野松先生の車はハイブリッドカーだ。
ハイブリッドカーは、日本でかつて使われていたMD(ミニディスク)やMO(光磁気)と同様に、本来は中国国内にマーケットがあって然るべきであるのに、それがないまま今に至っている。もともと中国国内に関連技術がなかったこと、政府が経済レベルでその開発を推し進めていなかったことが、上記のいずれもが中国に普及していない原因だろう。そしてハイブリッドカーがMDやMO以上に世界じゅうで大流行していたころ、中国だけはまだ蚊帳の外だった。
だから野松先生が一般消費者としてハイブリッドカーを選んだのは、私にとって軽い驚きたった。
現在、私の知人のうち何人かがハイブリッドカーを所有している。そのうちひとりは国立公園に勤める公務員だ。家はとても裕福で、彼女のお母さんはもともとヨーロッパの有名メーカーの車を買うように薦め、お金も一部出してくれると言っていたそうだが、彼女が最終的に選んだのは日本製のハイブリッドカーだった。
「国立公園の職員として環境保護に気を配らなくてはなりません。車を使わないのがいちばんですが、勤め先の公園がとても広いのと仕事で外出することも多いので、運転するならハイブリッドカーがいいと思いました」
と彼女は言った。公園の管理事務所の車も当然ハイブリッドカーであり、ためらうことなく同じタイプの車を自分用に選んだのだった。
もうひとりは大学の学長をしている。ある日大学のOB会のあいさつの席上、買ったばかりのハイブリッドカーも話題に取り上げ、そこにいた人たちに今後自家用車を購入するのなら、自分の車のようなハイブリッドカーがいいと薦めた。
「購入して1カ月あまりが過ぎました。毎日乗っていて気づきましたが、以前の車よりもだいぶガソリンの節約になっています」
彼はそう語った。
学長がどこかのメーカーの宣伝をしているようにはまったく思わなかった。この話を聞いた元学生たちはむしろ、母校に対して、そしてオピニオンリーダーの役割も果たしている学長に対して、その環境保護意識の高さに好感を持ったのではないだろうか。
野松先生は大学教授だ。
「工業区の近くに住んで20年あまり、私はひどい喘息持ちです。以前は車を運転していましたが、喘息になったのを機にやめました。車は空気汚染になり、他の人まで喘息になってしまいますから」
彼女はそれだけの理由でもう何年も車を運転していなかった。
先生は最近再び運転するようになった。大学は交通が不便な郊外にあり、仕事で外出するにも車が必要なことが多い。先生ももう若くはなく、毎日歩くのも自転車やバスを利用して通勤するのもあまり現実的ではない。しかし、車を買う決心がついた最大の理由はハイブリッドカーの登場だ。
「普通の車に比べて価格は少し高いですが、省エネと環境保護という観点からすれば十分受け入れられるものでした」
先生は言った。
数年前、ハイブリッドカーの販売台数は世界で100万台を記録した。2011年3月には300万台を超えている。
「中国での販売台数は約1万台です」
とある海外メーカーのセールスマンが言った。中国メーカーが開発したハイブリッドカーは、2010年前後に続々と登場している。
中国のニューリッチ層、官僚やオピニオンリーダーは、お金はあっても野松先生のような責任感に欠けている。運転を長い間やめていた野松先生がハイブリッドカーを選んだのは、彼女自身の喘息が理由だ。理念+自らの体験に基づく感覚――中国以外の国でハイブリッドカーがよく売れている理由のひとつかもしれない。
茨城県日立市は東京から東に140キロ、福島の原発からは100キロ圏内の地方工業都市だ。私の乗った車は工業区を走り抜け、熊野神社の前で停まった。
神社の神職者は通常「宮司」と呼ばれ、職位は分かれているものの、他の宗教のように様々な肩書があるわけではない。神社の神職者=宮司と思ってよいだろう。
神社の入り口では作業着姿の鈴木さんが私たちを待っていた。作業場から出てきたばかりの彼からは、機械油のにおいがかすかに感じられた。左胸には彼が勤務する工場のバッジ、腕には緑十字の腕章、工場の安全管理をする立場かと思われたが、後になって彼が部長であることを知った。
そして鈴木さんは熊野神社の宮司でもある。
「毎年2回、大きな祭祀行事があります。会社の創立記念日である7月15日と、新年の仕事始めの日です」
