国境はいきている 1「交易都市・瑞丽市」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第4週

2016年9月11日 / 国境はいきている



(写真)ミャンマー原産の翡翠が売り買いされてる露天の一角(中国雲南省瑞丽市・携帯での撮影)



漢化されない少数民族の匂いがある。
香辛料とかの香りではなく、その通り一帯を覆う空気。匂いも色もないのだが、体が急に緊迫感を覚える。

その通りはミャンマーと国境をわける中国雲南省にある瑞丽(ルイリー)市内。ミャンマーからの難民や中国少数民族であるタイ族やチンプオ族がごっちゃ混ぜに暮らす街の一角。難民にはバングラデシュ人も多く含まれ、漢字の看板が店先に出てなければ中国とは思えない。

地理的には、雲南省昆明市から飛行機で西に約1時間ほど飛ぶと徳宏タイ族チンプオ族自治州の芒(マン)市がある。そこから地元民の足である長距離バスで2時間ほど「援蒋ロード」と呼ばれたルートに沿った公道を南下する。19人で満員になるマイクロバスに22名と運転手。芒市から瑞丽市までバスの片道運賃は35元(約700円)。建設中の雲南省とミャンマーをつなぐ高速道路を右に左に迂回しながら、途中バナナのプランテーションの丘を左手に見上げた。

瑞丽市は国境沿いの交易都市である。
混沌とした慌ただしさは、行き交う無数の大型トラックに掻き回され、砂煙が道脇に混在する民族の肌をより色濃く見せた。小さな交差点は四方からのトラックですぐに詰まる。市内の北側には建設中の高層ビル群がやけに飛び出て見えた。

2011年から開始した撮影プロジェクト「The Edge」のシリーズ第3部の撮影のため初めて瑞丽市を訪れた。ミャンマーを縦断して石油と天然ガスをインド洋から陸路で中国へ運ぶパイプラインが、この瑞丽市から中国国内に入り、昆明市を経由して石油は重慶市、天然ガスは広西省へ運ばれるらしい。昆明市から瑞丽市までは、現在高速道路が建設中で今後鉄道を通す計画もあるという。中国南西部と東南アジアが近くなる。

いや、もともと近いのだ。
瑞丽市の人工的な街のつくりにはげんなりしていたが、そこに暮らす人びとは人種も民族も多様でじっくり街を歩くとその面白さがわかる。人の交流や物資の交易は街や国境ができる以前から行われているから、新たな道はその流動を加速させ辺境と呼ばれてた地域は近くなり、先進地域に同化していくだろう。

ホステルで出会った漢族の若者は、愛車の中型バイクで山東省から瑞丽市まで約4ヶ月間かけて旅して来た。そして瑞丽市からミャンマーへ入国してミャンマーとタイを一周してきたという。バイクでだ。そのバイクは、私が高校生の頃に同級生が必死でバイトして購入したとかいう大きさに似ていた。大陸の人間の移動距離やスケールの感覚には常に驚かされる。

「国境は国の生命線である」と、どこかで読んだ。物理的にそれは今も昔も変わらないだろう。北はシベリア、西は中央アジア、南は東南アジアからエネルギー供給ルートを着々と構築している中国。隣国からのエネルギー供給という点において国境沿いの交易都市はますます重要になる。これからの中国は内陸ではなく国境沿いが「relevant」だ。(*relevant=今日的な意義のある)。

文・写真:Go Takayama





国境はいきている 2「廃村でなかった拉孟(松山)」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第6週

2016年9月11日 / 国境はいきている



拉孟(中国名・松山)の激戦地。「兵舎」と書かれた札がみえる。


拉孟・騰越の戦いとは聞いたことがるだろうか?
第二次世界大戦中、大陸において日本兵が玉砕したという珍しいケースで知られる日本軍と中国・アメリカ軍の陸上戦だ。その拉孟(中国名・松山)と呼ばれる激戦の舞台となった山を訪れた。
日本語のガイドブックやネット検索では、拉孟は廃村と書かれたものが多く、目にする記事は戦時中の内容ばかりで、今の拉孟については皆無に等しかった。そこでまず地図上で一番近そうな龍陵(ロンリン)県という町までいってみた。

