3月、5ヶ月ぶりに戻った北京で地下鉄国貿駅の通路を歩いていたら、病院で見かけるあの白いパイプベッドが突拍子もなく置かれ、毛布をまとった中年の女性がちょこんと座っていた。
国貿は北京の経済区だ。駅と直結する国貿ビルは外資の大手企業や大手国営企業が占有し、高級ブティックが軒を並べる。数年前には北京一高い80階建ての超高層ビルまでお目見えした東京・丸の内のようなこの場所で、夕方7時の帰宅ラッシュの人波は女性にもベッドにも目をくれることなく自動改札機の中へと吸い込まれていく。
この女性はもちろん病人ではない。
彼女のような乞讨(*チータオ:中国語で物乞いのこと。日本では差別用語ですが、中国での現象を説明するのに最も近いこの単語を用いています)は北京地下鉄の名物と言ってもいいかもしれない。10号線で目の見えない息子と年老いた親の組み合わせがラジカセから物悲しいメロディの曲を響かせながら空き缶を持って車内を流しているかと思うと、2号線の東直門駅では赤ん坊を抱いた若い娘さんが3人ばかり、床に座り込んでいた。彼女たちは西直門行きの地下鉄に乗り込むと、赤ん坊を抱えて乗客の前にひざまずき、空き缶を差し出すのである。
日本では滅多に見ないこうした場面に出くわすたびに、私はオロオロとたじろぎ、身体を窓に向けたり目を伏せたりしてやり過ごした。彼らのきっと過酷な暮らしぶりとか行き渡らない福祉政策とか、根本解決にはならないからという理屈で自分を納得させて幾ばくかのお金すら入れないことへのこころもとなさとか、そんなモヤモヤたちが全身を駆け巡り、妙な後味をひきずってしまう。
「気にするな。あれは仕事だから」と言ったのはカメラマンの張朋(ジャンポン)だ。聞けば、張朋も地下鉄に棲息する彼らのことが気になって、数年前に半年間密着していた。その頃影響力のある経済誌の写真デスクをしていた張朋は、取材成果を所属する月刊誌に発表した。張朋によれば、乞讨たちは集団で田舎から北京へ出てきて郊外のアパートの地下室で共同生活をする。朝になると西単などのターミナル駅に出て陣取り、夜一緒にねぐらへ戻る。張朋が無精髭と汚れた服で駅の地面に彼らと並んで座ってみたところ、1日で200元もの浄財が空き缶に集まった。年間5、6万元も稼げるのだと、張朋が親しい関係をつくった乞讨は話してくれたという。工事現場や家政婦の約2倍である。その乞讨は、稼いだ金でふるさとに3階建ての家を建てた。
「職業としての物乞い」の実態はその後テレビでも報道され、北京市民はだんだん空き缶にお金を入れることをしなくなっていく。しかし地方から出稼ぎ感覚で乞讨をしにやってくる人は増え、競争は激しい―—。
私が国貿駅で目撃した病院ベッドは、過当競争に勝つために乞讨が持ち込んだ演出の大道具だったというわけだ。
2月に自らの物乞い行為をネットで配信した23 才男性が軽犯罪法違反で書類送検されたというニュースを見て、日本には物乞いをする自由がないことにも違う意味でショックを受けたのだが、「中国政府だってとりしまりたいけど、法律がないからやりようがないのさ」と、張朋は肩をすくめる。
西単駅の地下通路に横たわる老婆の隣で「母のために薬を買うお金がない」と大きく書き立てた紙を広げ、中年男性が訴えている場に遭遇した。息子とおぼしきその男性が大声で嘆き哀しむ姿に人だかりができ、私も中に紛れ込んで見物していたところへ警察官が現れ、老婆と中年男性が人だかりをかき分けて逃げ出すのを私は追いかけた。首尾よく逃げおおせた老婆が背筋を伸ばしてうまそうにタバコを吹かす姿は妙にキマっていた。耳には金のピアスが光っていた。
今日もきっと、北京の地下鉄の駅には何十人もの乞讨がいる。彼らは誰も望んで乞讨を演じていないし、そんなことをせずにごはんが食べられるに越したことはない。だが、不謹慎を承知で言えば、遠く田舎から出てきた大都会でまるでパフォーマンスのように老婆や息子を演じる彼らに、生き抜くタフさのようなものを感じてもしまうのである。
文:三宅玲子 | 写真:張朋
ファンちゃんは26 才、ADだ。社会派ドキュメンタリーで定評のある映像制作会社で昨春から働いている。最近情報番組配属になりドキュメンタリーとのやり方の違いに戸惑っていると、スパゲティをフォークに巻きつけながらファンちゃんは近況を話し始めた。
初めて会ったのは、2012年の春、北京の地下鉄国貿駅のスタバだ。早稲田大学の大学院でジャーナリズムを専攻する留学生からBillionBeatsについて話を聞きたいとメールがあった。それがファンちゃんだ。明るいストレートの髪と白い肌をした女の子は、赤いチェックのシャツにデイバック、こざっぱりとした雰囲気で現れた。