鈴木さんは言った。境内には先日の大地震で倒れた石灯籠の痛々しい姿があった。
参道のわきには、手水舎という水が湧き出ている場所があり、参拝客は皆そこで手と口を洗い清める。
「大きな祭祀とは別に年に4回の祭祀行事があります。2月3日は祖先を祀り、7月1日は安全祈願、12月1日は火を鎮め、12月29日は厄払いをします」
鈴木さんは続いて説明してくれた。その安全祈願とは安全な稼働を祈るもので、工場が立ち並ぶこの場所にふさわしく、宮司を務めているのが工場の部長ということにも納得できる。
「昨年は会社創立100周年でしたので、7月15日には現職の社長に加えて元社長3人と前社長も参加し、熊野豫樟日命(生産の神)と天地創造の神を参拝しました」
鈴木さんは言った。
北京映画資料館でのトークショーに中国の李纓監督らと登場した山田洋次監督、その髪には白いものが目立っていたが、映画人生について語るその姿は80歳近くとはとても思えない若々しさで、話も聴衆を魅了することしきりであった。
改革開放初期の中国、山田洋次監督について多くを知る中国人は少ない一方で、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)、「遥かなる山の呼び声」(1980年)そして「男はつらいよ」シリーズ(1969年~1995年)など、彼の作品になじみがある人は多かったろう。1980年代、中国は現代社会への一歩を既に踏み出してはいたが、一般の中国人にとって外国はまだまだ遠かった。山田洋次作品の数々から知り得たものは日本の現代的な生活スタイルではなく、郷土色豊かな日本の風景と人情味あふれる人々、そして社会の片隅にいる無名の主人公だった。何かを成し遂げたわけでもなく世の中のどこにでもいるちょっとダメな人物――映画館を後にしつつ自らの人生を振り返る時、自分自身もまた無名であり、全体では目覚ましい成長を遂げつつある経済社会の後半部分にしがみついている一人であることに気づくのだった。実際我々のほとんどが、社会の中のちっぽけな存在に過ぎないのだ。
「男はつらいよ」の主人公寅次郎もまた、日本社会で順風満帆な人生を送ったとは決して言えない人物だ。
「美人を見るとすぐに恋してしまうのになかなか成就できない、結婚もできない、そんなちょっとダメな男性を描きたかったのです」
山田監督は言った。
しかしそんな寅次郎にも帰る家があり、さすらいの果てにはいつでも家族や周りの人たちに温かく迎えられている、幸せな人物であると言えるだろう。
「遥かなる山の呼び声」ではロマンあふれ、純粋で素朴な日本人が北海道の大自然を舞台に描かれている。1980年代、映画はあくまで映画であり現実とは違うという意識があった。映画を見たからと言ってすぐに北海道に行き、その季節の移り変わりを自ら感じたい、感じられると思うことはなかったろう。その点では馮小剛監督の「非誠勿擾」(日本名:誠実なおつき合いができる方のみ)は北海道の美しさを完全に描いているわけではないものの、映画をきっかけに中国人観光客が多く訪れ観光業に大きく貢献している。しかし本当の意味で、北海道の四季を余すところなく描いているのは「遥かなる山の呼び声」である。北海道の美しい風景に溶け込んだ田島(高倉健)や民子(倍賞千恵子)の純粋さ、情感は山田監督だからこそ表現できたものと言えるだろう。
2010年制作の「おとうと」は、至る所で問題を引き起こしうだつが上がらないまま年齢だけ重ねてきた主人公を描いた作品である。義兄の13回忌で酔っぱらい大暴れした「弟」鉄郎(笑福亭鶴瓶)は長い間音信不通だったにも関わらず、姪である小春(蒼井優)の結婚式当日に突然現れる。小春の父の13回忌でどんなことがあったか詳しく描かれてはいないが、結婚式でまたしても酔って大暴れしている様子から観客は過去のシーンにも思いを馳せることができる。鉄郎の自慢は自分が小春の名付け親であるということだ。それは義兄が鉄郎の姉である妻の吟子(吉永小百合)に「鉄郎はこれまで人に褒められるようなことはやってきてないだろう。ここでひとつ花を持たせるようなことをさせてやろうじゃないか」と提案したからだった。鉄郎は亡くなる直前にそのことを懐かしく思い出す。彼はその破天荒な生き方で家族から見放されてしまった訳では決してなかった。山田監督はこの作品でも所謂ダメ人間に対する理解を示していると同時に、そんな人々を受け止められるだけの寛容性を社会に求めている。
