第4回 ハンセン病元隔離村を開く ―差別をいかになくすか



(写真)30年ぶりに町並みを眺める村人
 

差別しない人間がいるなんて、夢にも想わなかった

とはいっても、当然ながら、最初から「人と人とのツナガリ」があるわけではない。
初めてやってきた日本人ボランティアを見て、村人たち(ハンセン病快復者)は思った、

「こいつらには何か裏の目的があるはずだ」。

1年半の間、そう思い続けたと後に話してくれた村人もいる。
ハンセン病にかかって以来、外の人間は基本的にすべて差別者だった。何の見返りもなしに村に来るはずがない、と。
しかも、僕らは日本人だ。僕らが活動するほとんどすべての地域で、日本軍の影響が見られる。村人にとって日本人は即、かつての日本軍だ。肉親を殺された人たちもたくさんいる。
その日本人が、また来た、のだ。

「昔はあの山に日本軍がいてな」。

日本人だとわかるとたいてい、この地域の人は山を指差しながらそう言う。
ただ、今回の日本人はちがっていた。中国の人々を殺しにきたのではなく、村にトイレをつくっている。

「おれたちハンセン病快復者を差別しない人間がいるなんて。おれたちと飲んだり食べたりするなんて。そんなこと、夢にも想わなかった」。

驚いたのはハンセン病快復者だけではなかった。
ワークキャンプ中、ボランティアたちはハンセン病快復村の村人のバイクの後ろに載せてもらって、市場へ買い出しにでかける。日本人の女の子と手をつないで歩くハンセン病快復者を、市場の人々は身を乗り出して見つめる。この日以来、市場でのハンセン病差別は劇的になくなった。むしろ、快復者が買い物に来ると、市場の人たちは彼を引き止め、「日本人」について様々な質問を浴びせる。

快復村周辺地域の子供たちは、日本人を見物するため、普段は寄り付かないハンセン病快復村にやってきた。次第に日本人と仲良くなっていく。夕方になっても帰ってこない子供たちを心配し、その親が快復村にやってくる。すると、そこで目にするのは、日本人ボランティアや自分たちの子供たちがハンセン病快復者と話したり、お茶を飲んだりしている姿だ。

「あんたたち、ハンセン病になるのが怖くないの!?」

「皆さんの病気はもう治っていますから」。

「治っているって、あの曲がった指を見なさいよ」。

「あれは後遺症なんです」。

こうして、周辺地域の人々の間にハンセン病への理解が進んでいく。
ハンセン病啓発のちらしを何万枚撒くよりも、「客寄せパンダ」としての日本人の行動ひとつの力は大きい。
いつしか、町で日本人だとバレると、こう言われるようになった、

「あの、ハンセン病村で活動している日本人だろう」。

村人が「自分自身への差別」を徐々に解消

こうして、ワークキャンプを開催し続けると、周辺地域からあからさまな差別はなくなっていく。
その一方で、村人たちは、「自分自身への差別」を拭い去ることが難しいようだ。
リンホウ村でワークキャンプを初めて開催して以来、1年が経ち、キャンプ開催回数は3回になった頃、僕はリンホウ村の人々に、市内一日観光に行こうと提案する。村人たちは口々に言う、

「バスに乗れない」

「差別の目で見られる」

「レストランで食事ができない」

しかし、僕は見たことがある。ハンセン病とは無関係だが、片目のない人が、指のない人が、義足で松葉杖の人が、外の世界で普通に暮らしているのを。僕が観察する限り、その人たちのことを嫌な目で見る人に出あったことがない。中国では「人とちがうこと」が直接排除へとつながるわけではないようだ。少なくとも、日本よりは。

まして、僕の提案する市内観光は、地元のキャンパー(キャンプ参加者のボランティア)と一緒に行くものだ。さらに、チャーターするバスの運転手は、活動初期にこそ「リンホウ村」と聞くと嫌そうな顔をしたり、運賃をぼったくったりしたが、今では村でお茶を飲んでいく人だ。
そう説明しても、村人たちは「いかない」を繰り返す。

