(写真)10月4日に結婚式を控え、準備に忙しいLi。今は幸せいっぱいです☆
<プロフィール>
1985年生まれの一人っ子、浙江省温州出身。両親は大手通信業者向けにモニターシステム会社を起業。幼少期は祖父母に育てられる。父親の影響で読書が大好きで、成績は頗る優秀。高校、大学はイギリス留学。大学時代はラテンダンスにのめりこむ。新卒でゴールドマン・サックスに入社し、ポートフォリオ管理を担当するバックオフィスに2年間勤務。家庭の事情で上海に戻った後、長江商学院MBAに入学。10月4日に挙式予定。
小さい頃、父親から薦められた読書のおかげで、成績優秀。高校、大学はイギリスへ留学
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.両親は1996年に大手通信業者向けにモニターシステムを製造販売する会社を設立した。現在は従業員約300人、服や靴のメーカーなど伝統的な企業が多い温州の中では珍しいハイテク企業だ。小さい頃は両親が起業して非常に忙しかったため、祖父母と一緒に過ごすことが多かった。ただ、両親は勉強家で、読書をよくしており、私にもたくさんの本を買ってくれた。両親のおかげで、私も読書が大好きになった。読書のおかげで、自分から進んで勉強するようになり、小学校では成績は頗る良好。とても自由な幼少期を過ごした。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.母親の健康問題で、家族全員で温州から父親の実家がある上海に移り住んでため、上海にある中学校に入学した。温州よりも上海の方が小学校の時から勉強の進捗スピードが速く、上海では既に小学校から英語の授業が始まっていたり、数学の進捗がかなり進んでいたため、中学入学当初は特に英語と数学はひどい成績だった。ただ、小さい頃から読書好きで、勉強が得意だったため、半年後には同級生に追いつき、その後はトップの成績を維持することができた。英語はとても良い先生に巡り合い、上達は早かった。その先生の夫が复旦大学の教授で、彼がよくイギリスに行っており、彼からイギリスの街並みの美しさ、教育環境の良さを度々聞いていた。そんな彼のおかげで、イギリスにとても興味をもつようになった。ある日、上海でイギリスの教育機関の展示会があり、イギリス留学を真剣に考え始めていた頃で、父親と一緒に行くことになった。そこで出会ったイギリスの方が私の英語をとても褒めてくれ、その場で英語の試験を受けることになり、イギリス留学の許可までいただいた。当時の夢は外交官になって、世界中を飛び回って仕事をすることだったので、家族と相談して、イギリス留学を決めた時は不安より興奮や期待が大きかった。イギリスでの高校はインターナショナルスクールで、日本やベトナムなどアジア、欧州など多国籍のクラスメイトと2年間を過ごした。初めての海外でとても楽しかったし、ホームステイ先で2年間過ごし、その家族にもとてもお世話になった。ただ、親元を離れ、一人異国の地で生活をするのはやはり大変で、ホームシックになったり、友達と楽しく遊べても、深い友達関係になれなかったりと、いろいろと苦労したのも事実。でもこれが私の内面を大きくしてくれたことは確かだ。大学はそのままイギリスに残り、イギリスのBathにあるBath大学の経営学部に入学した。Bathは綺麗な町で高校生の頃訪れて、一目惚れした場所だ。大学ではもちろん勉強は進んでしたが、ラテンダンスクラブに入部してからは、ダンスが大好きになった。Bathにはラテンダンスの先生が少なかったので、電車で1時間ほど離れた町にいた有名なラテンダンスの先生のところまで毎週1回必ず通い続けた。ラテンダンスから、ラテンミュージックも好きになったり、ダンスを通していろんな方と友達になれたのは本当に楽しかった。中国では当然勉強が重んじられるが、イギリスでは勉強より趣味の方が働く上では大事という考えがあり、仕事場では機械みたいな人と働きたくないし、面白い、素敵な人と仕事をしたいという価値観も強い。