山田洋次監督は、その映画人生50年において常に社会の片隅に生きる人々に思いを寄せ、寛容性の意味や大切さを伝えてきた。それは決して簡単なことではない。改革開放以降中国の映画監督は数字の上では大きく増えているが、山田監督のように、ヒーローとは対極にいるような人物を描いた監督は数えるほどであろう。そのうち海外でも認められた作品となれば一体どの作品があてはまるだろうか。続々と制作されているのは巨額の資金力をバックに、古代中国の歴史の一幕を壮大なスケールで撮影し、暗黒・狡猾・カンフー・インモラルを描いた中国時代劇である。でもそうした作品は観客の心に何かを残すことができるのだろうか。馮小剛、陳凱歌そして張芸謀ら中国著名監督の昨今の作品には、山田洋次作品に溢れているような人情味や寛容性を期待しない方がいいのかもしれない。
栗原さんはそんな私の気持ちを察してくださったのだろうか、話題を日中の文化交流に移した。彼女は現在日本中国文化交流協会の理事も務めている。1956年に設立されて以来55年間活動を続けているその協会は、日本の文化各界のそうそうたる顔触れが会員として名を連ねており、各会員による会費で運営されている。日中関係が微妙になった際にもそれぞれの力を発揮して協会の活動を維持し、日中の文化交流を推し進めてきた。
栗原さんはちょうど協会の常任理事定例会に参加したばかりとのことだった。2011年上半期の交流活動として、中国の文化部長との座談会を開催し中国作家協会の会員を日本に招待する一方で、日本からも芸術家や出版界の専門家を中国に派遣している。また協会設立55周年を記念する席では、会長や理事長らが日中文化の共通点や相違点などについて講演会を開催したそうだ。下半期も更に多くの交流活動が予定されている。
栗原さんがロシア文学に傾倒し、愛読書がトルストイの『戦争と平和』であることは私も知っていたので、彼女が演劇について話してくれた際も『アンナ・カレーニナ』だけは理解することができた。彼女は1974年に日ソ合作映画『モスクワわが愛』に主演、『白夜の調べ』(1978年)、『未来への伝言』(1990年)でも非常に重要な役柄を演じている。栗原さんがロシアと交流してきたのと同様、中国との文化交流についても重要に考えていることは、彼女と実際に会い、日中文化交流協会の活動について聞く機会があったからこそ分かったことだった。
栗原さんは謝晋(シエ・チン 映画監督)や濮存昕(プー・ツンシン 俳優)など、中国人数人をすらすらと挙げ、彼らとの交流についても話してくれた。しかし私にとって前述の2名以外は聞き覚えがない名前ばかりだった。90年代以降、中国映画も日本映画もあまり観ていなかったせいだろう。私にとって映画といえば、それこそ『サンダカン八番娼館 望郷』や『愛と死』など日本映画数作品なのだ。陳凱歌(チェン・カイコー)、張芸謀(チャン・イーモウ)や馮小剛(フォン・シャオガン)によるここ10年ほどの作品を観たことはあるが、何だかごまかされているような気持ちになっただけで、人生や人の尊厳について考えさせられるような深い味わいを作品に感じたことはない。
目の前の栗原さんが3、40年前と変わらないように、私が映画に対して抱く感覚も当時のままなのかもしれない。彼女がスクリーンで活躍していた時代こそが黄金時代だという思いは今後も変わることがないだろう。
鋳造工房の電気炉では鉄を溶かしている最中だった。地震後の停電で炉が動かなくなれば溶鉄は鉄の塊に、そして炉も使い物にならなくなってしまう。
「幸い発電機がありましたので、すぐにそこから送電し炉内の鉄が塊になることはありませんでした」
及源鋳造は1852年に設立されている。明治政府の成立よりも十数年前のことである。そんな伝統ある会社だから危機対応にも長けている。準備が周到だったからこそ今回の地震で商品などの損害は少なくなかったにせよ、工場の要である電気炉を守ることができたのだ。
