<プロフィール>
1988年浙江省温州生まれ。12歳でカリフォルニア州ロサンゼルスに移住、カリフォルニア大学リバーサイド校を卒業後に中国、広西チワン自治区にて不動産業に従事した後、2013年9月北京大学光華管理学院に入学。インターナショナルクラスだけでなく中国語クラス、パートタイムクラスの中国人とも多くの交流を持つ社交派。2014年5月には内モンゴルの砂漠数10kmを踏破。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Sheng(以下(S)) : 父、母、祖母、曾祖母、いとこと一緒に住んでいた。父は最初工場労働者だったけど、その後起業してレストランを経営したりエジプトの皮革製品の輸入業者をやったり、とにかくいろんなことをしていた。今はプロのカメラマンをやっている。リスクを取ることを恐れない人だ。
母は当時の中国人としては珍しく英語を話せたため、米国企業に雇われた後アメリカに渡った。父は仕事で忙しく週末しか会うことができなかったから、面倒は祖母が見てくれていた。祖母は教育に関しては非常に厳しくて、99点をとってもなお叱るような人だった。
(坪): 12歳でアメリカへ。特に苦労したことは?。
(S): アメリカに行った理由は大きく2つで、1つはよりよい教育を受けたかったから。祖母は小学校の先生だったから小学校教育までは面倒をみてくれたけれど、それ以降は難しかった。もう1つは母と一緒に住みたかったから。当時母は既にアメリカの永住権を取得していたので(両親は離婚、その後母はアメリカ人と再婚したため)、その子供がアメリカに渡ることに関しては問題がなかった。
アメリカに行ったときは小学校を卒業したばかりで英語は全く話せなかった。最初の3ヶ月で単語をしゃべるようになって、6ヶ月でセンテンスを話すようになったくらい。日常会話に不自由なくなるまでには2年くらいかかったと思う。当然ほとんどの授業の成績は悪かった。
英語の勉強で一番役に立ったのは、アメリカで見た日本のアニメ。ポケモンや遊戯王などの英語吹き替えを見て自然と覚えた。でも、アメリカで見た日本製以外のアニメは日本人が全て悪役で登場してくる。そのせいで「日本人=悪役」のイメージをもったこともあったね(笑)。さらに学校での会話も家族との会話も全て英語だった。そのせいで数年後には完全に中国語を忘れてしまった。高校卒業間際に中国系の彼女ができて、彼女と話をするために中国語を覚える必要があったから一生懸命「練習」した。そのときはもはや「思い出す」という感じではなかった。今では何かを考えるときは英語で考えている。
それからクラスメイトやクラブ活動での差別もあった。もしかすると差別というよりも中国人に対しての知識がなかったから珍しかっただけなのかもしれないけれど。とにかくフレンドリーに接してはくれなかった。まるでまったく違う種を見ているような。さらにバスケットボールのキャンプに参加したときには、周りの参加者から完全に見下されていた。当時映画「ラッシュアワー」が流行っていたから、彼らからは「ジャッキー・チェン」と呼ばれていた。決して心地いいとはいえなかったね。
文化の違いも克服するのは時間がかかった。例えば学校1つとっても全然違う。中国の先生は悪いことをしたり出来が悪ければ体罰は当たり前。でもアメリカの先生はわからないことがあれば丁寧に辛抱強く教えてくれる。生徒との距離感が全然違うことにはびっくりした。クラスの構成も全然違う。中国では1クラス4-50人の生徒がいて、当然全員中国人。だけどアメリカでは1クラス30人程度で17カ国くらいの生徒がいた。たまたま中国人はいなかったけど。彼らの考え方の多様性には驚いたけど当然自分と同じように英語ネイティブスピーカーでない生徒もいて、その点では助かったからプラスの面が大きかった。
(坪): 大学での思い出は?
