北京大学・光華管理学院(Guanghua School of Management)の坪井大樹(つぼい たいき)と申します。2013年9月からMBAコースのInternational Classの留学生です。MBAクラスメイトのストーリーを紹介していくにあたり、初回の今回は自己紹介をさせていただきます。
私は大学院卒業後、プラントエンジニアリング会社に入社し、7年間国内外のエンジニアリング及び事業投資に関わってきました。仕事で関わった国は日本、UAE、サウジアラビア、オマーンなど主にアジアが中心です。その後「受注者側ではなくプロジェクトを作り上げるところから仕事をしてみたい」と考えるようになり、経営コンサルタントとして働いていました。
MBA取得を意識したのは、「一度これまでの業務経験を整理したい」と考えるようになったためです。それではなぜ「中国でMBA」か、というと私の妻が中国でMBAを取る、と言いだしたからです。彼女は今後のキャリアで中国ビジネスへ関わりたいと思っていて、中国ビジネスについて理解を深める必要性を感じていました。現在は 北京大学の隣にある清華大学・経営管理学院というMBAに通っています。私が彼女と別の大学を選んだのは、別の大学に通ってお互いの大学の人脈をシェアするほうが、MBAの目的の1つであるネットワーキング には都合がいいと考えたためです。
とはいえ、決して世界的には有名でないMBAのために30代半ばに差しかかろうとしている時期に2年間のギャップイヤーを取ることでの今後のキャリアへのネガティブな影響や、今の中国の状況、例えば2012年9月の日本政府による尖閣諸島国有化の際に発生した反日デモのこと、さらには長らく懸念されている「中国経済(バブル)崩壊」のことを考えると、中国に来ることが果たして私にとってプラスとなるのか、という思いは少なからずありました。しかし、私の中の「天の邪鬼」な部分が、今の中国に好んで行く人がいないからこそ行くべきである、と 後押ししてくれたことが、現在私が北京にいる理由です。
過去のMBAクラスメイトのストーリーでは「80后」や「エリート」の中国人にフォーカスを当ててきましたが、今回から私が紹介する中国人に共通するテーマは「移民」です。
私がこのテーマを取り上げるのには大きな理由があります。私の妻も中国に生まれ、日本に帰化した移民だからです。私の妻は上海で生まれ、7歳のときに来日しその後日本で育ちました。その間中国語も使い続けていたため日本語・中国語を両方とも完璧に話せます。でも彼女は、中国で仕事をするために戻ってきました。では、同じようなバックグラウンドを持つクラスメイトはなぜ中国に戻ってきたのだろうか。そんな疑問を持つようになったことがきっかけです。
今回私が紹介する中国人には2つのケースがあります。
1つめは妻と同様、「中国で生まれた後、海外へ移民した中国人」です。海外で教育を受け、ある人は就業まで経験した後にMBA取得、さらに中国で働くために戻ってきた人たちです。
2つめは「中国で生まれ育ち、これから海外で出て行こうとしている中国人」です。現在MBAで学んでいるクラスメイトの中にはこれまで中国で生まれ育ち、働いてきたけれど卒業後は海外に出て行きたいと考えている人が数多くいます。
中国を起点に「中国に帰ってくる人、出て行く人」という2つのケースのコントラストの中で現在の中国の若者が持つ「中国(人)観・日本(人)観」をお伝えしたいと思います。
最初は、「中国に帰ってきた中国人」のストーリーです。彼らはなぜ移民し、なぜまた中国に帰ってきたのか、彼らは日本(人)や中国(人)をどう捉えているのかを質問しています。
<プロフィール>
1986年、四川省・成都生まれ。5歳の時、父親の仕事の都合で経済特区に指定された広東省・深圳に家族で移動。その後16歳(高校1年)までを過ごす。高校2年から英国に留学、大学までを英国で過ごした後通信関連の中国企業のカナダ子会社にて5年間働き、2013年9月より北京大学・光華管理学院のインターナショナルクラスに入学。クラスのスポーツ関連活動のリーダーとしても活躍。
坪井(以下(坪)): 成都に生まれた後、香港に隣接する深圳に移動。どんな幼少時代を過ごした?
Eason(以下(E)) : 父は成都では国営企業で董事長の秘書的な仕事をしていて、母は国営企業とフランス企業の合弁会社であるエアコンを作る会社で働いていた。
その後、父は開放政策に伴い深圳にて起業。最初はカメラなど精密機器を扱う貿易会社を経営し、事業が軌道に乗ったあとは多方面に拡大した。現在は道路、住宅などの景観をデザインする事業を手がけている。
そのため、父は多忙を極めていてほとんど家にいた記憶はない。その代わり母はよく色々な所に旅行に連れて行ってくれた。中国国内だけでなく、シンガポール、マレーシア、韓国あたりに行った。当時の深圳も他の中国の都市と比較すれば洗練されていたけど、シンガポールは比較にならなかった。14,5年前の時点で既にかなり発展していて、街はとてもきれいだった。マレーシアは別の意味で印象的で、とても多様性に富んでいた。ある部分はシンガポール同様とても洗練されているのに、他方ですぐ近くにとても貧しい人たちもいる。人種の多様性も含めて印象に残る国だった。
(坪): そして16歳で2度目の転機を迎える。
(E): 両親は最初北米、アメリカかカナダに留学させたかったらしい。でも移民させることが目的ではなく、「海外で教育を受けさせたい」っていうのが目的だった。ただ、ちょうど留学を考えていた時期が2001年で、その年の9月に同時多発テロがアメリカで発生したから、この時期の北米への留学は危険だと感じて断念せざるを得なかった。
次の年の夏に、中国(場所は忘れてしまった)でイギリスの寄宿制高校によるサマーキャンプが開催され、それに参加したことでイギリスへの留学に対する関心を持つようになり、渡英する決心をした。サマーキャンプ参加から渡英までは2ヶ月位しかなく、非常に慌ただしい決断だった。
当時は英語をあまり話せなくて、それが一番の障壁だった。本来であればノンネイティブは最低2ヶ月語学学校に通ってから一般の高校に入学するのが普通だけど、決めたのが遅かったから行けなかった。だから最初の3ヶ月は授業についていくことが精一杯でとても辛かった。。。でも幸い言語や人種のせいでのいじめにはあわなかった。もう高校生だったし、その当時既に体が大きかったせいだろう(現在190cmオーバー)。クラブ活動(バスケットボール)を通じて多くの友達を作ることができた。大学時代にはイングランド南部で2位にもなった(大学はバーミンガム大学)。
(坪): 高校・大学を英国で過ごした後はカナダで就職。
(E): これには永住権が関係している。実は大学1年の時にカナダから認可がおりた。だけど、カナダの法律で「5年間のうち2年間をカナダで過ごさなければ、永住権は失効する」と定められている。大学を英国で過ごしたから残りの2年を全てカナダで働く必要があった。そこで、中国系企業のカナダ子会社に就職した。
だから逆に今は自分の生まれた国に住むためにVISA等の手続きをしなければならないけれど、多少面倒なだけでそのことはあまり気になっていない。中国にいる時にはやはり自分は中国人だと思っている。両親は今も深圳に住んでいるし。
(坪): でも中国にチャンスを求めて、北京大学でMBAを取ることにした。
(E): その通信系企業では5年間、Pre-Sales Engineerとして顧客と社内のエンジニアをつなぐ役割を担っていた。MBAに来る直前には技術関連の打ち合わせだけでなく営業担当と一緒に顧客を回るなどして契約や価格の話にも参加するようになった。人生の中で最も尊敬できる人物に値する上司にも出会った。でも、エンジニアという職業は持って生まれた才能がものをいう世界でもあると思う。そういう才能を持っている人を多く見てきたことも多分に影響して、キャリアチェンジを志向しはじめた。
また、カナダは既に成熟した市場で、完成されたビジネスサイクルを壊すことはなかなか難しいと感じたし、アメリカほど人の競争意識が激しくない。アメリカにはカナダよりも多くのチャンスがあるとは思うけれど、それよりもイギリスで教育を受けた経験、カナダでの就業経験を中国で活かす方が多くのアドバンテージを得ることができると考えている。
(坪): 卒業後はどうする?