龍陵県は、雲南省徳宏タイ族チンプオ族自治州の芒(マン)市から北上した辺り。前回の投稿で書いたミャンマーとの国境沿いにある交易都市・瑞丽市からバスを2つ乗り継いで辿り着いた。龍陵県は小さく観光客のいないような田舎の町。2つの道が街の中心に位置する公園の辺りで1つの大通りになっていた。

その公園は抗日戦争記念公園。大きな壁画があり、戦時中と思われる軍人や農民の様子が描かれていた。壁画とは対照的に公園に集まった人達が楽しそうに平和な時代を踊っていた。



撮影に利用したフィルム、地図、メモ書き


翌日、拉孟こと松山まではタクシーでいった。
町の中で出会ったおじちゃんに250元で交渉して往復してもらうことにした。
朝の撮影を望み、まだ薄暗い6時過ぎに龍陵県を出発した。

松山へ向かう道中に携帯のGPSで位置を確認。道の舗装が完了すれば、少しは観光客も増えるのでは?



松山へ向かう道中に携帯のGPSで位置を確認。道の舗装が完了すれば、少しは観光客も増えるのでは?

道中、道がもの凄くわるかった。
舗装中の道路は前日の雨で水が溜り、落石などもあって予想以上に到着まで時間がかかった。タクシーが泥色に染まりながらも、なんとか9時前には松山へ着いた。
タクシーを下りると、そこはひっそりとしていて静かで肌寒い。生い茂る緑のなかを設置された木造の遊歩道が伸びていて、それは松山を一周しているらしい。出口があるのか少し心配になる静けさだった。

歩き出すと塹壕の跡がいくつも確認できた。浅く膝の辺りまでしかないその塹壕の深さが過ぎた年月を思わせた。塹壕はいくつも、いくつも、形や方向を変え至る所に掘られていた。中国語で塹壕を示す札が書かれてなければ、ほとんど気がつかず通り過ぎているものも多い。森が元の姿を取り戻そうと、過去が過去になろうとしていた。山に掘られた塹壕の跡を見るのは、肌をえぐられるような痛々しさが心に残った。

廃村と知られていた拉孟は過去のままではなかった。松山の周りには集落が形成され、山の斜面には果樹園があった。この激戦地を観光名所にしようと周辺の道路整備やモニュメントの設立がすでに開始されていた。

戦後70周年を迎えた今年、心苦しい過去の記憶がそこには僅かながら確かに残っていた。

文・写真:Go Takayama





国境はいきている 3「新疆再来 #1 : 中継地カシュガル」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第4週

2016年9月11日 / 国境はいきている


 
夏の放牧地へ向かう道中


 天山山脈(中国)、キルギスタン国境付近。

「指が黒くなる。
 黒さで一回り太い指に見える。
 皺は垢でより濃く、深くなり
 指先は裂け、腕に切り傷がいくつもある。
 歯はざらつき、鼻は常に詰まっている。
 髪の毛は固く頭垢もでる。
 鼻の頭と周りの頬が日に焼けて痛い。
 頬のガサガサは髭か指先の悪化したひび割れか。
 肺が土で埋まり、喉から飲む埃で更に息苦しい。」

移牧民と春の放牧地に九日間滞在した後、
七日間かけて夏の放牧地へ移動を共にした後の日記である。
疲労もピークで帰りたい寂しさが少しずつ精神を支配し始めていた。

2015年6月14日。
継続中のフォト・プロジェクトのため再度新疆を訪れた。

撮影場所の地理や家族については、2012年の回想記「The Edge」の連載を参考にしてほしい。

移牧民の彼らは1年に4回、四季で移動すると聞いていた。
今回その放牧地の「引っ越し」に同行できたわけだが、この4年間で最も厳しい実りある旅となった。

今年の春頃、「アパートに移住した」と移牧民の家族から連絡をもらった。
牧民定住化政策により開発が進む定住区の新築アパートのことだ。
移牧生活からリタイヤしている両親が入居したらしい。

