青島で女子的人生探し 第3回

2016年11月25日 / 青島で女子的人生探し

”先生”と呼びたいひとに、出会えた幸せ

《予謂へらく、菊は花の隠逸なる者なり。
 牡丹は花の富貴なる者なり。
 蓮は花の君子なる者なりと。》

王先生の声はほんの少しだけかすれていて、低く、心地よく小さな教室に響く。
王先生は、私の高校時代の先生達を思い出させる、肩の力の抜けた情熱を持つ教師だ。もともとは中国文学研究が専門で、いまは大学の中国語学科の主任として外国人にも中国語を教える。ドイツで教鞭を執った経験もあり、そのせいか、外国人学生に対して稀にみる理解と寛容を感じる。大学を卒業して既に数年、久しぶりに本当に”先生”と呼びたくなる先生に出会った。



大学校舎と木蓮の花

王先生の授業は、随筆、物語など様々な文章の読解を含む。中国の庭園がどのような作りになっているか、中国の有名な文学者が書いた自分の父親に対する記憶、北京大学の学長が自分の家の庭で育てる蓮の花のお話、ある役者の子供時代… 必ずしも全てが外国人にとって興味を持てる内容ではないのは彼女自身百も承知だ。しかし、彼女が読めば、彼女が教えれば、どんなに味気なく見えた文章も、とても活き活きと中国文化を語ってくれる。

先生は、とても感情を込めて教科書を読む。どこで区切っていいかもわからないような漢字の羅列も、先生の声にかかればまるで情景が浮かんでくるようだ。単語や熟語の意味を説明しながら、教科書を中断して学生たちに自らの話をさせる。文章の文化的背景の説明は、先生の授業の真骨頂だ。古代から近現代まで、中国の歴史や社会的背景、中国人の文化と習慣、考え方、言語の発展…先生が語ると、中国という国はなんと豊かで美しいことか。

《予独り蓮の泥より出でて染まらず、清漣に濯(あら)はれて妖ならず、
 中通じ外直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、
 亭亭として浄(きよ)く植(た)ち、
 遠観すべくして褻翫(せつがん)すべからざるを愛す。》

宋代の学者、周敦颐が残した、蓮の花の高潔さを語る詩。王先生にぴたりと当てはまる、美しい漢詩だ。文化大革命や中国の高度成長期を経験し、中国の伝統文化にある意味「縛られ」ながら、中国文学と伝統を愛し、しかし中華思想に踊らず、地に足の着いた誇りを胸に秘める女性に映る。



青島には、海とビールに惹かれて外国人留学生がやってくる

外国人学生が中国を批判することがある。例えば、中国人の女性が色白にこだわるのはとても理解に苦しむ、と。 先生はにこにこしながら応える。

「うん、あなたもそう思うのね。西洋人は特に、そう思うみたいね。でも実は私も、夏は日傘をさして歩くの。白い肌が一概に美しいとは思わないけれど、日に焼けた後の私はなぜか本当に不細工なのよ」

ある学生がまた言う。中国の教育は偏っている、学生はもっと自由な思想を身につけるべきだ、と。 先生はまたにこにこしながら応える。

「中国の教育は、確かに欧米のように自由に学生を育てる環境はまだ整っていない。共産党による制限もないとは言えないし、試験対策も恋愛禁止も確かにとても極端な部分がある。それでも、昔と比べたらやっぱり変化してきているのよ」

先生は少しずつ、彼女が学生だった頃を語り始める。小学生の頃、学校の先生がどれほど尊敬と恐れの対象であったか、中学校に入り、一番初めに学んだ英語の一文が「毛主席万歳」だったという笑い話、中国の四代小説のひとつ、『紅楼夢』にハマった高校時代、初めて恋をした大学時代、子供ができた頃の話…
子供には男子を望む文化がまだまだ色濃い時代、先生は娘を産んでとても喜んだが、特に義理の父親はなかなか受け入れられず、女子と分かったあとしばらく連絡をくれなかったという。

「私もそのときばかりはとっても怒ってね、それなら一生孫の顔を見に来なくてもいい、なんて突っぱねたのよ」

先生の意外に強硬な態度に少し面食らう。

どんな学生の意見も、頭から否定することはしない。中国を批判されても怒ることもしない。逆に、新しい見方、外国人の面白い角度からの分析は大好きだ。苛立ちもせず、焦ることも凹むこともなく、静かに先生自身の経験と意見を語ってくれる、真っ直ぐで強い王先生だからこそ、学生たちも躊躇わなくていいと思える。教室には、ある種の安心と信頼が満ちる。

あるとき、王先生に呼ばれた。なんのことかと驚いて行ってみると、中国語コンテストに出ないかと言う。あがり症の自分が、小さいとはいえ舞台に立つのはとても気が引けた。あれこれ理由をつけてゴネそうな私を王先生は微笑みながら諭す。

「たとえ予選で落ちてしまっても、あなたにとってとても良い経験になるはず。Peterにも声をかけようと思っているの」

Peterは同じクラスのドイツ人で、中国語の流暢さもさることながら、理系の修士を出ただけあると思わせる現実的な考え方、理論的な話し方で一目置かれている学生だった。

言語を学ぶということは、意外と発音と文法だけの問題ではないものだ。語学の授業では、言語を使うために、様々な話題を議論する場面が多くある。気づかぬうちに学生の考え方や性格が見え隠れし、話の組み立て方、論理性が試される。口では言わないが、王先生がPeterのその点をとても気に入っていることを、私は感じていた。

後から考えると、結局、私がコンテストへの出場を決めたのは、王先生がPeterと同じくらいに自分を評価してくれていることがとてもとても嬉しかったからだったと思う。

大学は既に夏休みに入ってしまった。私も数日で帰国を迎える。王先生の授業も、きっともう二度と受けることはないだろう。昔好きなひとの連絡先をこっそり保存しながらなかなか連絡できなかったように、先生のメールアドレスを書き留めてあるのは、ひとつ後悔していることがあるからだ。
あなたの授業が大好きでしたと、私は未だに言えていない。


TamuraNagisa

投稿者について

TamuraNagisa: 1990年東京生まれ、埼玉育ち。 筑波大付属高校、早稲田大学を経て某総合商社入社。 大学時代に台湾へ半年間交換留学、入社後は社費留学でさらに半年青島へ。日本人にとって近くて遠い中華圏の、謎と魅力を理解しようと格闘中。