2010年の漁船衝突事件がきっかけでニュースにならない中国人のストーリーの集積を始めたBillionBeatsの問題意識について、高校生のようなあどけなさの残る女の子は完璧な日本語で丁寧に問いを重ねた。2時間近いインタビューの中で、将来メディアで働きたい彼女自身が、「伝える仕事」の課題や限界を考えないわけにはいかない状況にあるとわかった。
その後もファンちゃんからは忘れた頃にメールが届いた。宮古島では尖閣諸島問題について漁師と話し込もうとしたが方言が聞き取れなかったとか、中国のハンセン病患者村のキャンプに参加したとか、日中を境目なく動き回り、合間にはプレスセンターや通信社でのバイトを詰め込む学生生活には伝える仕事への本気が溢れていた。
ファンちゃんは修士論文でマスメディアと個人の情報空間の違いと融合の可能性の証明にチャレンジした。その論文は、BBを中心的事例に取り上げつつ「日中関係が戦後最悪と言われている今日、市民感覚に基づき、ミクロな視点での個人発の情報空間の必要性と重要性を明示したい」と締めくくっていた。BBは日中の新しいコミュニケーションの創造などという壮大なゴールを掲げてはいるものの、それは大海に小石を落とすほどにもなっていない。手探りを続ける中、日本で番組制作に携わっていく若い中国人に支持され、3年経ったBBがひとまずの「合格」をもらえたような気持ちになった。
「JIAを企画会議に出したんです」
食後のコーヒーを飲みながらファンちゃんがいった。日本人が中国で立ち上げたハンセン病患者支援村のことだ。学生だったファンちゃんは、JIAで日中のボランティア学生が汗する姿に衝撃を受け、ドキュメンタリーの仕事に就く決心をしたのだという。企画が通れば、きっとファンちゃんは中国の無名の90後(90年代生まれの世代)たちの、日本に伝えられていない側面を指し示すものを撮るだろう。「何を伝えるか」に悩んでいたファンちゃんが自分のテーマに近づいていた。
そういえば、ファンちゃんから「日中友好」という言葉を聞いたことがない。自分の眼でみて確かめる取材の基本に忠実なファンちゃんは、額縁に入れたような言葉にはそもそも興味がないのだ。「知る」ことをせずには何も始まらないという自身の体験に支えられた「13億分の1の中国人のリアル」を、ファンちゃんは日本人に日本語で伝え始めようとしている。
文:三宅玲子 | 写真:ファン
待ち合わせた地下鉄静安寺駅のデパートの入り口で、背の高い彼女はすぐに見つけられた。
ピンストライプの紺のタイトスカートにエナメルのヒール。すっぴんなのにしっとりしてきめの細かい肌はアラフォーには見えない。
「おひさしぶりですぅ。お元気でしたか?」
彼女はいつもの完璧な日本語で話す。彼女と私は、おしゃべりのためにスタバへと歩き出した。
デパートのすぐ隣に静安寺という古刹がある。オレンジがかった黄色の土っぽい外壁は、 現代建築と租界時代からの西洋風情のアパート群が景観の大部分を占める上海で目を引く。彼女がこの静安寺エリアで生まれ育ったことを、お寺の脇を歩きながら私は初めて聞かされた。
「上海でもいちばん古いエリアで、そうね、東京でいうと浅草かしら」
静安寺育ちには、江戸っ子と同様の誇らしさがあるようだ。
お寺の中はどうなっているのかと私が尋ねると、
「中に入ったことないの。大門育ちの人が東京タワーに登ったことがないのと同じ」
これって自慢よね、と言うと彼女は悪びれるふうもなくウフフと笑った。
このぬけぬけとした感じが彼女だよね、と私は初めて会った時のことを思い出した。
4年前、北京で彼女をインタビューした。
富裕層向け高級旅行雑誌を発行する出版社の社長である彼女の着眼点と洗練された誌面づくりは評判になっていた。
初対面で彼女は、上海のトップ高校と北京の名門大学出身であること、日本の大学院や出版社での経験と、日本のどんな組織や企業とネットワークを持っているかを、 はっきりとした口調で話し出した。
これが日本人だと、学歴やキャリアを他人に話すとき、強調気味にはあまり言わないだろう。取材の本題に入り、彼女のビジネスモデルや今後のプランの説明を促すと、さらに押せ押せモードは高まっていく。さらには、これまでどんな取材をしてきたのか、今はどういう原稿を書いているのか、どういうネットワークを持っているか、など、私の方が逆取材を受ける始末。
バランスのとれたプロポーションと甘い雰囲気の美人顔に似合わない押し出しの強さ。正直に言おう。私は息苦しく感じてしまった。
その2年後のことだ。
あるプロジェクトに彼女の協力がほしくて上海のオフィスを訪ねた。今度は私も彼女に向けて、 彼女と同じくらいかそれ以上にズケズケとプロジェクトのゴールと彼女に頼みたい事についてしゃべりまくった。今思えば、相当強引で、彼女の都合など一切考えていなかった。とにかく、なにがなんでもプロジェクトを形にしたかった。
