第1回 長江商学院MBA Carl(男性)31歳 ー 北京大学卒業。起業家とNPO活動家、2つの顔を持つ洒落者

<プロフィール>
 1981年、杭州生まれの一人っ子。父親は国営企業にて水産業に従事。母親は専業主婦。
省でトップの高校を経て北京大学に進学。専攻は化学。卒業後は教育に関する情熱が高じて、塾経営や大学生を利用した観光ガイド会社を興すことに。仕事の合間を縫って、AIDS予防のための教育NPOにも参加。北京・上海の学校教育に貢献している。
 

Q. どんな家庭環境で育ったのか教えてもらえる?

A. そうだな、基本的に僕は甘やかされて育ったな(笑)。母親は体が丈夫でなくて、早くに会社を辞めて、専業主婦になった。一人っ子だったし大事にされていたと思う。危ないからという理由で、あまり外出もさせてもらえなかった。絵を描くのが好きで、油絵なんかをやっていた。勉強もたくさんやらされたよ。両親は典型的な中国人というか、「身を為すには学問から」という考えだったから。
ただし、父親は仕事に忙しくてあまり家にいなかった。遡って話をすると、父方の祖父は軍人の高官だった。家も豊かだったんだけど、祖父が共産党に対抗して蒋介石側についてしまった。結局、共産党側が勝利したから、その影響で家は貧しくなり父親は何のコネもない状態で働かなくてはならなかった。父は運よく水産業を営む国営会社に入れたんだけど、現場からのたたき上げだったからよく船に乗って魚を取りに行ってたよ。

 
初めての恋愛と別れ。地元のトップ校から北京大へ
 

Q.高校時代はどんな生活だった?

A. 幸い勉強は出来たから、高校は地元のトップ校に入ることができた。両親の言うことをよく聞いて、高校時代はよく勉強したね。クラスメイトと恋愛もしたよ。ただし、校則が厳しくてあまりデートすることも出来なかった。まぁ、時間があってもそもそも勉強で忙しくてデートする時間もなかったと思うけど(笑)。今、考えれば少し自分の世界が狭かった気がする。

Q.大学は北京大だよね?

A. そうそう。大学では、化学を専攻した。入学した頃は、まだそれ程ビジネスに対する興味はなくて、純粋に学問的な興味から化学を選んだんだ。大学時代は、そうだな……けっこう大変な時期だった。高校の彼女のことなんだけどね、彼女は卒業してシンガポールの大学に行ってしまったんだ。僕は、北京に行ってもまだそれを引きずっていてね。こっちはこっちで同じ学部の女の子と付き合い出してデートしたりしていたんだけど、シンガポールの女の子の事も頭に残っていて……いろいろ悩んだよ。

 
アメリカ留学を断念して、起業家へ
 

Q.なるほど。大学卒業後は何をしようと思っていたの?

A. 当初は2003年に卒業してアメリカの大学院に進学する予定にしていた。奨学金ももらえることになっていて、化学の博士号を取るつもりだったんだ。ただし、最終的には幾つかの理由でこれを辞めることにしたんだ。一つは、SARS。この時期は渡米そのものが難しくなっていた。それから化学の代わりに教育に対する興味が強くなってきていたのというのもある。中国の社会はいろいろ問題を抱えているでしょ。社会を変える力の根源って教育から来ているって思ったんだ。人々が変わらないと社会は変わらない。人々を変えるのは教育だってね。恋人とのこともあった。同じ学部の彼女も渡米を決めていてイェール大に行くことになっていた。そこで考えたんだ。アメリカに友人も知り合いもいない、僕ら二人がアメリカに行ったらどうなるかって。他に頼る人もいない訳だから、二人でいる時間も多くなる。結局、結婚することになるだろうなって。彼女のことが好きじゃなかったという意味じゃないんだ。結婚するにはまだ早い。その決断を今は出来ないなって思ったんだ。

Q.大学を卒業してから起業したって聞いたけど?

A. 教育学を勉強したくて、いろいろ本を読んだりしていたな。もちろんお金を稼がなくてはいけないから、フリーランスで通訳もやっていた。それからしばらくして、北京大の友人と一緒に起業したんだ。教育に関する仕事がしたかったから、学習塾を立ち上げて高校生以下の子供を教え始めた。規模は小さかったけど、生徒を集めるのはそんなに難しくなかった。北京大のブランドがあったからね。僕は、専ら教育プログラムの開発を担当していたよ。このビジネスを2年くらい続けたけど、共同経営者の友人らと意見が合わなくなって辞めて、ツーリズム関係の新しい会社を立ち上げることにしたんだ。北京は、観光資源が豊かだから観光客が多いだろ。一方で、外国人と仲良くなりたいと考えている学生が沢山いる。そこに目をつけたんだ。つまり、英語の出来る大学生と観光客をマッチングしてあげて、ツアーを組む。例えばバンを借りて万里の長城とかモンゴルまで行ったりするんだ。学生はガイド役をしながら観光客と交流することで、友人を作ったり英語に磨きをかけたりすることが出来る。観光客からしても、英語の出来る安いガイドを雇うことが出来る。

 
NPOとの出会い。今後のキャリアは?
 

Q.NPO活動に参加してるって言ってたよね?