(E): もちろん中国に残りたい。パスポートの問題はあるけれど……。
父という身近なロールモデルがあるから、将来的には中国で起業をして、社会の何かを変えられるような仕事に貢献していきたいと思う。だから直近でいうとインターンシップはITと教育を融合させたスタートアップで働いて学びたいと思っている。さっきも言った通り、中国は北米と比べるとまだ未熟な部分が多く残っていると思っているし、チャンスは大きいと感じている。これからインターンをする教育関連事業はその1つの分野だ。
もし起業ができない、もしくは成功しなくても、大きな企業でエグゼクティブとして活躍できれば、それはまた一つの成功として考えられる。
(坪): 幼少の頃から海外の様々な文化に触れてきた。そのことは自身の日本に対する見方にも影響を与えているか?
(E): 与えていると思う。少なくとも自分は日本に対して一般的にいわれているような「反日感情」は持っていないし、中・日の政府同士が何をしようとそれほど関心は払っていない。
それは子供のころから海外の国を多く見てきて多様な文化があることを知っていたということもあるし、何より英国の高校・大学でも日本人の友達もいた。彼らは本当にいい人たちだったから、中国政府が報道する日本人像が正しくないことはわかっているつもり。
また、多感な時期に海外に出たことで、一般的な中国で育った「80后」とは違う感覚を身につけていると思う。情報について一方向から見るのではなく、多面的に見ることの大切さ、人を敬うことの大切さを学んだ。このようなチャンスをくれた両親には感謝をしている。
<プロフィール>
1988年浙江省温州生まれ。12歳でカリフォルニア州ロサンゼルスに移住、カリフォルニア大学リバーサイド校を卒業後に中国、広西チワン自治区にて不動産業に従事した後、2013年9月北京大学光華管理学院に入学。インターナショナルクラスだけでなく中国語クラス、パートタイムクラスの中国人とも多くの交流を持つ社交派。2014年5月には内モンゴルの砂漠数10kmを踏破。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Sheng(以下(S)) : 父、母、祖母、曾祖母、いとこと一緒に住んでいた。父は最初工場労働者だったけど、その後起業してレストランを経営したりエジプトの皮革製品の輸入業者をやったり、とにかくいろんなことをしていた。今はプロのカメラマンをやっている。リスクを取ることを恐れない人だ。
母は当時の中国人としては珍しく英語を話せたため、米国企業に雇われた後アメリカに渡った。父は仕事で忙しく週末しか会うことができなかったから、面倒は祖母が見てくれていた。祖母は教育に関しては非常に厳しくて、99点をとってもなお叱るような人だった。
(坪): 12歳でアメリカへ。特に苦労したことは?。
(S): アメリカに行った理由は大きく2つで、1つはよりよい教育を受けたかったから。祖母は小学校の先生だったから小学校教育までは面倒をみてくれたけれど、それ以降は難しかった。もう1つは母と一緒に住みたかったから。当時母は既にアメリカの永住権を取得していたので(両親は離婚、その後母はアメリカ人と再婚したため)、その子供がアメリカに渡ることに関しては問題がなかった。
アメリカに行ったときは小学校を卒業したばかりで英語は全く話せなかった。最初の3ヶ月で単語をしゃべるようになって、6ヶ月でセンテンスを話すようになったくらい。日常会話に不自由なくなるまでには2年くらいかかったと思う。当然ほとんどの授業の成績は悪かった。
英語の勉強で一番役に立ったのは、アメリカで見た日本のアニメ。ポケモンや遊戯王などの英語吹き替えを見て自然と覚えた。でも、アメリカで見た日本製以外のアニメは日本人が全て悪役で登場してくる。そのせいで「日本人=悪役」のイメージをもったこともあったね(笑)。さらに学校での会話も家族との会話も全て英語だった。そのせいで数年後には完全に中国語を忘れてしまった。高校卒業間際に中国系の彼女ができて、彼女と話をするために中国語を覚える必要があったから一生懸命「練習」した。そのときはもはや「思い出す」という感じではなかった。今では何かを考えるときは英語で考えている。
それからクラスメイトやクラブ活動での差別もあった。もしかすると差別というよりも中国人に対しての知識がなかったから珍しかっただけなのかもしれないけれど。とにかくフレンドリーに接してはくれなかった。まるでまったく違う種を見ているような。さらにバスケットボールのキャンプに参加したときには、周りの参加者から完全に見下されていた。当時映画「ラッシュアワー」が流行っていたから、彼らからは「ジャッキー・チェン」と呼ばれていた。決して心地いいとはいえなかったね。
文化の違いも克服するのは時間がかかった。例えば学校1つとっても全然違う。中国の先生は悪いことをしたり出来が悪ければ体罰は当たり前。でもアメリカの先生はわからないことがあれば丁寧に辛抱強く教えてくれる。生徒との距離感が全然違うことにはびっくりした。クラスの構成も全然違う。中国では1クラス4-50人の生徒がいて、当然全員中国人。だけどアメリカでは1クラス30人程度で17カ国くらいの生徒がいた。たまたま中国人はいなかったけど。彼らの考え方の多様性には驚いたけど当然自分と同じように英語ネイティブスピーカーでない生徒もいて、その点では助かったからプラスの面が大きかった。
(坪): 大学での思い出は?
(S): カリフォルニア大学(UC)リバーサイド校でビジネスを専攻していた。けれど本当は南カリフォルニア大学に行きたかったんだ。GPAがわずかに届かず断念したけど、当時は本当に、本当に消沈した。
UCリバーサイド校は立地が非常に悪く、砂漠の真ん中にあるような学校だったけど、車で友人ととにかくいろんな所に出かけた。
それからパートタイムで光学製品の工場で3年間働いた。パートタイムといっても、最後にはマネジメントのような仕事にも関わっていて、それが後の自分のビジネスに活かされていることは間違いない。
(坪): 卒業後はアメリカではなく中国で就職した。
(S): 理由は、これ以上アメリカに住むモチベーションが保てなかったから。アメリカの生活は全てが快適で、整備が行き届いていて何の不満も無かったけれど、何か新しいことを始めるには完成されすぎていると感じた。アメリカではパートタイムでしか働いていないけれど、この単調なサイクルを破りたかった。アメリカと比べれば、中国にはより多くのビジネスチャンスがあると思っている。
不動産業を選んだ理由は、大学の先生から「食料、水、土地に関する仕事はこの世の中から絶対になくならない」と言われたことが一番大きく影響していて、父や知人のつてをたどって今の会社に就職した。この会社を選んだ理由は、今の上司が「不動産ビジネスに関する全てを教える」と約束してくれたから。
(坪): そして北京大学MBAに入学。
(S): 選んだ理由は、中国で一番有名な大学だから。それだけ。だからここしか出願していない。もし合格したら入学するし、合格できなかったら他のMBAに行くようなことはせず今の不動産会社で働き続けて、今の上司からもっとビジネスを学ぶつもりだった。実践で学べることと大学で学べることは違うと考えている。
MBAを取ろうと思ったもう1つの目的は、3年間中国で働いた経験を通じて中国で仕事をしていく上で中国の文化にもう一度触れ直す必要を感じていたから。だから、今はできる限り多くの中国人と接するようにしているし、イベントにも多く参加している。それでもインターナショナルクラスにいるのは、さっきも言った通り中国語が母国語じゃないから。会話は問題ないけれど、書く事は、、、得意じゃない(笑)。でも、ピンインでのタイピングはできるよ、もちろん。
中国語MBAクラスの中国人とも多く交流を持っているけれど、彼らはより現実主義かな。例えば、挨拶ひとつとっても、「名前は?」の次に来る質問は「仕事は?」、「親はなにやっている?」の2つ。これは、友人を作る上でも「自分にとって役に立つかどうか」を第一に考えているからだと思う。一方でインターナショナルクラスの中国人は違う。クラスの雰囲気がそういうことを聞く雰囲気ではないというのもあるけれど、より人物そのものを見ている人が多いからだと思う。
(坪): 卒業後は何をしたい?
