国境はいきている 2「廃村でなかった拉孟(松山)」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第6週

2016年9月11日 / 国境はいきている



拉孟(中国名・松山)の激戦地。「兵舎」と書かれた札がみえる。


拉孟・騰越の戦いとは聞いたことがるだろうか?
第二次世界大戦中、大陸において日本兵が玉砕したという珍しいケースで知られる日本軍と中国・アメリカ軍の陸上戦だ。その拉孟(中国名・松山)と呼ばれる激戦の舞台となった山を訪れた。
日本語のガイドブックやネット検索では、拉孟は廃村と書かれたものが多く、目にする記事は戦時中の内容ばかりで、今の拉孟については皆無に等しかった。そこでまず地図上で一番近そうな龍陵(ロンリン)県という町までいってみた。

龍陵県は、雲南省徳宏タイ族チンプオ族自治州の芒(マン)市から北上した辺り。前回の投稿で書いたミャンマーとの国境沿いにある交易都市・瑞丽市からバスを2つ乗り継いで辿り着いた。龍陵県は小さく観光客のいないような田舎の町。2つの道が街の中心に位置する公園の辺りで1つの大通りになっていた。

その公園は抗日戦争記念公園。大きな壁画があり、戦時中と思われる軍人や農民の様子が描かれていた。壁画とは対照的に公園に集まった人達が楽しそうに平和な時代を踊っていた。



撮影に利用したフィルム、地図、メモ書き


翌日、拉孟こと松山まではタクシーでいった。
町の中で出会ったおじちゃんに250元で交渉して往復してもらうことにした。
朝の撮影を望み、まだ薄暗い6時過ぎに龍陵県を出発した。

松山へ向かう道中に携帯のGPSで位置を確認。道の舗装が完了すれば、少しは観光客も増えるのでは?



松山へ向かう道中に携帯のGPSで位置を確認。道の舗装が完了すれば、少しは観光客も増えるのでは?

道中、道がもの凄くわるかった。
舗装中の道路は前日の雨で水が溜り、落石などもあって予想以上に到着まで時間がかかった。タクシーが泥色に染まりながらも、なんとか9時前には松山へ着いた。
タクシーを下りると、そこはひっそりとしていて静かで肌寒い。生い茂る緑のなかを設置された木造の遊歩道が伸びていて、それは松山を一周しているらしい。出口があるのか少し心配になる静けさだった。

歩き出すと塹壕の跡がいくつも確認できた。浅く膝の辺りまでしかないその塹壕の深さが過ぎた年月を思わせた。塹壕はいくつも、いくつも、形や方向を変え至る所に掘られていた。中国語で塹壕を示す札が書かれてなければ、ほとんど気がつかず通り過ぎているものも多い。森が元の姿を取り戻そうと、過去が過去になろうとしていた。山に掘られた塹壕の跡を見るのは、肌をえぐられるような痛々しさが心に残った。

廃村と知られていた拉孟は過去のままではなかった。松山の周りには集落が形成され、山の斜面には果樹園があった。この激戦地を観光名所にしようと周辺の道路整備やモニュメントの設立がすでに開始されていた。

戦後70周年を迎えた今年、心苦しい過去の記憶がそこには僅かながら確かに残っていた。

文・写真:Go Takayama