A. うん、偶然だったんだけどね。HIVやAIDSについて教育しているNPO団体の代表と会ってね。彼に誘われて、一緒に活動するようになったんだ。Webサイトに教育コンテンツをアップしたり、学校を回って生徒向けの講演をしたりするんだ。北京や上海の学校を毎年、5校~10校くらい訪問しているよ。自分たちで直接講演出来る人数には限界があるから、学校の先生達に研修を受けてもらい彼等が直接教えられるようにもしているよ。

Q.起業家、NPOというバックグラウンドから長江商学院に入学したわけだけど、卒業後は何をしようと思っているの?

A. NPOの活動、これは長期的に続けようと思っている。この組織はボランティアも含めると100人近くが参加する規模になっている。僕の教育に対する考えとも一致するし、これからも関わっていきたい。ビジネスについては新しいことを考えている。近年、中国人の購買力は上がり続けているだろ。特にラグジュアリーな嗜好品については需要が高いと思っている。そこで、スイスにいるビジネスパートナーと欧米のブランド品の輸入販売ができないかって話を進めているんだよ。

  
<インタビューを終えて>
 クラスの中でも最も流暢な英語を話す中国人の一人であるCarl。身に着けているものもブランド品が多く、最初は外資系勤めの典型的な富裕層かと思っていました。話を聞いてみると、むしろサバイバー。記事にしていないことも含めて、そんなにいろいろやって大丈夫?と思ってしまうほど仕事にも恋愛にもエネルギッシュな男でした。


第2回 長江商学院MBA Yanghuan(男性)31歳 ー 米国医療ベンチャーを経て帰国。卒業後は起業家への転身を目指す

<プロフィール>
 1981年、湖北省生まれ。両親は国の治水事業を担当する機関に勤務。地元の進学校から北京林業大学に入学し、バイオテクノロジーを学ぶ。卒業後は米国に渡りオレゴン大学に留学。修士号を取得した後、ニューヨークの医療NPO「Cold Spring Harbor Laboratory」に勤務する。その後、NPO法人からスピンアウトした医療ベンチャーにて、事業の立ち上げに携わる。
 
 
 
 

 

Q. どんな環境で育ったのか教えてもらえる?

A. 生まれ故郷は湖北省の小さな田舎町。父親は放任主義だったけど、母親は厳しくてね。家でもしっかり勉強させられた。しかも、小学校の頃に担任の先生が隣に引っ越してきて、余計に勉強しないといけない雰囲気で育った。今考えると、それが良かったのかも知れないけど(笑)。学校の成績はずっと学年で1番とか2番だった。子供ながらに、その順位を守らないといけないっていうプレッシャーがあったよ。

Q. 高校と大学の進学について教えてもらえる?

A. 高校は地元の有名校に進学した。家から遠かったから寮に入ることになって、15歳から一人暮らしを始めることになった。成績は上から3分の1といったところ。周りにたくさん優秀が学生がいたから、トップになるのは難しかった。大学については、将来の産業として注目されていたバイオテクノロジーが学びたくて、2000年に北京林業大学に入学した。北京大や清華大学に行くには点数が足りなかった。



危機意識をバネに留学のチャンスを勝ち取る

Q. 大学卒業後はアメリカに留学したんだよね?

A. そう。恥ずかしい話なんだけど、大学2年の時に学生部から呼び出されるということがあってね。当時あまり勉強していなくて、試験の成績が・・・・・・とてもひどかったんだ。学生部からは、このままでは学位が取れないかも知れないというようなことを言われた。仮に学位が取れないとなると、就職にとても不利になってしまう。それで焦ってね・・・・・・なんとかしないといけないと思った。成績を上げて学位を取れるようにしないといけない。そこから猛烈に勉強するようになった。特に英語の勉強には力を入れた。留学したかったし、アメリカのマスターコースに合格して学校側に自分は出来るんだってことを証明したかった。結果的には2004年にオレゴン大の生命科学コースに入ることが出来た。

Q. オレゴンでの生活と研究について話してもらえる?

A. 大学での研究は引き続きバイオテクノロジーに関するものだね。奨学金の条件として、ハーフタイムで研究補助を行う必要があったから、もっぱら教授の手伝いをしていたよ。
オレゴンは自然が豊かでね、州の面積の70%は森林なんだ。ロッキー山脈を挟んで東側にはビーチ、西側には砂漠、山に行けば雪が積もっていてスキーも楽しめる。ハイキングやクライミングが出来るスポットもたくさんある。とにかく遊ぶには困らないところだったね。



国が違っても人間の本質は同じだと思う

Q. アメリカでの生活で自分が変わったと思うところは?

A. 研究室には世界中からたくさんの学生や研究者が集まって来ていた。そういう人々と触れ合う中で、どんな国の人でも本質的なところは違わないなって思うようになった。中国には日本人が嫌いな人が確かにいる。日本にも中国人が嫌いな人がいるだろう。集団としてみた場合、対立が起こることもある。ただし一人一人の人間を見ると大きな違いはない、一緒に働くことができるんだってことを学んだ。オープンマインドってことかな。



アメリカでの就職、研究センターの立ち上げ

Q. アメリカでそのまま就職したんだよね?

A. そう。修士号を取った後も、数年は学校に残って研究室の助手をやっていた。Ph.Dを取ろうかと思ったこともあったけど、ビジネスにも興味があったから就職することにしたんだ。いろいろ検討している時にニューヨークの「Cold Spring Harbor Laboratory」(以下、CSHL)に出会ってね、そこで働くことにした。モンサントみたいなバイオメーカーにも興味があったけど、CSHLは非営利財団でね、そっちの方が普通の会社よりビザが取りやすいってこともあった。

