その7 普段着の東京:去りゆくネットカフェ

2016年8月31日 / 私の出会った日本人




 東京中野区に新井薬師という閑静な住宅街がある。車庫付きの低層一戸建てが並び、家々を取り囲む壁にはフラワー ポットが掛けられ、見た目に美しく環境にもやさしい花の壁が出来上がっている。
 その新井薬師に“ドットコム”というネットカフェがある。
「5月24日に閉店します。店内のパソコン、テレビや机、そして本棚などは欲しい方に差し上げます。もしご希望のものがございましたらここにお名前を書いてください」
 と20代後半のように見える女性の店長は、お店の備品が記されている一冊のノートを取り出しながら言った。東京の若い女性の例にもれずきちんと化粧されたその顔からうかがえる表情は淡々としたものだった。閉店まではあと半月、20数台のパソコンやテレビ、机たちの新しい行き先はまだないようだ。

 日本のネットカフェは中国のそれとはだいぶ違う。ここに来ているのはネットゲーム目当ての高校生ではなく、決してパソコンが得意とは言えない中高年の日雇い労働者だ。彼らはパソコンでテレビを見たりしながら時間をやりすごしている。ネットカフェの利用料金は大抵どこの国でも比較的安い。ここでもソフトドリンク付き2時間で500円、高校生のアルバイトの時給の半分程度だ。
 ここに来る人は皆スリッパに履き替え、思い思いの姿勢でゆっくり、寝転がったりすることもできる。基本的にはひとりで1ブース、カプセルホテルとさして変わらないそのスペースを利用できる。夜になれば、ホテルには泊まれない懐事情の人たちもやってくる。一晩過ごすのには2000円かかる。ビジネスホテル代の3割ほどだろうか。シャワーはないが、とにかく眠ることができる。住む家のない日雇い労働者の最低限の生活を支えている場所だ。
 パソコンにはそれぞれヘッドフォンがつながれており、利用者がパソコンで映画を観ようがチャットしていようがカフェ自体は静かなものである。夏になれば団扇も置かれ、暑ければそれであおぐこともできる。もちろんエアコン完備のその空間自体は利用者が暑がることなどほとんどないのかもしれないが。

 「ここで働いて5年になります」
その女性の店長は、まるで自分とは関係ないことを話すかのような口調で言った。夜のシフトは主に男性スタッフが担当するのだが、店長である彼女はやはりお店が気にかかる。このカフェが閉まったらどこで仕事をするのかも悩みの種だ。大地震の後には消費者の購買意欲が一気に減退、街中には特売広告があふれた。新規オープンするお店などほとんどなく、仕事探しは難航するだろう。
 ネットカフェを維持していくのはもっと大変だ。いつもならもっと利用客がいたはずであろう夜、今は20あまりあるそのブースの半分以上が空のままだ。客層はというと若者中心で、ここに泊まるというよりはただつぶしのために来ているようだ。私は別の日の昼間にも来たことがあるが、その時お客は一人もいなかった。東京でこの規模の店舗を維持するのは簡単なことではなく、家賃や光熱費だけでも相当の金額だろう。一人あたりの利用客がもたらす利益はほんのわずかだから、客数が減ることは店にとって大きなダメージとなる。
 閉店を決めたのはオーナーなのか店長なのか、いずれにせよネットカフェという商売を今後するつもりはないようだ。5年間営業したことでパソコンは減価償却がほぼ完了したが、机などは丁寧に扱われていたのだろう、まだ十分に使える状態だ。でもそれを欲しがる人はいない。

 その店は3階建ての2階部分にある。店長は3階に住んでいるのだろうか。2階から3階へと続く階段にはテレビや小型スクリーン、漫画などが置かれている。「ご自由にお持ちください」と書かれた紙がカフェの入り口に貼られているが、今のところ誰かが触れたり持っていったりした様子はないようだ。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。