(S): 入学後にアメリカの友人とウェブマーケティングのビジネスを立ち上げている。その友人達は皆技術畑出身で誰もビジネスバックグランドを持っていないから、ビジネスを専攻していた自分の知識が必要とされていた。また、パートタイムとはいえ、マネジメントの実践経験もあった。だから今でも夜中や早朝にSkypeなどで会議をやっている。
卒業後はそれ以外に何か新しいビジネスを中国で立ち上げたいと思っているけれど、まだ具体的には決めていない。できなかった場合には今の不動産会社に戻ることもオプションとしては持っている。リスクを取ることを恐れないのは間違いなく父親の影響を受けていると思う。彼はいいロールモデルだね。
子供の頃の夢は「とにかく大金持ちになること」だったけど、今は「エクセレントカンパニー」と呼ばれるような会社やブランドを作ることかな。そんな会社を作り、恵まれない子供、学校、地方に利益を還元できればそれ以上の成功はないと思う。
(坪): 日本について思うことはある?
(S): ロスにいる日本の友人は非常に良いやつばかり。他の中国人クラスメイトも、日本政府は嫌いだけど日本人は嫌いじゃないと思う。
日本は何度か行ったことあるけれど、治安はいいし交通の便も整っている。全てがオーガナイズされていて、人は皆礼儀正しい。好きにならないわけはない。
ただ、残念ながら中国では今の日本は「プロダクト」でしか認識されていない。ソニーやパナソニックなどメーカーの名前は出てくるけれど、「人」の名前が出てこない。例えば恵まれない子供を助けたり学校を救ったりする人がいたりすれば、日本人だけでなく日本という国に対する印象も、ずっと変わってくると思う。
(坪): 今のクラスの中でShengは中国人扱い?
(S): 最初は完全に外国人扱いだったと思う。でも彼らも話をしているうちに、国籍は関係無いって思っているんじゃないかな。彼らと同じ言葉を話すし、同じ食べ物を好み、同じように遊ぶ。例えば、うちのクラスメイトの中国系カナダ人(Easonではない)は、完全に外国人扱いだろう。それは、彼は中国語を話すことはできるけれど中国人クラスメイトと一緒に行動することは少ないし、振る舞いが中国人と違うのが一目瞭然だからだと思う。中国人と同じような行動をしているのであれば、パスポートは問題ではない、というのがこれまで感じたことかな。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Eka(以下(E)) : 両親と母方の祖父母。ただ両親は物心がつく前に離婚していて、私は母についていった。その後母は現在の父である日本人と再婚して先に日本に行っていたので、私の面倒は母の両親がみてくれていた。当時は母も日本がどういう国かわからなかったから、落ち着いたら私を連れていこうと思っていた、と聞いている。その後、母が日本に渡ってから半年後に「日本に来ないか?」と言われたけれど、書類関係の手続きが面倒だったことと、中国に友だちがたくさんいて別れるのが嫌だったので、すぐには日本行きを決められなくて区切りのいいタイミングを探していた。でも、母と離れて暮らしている間も、毎年1-2回、夏休みなどを利用して日本に来ていたので、日本がどんな国なのかは感じることができていたかな。
(坪): 結局16歳から日本に住みはじめた。当初一番辛かったことは?
(E): 高校2年の途中から埼玉に住んでいるけれど、高校生のころは学校がある期間は日本で過ごして、長期休暇などの際に中国に戻っていた。結局1年のうち8ヶ月くらいを日本にいて、残りを中国で過ごしていたと思う。
一番難しかったことは、やはりコミュニケーション。来日前の日本語レベルはゼロ。日本に来てから勉強を始めた。当時一番辛かったのは「誰と昼ご飯を食べるか?」を考えること。日本人のクラスメイトは話しかけても返事がなかったり曖昧だったりで、仲がいいとは言えなかったから、いつも一緒にいたのは中国人とフィリピン人の女の子のクラスメイト。中国語と日本語を交えながらコミュニケーションしていた。先生とも挨拶程度しか話ができなかったので、学校の中で居場所を探すのが大変だった。
それもあって、当時の気持ちや時間の配分は30%が学校で、残りの70%は日本語の勉強。退職した人が中心になって外国人向けに日本語を教えるボランティア活動が地元にあって、それに参加していた。加えて週末は日本語学校に通って勉強。日本語がわからないとこの国では生きていけないと思っていたので必死だった。お父さんは仕事が忙しかったので日本語を教えてくれる時間はあまりなかったけれど、聞いたら教えてくれた。学校で軟式テニス部に入っていたけれど、やっぱり高校時代は日本語の勉強ばかりしていた印象が強いかな。とにかく猛勉強して日本の大学に入ることを目標にしていた。
(坪): で、無事日本で大学に通えたわけだけど、一番力を入れていたことは?
(E): 猛勉強の甲斐あって(?)都内の私立大学に入学できた。日本での就活は厳しくなると考えていて、時間をかけて就活できるように2年生までで全ての単位を取っておこうと思っていた。だから、大学の前半は授業中心の生活で後半は就活とゼミ。
大学では国際ビジネスを専攻していたけど、そのきっかけはマーケティングが面白かったから。1-2年時にマーケティングの授業があって、消費者の購買心理の研究などが面白かった。多分、将来こんな仕事がしたかったらそう感じたんだと思う。このゼミは人気で応募者が殺到して16人の枠に対して応募者は130人の競争。私以外はみんな日本人だった。面接で先生には「外国人だからといって、私は妥協することは無い。ちゃんと考えてゼミに入るように」、「他大学と討論会を開くので、準備が必要。ゼミには年間7-800時間を費やさなければならない。単位は簡単にもらえるものではないと肝に命じた上で選んで欲しい」、と言われた。それでもマーケティングに強い興味があったからこのゼミを選んだ。競争を勝ち抜けたのは…情熱??
(坪): 卒業後、日本ではどんな業界で働いていた?
(E): 最初はベンチャーのコンサルティング会社でリサーチを担当していた。学生の時からインターンとして2年近く働いていた会社に就職した。この会社は就活イベントで見つけて、インタビュー時に「日中両国に貢献したい!!」という想いを熱く語ったら、インターンさせてもらえることになった。だから主な業務内容は日系企業の新興国マーケットの市場調査で中国担当。このインターン、普通は長くて1か月程度で他の学生はそれで終了するんだけれど、私はインターンしながら他の会社の就活もしたかったから延長を願い出た。さらに長く働かせてもらえることになったので、インターンチームのリーダーもやらせてもらった。長期インターンを願い出たやる気とリーダーを勤めあげた仕事ぶりが評価されて、正式採用のオファーを得ることができたんだと思う。
このコンサルティング会社を選んだ理由は、いつか自分の会社を立ち上げたいと考えていて、小さい会社でいろいろなことを1人でやらなければいけない環境に身を置いた方がいいと考えていたから。そういう風に考えるのは、多分私が中国人だからだと思う(笑)。
その後不動産業界に転職して、さらにその会社が関連する、重機を専門に取り扱う商社に転職。中国担当として重機を売りこんでいた。会社は20年前から中国市場に入り込んでいたので、新規顧客の開拓ではなく既存顧客向けに販売していた。
(坪): それから北京大学MBAに来ているわけだけど、なぜここを選んだ?
(E): MBAを意識するようになったのは、大学のゼミの教授がカナダの大学のMBAホルダーだったから。それで当時から漠然とMBAに対する憧れがあった。その後社会人になってから知識の不足を感じて、このままではビジネス界で生き抜いていけないと思って改めてMBA取得を考えるようになった。
日本で働きながらMBAを取得することも考えたけど、会社で中国担当が1人しかいなかったので仕事量を減らすことが難しく、国内の担当取引先も多かったことから休みが1ヶ月に2日くらいしかなかった。かといって、会社側も仕事を続けながらMBAを通うこと、つまり仕事の負担を減らすことを認めてくれなかった。会社からは、これまでMBA通学を許可した実績がないこと、また卒業後にMBAホルダーが会社へどのように貢献してくれるかがわからない、と言われた。
だからMBAに行くためには会社を辞めなければならなかった。そうであれば、日本のフルタイムMBAよりも、日本以外の違った環境で勉強したかった。ただ、英語があまりできないのと欧米での生活に対する不安があったから中国を選択した。
北京大学を選んだのは中国で一番有名であることと総合大学ならではのネットワークを期待していたから。中国語クラスを選択したのは、英語よりも母国語である中国語で学べる方がより深く学べると思ったから。
(坪): 卒業後は何をしたい?
