中国MBAリアルトーク What’s Next in China

長江商学院クラスメートインタビュー、第2弾です。今回のインタビュアー・石川尚さんは、2012年9月に長江商学院に入学。その直後に日中間で政治問題が再燃し、北京に来たてだった石川さんは早々に古くて新しい日中問題の現実を体験することになります。そんな中でもインタビューに応じてくれた中国人たちは、石川さんにどんなストーリーを語ったのでしょう。中国の経済状況が変化のただ中にある中、彼等はどんな未来を描いてMBAに学んでいるのか。クラスメートだからこそ聞けた彼等の本音が詰まっています。石川さんが所属するチャイナMBAマネジメント協会では、中国/香港MBAに関する情報を提供しています。



第1回 長江商学院MBA Carl(男性)31歳 ー 北京大学卒業。起業家とNPO活動家、2つの顔を持つ洒落者

<プロフィール>
 1981年、杭州生まれの一人っ子。父親は国営企業にて水産業に従事。母親は専業主婦。
省でトップの高校を経て北京大学に進学。専攻は化学。卒業後は教育に関する情熱が高じて、塾経営や大学生を利用した観光ガイド会社を興すことに。仕事の合間を縫って、AIDS予防のための教育NPOにも参加。北京・上海の学校教育に貢献している。

 
Q. どんな家庭環境で育ったのか教えてもらえる?

A. そうだな、基本的に僕は甘やかされて育ったな(笑)。母親は体が丈夫でなくて、早くに会社を辞めて、専業主婦になった。一人っ子だったし大事にされていたと思う。危ないからという理由で、あまり外出もさせてもらえなかった。絵を描くのが好きで、油絵なんかをやっていた。勉強もたくさんやらされたよ。両親は典型的な中国人というか、「身を為すには学問から」という考えだったから。
ただし、父親は仕事に忙しくてあまり家にいなかった。遡って話をすると、父方の祖父は軍人の高官だった。家も豊かだったんだけど、祖父が共産党に対抗して蒋介石側についてしまった。結局、共産党側が勝利したから、その影響で家は貧しくなり父親は何のコネもない状態で働かなくてはならなかった。父は運よく水産業を営む国営会社に入れたんだけど、現場からのたたき上げだったからよく船に乗って魚を取りに行ってたよ。

 
初めての恋愛と別れ。地元のトップ校から北京大へ
 

Q.高校時代はどんな生活だった?

A. 幸い勉強は出来たから、高校は地元のトップ校に入ることができた。両親の言うことをよく聞いて、高校時代はよく勉強したね。クラスメイトと恋愛もしたよ。ただし、校則が厳しくてあまりデートすることも出来なかった。まぁ、時間があってもそもそも勉強で忙しくてデートする時間もなかったと思うけど(笑)。今、考えれば少し自分の世界が狭かった気がする。

Q.大学は北京大だよね?

A. そうそう。大学では、化学を専攻した。入学した頃は、まだそれ程ビジネスに対する興味はなくて、純粋に学問的な興味から化学を選んだんだ。大学時代は、そうだな……けっこう大変な時期だった。高校の彼女のことなんだけどね、彼女は卒業してシンガポールの大学に行ってしまったんだ。僕は、北京に行ってもまだそれを引きずっていてね。こっちはこっちで同じ学部の女の子と付き合い出してデートしたりしていたんだけど、シンガポールの女の子の事も頭に残っていて……いろいろ悩んだよ。

 
アメリカ留学を断念して、起業家へ
 

Q.なるほど。大学卒業後は何をしようと思っていたの?

