第5回 村人が、体をはった-周辺地域の変化



(写真)方紹平―広東省潮州市リンホウ村
 

活動を続けていくと、学生キャンパーたちの力とハンセン病快復者自身の力とが掛け合わさり、メディアの影響力なども利用しながら、周辺地域に変化が起こっていく。

2003年4月14日付の『潮州日報』に広東省潮州市リンホウ村についての記事が載った。『愛に国境はない』という見出しで大きく取り上げられている。写真はカラーだ。2002年11月にリンホウ村キャンプでパーティーを開いたときの写真で、蘇文秀村長と方紹平、日中の学生キャンパーたちが写っている。
この新聞をリンホウの村人・方紹平に見せる。

「ここ、ここ!方さんが写真に写ってますよ!」

彼は金歯を剥き出しにして短く笑うと筆談を始める。2003年3月には潮州の地元テレビ局がリンホウ村を取材し、方紹平がインタビューを受ける映像が潮州市に流れたことに触れ、彼はこう書く、

「家族はおれがテレビに出たことを快く思っていないんだ」。

書き終えると口を大きく開けて笑う。

方紹平は時々、帰省する。このテレビニュースが流れる以前、実家の近所の人たちは彼のハンセン病のことは知らなかった。方紹平はハンセン病が再発した1984年、仕事を変えたことにしてリンホウに来たからだ。ハンセン病差別を受けないためにはそうせざるを得なかった。
それならば、なぜインタビューを受けたのか。全市内に放送されることは明らかだったはずだ。

「そうだな。だが、おまえさん方、日本の大学生のことを報道するからには、村人のインタビューが必要だろ。本来なら拒否するところだ」。

方紹平はそう書くと高いダミ声で笑う。このニュース番組では、顔はもちろんのこと、名前まで出たという。

「インタビューのときに居合わせた村人は皆、『流暢に話したな』と誉めてくれたんじだが、家族は不名誉なことだと言っているんだ」。

金歯を光らせて笑う方紹平。現在、このことは家族との間で大きな問題にはなっていないという。以後、マスコミに顔を出さないと家族に約束したからだ。ところが、新聞に彼の写真が載ってしまった。方紹平には写真掲載の許可を得ずにだ。家族との仲が険悪になるのではないか。

「それはそうだ。嬉しいことではない。だが、顔を出すべき時は、おれは出すぞ。家族の反対には負けん」。

彼は、ハンセン病への偏見を減らしていくためには体を張るという。なぜそこまでする気になったのか。

「おまえさん方がリンホウに3回来て以後、おれは物事の大局を見るようになったんだ」。



(写真)何纪文―広西壮族自治区崇左市龍州県ロンガン村
 

2007年1月、JIAは広西壮族自治区崇左市龍州県ロンガン村でワークキャンプを始める。キャンプ中、村人の何紀文はフィルムで現像するタイプのカメラを購入し、学生キャンパーたちが快復村で働く姿や、快復者である村人たちと話したり、食事したりする様子を撮影し始める。キャンパーたちは何紀文が写真を撮るのをみて不思議に思う。これまで、キャンパーが村人の写真を撮る姿は当然のことながら何度も見てきた。しかし、村人が学生の写真を撮るのは初めて見ることだ。あるキャンパーが尋ねると、何紀文はこう語る、

「おれたちは外の人間にこれまでずっと差別されてきた。しかし、今、こうやって外から来た大学生がハンセン病快復村に住み込み、快復者と生活を共にしながら活動している。是非とも外の人々にこのことを知ってもらい、ハンセン病に対する誤った見方を改めてもらいたい」。

何紀文、撮りためた写真を町で現像して紙に張ってパネルをつくり、自らハンセン病啓発活動を行い始める。

このように、村人自身が時に体をはりながら行われる報道や啓発活動によって周辺地域が徐々に変わっていく。このような取り組みによって村の存在を知った地元の慈善団体や企業が米や油、ふとんや蚊帳、幾ばくかの資金などを村に届けてくれることがある。中にはそういった支援活動を定期的・継続的に行ってくれる団体もある。

こういったいわゆる「与える型」の「慈善活動」は快復村にとって物資面での支えとなる。ワークキャンプでは村人に直接物資面での支援を行わない。なぜなら、このような物資による支援活動は「与える側」と「受ける側」にはっきりと分かれてしまい、村人と僕らとの間の関係に微妙な変化をもたらすからだ。村人は次第に物資を持ってくることを期待するようになるかもしれない。そうなってしまったとき、僕らの活動が目指す、相互に影響し、相互に成長し合う、対等・平等な関係が失われてしまう恐れがある。とはいっても、物資が必要なのは当然のことだ。ある慈善団体のメンバーは僕がする上記のような話に耳を傾け、こう言う、

「それなら私たちの団体とあなたたちJIAとは補完関係にあると言えるかもね。私たちは村に泊まって村人と関係を築くことはできないけれど、ものを持ってくることはできる。あなたたちはものは持ってこられないけれど、村に泊まり込むことができる」。

こうして、「隔離村」には日中の学生だけでなく、地元のメディアや慈善団体、企業などが訪れるようになる。人々の間から徐々にハンセン病への誤解や恐れが減っていく。その影響は次第に地元の病院や政府に至る。

ハンセン病快復村はかつてのハンセン病隔離病院だが、現在医療的な機能はほとんどない。薬を保管する小さな部屋があるくらいで、その管理はハンセン病快復者の村人自身が行っている。大きな病気をすれば町の病院に行かなければならない。ところが、病院はハンセン病快復者であることを知ると、診察してくれないことがある。診察してくれたとしても、あからさまに差別的な態度を取る。そのため、村人たちは快復村の外の病院に行きたがらない。



(写真)大学生が付き添って村人が町の病院に行った
 

しかし、活動によって地域の状況は変わってきた。そのことは村人自身が分かり始めている。その上、地元の大学生であるキャンパーが村人の通院に付き添ってくれる。「大学生同伴」であれば村人にとってこれほど心強いことはない。医師の診察に立ち会い、入院が必要であれば交代で見舞いにも来てくれる。不思議な話だが、医療関係者にとっても、それは「安心要素」になるようだ。医師は安心してハンセン病快復者を診察してくれる。

このように、村人とキャンパーとが体当たりで活動することで、ハンセン病快復村の存在が地域に広い範囲で知られていく。すると、ハンセン病快復村を管轄している政府部門も、村のことを放っておくわけにはいかなくなる。最低水準だった生活保護の額を引き上げ、生活環境の整備をワークキャンプだけに任せておくのではなく、政府自らも行う。快復村を訪れることはほとんどなかった政府部門の医師や看護師を村に定期的に派遣し、村人の健康状態を見守るようにする。

こうして、数十年に渡る差別が、終わることがないかに思えた差別が、ワークキャンプ開始後、徐々に解消され始める。広西の快復者・何紀文は次のような詩をつくった:

「百事無惧 唯恐無家」(恐れることはもはや何もないが、ただJIAがなくなることのみを恐れる)


Ryotarou Harada

投稿者について

Ryotarou Harada: NPO「家-JIA-」創設者。 1978年生まれ、2002年2月広東清遠楊坑村ワークキャンプに初参加。2003年早稲田大学政治経済学部卒業。快復村に卒業直後の2003年4月から1年半住み込み、2004年に日中韓の発起人6名でJIA創設、事務局長就任(2004年~2015年)