その後、僕の執拗な説得に折れた村人たち6名は市内観光に出かける。30年ぶりに見る街の変化に何とも言えない表情を見せる村人もいた。
指のない村人は始め、ポケットから手を出そうとはしない。が、次第に、周りの人たちは自分たちのことを特に気にしていないことに気づき始め、そもそもポケットに手を入れたままでは不便なので、いつの間にか、ポケットに手を入れることは忘れてしまった。中国では、若者が老人と歩いていると、基本的に皆、普段以上に優しくしてくれる。席を譲ってくれたり、先に通してくれたり、微笑みかけてくれたり。そんなちょっとした優しさに村人も癒やされていく。憧れの開元寺にも行くことができ、村人はみんな大満足で村に戻る。

彼らがハンセン病を病んだことを知っている実家の近所では、同じようには行かないかもしれない。それにしても、村人たちは、「差別しない人」がキャンパーだけではなく、街にもいることを知った。
海南省のある村人は語った、

「キャンパーと手をつないで市場から帰ってくるとき、ふと、初めて、自分に尊厳を感じた」。

広東省のべつの快復村の村人は語った、

「村の近所の健常者が言ったんだ、『大学生がハンセン病村に泊まるくらいだ。おれがおまえらを恐る必要があるか?』と」。
こんなちょっとした出来事の積み重ねが、徐々に村人の「自分自身への差別」を減らしていく。

「私は人間じゃないから」。

リンホウ村の蔡玩卿はかつてそう語り、僕以外の外の人間とは、キャンパーであっても食事を共にしようとしなかった。それでも、活動の度に誰かしらが蔡玩卿と仲良くなり、一緒に写真を撮って、それを蔡玩卿のうちの壁に飾る。あるとき、滅多に来ない蔡玩卿の姪が村に来て彼女の部屋に入り、驚いた。これほどたくさんの写真が貼ってある。日中の若い学生たちと彼女が一緒に写っている写真だ。リンホウ村にはトイレもできた。家も新しくなった。道路も舗装されている。村人たちには「またあいたい人」「また必ずあいに来る人」ができ、表情にも張りが出てきた。

家族は、以前に比べれば来やすくなったと語る。



(写真)村にやってきた周辺地域の子供たち
 



(写真)村人たちはどんどん開放的になっていく
 


第3回 「ワークキャンプ」が生み出す人と人とのツナガリ



(写真)村のニーズに応じて、ボランティアが1-2週間村に住み込んで活動する
 

ワークキャンプの起源

そのような中国のハンセン病快復村にて、僕らは「ワークキャンプ」と呼ばれる活動を行っている。

ワークキャンプは1920年、スイス人ピエール=セレゾールによって提唱される。良心的兵役拒否者であったセレゾールは第一次世界大戦後、「真の和解は議論によってではなく、無償の労働によって果たされる」という信念のもと、史上初のワークキャンプをフランスのヴェルダンで開催する。

ヴェルダンは第一次世界大戦中、ドイツ軍によって徹底的に破壊されたフランス北部の町だ。セレゾールはそのヴェルダンの再建を行うワークキャンプの開催を決め、ヨーロッパ中から参加者を募る。参加希望者の中にはドイツ人の若者も含まれていた。

ヴェルダンの人々はワークキャンプ参加者にドイツ人を見つけると、石を投げつけて罵る。しかし、それでもヴェルダンの再建のために黙々と働くドイツ人青年を見、ヴェルダンの人々は次第に、彼らを「ドイツ人」という集団として見るのではなく、「◯◯さん」という個人として接するようになる。