移牧や遊牧と聞くと生涯草原や山脈を移動している人達を想像するが、
私の出会ったほとんどの老夫婦は、息子や娘に放牧を任せ、「リタイヤ村」とも呼ぶべき小さな集落に定住して生活している。この点在するリタイヤ村から開発が進む定住区に移住する老夫婦が近年増えている。

家族の新しい住まいと生活を撮影するため、まずは中継地点となるカシュガルへ向かった。

「初めて来たときは、すごく緊張して不安だったことを思い出した。」

4年前のカシュガルを思い出し、今回の日記に書いてある。

カシュガル空港から常宿であるユース・ホステル「喀什老城青年旅舎」へ向かうためバスに乗る。整備された道なりには土色の四角い住居がいまでも多く立ち並んでおり、交通量が増す市内に差しかかると次第に緊張感がもどってきた。

カシュガルのランドマーク「エティガール寺院」へ向かう交差点で私はバスを降りた。そこから徒歩で旧市街へ20分ほど進むと、黄土色の低い建物が並ぶなかに堅牢な扉が見える。押しても人が1人通れるほどしか開かないその扉を抜け、中庭に立つと、相変わらず闘い尽くしたような自転車や武装解除後のような大型バイクが放置してある。

以前このホステルに宿泊していた白人男女のグループは、ユーラシア大陸を自転車で渡って来たと教えてくれた。島国出身では計るスケールを持ち合わせない規模のストーリーで、そんな流離人やならず者が集うホステルの2階に機材と荷物を置いた。安堵のためか少しベッドで横になる。

家族が定住する街は、ここから更にキルギスタン国との国境へ向かった先にある。

文・写真:Go Takayama





国境はいきている 4「再び天山山脈へ」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第4週

2016年9月11日 / 国境はいきている


 
天山山脈へ向かう旅路


 アスルンベクとはすぐに打ち解けた。

小柄な体格に角ばった顔。手綱一本で黒馬の背中に飛び乗る勇ましさは気高くも感じられる。口笛で羊を自由に移動させ、山塊深くに湧き出る泉で喉を潤す。足を負傷した羊を肩にからい、ロバの手綱を引いて山脈を下る。人から頼まれた小麦や米、油などの生活の品を1日に何往復も山頂へ運ぶ。20代前半の顔は日焼けと垢で30前後にみえる。その黒い笑顔に光る細い瞳と小さな歯が印象的だ。

撮影を続ける新疆ウイグル自治区天山山脈地域の移牧民の家族。
その家族の次女アリメの長男がアスルンベクだ。今年の春に出稼ぎから帰郷した。約5年ほど中国の東沿岸部の工場を転々と「出稼ぎ移民」していたらしい。その際に覚えたつたない中国語と私のなまかじりな中国語が、互いになんとか意思表示できるかできない会話を保っていた。

2年ぶりに家族を再訪した翌日、私はアスルンベクのバイクの後部席に跨っていた。弟のダニエルを2人で挟むように、3人一丸となりマフラーの音よろしく出発した。

途中、路上に胡坐をかき、酒とタバコで昼過ぎの太陽に愚痴でもこぼしているような若者2人組がいた。少し面倒を予想したが、アスルンベクが交わす挨拶やその後の馴れ馴れしい様子にたかりではないと安心する。どうやら、そのしかめづらの矛先は我々の遅刻らしい。彼らはこの炎天下の路上でビールの空瓶を並べる宴会を3時間ほど続けていた。すぐにでも発つかと思いきや、宴会が余興から本番へと移行するかのように、その2人組はむき出した白い歯で勢いよくビール瓶を次々に開けた。炎天下の路上宴会はその後1時間ほど続いた。

ほどよく酔った2台のバイクが山道の覇者を競い始めるのにそれほど時間はかからなかった。崖っぷちの並行走行や転がる石をよけながらのレースは肝の冷える瞬間の連続だった。特にダニエルが相手バイクの後部座席の腕をつかんだときは、正気の沙汰とは思えなかった。彼らは死に急ぐことで生きてることを感じてるようだった。

その後、水嵩の増した渓谷の川を何度も迂回した。日が暮れてトワイライトに入る頃。世界が一日で最もフォトジェニックになる瞬間。我々はようやくジュマラ兄のゲルにたどりついた。

文・写真:Go Takayama