(E): MBAに来る前は中国に残って仕事をするつもりだったけれど、今はまだ決めていない。中国には日本よりも大きなチャンスがあることは事実だと思う。けれどこれまで4年近く働いてきて、日本企業の「人を大切にする文化」が気に入っているので、悩んでいる。もし中国で自分のニーズとマッチした企業からオファーがあれば、中国に残って仕事をしたい。仮に日本に帰った場合でも、中国に関わる仕事を続けていくつもり。ただ、日本の企業でMBAの価値がわかる会社がどれだけあるかどうか…。
将来的には、50歳までに自分の会社を作りたい。場所はやはり中国。規制、ルールは日本と比べてまだまだ緩く、市場開拓の余地は残されていると思う。どんな会社かはまだわからないけれど、今後のキャリアの中で本当にやりたいこと、やれることを見つけて世の中に何か形を残してみたい。さっきも言った通り、いずれにしても日本と中国に関わる仕事をこれからもずっとやっていきたいと思っている。それは変わることはない。
(坪): 中国語クラスだから周りはほとんど中国人。そんな中でクラスメイトからはどう扱われている?
(E): まず、私自身は自分のことを「日本が大好きな中国人」と思っている。日本の生活にも慣れたけど、16歳まで中国で育った私はやはり中国人かな。でも、入学前や入学当初は、「自分をどういう人間として表現するべきか」悩んでいた。私が自分のことを中国人と思っていても、周りは外国人、日本人として見ているのではないか、と。実際、クラスメイトは「中国人」の私を「日本人」として見ていると感じるし、私に対してある種の「壁」を感じていると思う。日中の歴史問題について、「中国人」の私につっこんで聞いてくる人もいて、そのときはかなり複雑な気分だった…。あぁ、私は中国人として扱われていないんだな、って。だから日本で生活を送ってきて、日本人の優しさ、責任感、モラルの高さに影響を受けていることは間違いないけれど、そのことを今のクラスで強調するとうまくいかないと感じているので、今はあまり主張しないようにしている。
<プロフィール>
1989年、内モンゴル自治区赤嶺生まれの蒙古族。中央財経大学卒業後、不動産系会社に入社。2013年9月北京大学・光華管理学院MBAに入学。2014年9月からはデュアルディグリープログラムで米国テキサス大学オースティン校McCombs School of Businessへ留学。運動神経抜群で、MBA対抗バドミントンでは優勝を飾った、クラス最年少の才女。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った? そしてその完璧な英語はどうやったら身についたの?
Daisy(以下(D)) : 家族は父と母。共に学校の先生をしていて、父は中学校、母は小学校の先生。完璧かどうかはわからないけど(笑)、英語は8歳のときから勉強し始めた。そのきっかけは母が勝手に英語の塾に入れたから。当時から海外に行ってみたいというあこがれはあったけれど、留学したいとか住みたいとかは特別な思いはなかった。使っていた教材がアメリカのものだったから、必然的に海外=アメリカと思っていたかな。
それ以外にも教育方針という意味では、高校受験のときの印象深いエピソードがある。中国の高校には、入学のための2段階の得点基準があって、高い方の得点基準を満たせば無条件で入学許可がおりるけれど、低い方の得点基準で入学するためには追加で入学金を支払わなければならない。高校受験を意識したころには低い方の得点基準を満たしていたので、両親に頼めば入学金を支払ってくれるだろう、と思って相談したところ、「そのようなお金は一切払わない。どうしてもその学校に入りたければ自分の力で入学しなさい」と言われてしまった。そこであわてて必死になって勉強した。毎日午前2時くらいまで勉強していたと思う。多分人生で一番勉強した時期だった。その甲斐あって学年で1番の成績をとれて、高い方の得点基準にも届き志望校に入学できた。あとから母親に聞いたところ、「努力をしないでも誰かがなんとかしてくれる、と考えるようになって欲しくなかった」とのことで、仮に自力で入学できなかったとしても、一生懸命勉強していたのを見ていたから母は入学金をだしてくれたのだと思う。努力するくせをつけてくれた両親には感謝をしている。
(坪): 学校では勉強以外に何をしていた?
(D): 知っていると思うけど、中国の学生は皆「勉強第一」だから…特に地方の子どもはその傾向が強いと思う。理由は、地方では教育に関する情報が少ないから。試験対策をどうしたらいいとか、どうやって勉強したら効率がいいとか、どの大学がいいとか、そういった情報はどうしても大都市の方が手に入りやすいし。
そんな中でも運動が好きで、中でもバドミントンをやっていた。ちょうど中学生の頃SARSが流行したせいで外出がままならなかったこともあって、室内でできる運動、バドミントンや卓球、バレーボールなどがメインだった。
それから英語のスピーチコンテストにも積極的に参加していた。いくつかコンテストに参加したけれど一度優勝したことがあって。その頃もう英語の塾には通っていなかったけれど、母が英語の教材をたくさん買ってきてくれたので自分で勉強していた。この頃が一番英語の勉強にはまっていた時期だった。
(坪): 大学を選ぶ際には何か基準はあった?
(D): まず大学を選ぶ際には、最初に地域、2番目に大学、3番目に専攻を選んだ。まず大都市の大学を選ぶのが卒業後のキャリアを考える上で当然の選択だと思っていたので、実家のある内モンゴルから近い北京を選択。次に大学だけど、結果として大学を先に選んだけれど本当は北京大学医学部に入りたかった。でも成績が全然届かなかったので諦めて、友人や先生のアドバイスと、有名人を多く輩出している中央財経大学を選んだ。中国では「何をしたいか」よりも「どの大学を出たか」の方が優先されるのでそれが当然と思っていたけれど、日本では違うのかな?
大学では勉強はそこそこで一番熱心にやったのはボランティア活動。中でも北京オリンピックのボランティア活動は印象的だった。国内外のマスメディアが常駐するエリアで主に彼らの通信環境のサポートをしていた。ボランティア活動を通じて学んだことは、献身の精神とチームワーク。私たちが本当にサポートしたいと思う限り、みんなで力を合わせればたいていのことはできるんだって、思えた。
英語のほうも引き続きスピーチコンテストにいくつか参加し続けた。人前で話すことを繰り返すことで、日常会話とは違う「大衆にどうやってみせるか」というプレゼンテーションスキルを意識するようになったことが一番の収穫だったと思う。
(坪): 就職先には不動産会社を選択した。
(D): この会社を選んだ理由は、1つは大学で専攻した知識を活かすことができると考えていたこと、もう1つは内定後に現在の上司がキャリアプランについて細かく説明してくれた上で「今の君にとってはチャレンジングな仕事だと思う」とはっきり言ってくれたこと。担当していたのは、主にIR(Investor Relation)で、取締役会議のアレンジ、投資家とのミーティングで、それ以外では子会社の管理をしていた。社外の取締役にはCEOやディレクタークラスの人が名を連ねていて、入社して間もない頃からエグゼクティブと会う機会があって刺激的な仕事を経験できたので、上司の言葉を信じて入ってよかったと思っている。
でも仕事は当然ハードで、 土日関係なく午前1時2時まで働かなければならないことも多かった。国内や香港の出張も多くて、取締役とのミーティングのために出張した際にせっかく5つ星のホテルに泊まれても十分エンジョイできなかったりとか…。
(坪): その後MBAへ。直接アメリカへ行かなかったのはなぜ?
(D): まずMBAを取得しようと思った理由は、3年間の就業経験を経て体系的なビジネスに関する知識が欲しいと思ったから。実践で得られる知識は深いものだけれど、1つ1つの関連性を見出すことがなかなか難しく、ビジネス全体を捉えて考えることができていないかな、と感じていたから。
当然最初からアメリカに行くという選択肢もあったけれど、将来的に中国に戻るという選択肢を持っておきたくて、そのときのために中国ビジネスについて学びたかったこと、その上でアメリカでグローバルスタンダードのビジネスについて勉強したほうが比較から得られる学びが多いと思っていたことが大きな理由。
北京大学と清華大学、両方出願したけれど、先にオファーが出たのが北京大学だったからこちらを選択した。インターナショナルクラスを選んだのは、中国人だけでなく色々な視点からの意見を吸収する必要があると思っていたから。これもアメリカで勉強するための準備のひとつとして考えていたし、さっきも言ったとおり、私の仕事は多くの投資者とコミュニケーションを取る必要があって、その中には日本人などの中国人以外も含まれていたので、様々な考え方を理解しておく必要性はそのころから感じていたから。
数あるデュアルディグリープログラムの中からテキサス大学オースティン校を選んだのは、昔から「海外=アメリカ」だったこと、アメリカの教育が世界で最も進んでいると思うこと、北京大学のデュアルディグリープログラムの中ではオースティンがMIT(マサチューセッツ工科大学) Sloan Schoolの次に有名であること(テキサス大学はアメリカの「パブリック・アイビーリーグ」の1つとして数えられる程の名門校)。MITは自分には少しハードルが高いかな、って…。
(坪): 卒業後は何をしたい?