このように、ワークキャンプには、インフラ整備としての意味だけではなく、「集団と集団」の関係を徐々に越えて「個人と個人」の関係を築く力がある。一群の人々を集団としてくくると、人間は残虐な行為に及ぶことがある。しかし、その集団の中にいるひとり一人の顔が見える場合、そして、その人と個人的な関係を結んでいる場合、状況は変わってくるだろう。セレゾールはこのワークキャンプの力に、平和な世界をつくる糸口を見る。

この活動はアメリカを経由して第二次大戦後、日本に伝わる。アメリカ人が広島で家屋や集会所を再建するワークキャンプを行っていた。「鬼畜米英」と罵っていた国の人々が日本のために活動する姿に打たれ、日本人は活動に参加し始め、1953年にはワークキャンプ団体を日本に設立し、活動を根づけていく。1960年代になると、奈良での「交流の家建設運動」(http://leprosy.jp/people/plus03/)以後、ハンセン病を活動のテーマとする。1970年代になると日本人が韓国のハンセン病定着村にもたらし、韓国人も参加するようになり、韓国にワークキャンプ団体が設立される。そして、2001年、日本人と韓国人が中国のハンセン病快復村に活動をもたらした。

自発意志という意味での「ボランティア」

このワークキャンプという活動は、「ボランティア活動」のひとつだ。日本語の「ボランティア」という語には様々なイメージがついているが、ここでは英語の“Volunteer”の意味で使う。“Volunteer”はもともとは「志願兵」を指す。国家などの巨大な権力によって強制的に徴兵された兵士ではなく、自らの意志で志願した兵士だ。つまり、ワークキャンプに参加する人々は誰からも強制されたのではなく、自らの意志で活動への参加を決めている。自発意志で参加するのであれば、国籍、宗教、思想、性別、年齢、障害の有無などの背景は一切問われない。

ちなみに、ワークキャンプでは活動参加費用も自分で負担する。活動地までの交通費、期間中の食費、生活費はすべて手弁当であり、手当は一切出ない。その分だけ、自主的に活動に参加しようという意欲が高まる。また、誰からの援助も受けていないので、援助者の意向を気にする必要はなく、活動の方向性や内容を自ら考え、決定することができる。

現場に住み込む

また、ワークキャンプでは、活動参加者は社会問題に直面しているその現場に住み込む。スマホによって社会問題について調べるだけではない。活動地の最寄りのホテルから現場に通うのではない。現場に住み込んで、現地の人々と生活を共にし、話したり、触れたり、嗅いだり、味わい、笑い、怒り、泣きと、自らの五感を使って直接体感していく。

そこで、ワークキャンプを準備する「ボランティア」たちは、活動準備の第一段階としてまずハンセン病快復村を訪れ、村のニーズの下見調査をする。そこでハンセン病快復者たちの生活を見、また話し合ってプロジェクトを共に決定する。そして、プロジェクトの必要期間に合わせて、ワークキャンプ本番では1-3週間村に住み込む。村の空き部屋を宿舎とし、村の台所やかまどを使い、市場で買い出ししてきた食材を大釜で料理し、快復者と共に食べ、飲み、寝る。その間はスマホやパソコンを離れ、原始的な生活を村人と共に送る。

ワークキャンプで生まれる人と人とのツナガリ

中国のハンセン病快復村でのワークキャンプは、主にインフラ整備を行ってきた。それぞれのハンセン病快復村のニーズに合わせ、トイレを建て、水道を引き、家屋を建て替え、道路を舗装する。

しかし、ただトイレを建てることが目的であれば、素人の学生ボランティアたち20名、30名が快復村に泊まり込み、建設業者1-2名の指導のもとに建設を行う必要はない。そもそも、ボランティアたちの交通費や食費、生活費などを寄付に当て、プロの業者が立派なトイレを建設すればよい。なぜ、あえて、ワークキャンプという方法を採るのか。