(S): カリフォルニア大学(UC)リバーサイド校でビジネスを専攻していた。けれど本当は南カリフォルニア大学に行きたかったんだ。GPAがわずかに届かず断念したけど、当時は本当に、本当に消沈した。
UCリバーサイド校は立地が非常に悪く、砂漠の真ん中にあるような学校だったけど、車で友人ととにかくいろんな所に出かけた。
それからパートタイムで光学製品の工場で3年間働いた。パートタイムといっても、最後にはマネジメントのような仕事にも関わっていて、それが後の自分のビジネスに活かされていることは間違いない。
(坪): 卒業後はアメリカではなく中国で就職した。
(S): 理由は、これ以上アメリカに住むモチベーションが保てなかったから。アメリカの生活は全てが快適で、整備が行き届いていて何の不満も無かったけれど、何か新しいことを始めるには完成されすぎていると感じた。アメリカではパートタイムでしか働いていないけれど、この単調なサイクルを破りたかった。アメリカと比べれば、中国にはより多くのビジネスチャンスがあると思っている。
不動産業を選んだ理由は、大学の先生から「食料、水、土地に関する仕事はこの世の中から絶対になくならない」と言われたことが一番大きく影響していて、父や知人のつてをたどって今の会社に就職した。この会社を選んだ理由は、今の上司が「不動産ビジネスに関する全てを教える」と約束してくれたから。
(坪): そして北京大学MBAに入学。
(S): 選んだ理由は、中国で一番有名な大学だから。それだけ。だからここしか出願していない。もし合格したら入学するし、合格できなかったら他のMBAに行くようなことはせず今の不動産会社で働き続けて、今の上司からもっとビジネスを学ぶつもりだった。実践で学べることと大学で学べることは違うと考えている。
MBAを取ろうと思ったもう1つの目的は、3年間中国で働いた経験を通じて中国で仕事をしていく上で中国の文化にもう一度触れ直す必要を感じていたから。だから、今はできる限り多くの中国人と接するようにしているし、イベントにも多く参加している。それでもインターナショナルクラスにいるのは、さっきも言った通り中国語が母国語じゃないから。会話は問題ないけれど、書く事は、、、得意じゃない(笑)。でも、ピンインでのタイピングはできるよ、もちろん。
中国語MBAクラスの中国人とも多く交流を持っているけれど、彼らはより現実主義かな。例えば、挨拶ひとつとっても、「名前は?」の次に来る質問は「仕事は?」、「親はなにやっている?」の2つ。これは、友人を作る上でも「自分にとって役に立つかどうか」を第一に考えているからだと思う。一方でインターナショナルクラスの中国人は違う。クラスの雰囲気がそういうことを聞く雰囲気ではないというのもあるけれど、より人物そのものを見ている人が多いからだと思う。
(坪): 卒業後は何をしたい?
(S): 入学後にアメリカの友人とウェブマーケティングのビジネスを立ち上げている。その友人達は皆技術畑出身で誰もビジネスバックグランドを持っていないから、ビジネスを専攻していた自分の知識が必要とされていた。また、パートタイムとはいえ、マネジメントの実践経験もあった。だから今でも夜中や早朝にSkypeなどで会議をやっている。
卒業後はそれ以外に何か新しいビジネスを中国で立ち上げたいと思っているけれど、まだ具体的には決めていない。できなかった場合には今の不動産会社に戻ることもオプションとしては持っている。リスクを取ることを恐れないのは間違いなく父親の影響を受けていると思う。彼はいいロールモデルだね。
子供の頃の夢は「とにかく大金持ちになること」だったけど、今は「エクセレントカンパニー」と呼ばれるような会社やブランドを作ることかな。そんな会社を作り、恵まれない子供、学校、地方に利益を還元できればそれ以上の成功はないと思う。
(坪): 日本について思うことはある?
(S): ロスにいる日本の友人は非常に良いやつばかり。他の中国人クラスメイトも、日本政府は嫌いだけど日本人は嫌いじゃないと思う。
日本は何度か行ったことあるけれど、治安はいいし交通の便も整っている。全てがオーガナイズされていて、人は皆礼儀正しい。好きにならないわけはない。
ただ、残念ながら中国では今の日本は「プロダクト」でしか認識されていない。ソニーやパナソニックなどメーカーの名前は出てくるけれど、「人」の名前が出てこない。例えば恵まれない子供を助けたり学校を救ったりする人がいたりすれば、日本人だけでなく日本という国に対する印象も、ずっと変わってくると思う。
(坪): 今のクラスの中でShengは中国人扱い?
(S): 最初は完全に外国人扱いだったと思う。でも彼らも話をしているうちに、国籍は関係無いって思っているんじゃないかな。彼らと同じ言葉を話すし、同じ食べ物を好み、同じように遊ぶ。例えば、うちのクラスメイトの中国系カナダ人(Easonではない)は、完全に外国人扱いだろう。それは、彼は中国語を話すことはできるけれど中国人クラスメイトと一緒に行動することは少ないし、振る舞いが中国人と違うのが一目瞭然だからだと思う。中国人と同じような行動をしているのであれば、パスポートは問題ではない、というのがこれまで感じたことかな。
Taiki Tuboi: 坪井大樹(TAIKI TSUBOI)1979年生まれ。 大学院卒業後、エンジニアリング会社にて国内外(UAE、サウジアラビアなど)の石油化学プラント建設関連プロジェクトに関与したのち、経営コンサルティング会社にて主に国内化学品メーカー向けのコンサルティング業務に従事。 2013年9月より北京大学・光華管理学院に入学。 中国人コミュニティに入り込むべく最近はボードゲームの練習に励む日々を送る。