その24 坂東玉三郎さん : 女形の極みから

2016年9月1日 / 私の出会った日本人

 2011年11月10日、玉三郎さんは京都国際会館の壇上にいた。舞台ではなく稲盛財団の「京都賞」授賞式だ。この京都賞は毎年の授賞者が3人のみという国際的な賞で、2011年の思想・芸術部門は1950年生まれの歌舞伎女形、坂東玉三郎さんに贈られた。
女形について語る時、中国では京劇役者の梅蘭芳がしばしば例に挙げられるだろう。
「子どもの頃は自分が歌舞伎の世界に入るとは思いもしませんでした」
受賞の挨拶で玉三郎さんは過去を振り返り語った。あの頃はただ体を動かしたい、舞台に上がりたい、という気持ちだけがあり、玉三郎さんのご両親も息子の自由にさせてくれていた。言いたいことを言い、踊りたいように踊り、いつしか舞台は自分を表現する大切な場所になっていたという。
 天性の素質に恵まれた玉三郎さんは14歳で“坂東玉三郎”を襲名した。
「養父である第14代守田勘弥はその時私に『これでお前もプロの役者だ。この先の道は更に厳しいだろう』と言いました。私もそのプロという感覚を多少なりとも理解したことを覚えています」
玉三郎さんは語った。
 そして5代目坂東玉三郎としての人生が始まった。実名は過去のものとなり、4代目坂東玉三郎の芸を継承するという使命を負った。養父は玉三郎さんが24歳の時に亡くなっているが、
「養父が繰り返した言葉が今も鮮明に心に残っています」
玉三郎さんは続けた。
「これでいい、と思ったらそこでおしまいだ」

 自らの50年あまりの舞台経験と養父や師匠の教えから、玉三郎さんが考える役者として一番大切な姿勢‘舞台に立って観客に良く見せようとするな。その役柄になりきることだけを考えよ’を真摯に実践してきたという。

 中国では、玉三郎さんによる昆劇『牡丹亭』を観た人も多いだろう。日本の歌舞伎役者が演じているとは思えない、というのが大部分の感想かもしれない。『牡丹亭』のずいぶん前にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場で『鷺娘』を演じている。日本舞踊とバレエの鍛え抜かれた身体表現を調和させ、ある種の静謐さと壮絶さを醸し出したその舞台は圧倒的な美しさでもって観客を包み込み、鮮烈な印象を残し続けている。
 その後はドストエフスキーの『白痴』を原作とした『ナスターシャ』に出演、非常に困難とされる男女2役を見事に演じ喝采を浴びた。
『桜姫東文章』、『伽羅先代萩』、『壇浦兜軍記』など日本の歌舞伎における玉三郎さんの活躍については、私がここで改めて言い及ぶ必要はないだろう。

「京都賞」の受賞後、私は玉三郎さんにこう尋ねた。
「今後どういった分野で女形を昇華させていきたいですか?」
玉三郎さんは少し間を置いて、
「自分の若い時と比べて、新しい役柄に挑戦したいという気持ちに衰えは感じませんが、やはり時の流れには逆らえません。でも、もし肉体的・時間的に許されるのであれば沖縄の舞台芸術に挑戦してみたいです」

 女形に関するものはすべて、日本や中国はもちろんアメリカやヨーロッパに至るまで、玉三郎さんは情熱を持って学び、表現してきた。こうして大きな成果を上げた今でも、さらなる高みを目指す姿勢は変わらない。
芸術に対する玉三郎さんの尽きることのない探究心————世界に名だたる数々の賞を引き寄せている理由だろう。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。