広東省潮州市の快復村でトイレ建設のプロジェクトを無事終えた僕は、それを村人の蔡玩卿(第二回参照)に報告し、どう思うかを訊いてみた。蔡玩卿はこう答える、

「確かにトイレがあれば便利ね。でもね、私はね、これでもいいの」。

そう言って蔡玩卿は自分の座っている木のベッドの下を示す。そこにはバケツがおいてある。

「トイレよりも大切なこと、私にとって嬉しいことはね、おまえさんがここにいることなんだよ」。

蔡玩卿はこのころ、ほとんど眼が見えず、その後全盲となった。キャンプの初日、初めてあったときは、薄暗い部屋で爆音でラジオを聴いていた。僕の存在に気づくと怯えるように後ろを向いた。しかし、毎朝水くみを手伝いながら彼女の家を訪ねると、徐々にあいさつをかわすようになり、爆音のラジオを止めてくれるようになり、タバコをくれるようになり、お茶を飲ませてくれるようになる。覚えたての潮州語を僕が少し話すと、腹の底から笑ってくれるようになる。

彼女を訪ねて部屋をのぞくと、背筋をピッと伸ばしてタバコの煙をくゆらす姿があった。そのたたずまいからは、どこか高貴な、気高さを感じた。

ワークキャンプにおける共同生活・共同作業を通し、そんな関係が生まれていく。それは、快復者に物資を届けて集合写真を撮ったら即帰るような活動では味わうことができない。集団と集団の関係ではなく、支援者と弱者という関係ではなく、健常者と病者という関係ではなく、「蔡玩卿と原田燎太郎」という関係ができる。

そこに、ハンセン病差別は存在しない。



(写真)ワークキャンプで生まれる人と人とのツナガリ
 


第2回 ハンセン病 – 生きざまの現れる病気



(写真)広東省清遠市のハンセン病快復者・欧鏡釗。やさしさと強さがにじみ出る。
 

生きる場所は選べなかったが、生き方は選べた人たち

JIAの活動が対象としている「ハンセン病」という病気そのものを身近に感じる人はあまりいないかも知れない。しかし、ハンセン病と歩んだその人の「生きざま」に焦点を当てるとき、それは普遍的に人々に響くと想う。

ハンセン病はらい菌の感染によって発症する病気だ。現在では早期発見、早期治療によって後遺症を残さずに治癒する。1981年より世界保健機関の推奨する多剤併用治療により、数日から数週間以内に菌の伝染性を抑えることができ、6ヶ月から2年で治癒するようになった。

そもそも、人口の99%の人々がらい菌に対して免疫を持っている。感染するケースとして考えられるのは、例えば、免疫のない1%の人が、戦後のように食べ物がない栄養状態で、身体を洗う水もないような衛生状態のとき生まれたばかりの嬰児で、かつ、未治療のハンセン病患者である家族にお守りをされている場合、飛沫感染する可能性があると言われている。感染しても潜伏し続け、発病しないで終わることもある。

有効な治療法のなかった時代、ハンセン病を病んだ人々は山奥や孤島のハンセン病隔離施設に隔離された。当時はらい菌が皮膚や神経をおかすのを防ぐことができず、身体に変形を引き起こした。この変形は治癒後(つまりらい菌が身体からいなくなった後)も元に戻らず、後遺症となった。一目で「ハンセン病元患者」であることがわかってしまう。「遺伝病」という誤解もあっため、後遺症を持った「元患者」が実家に帰ってくれば、家族ごと村八分にされてしまった。そのため、治っても実家に帰ることができない人が多かった。

つまり、ほとんどの場合、ハンセン病を病んだ人々は「生きる場所」を選ぶことができず、ハンセン病隔離施設にとどまらざるを得なかった。

しかし、彼らは、その場所で「いかに生きるか」は選ぶことができた。そこに、その人の生きざまが現れる。

「強靭な者だけが生き残った」。

広東省清遠市のハンセン病快復者・欧鏡釗(男性)はそう語る。欧鏡釗が6歳のとき、父がハンセン病を発病し、錯乱状態となって行方不明になり、一家は離散した。欧鏡釗自身も9歳で発病し、隔離される。隔離病院では有効な治療法もなく、病気であっても食べるために労働をし、途中息絶える人も少なくなかった。病院内では恋愛も禁止され、見つかると吊るし上げられ、その後自殺した人たちもいた。そんな中、欧鏡釗は自分の能力を向上させるために学び、周りの患者・快復者をいたわり、病院を管轄する理不尽な政府部門と闘いながら、生き続ける。