A. 当初は2003年に卒業してアメリカの大学院に進学する予定にしていた。奨学金ももらえることになっていて、化学の博士号を取るつもりだったんだ。ただし、最終的には幾つかの理由でこれを辞めることにしたんだ。一つは、SARS。この時期は渡米そのものが難しくなっていた。それから化学の代わりに教育に対する興味が強くなってきていたのというのもある。中国の社会はいろいろ問題を抱えているでしょ。社会を変える力の根源って教育から来ているって思ったんだ。人々が変わらないと社会は変わらない。人々を変えるのは教育だってね。恋人とのこともあった。同じ学部の彼女も渡米を決めていてイェール大に行くことになっていた。そこで考えたんだ。アメリカに友人も知り合いもいない、僕ら二人がアメリカに行ったらどうなるかって。他に頼る人もいない訳だから、二人でいる時間も多くなる。結局、結婚することになるだろうなって。彼女のことが好きじゃなかったという意味じゃないんだ。結婚するにはまだ早い。その決断を今は出来ないなって思ったんだ。

Q.大学を卒業してから起業したって聞いたけど?

A. 教育学を勉強したくて、いろいろ本を読んだりしていたな。もちろんお金を稼がなくてはいけないから、フリーランスで通訳もやっていた。それからしばらくして、北京大の友人と一緒に起業したんだ。教育に関する仕事がしたかったから、学習塾を立ち上げて高校生以下の子供を教え始めた。規模は小さかったけど、生徒を集めるのはそんなに難しくなかった。北京大のブランドがあったからね。僕は、専ら教育プログラムの開発を担当していたよ。このビジネスを2年くらい続けたけど、共同経営者の友人らと意見が合わなくなって辞めて、ツーリズム関係の新しい会社を立ち上げることにしたんだ。北京は、観光資源が豊かだから観光客が多いだろ。一方で、外国人と仲良くなりたいと考えている学生が沢山いる。そこに目をつけたんだ。つまり、英語の出来る大学生と観光客をマッチングしてあげて、ツアーを組む。例えばバンを借りて万里の長城とかモンゴルまで行ったりするんだ。学生はガイド役をしながら観光客と交流することで、友人を作ったり英語に磨きをかけたりすることが出来る。観光客からしても、英語の出来る安いガイドを雇うことが出来る。

 
NPOとの出会い。今後のキャリアは?
 

Q.NPO活動に参加してるって言ってたよね?

A. うん、偶然だったんだけどね。HIVやAIDSについて教育しているNPO団体の代表と会ってね。彼に誘われて、一緒に活動するようになったんだ。Webサイトに教育コンテンツをアップしたり、学校を回って生徒向けの講演をしたりするんだ。北京や上海の学校を毎年、5校~10校くらい訪問しているよ。自分たちで直接講演出来る人数には限界があるから、学校の先生達に研修を受けてもらい彼等が直接教えられるようにもしているよ。

Q.起業家、NPOというバックグラウンドから長江商学院に入学したわけだけど、卒業後は何をしようと思っているの?

A. NPOの活動、これは長期的に続けようと思っている。この組織はボランティアも含めると100人近くが参加する規模になっている。僕の教育に対する考えとも一致するし、これからも関わっていきたい。ビジネスについては新しいことを考えている。近年、中国人の購買力は上がり続けているだろ。特にラグジュアリーな嗜好品については需要が高いと思っている。そこで、スイスにいるビジネスパートナーと欧米のブランド品の輸入販売ができないかって話を進めているんだよ。

  
<インタビューを終えて>
 クラスの中でも最も流暢な英語を話す中国人の一人であるCarl。身に着けているものもブランド品が多く、最初は外資系勤めの典型的な富裕層かと思っていました。話を聞いてみると、むしろサバイバー。記事にしていないことも含めて、そんなにいろいろやって大丈夫?と思ってしまうほど仕事にも恋愛にもエネルギッシュな男でした。






投稿者

石川尚

1977年 埼玉県出身。

筑波大学人間学類卒業後、2000年に海上自衛隊に入隊。

テロ対策特別措置法案に基づくインド洋派遣任務に従事した後、2005年に退官。

民間では、ITコンサルタントとして、顧客の業務改善に貢献。真っ赤に炎上した大規模プロジェクトを立て直すのが専門。

好きな言葉は「焼け石に水」。

2012年9月、長江商学院に入学。北京では大好きなブラジリアン柔術ができないけれど、毎朝、地下鉄で戦っています。

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