その2 仙台在住の主婦・小林(古城)三千代さん

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

北京 | 陳言 | 勝又依子(翻訳)

 すでに古城三千代さんと連絡を取るすべはなくしてしまっている。わかっているのは、彼女が仙台の若林区に住んでいたということだけだ。今はただただ彼女とご家族の安否が心配でならない。がしかし、新聞を読んでいる時、震災で亡くなった宮城の方々の名前の欄を目にすると、急いで次のページへとめくってしまう。私は、いつの日か紙面を通して、彼女たち一家が元気に暮らしているということを知る時が必ず来ると信じているのだ。
  
 かれこれ30年近く前のことである。私は朝日新聞の論壇に、中国の日本語教育というテーマで原稿を寄せていた。それを読んだ多くの日本人読者が私に手紙を書いてくれた。古城さんもその中の一人で、手紙には、彼女が鹿児島県出身であり、東京で仕事をしていること、中国語が大好きで、機会があればぜひ中国に留学したい、ということが書かれてあった。

 その時私は仕事を始めたばかりで、月給はといえば、もしエアメールを送るとなれば10通くらいがせいぜいといった少なさだった。手紙をくれた日本の読者に返信したくとも、できなかった。古城さんの手紙には、私が返信に使えるようにと中国の切手が何枚か同封されており、私はその心遣いにたいそう驚いたものだ。その時私は彼女以外の読者にも返信することができ、うち数名とはその後も長く交流を続けることができた。
  
 そして古城さんが北京にやってきた。中央民族大学で勉強することになったのだ。キャンパスは、ちょうどいいことに私が当時日本語教師として勤めていた学校ととても近かった。初めて会ったその時、私はひと目で彼女だとわかった。なぜなら彼女は自分の写真を、しかもカラー写真を事前に送ってくれていたからだ。その頃中国にもカラー写真はあったけれども、それは写真館の美術スタッフが自分の想像をもとに色付けしたもので、彼女が送ってくれた本物のカラー写真とは違うものだった。だから私の同僚の先生たちは皆そろって彼女のカラー写真を見たがり、私は写真が汚れてしまわないかと心配したものだ。

 春節を過ぎたばかり北京の1月はまだ寒さが厳しい。でも古城さんはスカート姿で私に会いに学校に来た。1月の北京でスカートを穿く女性などほとんどいなかったあの頃、バスから降り立つスカート姿の女性が古城さんであることはすぐに分かった。身長は167センチくらいと、けっこう高い方だと思う。写真から出てきたようなその人は、ほんのりといい香りを漂わせ、物言いはごく控えめ、まるで姉を思わせるような女性だった。でも男性の前ではいつも一歩下がるようなところがあった。
   
 古城さんが私の勤める学校に来て、学生たちと日本語について話し合うという機会が何度かあった。私や学生たちが投げかける日本語文法についての質問に対し、どんな風に説明すればよいものかといささか困った様子だった。もちろん彼女は日本語教育について学んだことはなく、したがって日本語文法を深く考えたこともないわけで、我々のような、文法に対して少し生真面目ともいえるような人たちを相手に、うまく答えることは本当に難しかったろう。後になって私が日本に留学し、日本人から中国語文法について質問され、自分もまたうまく答えられずにいた時、その時の彼女の気持ちが更に理解できるような気がしたものだ。
  
“まず私が読みますから、その後に続いて読んでください” 古城さんに続いて全員が声を揃えて教科書を読んだ。教室には朗読の声が明るく響き渡った。後になって分かったことだが、彼女は東京でしばらく仕事をしていたものの、発音には鹿児島訛りが少なからず残っていた。“実は私、きちんとした標準語は話せないんですよ”と率直に言ったことがあったが、私は私でずっと気にとめていなかったのだ。数年後私は東京に行き、方言とはこういうものか、とやっと理解したのだが、次に再び彼女に会った時には、彼女の発音はかなり標準語に近いものになっていた。彼女は仙台出身の男性と結婚し、苗字が小林となり、2人の子供に恵まれた。彼女に出す手紙の宛名が小林三千代に代わっても、私の心の中では昔と変わらず、中国語での呼び名“Gucheng”のままだった。

 十数年前、古城さんとご主人は仙台に引越し、若林区で小さなお店を開いた。きっと女の子が欲しかったのだろう、夫婦には2人の息子に続いて娘が生まれた。嬉しくて仕方がないといった様子で、私のところにも写真を送ってきてくれた。

 彼女の年齢を尋ねたことは一度もないが、たぶん私より年上だから、今50代そこそこだろう。日本女性の優しさ、誠実さ、そして温かさは、彼女とのそう多くはない交流を通して私の心に刻まれることとなった。今回の震災で、仙台若林区が津波で非常に大きな被害を受けたことを知り、悲しく、やりきれない気持ちでいる。想い出せば今も、まるで彼女の淡い香りがすぐそこに漂い、鹿児島なまりのその声が耳もとに迫ってくるかのようだ。どうか、どうか彼女とご家族が無事でありますように。心から願う。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。