするとそれが一番真実に近い答えかもしれない。錯覚には違いないが、ときどき僕が中国に来て「黒四角」を撮ることが必然だったように思えたりするからだ。
 気分よくタクシーから降りて数分後、北京電影学院留学生寮のフロントで、僕らは途方に暮れていた。僕らというのは僕とU君。U君は現代美術のアーチストだ。やはり文化庁の研修員で、受け入れ先も僕と同じ北京電影学院だった。電影学院のニューメディア・アート科の研究室にU君は入ることになっていた。日本で研修員の顔合わせ会のような催しがあり、U君とはそこで初めて会った。僕は北京はおろか、中国大陸に一度も足を踏み入れたことがなかったのだが、U君は前に下見を兼ねて中国のあちこちの美術大学を訪ね歩き、電影学院にもその時に立ち寄ったと言った。そこで僕は彼を密着マークして、同じ便の航空券を購入し、無事に目的地にたどり着いたというわけだ。
 留学生寮のフロントの女の子は実に無愛想だった。はるばる日本からやってきた二人のゲージュツカを、彼女は堂に入った不親切さでもってあしらった。彼女は中国語で僕らに何かを話しかけ、理解しないのが分かるとそれっきり相手にするのを止めてしまった。僕らはあっけにとられ、憤慨し、その理不尽な対応に抗議の意を唱えてみせたが無視される。今でこそそんな中国式接客態度にも慣れっこになってしまったが、初体験は鮮烈だった。通りかかった在校の留学生に寮がまだ開いていないと教えられ、その人の助けを借りて近くの繁華街に宿をとった。
 僕はKを連れ、久しぶりに留学生寮のフロントデスクの前に立った。Kもまた電影学院が受け入れ機関であった。5年半前と同じ女の子が同じふてぶてしさでそこにいた。相変わらずの無愛想ぶりに僕は何とも言えぬ懐かしさを覚えた。僕がその留学生寮に住み始めてしばらくたった頃、日暮れどきに寮の建物の裏で彼女がボーイフレンドらしき男の子と一緒にいるのを見かけたことがあった。壁に並んで背を凭れ、二人はお喋りをしていた。嬉しそうな照れたような顔をして、彼女はどこにでもいる普通の女の子だった。僕は彼女に好感を持った。僕は北京の暮らしに慣れつつあった。2ヶ月ほどで寮を出て、旧市街の胡同に面したアパートに引っ越した。





Okuhara

投稿者

奥原浩志

1968年生まれ。『ピクニック』がPFFアワード1993で観客賞とキャスティング賞を、『砂漠の民カザック』がPFFアワード1994で録音賞を受賞。99年に製作された『タイムレス・メロディ』では釜山国際映画祭グランプリを受賞した。その後『波』(01)でロッテルダム国際映画祭NetPac Awarを受賞するなど、高い評価を受ける。その他の作品に『青い車』(04)、『16[jyu-roku]』(07)がある。本作品は、5本目の長編劇場作品に当たる。

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