新卒でゴールドマン・サックスに入社。2年間勤務後、家庭の事情もあり、上海に戻ることを決意。
Q. これまでのキャリアは?
A.大学卒業後は、イギリスにあるゴールドマン・サックスに入社し、ポートフォリオ管理を担当するバックオフィスで働いた。予想以上に忙しく、毎日平均12時間ほどの仕事量だった。仕事自体は充実していたし、周りの同僚はとても優しく、思いやりがある人たちで恵まれた環境ではあった。ただ、仕事時間がかなり長く、どうしても私には合わないと思って2年間働いた後、家族の事情も重なり、会社を辞め、上海に戻ることに決めた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A.上海に住んでいた祖父の肺がんの症状がかなり悪化し、一度上海に戻り、祖父の看病をすることに決めた。小さい頃からずっと私を育ててくれた祖父に感謝していたし、最期が近いと聞いていたので、上海に4か月ほど看病をしていた。ただ、ずっと看病をするわけにもいかず、上海で働き始めようかと考えたが、その前にMBAでもう一度勉強してから働くことにした。
Q. 卒業後の進路は?
A.現在、インターシップをしている企業が株式公開を控えており、卒業後2、3年はこの会社で株式公開を成功させるまで勤務したいと思っている。その後は、10月4日に結婚する彼と上海に戻り、父親の会社で働こうかと考えている。父親の会社も株式公開を考えているので、卒業後の会社の経験が活かせればと考えている。長期的には、彼と一緒にウェディングプランナーとして独立したい。
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.父親は国営企業勤務、母親は小学校で中国語の先生をしていた。教育やしつけには厳しい両親で、3歳から母親は私に中国語のピンインを教えていたし、箸の持ち方や服の畳み方など厳しくしつけされた。特に母親は教育熱心で、私は3歳から母親から教育を受けていたおかげで、同い年よりも2年早く特別に小学校に入学できた。小学校からずっと、同級生はみな私より2歳年上の1979年生まれの人たちだった。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.母親の影響で、読書が大好きになり、休み時間になるといつも本を読んでいた。成績は上位トップ5をキープ。特に中国語と英語は得意だった。高校では理系クラスだったので、化学や物理も勉強した。部活はバスケットボールをして、よく放課後や週末に練習したものだ。高校の時は具体的な将来の目標はなく、大学は父親の薦めで、武漢にある華中科技大学の英語科に進学した。ちょうど私が大学に入学した頃(1998年)、ITが普及し始めた頃で、時間があればインターネットで毎日ネットサーフィンを楽しんでいた。海外の情報にアクセスしたり、友達とのチャット、他大学の生徒とのディスカッションなどしていた。英語に関しては、広東省は香港と近いため英語のテレビ番組を見ることができ、中学・高校生の頃からよく英語の番組を見ていたため、自然と英語力は上達していった。
米系と日系企業のマーケティング職を両方経験。日系企業の弱点は組織構造にあり
Q. これまでのキャリアは?
A.大学卒業後、コミュニケーションに強い興味があったので、一貫してマーケティング分野でキャリアを築いてきた。広告代理店で約2年半、米系Heinzでマーケティングスーパーバイザーとして約2年、日中合弁の東風日産でモデルストラテジーとして約1年、米系Amwayでアシスタントブランドマネジャーとして約2年半を経験してきた。経験社数は4社だが、一貫してマーケティング畑だ。米系企業と日系企業の違いを2つ上げると、1つ目は、米系は組織がフラットで、意思決定が早い、昇進基準が明確、日系は組織のヒエラルキーが強く、意思決定に多くの時間をかけすぎ、昇進基準があいまい。2つ目は、米系は本国からシニアマネジメントクラスしか派遣しないが、日系はミドルマネジメントクラスまで派遣し、会社に日本人がたくさんおり、中国人がマネジャーに上がるのに時間がかかる点だ。さらに、日系は駐在員に対する待遇が頗る良く、現地の中国人が明確な差を感じるのは好まれないと思う。これまでの私のマーケティングキャリアから日本企業にアドバイスすると、中国人の間では、日本の商品は品質が高いことは有名で、日本の企業はもっと品質、責任感、信頼など、キーメッセージを発するべきだと思う。それに有名人やアスリートを使ったマーケティングキャンペーンを大掛かりにやるべき。付け加えると、消費財セクターでは、メイドインチャイナの商品は最近本物かどうか疑いがかかることが多くなったので、メイドインジャパンブランドの方が信頼が増すと思う。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A.これまでマーケティングキャリアを歩んできたが、MBAを通してマネジメントを学び、次はシニアマネジメントのポジションで会社全体を見ていきたい。長江商学院は1年MBAで奨学金が充実しているため、CEIBSと比べてコスト(機会コスト含む)が半分ぐらい安い。米系Amway勤務時代(2009年)に広州市のビジネス中心街に家を買ったが、それがぐんと値上がりし、MBAで払った授業料を既に回収することができた。ビジネス中心街は今後も不動産は値上がりが続くと思う。
