Billion Beatsで「中国と日本」をテーマに新連載がスタートすることになった。このリレーコラムの最初の書き手を担当させていただく。
絶えず歩き続けることを中国語で「終日行走」と言う。だが私は「終日」ではなく、まず「中日」、自身が中国と日本を往来する中で感じたことを書きたい。(訳者注:「終日」と「中日」は中国語の発音が同じです)
中国から日本を見た際に最も感じられるのがその「単一性」だ。
近ごろは日本で「爆買」する中国人観光客が目立つ。自国では財布の紐が固い彼らも、日本では何かに取り憑かれたかのように買い物をする。場所も価格も品質もお構いなし、我先にと買い漁っている。
そうした中国人は「日本は何でも素晴らしくて、どんなものでも中国より安い」と信じて疑わない。東京の露天で売られている商品と高級デパートで売られている商品は同じで、価格もさほど変わらないと判断する一方で、北京の秀水街では、売り手の言い値の一割からディスカウント合戦を始める。日本人観光客がためらいつつも意を決して値切るのとは大違いだ。商業的な習慣の問題もあるが、おそらく単一性と多様性という違いがより色濃いのではないだろうか。広大な国土と多くの民族を有する中国の多様性は日本と比べてはるかに複雑であり、その中国から日本を見れば単一性が際立つ。
食事に関する例を挙げよう。私が中国の各地を取材で訪れる際、その土地の郷土料理を試そうと思うことは稀だ。だが日本では逆なのである。
四川で本場の四川料理を食べた時のことである。私は絶えず咳こみ、水を飲みつつその食事を終えた。あまりに辛いその料理は野菜と肉、肉と魚の区別さえつかなかった。真っ赤な唐辛子にまみれた、その肉か魚のようなものを箸でつまみ口に送る。辛さで咳は止まらず、水を飲んでも全く治まらなかった。
広東でもまた別の苦難を経験した。白いおかゆには異臭を放つ黒いピータンとピンク色の肉でんぶ。広東人はそうしたおかゆを好む。30年前、香港にほど近くまだ漁村だった深圳に行った際、現地の人びとがそのおかゆをすするのを見て思わず吐き気を催したのを覚えている。今ではすっかり大都市となった深圳だが、理解しがたいことにそのおかゆは健在だ。
日本なら話は別である。Billion Beats発起人の1人は熊本県出身で、私も熊本を訪れた。あちらでは馬刺をよく食べると知り私も試してみた。その時思い出したのは、日本で初めて魚の刺身を食べたときのことだ。あれは長年アメリカで記者をしていた知人と一緒だった。彼はいささか躊躇している私に「レアに焼かれた牛肉と思って食べれば大丈夫」と言った。その赤身のマグロを味わってみると、本当に牛肉のようだった。そんな経験があった私は熊本でも馬刺を抵抗なく試すことができたのだ。
刺身が食べられるようになればあとは簡単だ。それは日本に入国するのと似ているかもしれない。入国審査で向き合う無表情な担当官以外、ほぼ全ての日本人はとても親切で温かい。入国審査さながらの「刺身」というゲートをくぐってしまえば、生の魚でも馬刺でも、困難であるどころか楽しみにさえなるのだ。
中国の四大料理あるいは八大料理は、今後数百年を経ても変化しないだろう。これが中国の多様性だ。日本料理の中には懐石料理や郷土料理などの細かい違いはあるにせよ、日本文化に詳しくなければそれらを区別することは難しい。
だが最近日本に行った際、20年前とは明らかに違ってきていることを感じた。以前は主に焼き魚の匂いがしていたところで、時折韓国料理のニンニク、更にはインドカレーの匂いが感じられることがあるのだ。だがそれでも日本の中華料理が日本料理に組み入れられることがないのと同様、韓国料理やインド料理も日本料理の一部になることはないだろう。中国における洋食もよく似た状況だ。洋食はあくまで独立した存在で、今もこれからも中国料理の一部になることはできない。
それぞれの国の料理という観点から、中国の多様性と日本の単一性というコントラストが見て取れる。
文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子
Kさんの中国の友人たちと共に送別会を開いた。やはり寂しいものだ。10数年前上海で初めて会ったときのことから近年数回参加した植樹ボランティアのことなどとりとめなく話をした。時の流れは実に速い。Kさんもそれを強く実感している。就職当時、中国語の勉強のためにはまだ台湾しか行けなかった頃から、中国大陸で様々な仕事をしてはや40年近く、本当にあっという間だったという。
「中国と日本、この2つの国をどのようにとらえていますか?」
私はKさんに尋ねた。
「日本はやかんの水のようだと思います。熱くなるのも速いが、冷めるのも速い。一方で中国は池の水のようです。熱くするのは非常に難しいが一度熱くなり始めたら冷ますのは容易でない」
Kさんの30年あまりの日中両国に対する理解はこの言葉に凝縮されている。
おしなべてそれなりの生活水準を保ち、行動スタイルに大きな差がないという意味で日本は画一的である。やかんの水はかき混ぜる必要なく沸くのも速い。多くの国も工業化(近代化)を進めたが、水温が80度、90度になったところで突然ストップしてしまった。例えばラテンアメリカ諸国だ。中所得の罠に陥ってしまったのだ。今後それを乗り越えて成長する可能性はあまり高くない。水は100度に達してこそ沸騰する。沸騰した水は冷めても白湯であり、ただの水とは違う。日本にも停滞した時期があった。メディアは「失われた20年」と表する。だがその停滞と、他のアジア諸国が予想する停滞は全く異なるのだ。日本は「失われた20年」で国民の生活レベルが大きく下降したわけではなく、常に安定した社会を保っている。
中国を池の水に例えるとは、言い得て妙である。私が子どもの頃出かけた大浴場では係員が常にお湯をかき混ぜていた。そうしなければ熱いところ冷たいところとムラが出てしまい利用者からは不満の声があがる。日本には温泉がたくさんあり、湧き出る水は熱いか、温度が低ければ加熱している。湯が熱すぎれば冷たい水を差して入浴に適した温度に調節する。やはり中国とは違う。
中国の30数年の変化を体験してきたKさんも、ふりかえるとその変化が当初想像したよりもかなり大きかったことに気付く。80年代、中国も工業化を謳ったが、実際その兆しを肌で感じることはなく、90年代に入ってようやく熱気を帯び始めた。そして2000年以降は想像以上の勢いで工業化の波が押し寄せた。
「冷まそうと思っても容易ではない」
そうKさんが言うのもまた感慨深い。2008年の金融危機ではすぐに日本の企業の不良債権問題が表面化した。しかしその時中国ではさほど問題がないように見えた。それは中国企業のリーダーが優秀だったわけではなく、冷まそうと思っても難しかっただけなのだ。中国経済は逆風の中でも成長を続けていた。
やかんの水と比べれば、池いっぱいの水を沸騰させるためのエネルギーはもちろん、時間も多く必要だ。10億以上の人口を有し「中所得の罠」が待ち受ける国なら尚更だ。中国崩壊論や中国脅威論はこの池の水から得られる感覚だろうが、いずれも正確とは言えない。やかんの水が沸く過程やその特徴を結論づけるのは簡単だが、池の水となれば話は別だ。やかんがどれほど大きくてもそれなりの結論は出る。小さな池であれば多少分かる事もあるかもしれないが、大きくなれば無理な話だ。ましてや自分が見た事もない大きな池について何らかの結論を導くことの難しさは言うまでもない。
やかんの水と池の水、両国の分析にふさわしい例えだと思う。
文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子
文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子