Q. 研究所での仕事は?

A. 研究のレベルは高かったね。CSHLは過去に何人もノーベル賞受賞者を出していて・・・・・・8人だったけな・・・・・・、当時はDNAの研究で有名なジェームズ・ワトソンもいた。僕がついたのは、アルツハイマーや分裂病を研究していた教授。彼が施設内に新しく研究センターを作るって言うからその立ち上げメンバーとしてプロジェクトに参加することになった。研究だけじゃなくて、実験器材の購入から新しいスタッフの面接までいろいろ担当したよ。もともと、教授とはバイオベンチャーとして独立しよう話をしていたからセンターが軌道に乗ったタイミングでベンチャーキャピタルを訪ねて、資金提供してもらえることなった。結果、CSHLからスピンアウトして民間の会社としてビジネスをスタートさせたんだ。大きな顧客が何社かついてね、日本の大手製薬会社もクライアントだったよ。製薬会社って治験に莫大な時間とお金を掛けるだろ。僕らの会社の技術を使うと、本格的な治験を始める前に、どれくらいの副作用が発生するかっていうことをある程度の確率で予測できるんだ。製薬会社にとっては、コストを削れるメリットがあるだろ。



新しいチャンスを掴むために、再び中国へ

Q. 仕事も順調だったように聞こえるけど、どうして中国に戻ろうと思ったの?

A. 研究そのものと同じくらいビジネスに興味があったからかな。初めて大きな顧客がついた時はみんな大喜びで、すごく興奮したんだ。ただし、2社目、3社目と続けていくうちに飽きてきたというか、同じ作業を繰り返している自分に気が付いた。もっと新しいことを追いかけていられる環境に移りたいって思うようになったんだ。もう1つは、金融の重要性というか、新しい技術に資金提供してあげることで社会の役に立つような価値を創り出すことができるってことを実感して、それをもっと自分の力でやってみたいって思ったことだね。
中国に戻ることを決意したのは、マーケット自体が成長しているのと、その方が自分を周りと差別化できるって考えたからかな。僕のようにバイオベンチャーの立ち上げに携わった人材は、中国ではまだ少ないからね。

Q. 長江商学院で学んで半年経つけど、学校には満足している?

A. 概ね満足しているよ。いろんなバックグランドを持ったクラスメイトを通じて人脈を広げられているし、苦手だった金融や投資についても勉強できている。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後3~5年後に起業するのが目的。そのための準備として、卒業後2、3年はベンチャーキャピタルで経験を積みたいと思っている。テクノロジーについては目が効くから、有望なスタートアップを発掘して投資する、そういう仕事をしたいと思っている。



<インタビューを終えて>
 中国に来て2日目、クラスメイトと初めて顔合わせで飲みに行った日。たまたま席が隣で、いろいろ気を使ってくれたのが今回インタビューしたYanghuan。同世代ということもあり、よく一緒に食事に行く間柄です。今回は深夜までたっぷりと話を聞かせてくれました。アメリカに彼女を置いてきたらしいのですが、その後どうなったのでしょうか・・・・・・。別の機会にインタビューしたいと思います。


第3回 長江商学院MBA Novel(女性)34歳 ー 女性の悩みは万国共通?家庭とキャリアの狭間で生きる“神仙姉姉“

<プロフィール>
 1978年、山東省生まれ。南京の東南大学にて電力工学を専攻。卒業後は、北京理工大学にてコンピューター科学の修士号を取得。長江商学院入学前はクアルコム社にて9年間勤務。2006年に結婚して、現在は1児の母。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Q. 小さい頃の家庭環境について、簡単に紹介してもらえる?

A. 父親は国有企業のエンジニア、母親は経理。私の世代はぎりぎり一人一戸政策の前だったから、2つ上の姉がいるの。両親はとても寛容で、教育と医療についてはお金を掛けてくれたと思う。高校生までは、ひたすら「高考」(※日本のセンター試験のようなもの)のために勉強していたという感じだったわ。

Q. 大学では理系を選んだんだよね?

A. そう。父親の影響でね、電力工学を専攻したの。学生時代の想い出というと、宿舎暮らしで10kgくらい痩せたことかしら。南方の料理が口に合わなかったのかも(笑)。進路については、3年生の時に電力工学は女性には厳しいと思って、専攻を変えようと決めたわ。この分野は工場や現場に出る事が多いし、女性の先輩も少ない。そう考えて、コンピューターサイエンスがある北京理工大学に進学したわ。



SARSの影響で留学を断念、外資系に就職

Q. 大学院での生活について教えてもらえる?

A. 2000年に理工大で学び始めて、プログラミングやサーチエンジンについての研究をしたわ。JavaやVC++、COBOLなんかを使ったかな。マスターを取ったら留学してもっと研究を続けたいって考えてたわ。アメリカの幾つかの学校からオファーはもらえたのだけど、SARSの影響があってビザがなかなか取れなった。1年待ってビザを取ってからアメリカに行くか、そのまま中国で就職するかということになって、いろいろ悩んだ結果、良いオファーがもらえたこともあってクアルコムという米系の会社に就職することにしたわ。それが2003年のことね。

Q.クアルコムではどんな仕事をしていたの?