(D): もちろん、せっかくアメリカで学ぶ機会を得たのだからなんとかアメリカで仕事を探したいし、ここに残って勝負してみたいと考えている。でも将来的には、中国に戻ってきて働くのだと思う。それが何年後になるのかはわからないけれど…。
例えば今ぼんやりと描いているのは、中国の貧しい地域での教育事業。中でも英語の教育には関心がある。私は英語が得意だから、ビジネスを学んだ上で母国に帰ってきて貢献していきたい想いは強い。
(坪): 日本の印象について何かある? 仕事を通じて少なからず接点があった訳だし。
(D): 私自身日本に行ったことはないけれど、友人に交換留学で日本に行った子がいて、その子が言うには日本は本当にきれいで素晴らしいところ。
人の印象は、一緒に働いたことがある人たちは皆紳士で賢い。取締役の1人でハーバード大学を卒業した人でも、入社したての私にすごくフレンドリーに接してくれた。
「日本人って紳士だな」と強く思ったエピソードがあって、香港のホテルで行われた取締役会議で取締役の1人がジャケットをホテルに忘れてきてしまったことがあって、私が気付いたときにはその取締役は既に香港から北京に移動してしまっていた。私はそれを届けるために急いで香港から北京に戻ったら、その人は空港で待っていてくれた上に、届けてくれたお礼としてプレゼントまで用意してくれていた。10人程度しか会ったことはないけれど、日本人の細やかな気配りには感動したし見習いたいと思う。
(坪): クラスの中国系アメリカ人、カナダ人について、自分たち大陸育ちの中国人との違いを感じる時はある?
(D): 普段の生活で違いを感じることはまず無いけれど、彼らは私が持っていない価値観、より成熟した考えを持っているな、と感じたことはある。例えば、デュアルディグリーの学校選びについて相談した際も、私は「一番有名なところ」を選ぶものだと思っていたけれど、彼らに相談した際には、「何をしたいか」を基準によって選ぶ大学は違う、と言われた…。考え方の違いはそれ以外にもたくさんあると思うけど、私はまず彼らとの「共通点」を探そうとする。それは例えば言葉だったり生活習慣だったり。中国語で話もできるので、彼らがどこの国の人かについてはほとんど意識した記憶がないよ。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Carly(以下(C)) : 両親と住んでいたけれど、父の仕事(航空系の国有企業)の関係で両親は私が3歳のときと10歳から12歳のときにイギリス、アメリカに駐在していた期間があって、その間は南京にいる祖父母に育てられた。学校が休みの間には、両親を訪ねて一緒にディスニーランドに行ったりしていた。
父は私の教育に熱心だった。これが中国の一般的な親のあり方かどうかわからないけれど、例えば私が中学校のころ、市共通の学力テストで高得点を取ったときに父は地域の有名な高校に「私の娘がこのテストでこんなに高得点を取った」と連絡したりしていた。そういったのが影響したのかはわからないけれど、市内のトップ校から早い段階で入学許可を得ることができた(注:中国では、高校入試の前に各省・直轄都市が管轄している統一試験が定期的に行われている)。
英語の勉強を始めたのは、小学校3年生のころ。でも、別に勉強したくなかったし、海外で働きたいとも考えてなかったけれど、両親に勉強しろって言われたからしかたなく勉強していたと思う。
(坪): 大学は多くの有名大学がある地元北京ではなく香港へ。
(C): 私がラッキーだったと思うのは、2005年に大学入試制度が変わって、中国本土の学生も中国の大学入試の成績を使って香港の大学を受験できるようになったこと。 その前までは、香港の大学を受験するためには個別に出願して別の試験を受ける必要があったから。それと新しい制度が導入された年だったから、受験者側に情報が無かったので挑戦する学生が少なかったんだと思う。その結果、香港の名門である香港中文大学に合格して幸いにも全額授業料免除に加えて生活費、住居費のサポートも得ることができた。同級生はみんな、そんな珍しい選択をした私に対して「なんで香港に行くの??」って聞いてきた。北京の人は普通外に出たがらないから。たくさんいい大学あるし、いい大学を出れば中国では職に困らないし。だから高校の同級生は9割方今でも北京に残っていると思う。
でも私は家から遠くに行きたい、とずっと思っていた。香港に行くことになるは私も予想しなかったけれど(笑)、父は「アメリカに行ったら、100%外国人として扱われる。だから社会に適応するのは難しいだろう。でも香港はまだ中国文化圏だし」といつも言っていた。今思えば、両親は私を香港に行かせたかったのだと思う。北京の大学を選ぶことも一度は考えたけど、違った環境での生活を経験してみたかった。
大学時代はとにかくいろんな活動に参加していて、Mainland AssociationのVice Presidentを勤めていた。これは大陸から来ている学生のほとんどが参加している大きな団体で、11日間続く入学オリエンテーションをはじめとして様々なイベントを企画したことが一番大きな仕事だったかな。夏休みの間もほとんど何かの活動に参加していて、杭州やカナダなどのサマープログラム、1セメスター使って、香港の投資銀行でインターンシップをしていた。大学の成績にはまったく関心がなかったね(笑)。
(坪): 香港での生活で何か変わった?
(C): 北京にいる間は、両親が私の生活のほとんどを管理していたけれど、香港に行ったあとはもちろんサポートは得られない。だから全てを自分で管理することを学んだかな。あとは適応能力。これは今の私のひとつのアドバンテージでもあるけれど。香港は北京とは環境が異なる。人のマインドセットも異なる。でも違った環境に適応することは私にとって難しいことではないということがわかった。
香港の人は、よりリアリスティックで自ら目標を定めてそれに向かって行動することができると思う。例えば学生の行動もそうで、彼らは「なぜ大学でいい成績を取らなければならないか?」を知っている。それは就職に影響するし、交換留学の条件の1つにもなっているから、いい成績を取らなければいけないから。けど、大陸の学生は、なぜいい成績をとらなければいけないかわかっていなかったと思う。「昔から勉強ができたから」、「いい成績をとることが当然だから勉強する」、「みんなが勉強するから勉強する」とか。だけどその先にある目的は全く理解していない。その影響は多少受けたかな。
(坪): 大学を卒業した後は?
(C): 卒業後は台湾系の銀行に入行した。大学では会計を専攻していたし、最初に内定をもらったのは会計事務所だったけれど、監査業務には就きたくなかった。数字だけを扱うのではなく、もっと人と取引をするような仕事をしたかったから。入行した銀行ではマネジメントトレーニングプログラムを受けていた。マネジメントトレーニングプログラムは銀行の各部門を数年ずつ経験していくローテーションみたいなもので、最初は金融マーケットのディーラーをしていた。例えば、銀行の香港ドルが不足しているときには、どこかから不足分を調達してくるとか、そんな仕事。それに加えて、私の上司は多くのプロジェクトを私に与えてくれ、銀行の預金構成や資産構成の分析、資産の最適な分配方法の提案など、金融マーケット部門以外の仕事もやらせてもらえた。上司は銀行のエグゼクティブディレクターだったので、部門をまたいだ仕事をつくることができて、そのおかげで違う部門の人と仕事をする機会があり、彼らといい関係をつくることができた。毎年昇進し続けていた「デキる」上司でとても厳しかったけれど、彼からたくさんのことを学んだ。
この銀行では多くのことを学んだけれど、小さい銀行でできることには限界があって、特に情報量の差は埋めがたいものがあった。メガバンクでは今業界で何が起こっているかをすぐに知ることができたけれど、その情報が回ってこなかったりとか遅かったりとか。だから商品開発にもおのずと限界がある。交渉力もない。他のメガバンクの人や投資銀行の人と話をすることでわかったその違いは、思っていたよりも大きかった。
それで私はこの銀行で学ぶことはなくなったかな、と感じるようになり、次のステップに進もうと考えるようになった。これは上司の勧めでもあって、私が持つ言語、文化などのバックグラウンドから、自分の強みを活かすためには大陸に戻った方がいいと。それで清華大学のMBAプログラムをとろう、と思った。
(坪): なぜ清華大学を選んだ? そしてアメリカにも行こうと思ったのは?