Q. 卒業後の進路は?
A.卒業後は、これまでの経験を活かして、消費財セクターの経営企画室や戦略部門で働きたい。5年以内にディレクターレベルまで上がれればいい。外資系戦略コンサルティングファームも考えている。
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.父親は医者で、大学卒業後30年以上医者を続けている。母親は中学校で数学の先生をしていた。両親ともにしつけや教育には厳しく、帰宅時間やテレビを見る時間はいつも制限されていたし、本をたくさん読むように薦められた。自然と読書が趣味になった。一方、これまで学校の選択やキャリアの選択は自分の判断で、親はいつも応援してくれた。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.中学時代はもちろんよく勉強したが、陸上部に入り、短距離、中距離両方の選手として頑張った。おかげで、100メートル走、1500メートル走の2種目で校内1位をとった。一転、高校時代は地獄のような勉強生活。毎日毎日勉強漬けで、ちょっと退屈だった。高校は地元の普通科でそれほどレベルは高くなく、常にトップ3以内の成績。高校でも陸上を続け、心身ともに鍛えた。私は理系で、数学、物理、化学が好きだったので、大学は北京交通大学の工学部電気工学科に入学した。大学時代は、3分の1は勉強に、3分の1は陸上に、3分の1は恋愛に使ったかなぁ。大学2年生の時に初めて1つ年上の彼氏ができ、それからは楽しい大学時代に変わった。彼とは今もつき合っており、近々結婚する予定。私の人生で最初で最後の彼だ。大学卒業後は北京理工大学大学院に入学し、オートメーションを専門とした。オートメーションは学部時の電気工学と同じ専門だ。
IT・通信分野の一流中国企業で着実に経験を積む。卒業後はVCなど小さな企業で自分の力をフルに活かしたい
Q. これまでのキャリアは?
A.大学院卒業後は華為(ファーウエイ)技術に入社、エンジニアではなく、マーケティング職に近い製品のプレセールスを担当した。私の工学の専門性から製品技術を理解しつつ各市場に投入する戦略を構築し、それを実行する部隊だ。ファーウエイで2年2か月勤務後、チャイナ・ユニコムに転職し、ネットワーク機器のマーケティングやソリューションビジネスを担当した。顧客は欧米の大手企業が多く、例えば、イーベイ、アウディ、アンハイザー・ブッシュ・インベブなどだ。AT&Tやブリティッシュ・テレコムなど欧米の通信メーカーと組み、部下を8名率い、国内外の大手企業にネットワークやITソリューションを提供していた。チャイナ・ユニコムに3年8か月勤務したが、自分に足りないマネジメントやファイナンスの知識を得るためにMBAに入学することに決めた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A.長江は中国では有名で、1年MBA、60人という少人数なところが良かった。清華や北京大のカルチャーは私には合わないし、2年のMBAは長いと感じた。