ハンセン病と共に歩んだ何十年もの間、生きるということをあきらめなかった彼らに出逢うとき、僕たちは自分の生き方を見つめ直さざるを得ない。

ハンセン病とそれへの誤解

ハンセン病には様々な誤解がつきまとい、それが差別につながった。

まずは、身体の変形が元に戻らないことから生まれる、「不治の病である」という誤解がある。人によって症状は異なるが、らい菌が汗腺をつぶすと汗や油が出なくなり、皮膚が乾燥する。乾燥した皮膚は冬のあかぎれのように傷を受けやすい。らい菌は末梢神経をもおかすため、知覚が麻痺する。傷を受けても痛みを感じない。痛みを感じないと傷を保護することが難しい。治りかけた傷がまた傷になり、雑菌に感染して大きく、深く、潰瘍となることもある。

らい菌がもし指の神経をおかせば指を伸ばす動作ができなくなり、指がずっと曲がった状態になることがある。手首や足首を持ち上げることができなくなったり、口やまぶたを閉じられなくなったりすることもある。まぶたが閉じられなくなると、寝ている間にふとんやほこり、虫などで目を傷つけやすくなり、失明することもある。知覚を麻痺した上に失明すれば一人で生活することが困難になる。足の裏の麻痺が重ければ、釘を踏み抜いても痛みを感じないこともある。傷が潰瘍となり、足を切断せざるを得なくなる人も多い。

このような身体の変形はハンセン病が治った後(つまりらい菌が身体からいなくなった後)も元の状態に戻ることはない。その身体を見れば、知らない人は思うだろう、

「この人の病気は治っていないんだ」。

こうして「ハンセン病は不治の病である」と誤解された。

「感染力が強い」という誤解もあった。

広西壮族自治区桂林市のハンセン病快復者・陸憲貴(男性)はハンセン病と診断されると即、「あたかも怪物になってしまったかのよう」だった。家族は彼を恐れ、村中の人々はさらに恐れ、彼を見るなり遠くに逃げていく。陸憲貴は涙にむせびながら言う、

「おれは忘れられないんだ。病院からの診断書を受け取ったときの情景、故郷を去るときの情景、住んでいた家が焼かれ、持ち物が投げ捨てられる情景を。おれは遠くへ、遠くへ逃げた。そのひとつ一つの情景を見て、心の中で泣いたんだ」。

このような情景は人々の間に「ハンセン病の伝染力が強い」という誤解を根強く植えつけた。

と同時に、家族内感染が多かったことから「遺伝病である」という誤解もあった。そのため、身体に変形があるハンセン病快復者が家族と暮らしていれば、家族・親族全体が「らい血統」と言われて差別を受けた。兄弟姉妹や親戚の結婚が破談になることもあった。そのため、隔離村で一生を終えざるを得なかった。

広東省潮州市のハンセン病快復者・蔡玩卿(女性)は40歳のときハンセン病が治り、実家に帰りたいと思った。しかし甥たちがまだ結婚していなかった上に実家に住む部屋もなかったので、甥たちは蔡玩卿が隔離村に住み続けるようにと言った。そうでないと甥たちの結婚が難しくなる。