A.最初の2年はエンジニアとして、サーバーの管理、特にセキュリティ関連の仕事を担当していたわ。その時の上司はアメリカ人だったけど、仕事はしやすかった。中国企業と比べると、外資系の方が能力重視で成果主義。やることをしっかりやっていれば人間関係もシンプルだし、長く続けられる環境だと思う。実際、クアルコムの同僚には10年以上働いているっていう人がたくさんいたから。
2006年頃に配置転換があって、営業職に移ったわ。その頃には、エンジニアとしての仕事にも飽きてきていて、新しいことにチャレンジしたいっていう気持ちが強くなっていたの。営業部では、携帯電話用のチップセットを華為やハイアール、ハイセンス、レノボといった顧客に売るのが仕事だったわ。



順風満帆に見える人生。そんなNovelが抱える悩みとは?

Q.クアルコムで働いている時に、結婚したんだよね?

A.そうね。入社したのと同じ時期に彼と出会って、ちょうど部署を変わるくらいのタイミングで結婚したわ。結婚して家と車を買って、新婚旅行ではモルディブに行ったわ。

Q.よくそんなお金あったね。

A.車は彼の両親が結婚祝いということで買ってくれて、家はもちろんローンで(笑)。その頃は今と比べると不動産もかなり安くて、5分の1くらいの価格だったかな。私の友達で当時買い損ねた人がいっぱいいるけど、今はもう高すぎてなかなか買えないみたい。

Q.子供ができて、仕事はしばらく休職してたんだよね?

A.そう。出産の前後半年くらい産休を取って、その後元の職場に復帰したわ。2008年には夫が上海のCEIBS(MBA校)に入学したので、私たちも一緒に引っ越ししたの。北京に戻ってきたのは2年後の2010年ね。子供ができてからは、ワークライフバランスをどう取るかということに、ずっと悩んできたわ。

Q.中国は共働きの家庭が多いけど、働く女性のステータスについて何か変化を感じる?

A.昔と比べても、今の女性の方がもっと自分のキャリアにこだわるようになってきていると思う。特に、北京とか上海の大都市に住む女性はそうね。それ自身は良いことだと思うけど、家庭について考えた場合、家族、特に子供と過ごす時間が減ってしまっているのは、良くないことだと思うな。



40歳までは仕事に集中。それから先はもっと家族を大事にしたい

Q.会社を辞めてMBAを選んだわけだけれど、今後のキャリアパスについてはどう考えているの?

A.キャリアパスって言われると、正直、これまで深く考えて来なかった気がする(笑)。クアルコムを辞めて長江商学院に入ったのは、もっと自分の市場価値を上げたいと思ったから。9年も勤めたし、これ以上長くいると、外部の人と比べた時の自分の相対的な価値が下がってしまうと思ったから。例えば、もっとクアルコムで働き続けるとすると、5年後に私はもう40歳でしょ。その時に、もっとステップアップしたい、新しい事にチャレンジしたいと思ったとしても、遅いと思ったの。MBAはキャリアチェンジするためのプラットフォームでしょ。私は卒業したら企画やマーケティングの仕事をやりたいなって思ってる。

Q.学業と子育てを両立させるのは大変なのでは?

A.そうね。大変だけど義理の両親がサポートしてくれているわ。毎朝私が息子を幼稚園に送って行って、夕方に義理の父が迎えに行ってくれているの。平日はなかなか時間が取れないから、週末は私が一緒にいるようにしていわ。サッカークラブに連れて行ったり、それからレゴブロックを使った学習塾があって、そこに毎週末通わせてるの。息子は、私の状況をよく理解してくれていると思うわ。私が忙しいのを知っているから、一緒にいる時はいつも時間を気にしてくれているみたい。

Q.基本的にはこれからもずっと働き続けるんだよね?

A.あと5年くらいは仕事に集中したいって思ってる。それから先は、時間に余裕のある仕事を見つけて家族や自分自身のための時間を増やしたいな。読書が好きだから、小説とか旅行関連の本をたくさん読みたい。とにかくもっとリラックスした生活を送るのが夢かな(笑)。



  
<インタビューを終えて>
 「神仙姉姉」というのは、香港の有名な女優が演じた役から来ている彼女のあだ名です。自己主張の強い中国人クラスメイトの中で彼女の物腰の柔らかさと品の良さは、際立っています。際立っているというか異次元です。オーラです。そんな「神仙姉姉」のインタビューを通じて、中国のキャリアウーマンが抱える悩みと日本女性のそれとの、「共通性」と「違い」について感じ取っていただければと思います。


第4回 長江商学院MBA Deborah(女性)30歳

<プロフィール>
 1983年、天津生まれ。両親は旧鉄道省にて勤務。地元の高校を経て、2001年、北京大学に合格。英文学専攻。卒業後は、赤十字にてインド洋大津波からの災害復興支援に携わる。2011年、長江商学院に教育プログラム開発スタッフとして採用された後、12年からはMBAプログラムに学生として参加している。
 
 
 
 
 

Q. まずは、家族や小さい頃のことについて話してもらえる?

A. 両親は旧鉄道省の天津支部に勤めていたわ。私は一人っ子で内省的な性格だったと思う。もっとオープンで気楽な性格になりたいなって思ったこともあるわ。小さい頃は本を読むのが好きだった。ジャンルはノンフィクションが好きだったわ。スポーツはバドミントンやテニスなんかをしたかな。そんなに特別なエピソードはないの。

