第2回 長江商学院MBA Yanghuan(男性)31歳 ー 米国医療ベンチャーを経て帰国。卒業後は起業家への転身を目指す

<プロフィール>
 1981年、湖北省生まれ。両親は国の治水事業を担当する機関に勤務。地元の進学校から北京林業大学に入学し、バイオテクノロジーを学ぶ。卒業後は米国に渡りオレゴン大学に留学。修士号を取得した後、ニューヨークの医療NPO「Cold Spring Harbor Laboratory」に勤務する。その後、NPO法人からスピンアウトした医療ベンチャーにて、事業の立ち上げに携わる。
 
 
 
 

 

Q. どんな環境で育ったのか教えてもらえる?

A. 生まれ故郷は湖北省の小さな田舎町。父親は放任主義だったけど、母親は厳しくてね。家でもしっかり勉強させられた。しかも、小学校の頃に担任の先生が隣に引っ越してきて、余計に勉強しないといけない雰囲気で育った。今考えると、それが良かったのかも知れないけど(笑)。学校の成績はずっと学年で1番とか2番だった。子供ながらに、その順位を守らないといけないっていうプレッシャーがあったよ。

Q. 高校と大学の進学について教えてもらえる?

A. 高校は地元の有名校に進学した。家から遠かったから寮に入ることになって、15歳から一人暮らしを始めることになった。成績は上から3分の1といったところ。周りにたくさん優秀が学生がいたから、トップになるのは難しかった。大学については、将来の産業として注目されていたバイオテクノロジーが学びたくて、2000年に北京林業大学に入学した。北京大や清華大学に行くには点数が足りなかった。



危機意識をバネに留学のチャンスを勝ち取る

Q. 大学卒業後はアメリカに留学したんだよね?

A. そう。恥ずかしい話なんだけど、大学2年の時に学生部から呼び出されるということがあってね。当時あまり勉強していなくて、試験の成績が・・・・・・とてもひどかったんだ。学生部からは、このままでは学位が取れないかも知れないというようなことを言われた。仮に学位が取れないとなると、就職にとても不利になってしまう。それで焦ってね・・・・・・なんとかしないといけないと思った。成績を上げて学位を取れるようにしないといけない。そこから猛烈に勉強するようになった。特に英語の勉強には力を入れた。留学したかったし、アメリカのマスターコースに合格して学校側に自分は出来るんだってことを証明したかった。結果的には2004年にオレゴン大の生命科学コースに入ることが出来た。

Q. オレゴンでの生活と研究について話してもらえる?

A. 大学での研究は引き続きバイオテクノロジーに関するものだね。奨学金の条件として、ハーフタイムで研究補助を行う必要があったから、もっぱら教授の手伝いをしていたよ。
オレゴンは自然が豊かでね、州の面積の70%は森林なんだ。ロッキー山脈を挟んで東側にはビーチ、西側には砂漠、山に行けば雪が積もっていてスキーも楽しめる。ハイキングやクライミングが出来るスポットもたくさんある。とにかく遊ぶには困らないところだったね。



国が違っても人間の本質は同じだと思う

Q. アメリカでの生活で自分が変わったと思うところは?

A. 研究室には世界中からたくさんの学生や研究者が集まって来ていた。そういう人々と触れ合う中で、どんな国の人でも本質的なところは違わないなって思うようになった。中国には日本人が嫌いな人が確かにいる。日本にも中国人が嫌いな人がいるだろう。集団としてみた場合、対立が起こることもある。ただし一人一人の人間を見ると大きな違いはない、一緒に働くことができるんだってことを学んだ。オープンマインドってことかな。



アメリカでの就職、研究センターの立ち上げ

Q. アメリカでそのまま就職したんだよね?

A. そう。修士号を取った後も、数年は学校に残って研究室の助手をやっていた。Ph.Dを取ろうかと思ったこともあったけど、ビジネスにも興味があったから就職することにしたんだ。いろいろ検討している時にニューヨークの「Cold Spring Harbor Laboratory」(以下、CSHL)に出会ってね、そこで働くことにした。モンサントみたいなバイオメーカーにも興味があったけど、CSHLは非営利財団でね、そっちの方が普通の会社よりビザが取りやすいってこともあった。