「こう言われたとき、感情がかき乱され、死のうと思った」。

そして、隔離村に住み続けた。家が貧しかったこともあり、蔡玩卿の甥たちはなかなか結婚できなかった。蔡玩卿の兄が亡くなったとき、兄の古い戦友たちが葬式をあげに来てくれた。そのとき蔡玩卿の甥たちがまだ結婚していないのを見て、急いで結婚を世話してくれた。
しかし、上の甥の新妻は叔母である蔡玩卿がハンセン病患者だと知ると、甥がそれを黙っていたことをずっと責め続けた。

「それを知ったとき、心の痛みは極みに達した」。

ふたり目の甥が結婚するとき、婚約者は親族にハンセン病患者がいることを知ると、甥との関係を断絶した。

「この時もまた心に重くのしかかる打撃を受けた」。

3人の甥がすべて結婚したとき、やっと心が解き放たれる想いだった。

中国のハンセン病

中国では1957年、ハンセン病隔離施設を建設し、患者を隔離することが決定された。全国800ヶ所にハンセン病隔離施設が建設され、1950年からの統計によると患者50万人を隔離した。1980年代に入るとMDTの普及に伴い、患者の在宅治療が行われるようになり、隔離は行われなくなった。それ以前も日本のように終生絶対強制隔離政策は取られず、治癒後は実家に帰って社会復帰することが許された。しかし、根強い差別のため、実際のところ実家に帰ることができず、隔離施設にとどまり続ける人たちがいた。現在、ここはもはやハンセン病隔離施設ではなく、ハンセン病「快復者」の住むただの「村」、つまり「ハンセン病快復村」となった。現在では全国に約600ヶ所の快復村が存在し、そこに快復者約2万人が住むと言われている。

ほとんどのハンセン病快復村は辺鄙な山奥や孤島に位置する。その後の経済発展に伴って工業地帯に囲まれたような村や公道のすぐ脇に位置するような村もあるが、それは沿岸地域の一部の村に過ぎない。経済的に恵まれた地域では療養所や病院のような施設もあるが、多くの場合、ただの村にしか見えない。

十数年前までは1950年代、60年代に建設された家屋が残り、トイレやシャワー室、台所がない村も多かった。村に井戸もしくは貯水タンクが1ヶ所しかなく、後遺症のある身体で水くみが必要な村や、電気がない、もしくは使用時間が制限されているところもあった。

政府が支給する生活費もギリギリ生活ができるかできないかという程度で、タバコを買うお金もままならなかった。炊事はまきと七輪で自炊するほかなく、まきを割るたびに後遺症で麻痺した身体に傷をつくり、やけどを負った。

傷の手当をする医師も看護師もおらず、何度も洗って黄色くなった包帯やガーゼを使って自分で治療していた。それすらしないで放っておく人も少なくなかった。

表情は普通、暗く、笑顔がないのは顔面が麻痺しているからだけではなかった。結婚が禁じられていたため、村に通常子供はいない。家族との往来も少ないか全くない場合もあった。外から人が来ることはほんとんどなく、あるとしても政府の慰問などで、役人たちはあからさまに嫌そうに、義務として援助物資の米や油を置くと、証拠写真を撮り、急いでその場を離れる。外出してもバスに乗車拒否されたり、食堂に入れてもらえなかったり、市場で現金の受け渡しを嫌がられたりした。

多くの人々が絶望のあまり自ら命を断っていった。ほとんどの村でそうささやかれる。



(写真)多くの人々が絶望のあまり自ら命を断っていった。© Kosuke Okahara
 


第1回 「ワークキャンプ」が日中をつなぐ ー始まりはハンセン病ー



(写真)2004年10月、広東省潮州市リンホウ村にてくつろぐ。



第1回 「ワークキャンプ」が日中をつなぐ ー始まりはハンセン病ー

12年前の夏。僕らは「家」と書いて中国語で[jia](ジアー)と発音する団体を設立した。中国で立ち上げるNGOなので、漢字一文字で名前をつけたい。発起人のひとりが「家」という漢字を挙げる。日中韓から集まった発起人6名は即、賛同する。