 

Q. 勉強は?たくさんした?

A. そうね。というか、それ以外の選択肢がなかったって言う方が正しいかも。私たちの世代は、大学に入るまでは携帯電話もインターネットもほとんどなかったし。外の世界を知る機会も限られていたと思う。

 
 
退屈だった高校時代までの生活。障害者との出会いが人生の転機に

 

Q. 進路についてはどう考えていたの?夢とか、興味のある仕事とかはあった?

A. なかったわ(笑)。学校も親も「あなたの夢は?」なんて聞いてこなかったし、いい仕事に就いて、それなりのお給料がもらえればいいかなっていうくらいの考えだった。将来のプランなんて考えてなかったと思う。

 

Q. 大学は北京大学だよね。専攻は?

A. 英文学。でも好きな作家は中国人で「王小波」という人。

 

Q. 勉強以外に大学で注力したことと言うと?

A. ボランティア活動ね。障害者に対する正しい認識を広めるということを目的に写真展を開くっていう活動があって、それに参加したの。その時の事は今でもよく覚えている。政府の民事局と協同したり、民間のスポンサーを探したり、写真を暗室で現像したり、全部自分たちでやるのよ。北京は他の都市と比べると障害者用の学校が充実していて、地方の親が子供を北京に送って来ていたりするのね。この活動を通じて、実際に障害者ともたくさん会って、そのポジティブな考え方にとっても刺激を受けた。NGO/NPOといった活動に興味を持つようになったのも、これがきっかけ。その後、環境保護のNPO団体を訪ねて内モンゴルまで行ったりもして、ボランティア活動なら情熱を持って取り組めるって気がついたの。

 
 
外資系企業就職の代わりに選んだ道

 

Q. 大学卒業後の進路について教えてもらえる?

A. 大学3年生の時に、フランスの重電機メーカー「ALSTOM」でインターンをしたの。そのまま就職をするっていう道もあったのだけど、代わりに赤十字に入ることに決めたの。理由はシンプルよ。世の中ってピラミッドみたいな構造になっていると思うのね。大部分の人は貧しい底辺部で生活をしていて、ほんの一握りの豊かな人が頂点にいる、そういう形になっている。私は底辺で苦しんでいる人をできるだけ助けたい、そこに自分の情熱を感じるの。だから赤十字に入った。情熱を持って取り組める仕事をした方が効率も上がるでしょ。

 

Q. 赤十字ではどんな仕事を担当したの?

2004年末にスマトラ島沖で発生した津波で多くの国に被害が出たでしょう。その復興支援のためのポジションに応募して採用されたの。当時、世界中からたくさんの義援金が集まっていたのだけど、それを現地政府や各地域のコミュニティと話し合って、適切なプロジェクトに配分する必要があったのね。そういう仕事を担当したり、ロジスティクスの調整をしたりしたわ。

 

Q. 他にはどんなプロジェクトに関わったの?

A. 復興支援プロジェクトを担当した後に、所属する組織が変わったの。それまでは、Red Cross Society China(RCSC:中国紅十字会)という中国の赤十字組織に属していたのだけど、International Committee of the Red Cross(ICRC:赤十字国際委員会)に移籍したの。ICRCでは、国際人道法の遵守を促進させるためのプログラムに参加したわ。具体的には、3つのミッションがあって、1つ目は政府機関への対応。政府関係者を教育したり、共同でセミナーを開催したりする仕事ね。2つ目は雑誌等のメディアを通じた広報活動。英文関連書の翻訳なんかも担当したわ。3つ目は、学会を利用した啓蒙活動。学生向けの模擬法廷を開催したり、教授を呼んで講義を行ったりしたわね。
こうした活動に2~3年携わった後に、また元のRCSCに戻ったわ。

 
 
私の人生はとてもシンプル

 

Q. 赤十字での仕事の次は、長江商学院のスタッフとして働いていたんだよね?

A. そう。赤十字はとても安定していて働きやすい場所だったけど、随分長くいて自分の成長スピードが落ちてきている気がして、新しい事にチャレンジしなきゃって思っていた。長江商学院はEMBAプログラムでは学生にボランティア活動を義務づけていたりして、NGO/NPOとも接点があるでしょ。教育プログラムを開発する職があったから、転職することにしたの。

 

Q. で、そのままMBAプログラムに入学したんだよね?

A. 最初から決めていたわけじゃないのよ。長江商学院で働くうちに、NGO/NPOにも経営の視点が必要だなって思うようになったの。NPOであったとしても、限られたリソースを有効活用できないと活動を続けられないでしょ。それで、もっと勉強したいって思って入学を決めたの。

 

Q. 長江での生活についてはどう感じている?

A. クラスメイトから刺激を受けることが多いわ。とても積極的でポジティブな人が多いと思う。問題があったら、どうやって解決しようかって考えて実行するでしょ。そういうところが好きかな。講義は、ブライアン教授の「ミクロ経済学」がとてもよかった。経済学の考え方って、どんな分野で働くとしても基礎になるものだから。

 

