中日ある記3 それぞれの「多神」信仰  BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第1週

2016年9月11日 / 中日ある記


 


世界陸上や9月の軍事パレードで、北京は青空ときれいな空気に恵まれている。こんな季節には郊外の寺巡りも良さそうだ。
 
 ここ数年、街にキリスト教会が目立つようになったが観光スポットと言えるようなところはまだ少ない。道教は中国で数千年の歴史があるが、北京の白雲観以外有名な道観(道教の寺院)は少ない。北京の寺院は「南朝の四百八十寺、多くが霧雨で霞んでいる」(唐代の詩人杜牧の詩)とその数は確かではないものの、数百カ所はあるはずだ。
 
 度々日本と中国を往復する私だが、北京の寺院を訪れた際に感じるのは「神様」の多さだ。門には怖い顔をした仁王像が立っているが、その仁王像に向かってお辞儀する人はほとんどいないようだ。敷地を進むと布袋和尚や韋駄天、それぞれ違うご利益があるが、やはりお参りする人は少ない。本堂に足を踏み入れ仏像を前にして初めて真剣に拝み始める。だが周辺の十八羅漢も忘れてはならない。それぞれに異なるご利益があり、特定の羅漢を信仰してお参りし続ける人も多いのだ。
 
 もし日本のお寺でそんな風にお参りしていたらなかなかの信心深さだろう。だが中国ではその程度に収まってはいない。敷地内に五百羅漢像が立つ寺院もあり、そのうち1人を選び出してお参りし続けるというような人もいる。本堂だけ参拝する人にとっては羅漢の1人を信仰するなんて驚きだろう。それなりのお寺なら羅漢の名前やご利益が記されているかもしれない。そうなると尚更信じる方も敬虔になり、度々訪れては願掛けする。
 
 お寺の神様が多すぎるためか、中国で参拝者を見ていても、一心不乱にお祈りしているような人はあまりいない。左右を見渡して、そそくさとぬかずいてお辞儀をし、また周りを確認する。他の神様に見られて、ご利益が薄まってしまうのを恐れているかのようだ。日本でそのような光景を見ることはほとんどない。
 
 だが実は日本にもたくさん神様がいる。「八百万の神」との言葉があるが、いかに優秀な神職でも神様全員をリストアップするのは不可能だろう。日本では万物に、一本の草木にも神が宿っている。身の回りに神様がいるから人々は常に自分を律する必要がある。
 
 寺院は社会を反映しているのかもしれない。中国社会ではお役所の多さが目立つ。管理すべきところもそうでないところもお役所が関わってくる。課長や所長の権限は非常に大きく、局長や部長などの管轄は更に多く、実に具体的である。欧米のようにトップが全ての責任を負えば物事はよりスムーズに進むだろう。法律で全てを解決できる社会なら人々も法に則って事を進めるだけだ。至る所に神様がいる日本では、特に管理せずとも社会の秩序が保たれている。神様がたくさんいて、幅広く管理される中様々な矛盾が起こっているのが中国だ。
 
 神様が多いということは宗派も多くなるということだ。中国を起源とする宗派は特に多い。ある宗教の中に神様が多くいれば、それぞれのご利益も多くなり、そのご利益が際立てば一つの宗派が形成される。宗教体制から見れば自然なことだ。宗派間に激しい争いも生じるが、中国での宗教戦争は歴史的に見てもごくわずかである。欧米における宗教、そして日本でもかつて僧侶が国政を司っていたのとは異なり、中国で宗教が政治に大きな影響力を及ぼすことは少ない。
 
 北京の寺院を訪ねながらそんなことを思ったのだった。

文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子





ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。