Q. 卒業後の進路は?
A.これまでは大企業で勤めてきたので、次は小さな会社で自分でビジネスをリードしていきたいと考えている。現在あるVC(ベンチャーキャピタル)でインターンしており、VCはこれまでの仕事経験と長江のMBAの知識が活かせる場としてはとても良いと思う。5年以内にはバイスプレジデントレベルまでは昇進したい。
中学時代にシンクロナイズドスイミングで国内2位の実績。高校時代はやんちゃに過ごす
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.両親ともに大学の教授(父親は数学、母親は社会学)で、私の幼少期に両親は私を連れて、博士号を取得するためにパリへ行った。両親はあまりに勉強に忙しかったので、半年後私を北京に帰国させ、その後は祖父母が私を世話してくれた。父親は8年、母親は5年パリで過ごしたので、伝統的な中国の両親とは違って、おおらかで、寛容的だ。私はこれまでも自分の判断で学校やキャリアを決めてきたし、親に相談するといつも適切なアドバイスをくれた。とても自由な家庭環境だった。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.小学校から中学校にかけて6年間、シンクロナイズドスイミングに熱中した。毎日3時間以上の練習を続け、中国国内の大会で2位を獲得したことがある。私は当時から身長が高く、足が長かったので、このスポーツにとても合っていたし、大好きだった。私は何か好きなことを見つけると、とことんやるタイプだ。一転、高校時代はトラブルメーカーだった。その原因は、両親の仕事の都合で転校し、新しい高校に移った時に友達とうまく馴染めず、寂しい思いをすることが多かったからだ。学校では勉強もせず、友達とも遊ばず、学校の外の仲間とよくつるんでいた。バンドをやっている少し悪そうな人たちとよく遊んだし、ケンカしたり、暴れたりして、やんちゃな高校時代を過ごした。今となっては良い思い出だ。音楽や芸術が好きだったので、大学は北京工商大学に入学し、マーケティングと広告ビジネスを専攻した。特に広告のクリエイティブサイドに熱中し、デザインの基礎から学び、実際の広告デザインまで幅広くデザインを学んだ。さらに、アメリカの大学院でデザインをもっと学びたかったので、大学院に入学するための英語のテスト(TOEFLやGRE)を猛烈に勉強し、数校からオファーをもらった。しかしながら、不運なことに、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起き、大学院への入学許可はあったもののビザが下りず、米国留学は断念せざるを得なくなった。本当に残念だった。その後はずっと広告会社でインターンをして大学時代を過ごした。
香港系とシンガポール系企業でマーケティング職に従事。MBA卒業後は起業に挑戦!
Q. これまでのキャリアは?
A.大学卒業後は、香港にある世界一のゴルフ場運営会社でマーケティング職に就いた。香港は英語と広東語が公用語で、純粋な北京人の私からすると生活しづらく、寂しく感じることが多かった。そのため、1年半でこの会社を辞め、北京にあるシンガポール政府系のKepplelandに転職した。この会社は不動産業、オイル業、建築業の3つを経営し、私はマーケティング全般を担当した。このシンガポール会社は、シニアメンバーはすべてシンガポール人で、ミドルメンバーやジュニアスタッフは中国人を採用していた。シンガポール人は中国語は理解できるが、あまり話そうとせず、仕事はいつも英語でやっていた。私は4年半、Kepplelandで働いた後、二人目の子供ができたので退職し、MBAを通して少し休みつつ、経営を勉強することに決めた。MBAに入学まではGMAT試験の準備をしたり、私の夫の会社を手伝っていた。私の夫はフランスで10年間ワインビジネスを手掛けていて、私の叔父が中国で経営していたワインの会社を夫が引き継ぎ、今は彼が社長として経営している。従業員は約260名で、中国国内で6つの支社を持つ規模にまで成長している。
Q. 卒業後の進路は?
A.自分で新しい会社を立ち上げることに決めた。ユニークなアクセサリーやグッズをネットで売るビジネスだ。中国人は価値観が多様化してきており、高級品やブランド品だけに目が向いていたのが、ユニークなもの、自分だけのオリジナルなものを求める傾向になってきている。これまでのデザインやマーケティングの経験を活かし、優れたアーティストを発見し、彼ら彼女らの商品を中国国内でネットを通して販売していきたい。アメリカに同じようなビジネスモデルが既にあり、それを参考にしている。日本にも優れたユニークなアーティストがたくさんいるので、ぜひ見つけたら私に紹介してほしい。