「家」の「JIA」は「Joy in Action」の略であるとした。考えたり、議論するだけでは何も変わらない。まずは動いてみよう、という意味だ。これを組織の理念とする。

JIAは2004年に広東省広州市に設立された民間非営利団体で、「ワークキャンプ」と呼ばれる合宿型ボランティア活動を行う。ワークキャンプでは、活動参加者が社会問題に直面する現地の人々と生活を共にしながら、その人々のニーズに合わせたプロジェクトを行い、その社会問題の解決を目指す活動だ。

JIAは2001年から2017年2月までに、中国華南地方(広東、広西、湖南、湖北、海南省)のハンセン病快復村(元隔離病院)68ヶ所でワークキャンプを900回行い、快復村の生活環境整備やハンセン病差別を減少させるプロジェクトを1.9万人のボランティアと共に展開してきた。村々のトイレや水道、家屋や道路などのインフラを整備し、ボランティアたちが村に出入りするようになったため周辺住民がハンセン病への恐れを和らげ、活動に地元メディアや慈善団体、病院や政府を巻き込み、こく一部ではあるが村人たち(ハンセン病快復者)は家族との絆を取り戻した。

JIAの活動は、「ハンセン病快復者支援」「ハンセン病啓発活動」のみに留まらない。この活動は、活動参加者が成長し、社会貢献意識と行動力を備えた人材となる「社会インフラ」として機能することを目指す。この若者たちが未来の社会を創る。いわば、JIAは社会問題に直面してる当事者(目下はハンセン病快復者)と共にワークキャンプを通して未来を創る団体だ。こうして今、中国華南地方において、ハンセン病快復者の存在は「社会問題」と関連して捉えられるより、「社会財産」として価値を転換しつつある。

とはいっても、ただ単にハンセン病快復者と若者が出逢っても、化学反応は起きにくいだろう。なぜ、JIAの活動を通して若者がハンセン病快復者に出逢うと、成長が促されるのか。通常約1-2週間のこの活動において、開始間もないころは「ハンセン病快復者」と「ボランティア」という、集団と集団の関係に過ぎない。しかし、共同生活を送りながら共に働くうち、徐々にお互いの顔が見え、性格が見え始め、次第に個人と個人の関係が生まれる。そして、お互いにこれまで歩んできた人生を垣間見ることになる。

ハンセン病快復者は「ハンセン病元患者」という烙印を押され、ハンセン病隔離村で生活せざるを得なかった。つまり、「生きる場所」を選ぶことができなかった。しかし、そこで、彼らは自分が「いかに生きるか」は選ぶことができた。そこに弱さも、強さも、その人の生きざまが現れる。彼らに向き合うとき、若者たちは多くの気づきや学びを得、成長していく。

この活動を学生ボランティアが自主的継続的に行うことのできるように、JIAの組織はつくられている。若者が自ら思考し、行動し、意思決定することができるようエンパワーメントされている。若者たちはそこから、自主性と責任を持ってチームとして仕事をする方法を身に付けていく。そんな、社会貢献をする意識と行動力を備えた人材のネットワークをJIAは徐々に築いている。

そして、この活動はインドネシアやインドにすでに飛び火し、近い将来、日本に戻ってくる可能性もある。

JIA設立当時、僕ら設立発起人はビールを片手によく語り合った、

「World as One Family by Work Camp」―ワークキャンプが世界をつなぐ。そして、それはひとつの家族に…という意味だ。この言葉はJohn Lennonの『Imagine』を聴きながら想いついた。

「でも、ちょっと、クサくないかな」。

「いや、こんな時代だからこそ、こんな言葉を掲げる団体があってもいいんじゃないかな」。

当時、この言葉は全くの夢物語だった。

活動開始から15年を経たいま振り返ると、案外、実現不可能でもないかもしれない。



(写真)2013年2月、広西壮族自治区崇左市ロンガン村にて、キャンプ最終日、村を離れる直前。