Q. 卒業後の進路はどうするつもり?

A. そうね。短期的にはコンサルティング・ファームで働きたいなって思っているわ。今、プロボノ(※)団体の活動でNGO/NPOの支援をしているのね。アクセンチュアやデロイト、アーンスト・ヤングといったファームがそれぞれの専門スキルでボランティア活動を支援してくれているのだけど、自分もそういうファームで働いて力を付けられたら、将来役立てることができると思うの。
長期的には、NGO/NPO団体でまた働くつもりよ。私の人生はシンプルなの。人を助けること、自分が情熱を持てることをして楽しむ。それを続けるだけ。

※各分野の専門家が、職業上持っている知識・スキルや経験を活かして社会貢献するボランティア活動全般。

 
 
<インタビューを終えて>

 「私はお金とか利益とか全然、興味がないの」。入学当初のパーティーで話していた時のDeborahの言葉です。そこまできっぱり言い切るMBA学生はなかなかいないと思います。普段の物腰はとても柔らかで自己主張も控え目な彼女ですが、課外活動として様々なボランティア活動にクラスメイトを招待してくれています。彼女と話をすると、いつもビジネスに携わる意味や動機といったものについて、考えさせられます。


第5回 長江商学院MBA Gina(女性)28歳

<プロフィール>

 新疆ウイグル自治区、ウルムチ出身。父親は画家、母親は国営企業を経て貿易会社を起業。地元の高校を卒業した後、英国カーディフ大学に留学。3年次には日本の国際基督教大学に交換留学。日本語を中心に1年間、三鷹キャンパスにて勉強。大学卒業後は中国のChina Children and Teenagers Foundation(NPO)にて子供の教育支援活動に従事。その後、中国系IT企業Beyond Softに入社。日本勤務を経験した後、東京にて英国系リード・エクシビジョン・ジャパン社に転職。2011年に帰国し、北京にて両親が興したオークション会社の経営をサポート。
 
 
 
 
 
 
 

Q. 家族について簡単に教えてもらえる?

A. 父は画家。母は元々、国営企業で働きながら貿易会社を興して、カザフスタンとか外国との取引をしていた。母親の仕事がずっと上手くいっていた訳ではないけど、周りの人と比べると豊かな生活を送っていたと思う。

 
Q. 小さい頃は、どんな子供だった?

A. 漫画や本を読んだりするのか好きだったの。父の影響もあったのかも知れない。日本の漫画も好きだったよ。「聖闘士星矢」を観て、ギリシア神話に夢中になったりしてた。歴史モノとか、ファンタジー系が好きだったかな。中国の「十万个为什么」っていう子供向けのシリーズ本も大好きだった。自分でお話を考えて書き溜めたりしてたの。それを自分で考えたとは言わずに「ねぇねぇ、面白いお話があるんだけど」って、友達に話して聞かせたりしてた(笑)。

 
Q. 高校までは地元の学校だよね?

A. そう。両親もそんなに厳しくなかったし、勉強に夢中になるタイプでもなかった。競争してNo.1を目指すより、人と違うユニークな人生を送りたいって思ってた。

 
 
誰とも違う人生が歩みたい

 
Q. 大学はイギリスに留学したんだよね?

A. うん。ウルムチから見たら、北京も上海も大都会で魅力的だし行ってみたかったんだけど、もっと人と違う人生が歩みたくて、海外で勉強しようと思ったの。日本に行きたいって気持ちもあったのだけど、日本語が話せなかったし、英語が得意だったからイギリスに決めたの。ウェールズにあるカーディフ大学という学校で、経営学を専攻したわ。副専攻は日本語にしたのよ。

 
Q. イギリスでの生活はどう感じた?

A. 寮長とか中国人学生会のリーダーとかいろいろチャレンジした。寮生活ではイギリス人の女の子達と一緒だったのだけど、年齢も私が少し上だったしバックグランドも違ったから、なかなか会話に入っていくのが難しかった。みんな好きな人のこととか話してたけど、私は彼氏もいなかったし、ゴシップも何を言っているのかよく分からなかった(笑)。そのせいで落ち込んで、だいぶ悩んでいた時期もあった。

 
 
日本で出会った大切な人

 
Q. 学生時代の想い出と言えば?

A. それは恋よ、恋(笑)。3年次に国際基督教大学との交換留学で日本に行くことができたのだけど、そこで彼氏ができたの。

 
Q. 学校の同級生ってこと?

A. ううん。日本に着いたら、友達はみんなバイトしてたから、私も何かやりたいなって思ったのね。それで、英語や中国語を教えてバイトをしようと思ってウェブサイトで生徒を募集してみたの。それに最初に応募してきた人が、彼氏(笑)。私より8歳年上で、IT会社を起業してた。彼には中国語でなくて、英語を教えてた。最初は全然そんな感じじゃなかったのだけど、3カ月くらいしたら告白されて付き合うことになったの。

 
Q. そうなんだ、じゃあ彼とはイギリスに帰るまでの1年間付き合っていたってこと?

A. ううん。その後も、遠距離で5年間くらい付き合ってた。彼を通して、日本のことも深く理解することができたし、人生に関してもすごく勉強させてもらった気がするの。女性として愛されている実感もすごくあったわ。年は離れていたけど、彼の価値観がすごく私に影響を与えてくれた(笑)。

 
 