彼女は半ば笑うように私の顔をじっと見ていたが、私が話し終わると、
「できるかぎりのことをやりますよ」
と言い、プロジェクトに活用できそうな彼女の持つ政府系の人脈を3つほどあげ、実際に後日、話を通してくれた。
不思議というかムシがいいというか。そのプロジェクトが完結する頃には、私の彼女への苦手意識は消え去り、むしろその毒気も含めて彼女を好きになっていたのである。
「中国流」でプロジェクトを突破してみてわかったことがある。中国女性の押しが強いのは、彼女たちはそれだけ自分の思いを率直に表現してしまうからなのだ。わがままといってしまえばそれまでだが、自分の思いに対してそれほど素直なのである。そして同じく欲に正直な人間に寛大だ。
静安寺そばのスタバで、彼女の会社の経営状況を話し込んだ。共通の知り合いの名前をあげ、彼女は「あの人を、今度はどう利用しようかしら」とぬけぬけと言う。まったくもって、美人顔に似合わない。だが、社員のためにも会社を強くしたいというエゴを外連味なく口にする彼女は、やっぱり憎めない。
「したたかなる上海女性とはこういうことよ」
また彼女がウフフと笑った。
文:三宅玲子
スンリンは、BillionBeatsのウェブサイトで連載した北京の子どもたちのフォトインタビューシリーズ「11歳」の記念すべきひとりめの取材対象者だ。
2011年、11歳だったスンリンを撮らせてくれたのは彼の母だ。主に外国人向けにジェシカというイングリッシュネームで白タクのドライバーをしている母親とは、北京に移り住んだ年の夏に不動産会社の紹介で知り合った。おおらかだけどテキトーなドライバーもいる中、ジェシカは毎回目的地へのルートを事前に調べ、時間に正確な“デキる”ドライバー。アラフォーのジェシカの助手席に座ってお互いの身の上話をするうちに、離婚した彼女に11歳の一人息子がいることを聞いていた。
北京の子どもたちの日常をちょっとでも覗き見したいと企画したこのシリーズ、取材対象者は人海戦術で掘り起こしていくしかない。恐る恐る息子くんの取材を相談したところ、断られることも覚悟していたが、ジェシカはすんなりオッケーしてくれた。
ジェシカは息子と別に暮らしていた。彼女は客 から電話があればいつでも飛び出せるように、外国人が多く住む北京東部の簡易宿泊所のようなところで仮住まいみたいに暮らしていた。
息子・スンリンはジェシカの両親と住んでいて、雨上がりの夕方、ジェシカが車でわたしと写真家の佐渡多真子さんを連れて行ってくれた。そこは高層アパートが並び立つ東部をさらに東に行った郊外の集落だった。
車を降り、ぬかるんだ路地を入っていく。粗末な平屋がギュッとくっつき合っているその一室が、祖父母とスンリン、そしてやはり預けられているジェシカの弟の子どもの4人の住まいだった。
地元の小学校に通う5年生のスンリンは、いかにも健康で利発そうに見えた。私のおぼつかない中国語で繰り出す質問に礼儀正しくつきあい、答えていく。最後の質問「欲しいものは?」に、彼は「家」と答えた。
そうか、中国では子どもでも不動産投資の意味をわかってるんだねえと感心しながら理由を聞いたところ、返ってきた答えに佐渡さんと私は驚くことになる。
彼の話した理由はこうだ。彼ら一家は四川省出身で、北京市の市民証を持たないため、高校は戸籍のある四川省でないと通えないのだが、賃貸ではなく自前の不動産を持っていれば北京市民でなくとも北京の高校と大学に進学できるから。だから家が欲しいのだと、スンリンはにこやかな表情を変えずに説明した。
数学が得意で成績のいいスンリン。だが、学力ではなく家庭の経済状況が進学のハードルとなっている「教育の機会不平等」を、11歳ながらスンリンが淡々と受け入れているのが切なかった。
厳しい現実の一端を教えられるとは予想しなかった私にとって、「11歳」インタビューは頭を一発殴られるようなスタートとなった。その後約2年で50人の11歳たちと子ども部屋で向き合うことになる。
5年が経ち、中国では景気が後退し、ジェシカはまだ家が買えず、16歳になったスンリンは四川の親戚のもとで高校に通っている。どういう人脈で調達したのか、3年前からジェシカの車は黒塗りのアウディに変わり、最低400元(約8000円)からの仕事しか引き受けなくなった。自分で生き延びるすべをどこからでも見つけ出して生きていくたくましさは、ジェシカだけでなく北京で知り合ったどの中国人にも共通するものだ。
私には以前と同じ友達価格でいいよと言ってくれるが、もう気安くは頼めない。以前ならジェシカの車で出かけたような遠方にも、私は地下鉄を乗り継いでいくようになった。
文:三宅玲子 | 写真:佐渡多真子