その15 本田勝之助さん : 福島の復興のために

2016年8月31日 / 私の出会った日本人




 大学卒業後の数年を東京で働いた後、本田勝之助さんは故郷福島に戻った。
以来「人材の育成・地域再生・農業の活性化」を理念に精力的な活動を続けて10年あまり、本田さんも30代後半となった。
 地震の被害が大きかった福島、しかしそれにも増して影響を受けているのは原発事故だ。地震後本田さんは、他の企業・NPOなどと共に「福島」を改めて知ってもらう方法を模索しはじめた。
被災地復旧のスピードには日本各地からのサポートが大きく関わっている。1995年の阪神大震災の時よりも更に大規模な救援活動が全国で展開されており、政府・自治体も緊急体制のもと対応している。そして阪神大震災と比べて規模も被害も甚大だった一方で、多くの企業が被災後さほど間をおかずに生産ラインを復旧させている。
しかし一方で原発付近の住民は、地震による家屋の損傷がなかったにもかかわらず県内の別の場所、あるいは県外での避難生活を強いられている。

 その多くの人がほんのわずかな身の回り品と共に、公共施設の段ボールに囲まれた空間で暮らしている。新しい救援体制をいかに築くか――各方面が思案している問題だ。
「多くの義捐金が被災地に送られました。今も救援物資を募る活動が多くの人によって続けられています。彼らの多くは“自分たちができること”、例えば被災地の人に卵や野菜を送ることなどから始めました。そこで私たちはハガキを印刷して高速道路のサービスエリアで販売することにしました。ハガキを買うことで、被災地の人々を思いやる気持ちを具体的な形で送ることができます」
本田さんはそのハガキを手にして言った。
 ハガキの表には被災地の状況が、その裏面にはポケットと共に卵や肉、野菜や米などが印刷されている。このハガキを買うことで被災地の人に向けて“自分ができるだけ”の援助ができる仕組みになっている。

「海辺を離れる――言葉にするのは簡単でも実際は違います。海辺で暮らしていた人が街で新しい仕事につき生計をたてることはとても難しいでしょう」
本田さんは言った。そして建築プランが示された大きな冊子を取り出して1ページずつめくって見せてくれた。
「私は明日福島県庁に行きます。北京を拠点に活躍する建築家の迫慶一郎さんと、沿岸地域の復興プランを提出する予定です」
迫建築事務所の構想は、津波の際に人々が短時間で高い場所に逃げることができるような人口島を平野部に複数作るというものだ。3月11日、気象庁が津波警報を出した後多くの人が車で逃げようとした。しかしそのために渋滞が起き、安全な場所にたどり着く前に津波に飲みこまれてしまった。別の方法で迅速に高い建物や安全な高台に逃げることができればより多くの命が助かるだろう。

「原発事故が起きて、“福島”は世界に知られるところとなりました。でも福島に特別な麻素材があることはほんの一部の人しか知らないはずです」
本田さんは細かい縞模様の入った麻布を見せてくれた。地元の麻から織られたその布は独特なデザインと丈夫さが売りで、見る人が見れば福島の特産品であることがわかると言う。
「製品の素材として福島の麻を使ってもらえないかと、いくつかの有名ブランド・メーカーに提案しています。既にジーンズとバッグのメーカーの新作に一部起用されることが決まりました」
福島産の素材を使うことも、企業による被災地支援の一環になっている。
こんなふうに本田さんは様々な策を練る。そしてアイデアを携えて、東京や京都などを訪れ各方面の人に提案をする。すべては故郷福島のために。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。