(C): 単純に清華MBAプログラムを見ていいな、って思ったことと、私は北京で育ったにも関わらず北京を知らなすぎたこと。同僚に「北京ではどこで遊べばいい?」と聞かれても答えられなかったり。実務面で言うと、香港の金融市場が大陸と密接につながっていることが関係している。香港の金融市場については実務を通じて学んだけど、大陸側の情報は制限されていて、香港からでもアクセスがしにくくて。私が仮に大陸に戻って仕事をする場合、このマーケットについて知っておくことは私に取ってプラスになるだろうと。他のMBAプログラムについて検討する余裕はなかったな。
海外、特にアメリカには子どものころからいつも住んでみたいと思っていた。それは子どもの頃に行ったことがあったことも少しは関係あるかもしれない。だけど若いうちに海外を多く経験しておきたかっただけ、というのが正直なところ。幸いにもMITからオファーをもらえたけれど、もらえなかったらフランスの別のMBAに交換留学に挑戦するつもりだった。とにかくこのMBAという機会を使って海外に住む、という経験ができるのはありがたいことだね。
(坪): 卒業後は何をする?
(C): MITのプログラムが始まったらすぐに仕事探しをするつもり。場所はもちろんアメリカも含まれるけど香港、大陸も視野に入れている。周りの人は数年アメリカに留まるべきだ、というけれど、まだわからない。投資関連業務においてはアメリカは最高の場所だし、先日上司と話をする機会があったけれど、アメリカ、特にニューヨークに留まることを強く勧められた(笑)。
将来の夢は…幸せな家族(爆笑)。最終的には生まれた国である中国に帰ってきたい。中国は特に金融分野においてまだまだ他の先進国から遅れている。プロフェッショナルと呼べる人材がまだまだ不足しているからだと思う。私がもっとキャリアを積んだらこの分野の発展に貢献していきたいと思っている。ディーリングは私にとってとてもエキサイティグな仕事だから、当分はこの仕事に関わっていきたい。
(坪): 日本や日本人についての印象は?
(C): まず日本人については、あなたたちを除いて日本人に会ったことがなく、知らなすぎる、というのが正直なところ。次に日本という国について、また日中間の政治的な問題についてどう思うかだけど、誰が間違っているかと言うのは非常に難しいね。私は他の中国人と比べてオープンな性格だと思っているし、香港に長くいるから多くの情報に接してきていると思っている。そうだとしても、この問題について個人的な見解を語るのは難しい。私は中国を愛しているし、この国がもっと大きく強くなり、人々がよりよい生活を送れるようになることを望んでいる。ただ、今は社会的な問題の方が政治的な問題よりも大きくなってきていると感じている。今起こっていることは、中国の社会的な問題が表面化して、それを見直している過程なんじゃないかと思っている。
(坪): 海外から来た中国系学生との違いを感じることはある?
(C): クラスメイトの移民との違いは、彼らには「余裕」を感じることができる。いろいろな違いについて理解を示すことができるし、受け入れることができるのだと思う。彼らとの関係は、中国人よりももっとシンプルかな。中国人はウラで動くのが好きなんだと思うし、それに中国人同士はハイコンテクストな関係。だから全てを言わなくてもわかる関係だったり、表面上すごく仲よくみえても実際はそうでもなかったり、その逆のパターンもしかり。そういった中国独特の文化というべきか文脈みたいなものがあるのかな。
クラスメイトの移民に限って言えば、彼らは「中国人」だと思う。たぶん中国語を話すからだと思うし、アジア人は比較的近い文化背景を持っているから。言葉が違うと、自分の思っていることが正しく伝わらなかったりするでしょ?
大陸育ちの中国人クラスメイトは、中国人同士で固まるのが好きだし、あまり留学生に話しかけてこない。中国語で話す方が楽だっていうのと、 同年代が抱えている問題など、価値を共有しているから楽だっていうのが理由かな。あとは人をカテゴライズするのが好きだと思う。「この人はこういう人で、こういう長所/短所を持っている」とか。彼らと話していると、そんな話ばっかり聞こえてくるよ(笑)。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Richard(以下(R)) : 父、母と一緒に住んでいた。僕が生まれたばっかりの頃は父と母は共に成都の小さな国営企業で働いていたけれど、2歳くらいのころから彼らは自分たちで事業を始めることにしたんだ。典型的な「个体工商户」だった(注: 改革開放後に条例により個人事業が許可され、行政の認可をとった個人営業者のこと)。その後10年くらいは建設関連の資材を売る仕事をしていて、幸いにも事業は順調に成長していった。また、祖父母は当時大学を卒業したばかりのおじの事業の手伝いをしていた。祖父母は改革開放前までは農業をしていたけど、多くの中国人がそうであるように開放後は農業を続けたいと思う人が少なかったし。それからしばらくして、父と母、それに祖父母もあ合わせておじが新しく始めた自動車部品の製造業を手伝うことになった。このような大家族的な事業運営もいかにも中国っぽいよね。
小学校は普通の学校だったけど、中学校は成都実験外国語学校(Chengdu Experimental Foreign Language School)に進んだ。この学校は英語教育に力点を置いている学校。英語の勉強はこの中学校に入ってから始めたけれど、ここでのトレーニングは間違いなく就職に役立ったよ。英語を流暢に話せる先生が教えてくれる上に英語だけはクラスを2つに分けて授業を行っていたので効率がよかった。それに加えて他の科目に比べて英語は授業数が多く、毎日宿題も課されていたし。
卒業後は成都第7中学(注:中国語では中学が英語のHigh School)という地域で一番の学校に成都市で一番の成績で入学した。
他の人よりも勉強ができる、ってことは小学校の時には気づいていた。他の人よりも早く理解できるからそんなに勉強しなくてもいい点取れていた。だからその分日本のアニメをたくさん見ることができたよ(笑)。とはいえ高校での勉強は少しハードになった。特に最初の学期はプレッシャーもそれなりに感じていたよ。なぜなら周りは僕が一番の成績で入学していることを知っているから。まあそれでも次の学期からは周りを気にせずリラックスして過ごすことができたけどね。
中学校、高校の進学先は自分で選んだ。家族の理解にも恵まれていたと思う。両親は僕がやりたくないことは無理にやらせようとはしなかった。学校を選ぶときだって、彼らは選択肢を示すだけでどこの学校に行け、と強制しなかった。おじは大学で英語を専攻していたこともあって、英語の重要性についてアドバイスをくれたのが決め手となって選んだんだ。
(坪): 大学は当然のように清華大学に進学
(R): 大学は清華大学の電気工学専攻に入学した。勉強に関して言えば多くの努力をしなくても割とスムーズに物ごとは進んできた。地域で一番の学校に進み、清華大学に入学するのだって特別なチャレンジではなく、当然の選択だった。電気工学を専攻したのは、入学が一番難しい専攻だったことと、両親が工学を専攻するのはロジカルシンキングを育むのにも役に立つだろう、とアドバイスをくれたから。だから別に電気工学に興味があったから選んだわけじゃないし当時は電気については何も知らなかった。高校を卒業してしまえば、もう大学入学に対するプレッシャーとか大勢のクラスの中で勉強することとか、勉強以外何もしない日々から解放される。だからもともと理科系の科目が得意だったけど、大学では勉強だけをしていたわけではない。卒業するのが唯一の目標だったし。クラスメートはほとんどの時間勉強してたけど、僕はガールフレンドと一緒に過ごしたり、エンジニアリングとは関係無い本を読んだり、映画を見たり、ゲームしたり… あとは歌うのが好きで、大学の歌のコンテストに参加して優勝したことが自慢だね。
海外の大学という選択肢は、その当時は一般的じゃなかったから。実際、香港科技大学からもオファーをもらったけど行かなかった。小さい頃から清華大学と北京大学が中国で一番の大学だって言われていたし、自分もそこに行くものだ、と思っていたから。それにハーバード、スタンフォードなどの欧米の大学が当時中国の高校生にオファーを出すことはなかったし。今は多くの学生が学部から直接海外に出て行くけど。
(坪): 大学を卒業後は何をしていた?