海をまたいだ恋、そして就職

 
Q. イギリスに戻って、それから就職はどうしたの?

A. 中国に戻ったわ。イギリス留学時代にOxfamというチャリティ団体に関わっていたこともあって興味があったから、「China Children and Teenagers Foundation」というNPO団体で、子供の教育支援事業をやることにしたの。ただ、入ってみると中国のNPOは政府機関に組み込まれているようなところがあってイメージと違ったから、3か月で辞めたわ。次の会社は、Beyond Softという中国のIT企業。対日事業部という部門に配属されて、すぐに日本への転勤が決まったの。すごくラッキーだったと思う。お客さんがソニーだったから、木更津の工場に行って食堂でご飯を食べたりした。ラーメンがすごく美味しかったのを覚えてる(笑)。仕事は、ソフトウェアの品質管理を担当してたわ。

 
Q. 彼氏とも、もちろん再会できたんだよね?

A. うん。再会というより、彼はずっと待っていてくれた。仕事については、ソニー向けのプロジェクトが終わってから、所属していた部門そのものがなくなってしまったこともあって、新しい会社を探すことになった。幸い、間もなくリード・エグジビション・ジャパン社に採用してもらえたわ。

 
Q. 新しい会社での仕事は?

A. 国際見本市の開催というビジネスをやっている企業。社風もよくて素晴らしい会社だった。入社して間もなく、大きな仕事を任せてくれて海外出張や見本市での英語のMCをやらせてもらった。すごく楽しかった。社員はほとんど日本人だったけど、あまり日本的でないというか、自由な会社でとても好きだった。結局、この会社には2年間勤めて、メディア・リレーションや広告予算の管理などを担当した。

 
 
悩んだ末の帰国、中国で直面した現実

 
Q. その後、中国に戻って長江商学院に入学したんだっけ?

A. ううん。2011年に中国に戻ってきたのだけど、当時、母親の体調が悪くて手術を受けることになったのね。長く別々に暮らしていてすごい心配だったし、両親はその時、オークション会社を経営していてから、私が手伝わなきゃって思ったの。それで中国に戻ることに決めた。
母親の近くにいてあげられたのは良かったのだけど、仕事は・・・・・・めちゃめちゃ大変だった。つらかった。私は中国での仕事経験が少なくて、お客さんとどうやって付き合えばよいのか感覚が掴めなかったし、政府との関係も複雑で難しかった。日本人との付き合いの方が、むしろ楽なくらいだったわ。従業員からしても、いきなり社長、つまり父親の娘が管理職として入社して、よく思っていない人もいたのね。私も業務が分からないからうまく指示を出せないこともあって、その頃は、自分の能力に自信を無くしちゃってた。さらに、社内のいざこざで退職してしまう社員もいたりして、本当にショックだった。彼氏と別れたのもその頃ね。仕事にかかりきりで連絡も途切れがちだったし、両親のことを考えると日本に戻ることも考えられなかったから、私から別れようって切り出したの。ただ、彼との出会いには本当に感謝しているわ。

 
Q. 中国でMBAを取ろうと思った理由は?

A. 両親の仕事を手伝っている時の経験から、もっと中国のビジネスを理解しなきゃダメだって思ったの。ビジネスセンスを磨いたり、もっとネットワークを広げたいなって。友達もたくさんできて楽しんでるわ。

 
Q. 卒業後のキャリアはどう考えている?

A. 両親の仕事は落ち着いてきたから、また教育関係の仕事をやりたいなって思ってる。最近、北京外国語大学のインターンに採用されて、10代の子供向け英語教育プログラムの開発を任されているの。政府関係者向けのワークショップもあって、今度講師をやるのよ。今から楽しみ。もちろん、将来的には日本に関わるビジネスもやりたいわ。

 
 
今も心の中に響く言葉

 
Q. 漫画もまだ続けているんだよね?

A. うん、まだ描いてる。実はアシスタントを2人雇って手伝ってもらってるの。プロになれるとは思わないけどね(笑)。別れた彼氏がね、勉強以外で私に最初に聞いた質問が「あなたの夢は何ですか?」っていうものなの。それまでそんな事聞かれたことなかったから、びっくりしちゃって、うまく答えられなかったけど、その質問が今でも私の心の中で響いている。
「特別でOnly 1の存在」になりたくて世界に歩き出した私。いろいろ国で生活をして、大切な人に出会って、お友達を作って、大変な時もあったけど、楽しいこともたくさん経験した。まだ「特別でOnly 1の存在」になれたとは言えないけど、好きな人と一緒にいて、好きなことを一生懸命やる豊かな人生を送れていると思う。これからも仕事はもちろん、漫画や小説など子供時代から夢中になっていることを、ずっとやり続けたいなって思ってるの。この先の人生もとても楽しみ。

 
 
<インタビューを終えて>

 中国に来て戸惑うことばかりだった最初の頃、クラスで席が隣だったのがGinaでした。彼女から「私も日本での生活が長かったから、まだ北京に慣れないところがあるよ」と言われ、中国人でもそうなのかと安心したことを覚えています。そんなGinaのインタビューはひたすら恋バナでした。
中国の中でもウルムチという辺境で育ち、大学生活以降は日中英を股にかけて生活し、三か国語を流暢につかいこなす彼女。そんなGinaを見ていると、「中国人」という言葉の意味の多様性と広がりについて考えさせられます。ちなみに、チラ見させてもらった漫画のスケッチは、とても上手でした。いつか完成版を読んでみたいです!