Q. 研究所での仕事は?

A. 研究のレベルは高かったね。CSHLは過去に何人もノーベル賞受賞者を出していて・・・・・・8人だったけな・・・・・・、当時はDNAの研究で有名なジェームズ・ワトソンもいた。僕がついたのは、アルツハイマーや分裂病を研究していた教授。彼が施設内に新しく研究センターを作るって言うからその立ち上げメンバーとしてプロジェクトに参加することになった。研究だけじゃなくて、実験器材の購入から新しいスタッフの面接までいろいろ担当したよ。もともと、教授とはバイオベンチャーとして独立しよう話をしていたからセンターが軌道に乗ったタイミングでベンチャーキャピタルを訪ねて、資金提供してもらえることなった。結果、CSHLからスピンアウトして民間の会社としてビジネスをスタートさせたんだ。大きな顧客が何社かついてね、日本の大手製薬会社もクライアントだったよ。製薬会社って治験に莫大な時間とお金を掛けるだろ。僕らの会社の技術を使うと、本格的な治験を始める前に、どれくらいの副作用が発生するかっていうことをある程度の確率で予測できるんだ。製薬会社にとっては、コストを削れるメリットがあるだろ。



新しいチャンスを掴むために、再び中国へ

Q. 仕事も順調だったように聞こえるけど、どうして中国に戻ろうと思ったの?

A. 研究そのものと同じくらいビジネスに興味があったからかな。初めて大きな顧客がついた時はみんな大喜びで、すごく興奮したんだ。ただし、2社目、3社目と続けていくうちに飽きてきたというか、同じ作業を繰り返している自分に気が付いた。もっと新しいことを追いかけていられる環境に移りたいって思うようになったんだ。もう1つは、金融の重要性というか、新しい技術に資金提供してあげることで社会の役に立つような価値を創り出すことができるってことを実感して、それをもっと自分の力でやってみたいって思ったことだね。
中国に戻ることを決意したのは、マーケット自体が成長しているのと、その方が自分を周りと差別化できるって考えたからかな。僕のようにバイオベンチャーの立ち上げに携わった人材は、中国ではまだ少ないからね。

Q. 長江商学院で学んで半年経つけど、学校には満足している?

A. 概ね満足しているよ。いろんなバックグランドを持ったクラスメイトを通じて人脈を広げられているし、苦手だった金融や投資についても勉強できている。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後3~5年後に起業するのが目的。そのための準備として、卒業後2、3年はベンチャーキャピタルで経験を積みたいと思っている。テクノロジーについては目が効くから、有望なスタートアップを発掘して投資する、そういう仕事をしたいと思っている。



<インタビューを終えて>
 中国に来て2日目、クラスメイトと初めて顔合わせで飲みに行った日。たまたま席が隣で、いろいろ気を使ってくれたのが今回インタビューしたYanghuan。同世代ということもあり、よく一緒に食事に行く間柄です。今回は深夜までたっぷりと話を聞かせてくれました。アメリカに彼女を置いてきたらしいのですが、その後どうなったのでしょうか・・・・・・。別の機会にインタビューしたいと思います。


Nao Ishikawa

投稿者について

Nao Ishikawa: 1977年 埼玉県出身。 筑波大学人間学類卒業後、2000年に海上自衛隊に入隊。 テロ対策特別措置法案に基づくインド洋派遣任務に従事した後、2005年に退官。 民間では、ITコンサルタントとして、顧客の業務改善に貢献。真っ赤に炎上した大規模プロジェクトを立て直すのが専門。 好きな言葉は「焼け石に水」。 2012年9月、長江商学院に入学。北京では大好きなブラジリアン柔術ができないけれど、毎朝、地下鉄で戦っています。