(R): 学部論文が研究室の教授に評価されて、彼に研究室に残るように言われたんだけど、そこまで研究に興味がなかったからその選択はしなかった。
当時インターンシップでSEOで働いていて、そこでオファーを得たので働くことにしたけれど、仕事は非効率的で退屈だった。全体の仕事のほんの一部しか携わることができないし、チャレンジングなことは何一つできない。だから別の機会を外に求めたんだ。それが”Teach for China (美麗中国)”というスタートアップだった。
このスタートアップは、地方の教育サービスを受けられない子どもたちのために教育を届けることを目的としたNPO。このNPOについてはウェブサイトで知ったんだけど、創設者やスタッフと話をして、彼らのミッション、モデルにぞっこんになった。短期的にだけでなく長期的にも意義のある仕事だと感じたし、そのミッションは実現可能だと思った。だから、せっかく SOEに就職したけれどTeach for Chinaで働くことを両親に納得してもらうよう試みた。とはいえ、彼らは僕のやることに対して反対することはなく、やりたいようにやらせてもらえたから大きな障害となることはなかった。
自分の経験も参画への決断に影響している。中学のときに大きな影響を受けた若い先生がいて、なぜかというと彼は事あるごとに将来の目標とか情熱とかについて熱く語ってくれたからなんだ。教師というのは子どもたちに多くの影響を与えることができる仕事であるってことを体感した。それと同じ仕事を地方の恵まれない子どもたちを相手にできることに大きなやりがいを感じる。研究室に残ることや、同じ仕事を繰り返すことよりよっぽど意味があるだろう? 僕は雲南省を担当して2年間そこで先生として働いた。当時の生徒は今でも毎週連絡をくれて、僕がMITに行くことを知って応援してくれるのを聞くと、うれしくなるね。彼らといつかどこかで一緒に働ける日を楽しみにしている。
その後北京の本社に戻って採用担当をした。SOEのような大組織では僕一人がいようがいまいが業務に支障は出ないけれど、ここでは僕がいないと生徒にとっては大きく違う。さらに、ここで働いているスタッフはアメリカと中国の一流大学を卒業した人たちばかりで、みんな違うバックグラウンドを持っている。以前の僕は何をしたいか、何のために働くかをあまりわかっていなかったけれど、彼らからそういったことを学ぶこともできる。
そういった環境にいたせいなのか、このままずっとここで働いていくことが果たして本当にやりたいことなんだろうか、と考えるようになり、それは少し違うような気もしてきた。最終的には自分で事業をしたい、というのは早い段階で思っていたこともあって、Teach for Chinaを退職して成都に戻って投資会社で働くことにした。投資候補となる企業を訪問して、デューデリジェンスをするのは、これまで研究や教育などいわゆる「ビジネス」から遠い仕事をしていた自分にとってとても面白かった。
(坪): なぜ清華大学MBAを選んだ? アメリカに直接行こうとは思わなかった?
(R): MBAはTeach for Chinaに入る頃から意識していた。その後で自分の事業を立ち上げたいと思っていたけど、僕にはコミュニケーションスキルが不足しているとわかっていたから。リーダーシップや他の人との共同作業、自分のビジョンを示すことなど、ビジネスに必要な要素が特に。これまでの業務経験ではこれらのスキルを伸ばす経験を積んで来なかったから。アメリカのMBAに直接行くことも考えていたよ。だけどMITとプログラム提携していること、デュアルティグリープログラムを選択すれば2年間で2つの学位を取得できることと、最初の1年間で僕より中国について多くを知っていて、多くを経験している中国大陸の学生と会えること、さらにインターナショナルクラスを選べば中国で他国の学生との交流が可能なことが清華大学MBAを選んだ理由だね。中国でビジネスをするためには、やはり人脈が必要だから。僕の両親もビジネスを営んでいるからインサイトを提供してくれるけれど、それだけでは十分ではない。違った産業、違った都市、違ったスタイルについて学ぶ必要がある。
(坪): 卒業後は何をしたい? 将来の夢は?
(R): MIT卒業後はアメリカに残りたいと思っている。現時点では不透明だけど可能であれば、自分で事業を始めたいね。しばらく働けばアメリカの永住権も得られるわけだし。ただ、永住権が欲しいと思っているのは便利だからってだけで、それ以上でも以下でもない。いずれにしてもいつかは中国に戻って自分のビジネスを展開するつもりだよ。中国は次の10年で最も影響力を持つ国であることに疑いはないし、今後ますます開放が進み、他国との協業もますます増えていくだろう。とはいえ、それにはまだまだ時間がかかるだろうから、アメリカの永住権を得ることはビジネスの場所を問わないためにも持っていて損はないと思うよ。
僕は大きな仕事に携わっていくよりも小さなビジネス、例えば海外の優れた製品などを中国に輸入する貿易業とかを営みながら、家族や友人と人生を楽しみたいと思っている。だいぶ前に清華インターナショナルMBAを卒業した先輩が、日本のエアコンメーカーの輸入エージェントをしているんだけど、それなんかいいよね。
将来の夢は…特に野望はないけれど、健康な人生と家族。健康、健康、健康。のんびりとした時間を家族と多く過ごしたい。それだけだよ(笑)。旅も好きじゃないけど、時間があればできると思う。家族と多くの時間を過ごしたいだけなんだ。
坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?
Jean(以下(J)) : 父と母の3人家族。だけど、祖父母、4組の叔父叔母もみな同じ街に住んでいた。車で2分くらいのところ。 父は警察官で、母は国営企業の会計士だった。両親は私にいろんなことに興味を持たせようとしてくれて、小さい頃は日本の水墨画に似た中国絵画と歌を2年習っていた。中国絵画は高校2年まで7年続けていたけれど、大学受験があったからそのときにやめちゃった。もちろん私に芸術家や画家になってくれとは思っていなくて、趣味を持たせようとしてくれて習い事をさせてくれた。大学には行って欲しいと思っていたけれど、かといってプレッシャーをかけるわけでもなく自由にやらせてくれたし、私がやりたいと思ったことを応援してくれていたよ。例えば私は絵を描くことは好きだったから、絵を教えるのがうまい先生を探してきてくれたりとか。全国の中国絵画の年少部門で3位に入ったことがあるし、大学の歌のコンテストで優勝したこともあるよ。働きはじめてからは機会がないけど、学生時代は英語、歌のコンテスト、中国絵画の展示会なんかにはよく参加していたね。
坪井(以下(坪)): これまで他のインタビューでは、多くの人が学生時代は大学に入るための勉強ばかりしていたと言っていたけれど、そこは同じかな?