第6回 長江商学院MBA Kevin(男性)34歳

<プロフィール>
 台湾の高雄出身。父親は海運会社の商船船長。母親は中学校の生物学教師。妹が1人。高雄高等学校卒業後、国立交通大学に進学しコンピューターサイエンスを専攻。同大学にて修士号を取得した後、兵役を経てITRI(台湾工業技術院)に就職。2012年にてMBA取得を目指し、長江商学院に入学。2008年に結婚し、現在は2児の父。
 
 
 
 

Q.子供時代の生活や教育について教えてもらえる?

A.母親は教師だったから、厳しかった記憶があるな。よく勉強したし、成績もずっと良かったね。小学校のカリキュラムにBASIC言語を使ったプログラミングの授業があって、それ以来、それがずっと好きになったね。

 

Q.中学校や高校時代はどのように過ごしたの?

A.基本的に勉強ばっかりだね。スポーツにも興味なかった。父親はよく僕に株の話をしていたから、そのせいもあって、中高からビジネスに興味を持つようになった。

 

Q.大学生活を紹介してもらえる?

A.大学では、コンピューターサイエンスを専攻したんだ。ソフトウェアも勉強したけど、他にも電気工学的なことも学んだ。仲のいい同級生に誘われて手話サークルに入ったりしたね。積極的な興味があった訳じゃなかったから、実質的にはユーレイ部員だったね(笑)とにかく、たくさん単位を取ったね。成績も良かった。おかげでマスターに進む時は、テスト免除だった。
 
 

学生時代に独立して開発案件を受注

 

Q.バイトとかはしてた?

A.やってたよ。博士課程にいた先輩に誘われて、ベンチャー企業でのバイトを始めた。最初はプログラミングの仕事だったんだけど、あんまり給料がよくなかった。その後、同じ会社のプロジェクトでプログラミングに関しての本を出版することになって、先輩と一緒に共同執筆者としてチームに加わることになった。今思えば、大した金額じゃないけど、当時としてけっこうなお金を稼いでたね。

 

Q.学生で本を出すなんですごいね。

A.そんなに大したもんじゃないよ。でも、本を出したお蔭でいろいろな開発案件の相談が持ち込まれるようになったんだ。それで、これはチャンスだと思って、自分でSOHOを構えて案件を直接受注することにした。僕が案件調整をして、それを知り合いの開発者に投げるというビジネスだね。とにかく忙しくて、顧客との折衝も大変だったけど、プロジェクトマネージメントの良い勉強になったね。それから、プログラムの価値っていうのは、それに掛かる工数とか難易度ではなくて、顧客のビジネスにどれだけそれが役立つかっていうことだと気が付いたのが大きいかな。単純な開発案件でも、顧客が儲けられる機能を提供できれば、高く売れることができたね。
  
  
 
兵役がきっかけで出会った会社とは
 
 

Q.修士課程卒業後は兵役があったんだよね?

A.そう。ただ僕の場合は、兵役と言ってもエンジニア枠だったから、ハードな訓練はなかったよ。ITRI(台湾工業技術院)に派遣されて、そこでソフトウェアの開発をやっていた。ITRIというのは、独立行政法人みたいな組織で、最先端の研究を通して台湾企業のイノベーションを支援しているんだ。日本企業とも取引があるから、けっこう知っている人もいると思うよ。兵役終了後は、そのままITRIに残って就職したんだ。

 

Q.仕事内容について教えてもらえる?

A.僕がいた部署では、Wifiを使ったポジショニングシステムを開発していた。位置情報っていうとGPSが有名だけど、Wifiポイントを使って利用端末の位置を特定するこも可能なんだ。特に屋内とか都市部ではWifiを利用した方が精度がよかったりするよ。セールスした顧客は、ソフトウェア開発者やヘルスケア関連の会社だね。例えば、ケアが必要なお年寄りの位置を把握するために利用するとかね。僕はこの開発チームでプロジェクトマネージングやプリ・セールスを担当したよ。

 

Q.その間に結婚もしているよね?

A.うん。社内恋愛だね。部署は違って、彼女は海外の半導体会社を担当するセールス部門にいたんだけど、友人の紹介がきっかけで付き合うようになったんだ。2008年に結婚して、今は子供が二人いるよ。妻は今でもITRIに勤めているよ。

 
 
 
そして北京へ

  

Q.中国に来た理由は?

A.台湾にとって中国はどんどん重要になってきているから、中国に来てこっちで何が起きているのか自分の目で確かめてみたいと思ったんだ。僕の台湾の友人でも中国で働いている人はいっぱいいるよ。中国に進出している台湾企業も多いし、自分で起業した友人もいる。僕は、将来は中国と台湾の架け橋になるような仕事をしたいと思っているんだ。
 
 
 
 
<インタビューを終えて>

 短いインタビュー記事ではなかなか伝えきれないですが、ケビンはとっても温厚で面倒見のいい友人です。一緒に出掛けると、よく「実はここのレストランは台湾資本」「このモールも台湾系のディベロッパー」「このドリンクブランドも台湾の会社」みたいなことを教えてくれます。日本の商品や文化に対する関心も高く、先日一緒に北京の「さぼてん」に行ってきました。すると得意そうに「北京の「さぼてん」は台湾の会社との合弁。さっき話してきたマネージャーも台湾人だよ」と笑っていました。そんな彼を通して、中国と台湾そして日本の結びつきの強さに気付かされることが多いです。今回のインタビューでは、ケビンの若かりし頃の(今でも若いですが)ベンチャースピリットが垣間見れて、個人的にも興味深かったです。