(J):両親は成績も少しは気にしていたけれど、同じように私がやりたいことにも協力的だったから。だから高校時代も趣味に時間を割くことのほうが多かったかな。旅行も好きで、両親と一緒にあちこち回ったよ。父はドライブが好きだったから、郊外に出てりんご狩りをしたり。こんな経験をしたから自然が好きになって、今も時間を見つけてハイキングに出たりするよ。
母は授業に集中しなさい、とだけ言ってくれた。他のクラスメイトは授業が終わってからハードに勉強していたと思うけど、私は入試の前でも11時には寝てた。高校の先生も信じてはくれていなかったけど、実際授業に集中する方が効率いいと思うしね。英語のクラスだけは、先生に「授業のじゃまをしなければ何しててもいい」って言われていたので聞いていなかったけど。英語の勉強が好きだったし、もともと語学の勉強に向いていたんだと思う。高校1年のときに、文章を読んで録音してくる宿題があったんだけど、私の宿題を聞いた先生は「音源をコピーした」と思ったらしい。でも元の音源は男性と女性の会話だから、男性パートまで女性の声で録音されるわけないでしょ、って(笑)。最初英語の成績は特別よかったわけじゃないけど、その英語の先生に勧められて参加した英語のスピーチコンテストで優勝したの。それから私はネイティブの発音をマネるのが得意だってことに気づいたし、練習するのが苦ではなくなった。アメリカのテレビ番組を見たり、街にいた唯一のネイティブの先生と会話の練習をしたり。このころ英語づけになって基礎を作ったから、大学に入ってからはそんなに英語に時間を割くこともなかった。しばらく使わなくても少し話せば思い出せるし。
(坪): 大学は地元の名門・厦門大学に進学
(J): アモイは地名は英語で「Amoy」だけど、大学名は英語でも中国語読みの「Xiamen University」が正式な名前ね(笑)。日本文学・文化を専攻していた。最初は英語を専攻しようと思っていたけれど、英語の先生に「英語は自分で勉強できるでしょ」って言われて。それだったら、他の言語を学ぶべきだと思ったこと、大学入学当時(2005年)は、日系企業が積極的に中国に進出していた頃だったから、日本語専攻はすごくに人気があったのも選んだ理由の1つ。最初の1年は日本語を勉強。2年生からは文学、文法、それに日本のビジネスや社会についても勉強したよ。
私の大学生活は大きく2つに分けることができると思う。1つめは授業以外の活動に注力していたこと。1年生の頃は学生の自治会、2つのクラブ、雑誌の出版にも参加していた。とにかく時間が足りなかった。これらの活動に加えて英語スピーチのコンペにも参加していたしね。当たり前だけど学校の成績は良くなかった。だから2年生からは自治会の活動に集中することにした。ここで私は、自治会の活動資金を提供してくれる企業スポンサー探しの役割を担っていた。これは学生の間に実社会に触れることができる最高のチャンスだったと思う。ビジネスってどう行われているのかを知る機会であり、CEOやアントレプレナーに会うことができる機会でもあった。大変だったし、イベントをアレンジするのが最も華やかな仕事で学生の間で名前も知れ渡るけれど、それもスポンサー探しみたいな地道な活動があってこそだしね。やりがいはあったよ。他の課外活動を減らした成果もあって、成績も良くなって2年生の時には奨学金を得ることもできたし。タイムマネジメントをこの時に学べたのが学生生活での最大の収穫だと思う。
(坪): 2つめは交換留学だね。日本に交換留学に来たのはいつ?
(J): 3年生の時 。厦門大学は長崎外国語大学と提携していて、毎年学科の上位3名が交換留学に行ける権利を得られるので、私はそのプログラムを取った。長崎外国語大学は様々なトピックを提供してくれていて、社会学や日本経済、日本文化、それに古典文法もあったかな。
日本に来てわかったことは、日本人の先生が中国で教える場合には「中国人学生に教える」ように教え方を変えていたってこと。でも日本で教える場合には、「日本人と他の留学生に教える」スタイルのままだった。でもそれって日本人の考え方を理解する上でも役立ったと思う。何が違うかっていうと…日本人の先生が日本で教える場合には、「日本人の考え方」で話していると思う。 厦門大学では、日本文化を教えるにしても中国人が理解しやすいように、中国の例を出すなどのある種の「翻訳」が入っていたのかな。話し言葉にしても、中国人の日本語の発音は硬い気がするし、書く文章も漢字が多く入るからこれも堅苦しく感じる。私たちは漢字のほうが馴染みがあるし、中国人は熟語大好きだし。でも日本人はひらがな、カタカナを好む。たまに日本の先生が漢字が書けなかったりすることもあるしね(笑)。
留学中には日本国内の旅行もした。福岡とか、大阪とか。東京は行かなかったけどね。日本って古くからある風景を大切にしているでしょ。「ここは昔XXで…」みたいに。でも中国はそうじゃない。今は政府も注意しているけれど、中国では急速に開発が進んでしまって、歴史ある建物が次々と無くなってしまっている。新しいものがいいもののように思われている。文化大革命で多くの歴史的建造物が破壊されたこともあるけれど。この点は日本を見習うべきかな。
アルバイトを通じても、日本を知ることができた。やっていたのはファミレスのホール。何が大変だったって日本語のメニューを覚えること。数は多いし毎月メニューは変わるし。でも日本人のお客さんは優しいから、胸のネームカードを見て日本人じゃないってわかると、丁寧に対応してくれたよ。
あと中国に来てわかったと思うけど、日本と中国のレストランでは働き方が全く違うでしょ。例えばオーダーを取らない時には、掃除をしなきゃいけないとか。掃除しなくていい時はレジに行ったりしなきゃいけないとか。8時間の労働時間のときは休憩時間以外は常に仕事をしていなければならない。でも中国では役割がきっちり分かれていて、オーダー取る人は掃除しないから、空いているときは遊んでるでしょ。仕事の時間でも自分の仕事がなければ休んでいるのが普通だと思っていたから。とはいえ日本の働き方は優先順位が明確に決まっていて、私が一番下だったからかもしれないけど、考える間もなくロボットのように働かなければならないから、決して創造的ではないよね。そういう意味では中国のほうがフレキシブルかも、って思ったり。
当然、この1年間が日本を理解するための一番いい機会だった。
(坪): 大学卒業後は?
(J): 卒業した後は、米系の半導体企業に入社。選んだ理由は製造業に興味があったというよりは、アメリカの企業で働きたかったから。大学ではITと関係ない専攻だったけど、高校の時にはPCシステムを自分で組み立てたりしていたから、普通の女の子とは違ってITには馴染みがあった。それに英語と日本語が話せたことと、AMDは日本のクライアントを持っていたからことが決め手になった。入社後はITプロジェクトマネジメントやテクニカルサポートを担当していた。ITバックグラウンドがないから、最初は何にもわからなかった。特にトラブルシューティング。英語の文書を読んで、日本語で説明して…中国語を一切使わないから大変だったね。とはいえ、同僚のサポートもあって1年後には自分の仕事に必要な知識は習得して、指導員として新入社員の指導をしたり、採用の手伝いをしたりできるようになった。3年目からは自分でプロジェクトを回すようにもなって、社内表彰も受けた。この会社には色んな国の人が在籍していて、彼らとのコミュニケーションによって得られる情報が多いから、この会社で働くにあたっては、英語ができてよかったと思っている。
最近は似たプロジェクトが続いていて単調な気もするけれど、最近は面白そうなソーシャルメディア系のプロジェクトがいくつか上がってきている。是非挑戦してみたいんだけど、今の上司がもうすぐリタイアするので、彼はあまり新しいことに積極的ではなくってね(笑)。
(坪): MBAを取ろうと思った理由は? 欧米じゃなくて香港だった理由は? そしてなぜフルタイムではなくてパートタイム?
(J): 環境面で言うと、大陸のMBAは勉強よりもコネクション構築により重きを置いていること、政府系の人が多いと聞いていたこと、香港のMBAのほうがよりインテンシブで多国籍企業出身の学生が多くて、こちらのほうが私に合っていると思ったから。中文大学は香港のMBAで圧倒的に長い歴史を持っているから、学ぶこともたくさんあるだろうし、私の会社の香港の上司も勧めてくれた。欧米のMBAを取らなかったのは、コネクション。知ってのとおり、中国ビジネスでは今でもネットワークが大切で、2年間中国から離れると帰ってきた時にはギャップが生まれるでしょ。私はMBA取得後も中国で働きたいと考えていたから、欧米よりも中国に残るべきと判断した。日本に留学したときにできた友達とはやっぱり連絡が少なくなってる。それは物理的な距離の問題と生活スタイルが完全に違うからだと思う。そんな経験をしているから。
スキル面で言うと、これまでの経験からマネジメントスキルを身につける必要があると感じた。例えば、私がいたチームは、いわゆる「チーム」として働いていたというよりも個々人がそれぞれの仕事をこなすような集まりだった。お互いの仕事をシェアしたり一緒に取り組んだりっていうことはなかった。そのためにもダイバーシティの高い環境でのMBAが最適な選択だと思った。
フルタイムプログラムを取らなかったのは、今の会社でできることはまだありそうだし、会社自体が新しいことに挑戦しようとしているし、それに伴って私自身の役割も新しいになると思っている。あとは、パートタイムだとMBAで習った知識を実践でそのまま使えるでしょ?
(坪): MBAが終わったら何をしたい?
(J): 2つあって、1つは今の場所に留まること。中国のモバイルインターネット業界は今、ブームと言える盛り上がりを見せている。きっとまだまだ面白いことが起こりそうだから。もう1つはITに関係しつつもよりファイナンス寄りの仕事に就くこと。以前は、自分で小さいビジネスをやってみたいと思っていたけれど、私はアントレプレナー向きではないのかも知れない、って思いはじめた。でも、新しい挑戦には興味があるから、面白いことをしている人がいたら、是非とも一緒になって取り組んでいきたいね。