続いての困難は原料の不足だった。物流システムが発達している日本では、例えば商品の発注を受けたその日に原料会社に電話をすれば翌日か翌々日には原料が届く。そしてすぐに商品を製造し納品する。原料であれ製品であれ在庫を少なく持つということは、日本の大多数の企業にとって財務上の負担が減るということだ。日本の中小企業が厳しい競争に対応すべく迅速に立ち回るひとつの要素だろう。しかし、物流システムが発達しているからこそ、それが機能しない場合経営にどんな影響を及ぼすのかを考慮する機会は全体的に少ないと言える。
「原料が来なければ何も作れません。大型クレーンがなければ工房も修繕できません。地震による交通への影響、ガソリン不足が原因です。自分たちでできる範囲はなんとかやってみましたが、大型設備がないことには努力しても限りがありました」
社長は言った。
製品を納期通りに納品できれば何よりだが、状況は厳しい。
「地震を納品延期の理由にすることはできません」
震災後、及川社長は在庫を確認するとすぐに運送会社に連絡し、同時に自分たちで工房を修繕し始めた。
「3月28日(地震発生から17日後)、電気炉が動き始め生産を再開することができました」
社長は親しい人の忘れもしない誕生日であるかのようにその日を語った。
約千年前に京都から岩手県の丘陵にやってきた職人は、そこに質の良い砂鉄があることを知り、日常に用いる各種鉄器の名産地となった。日本には他にもいくつか良質の砂鉄が採れる場所があるが、そこでは主に日本刀が作られている。一方でここ岩手は千年もの間、鉄瓶や鉄鍋など鉄器製造の伝統を守り続けている。
「私たちは震災からさほど期間をおかずに鉄瓶を作り始めることができました」
及川社長のその言葉には“千年鉄器”を作り続けるという強い決心と、プライドがにじんでいた。
大学卒業後の数年を東京で働いた後、本田勝之助さんは故郷福島に戻った。
以来「人材の育成・地域再生・農業の活性化」を理念に精力的な活動を続けて10年あまり、本田さんも30代後半となった。
地震の被害が大きかった福島、しかしそれにも増して影響を受けているのは原発事故だ。地震後本田さんは、他の企業・NPOなどと共に「福島」を改めて知ってもらう方法を模索しはじめた。
被災地復旧のスピードには日本各地からのサポートが大きく関わっている。1995年の阪神大震災の時よりも更に大規模な救援活動が全国で展開されており、政府・自治体も緊急体制のもと対応している。そして阪神大震災と比べて規模も被害も甚大だった一方で、多くの企業が被災後さほど間をおかずに生産ラインを復旧させている。
しかし一方で原発付近の住民は、地震による家屋の損傷がなかったにもかかわらず県内の別の場所、あるいは県外での避難生活を強いられている。
その多くの人がほんのわずかな身の回り品と共に、公共施設の段ボールに囲まれた空間で暮らしている。新しい救援体制をいかに築くか――各方面が思案している問題だ。
「多くの義捐金が被災地に送られました。今も救援物資を募る活動が多くの人によって続けられています。彼らの多くは“自分たちができること”、例えば被災地の人に卵や野菜を送ることなどから始めました。そこで私たちはハガキを印刷して高速道路のサービスエリアで販売することにしました。ハガキを買うことで、被災地の人々を思いやる気持ちを具体的な形で送ることができます」
本田さんはそのハガキを手にして言った。
ハガキの表には被災地の状況が、その裏面にはポケットと共に卵や肉、野菜や米などが印刷されている。このハガキを買うことで被災地の人に向けて“自分ができるだけ”の援助ができる仕組みになっている。
「海辺を離れる――言葉にするのは簡単でも実際は違います。海辺で暮らしていた人が街で新しい仕事につき生計をたてることはとても難しいでしょう」
本田さんは言った。そして建築プランが示された大きな冊子を取り出して1ページずつめくって見せてくれた。
「私は明日福島県庁に行きます。北京を拠点に活躍する建築家の迫慶一郎さんと、沿岸地域の復興プランを提出する予定です」
迫建築事務所の構想は、津波の際に人々が短時間で高い場所に逃げることができるような人口島を平野部に複数作るというものだ。3月11日、気象庁が津波警報を出した後多くの人が車で逃げようとした。しかしそのために渋滞が起き、安全な場所にたどり着く前に津波に飲みこまれてしまった。別の方法で迅速に高い建物や安全な高台に逃げることができればより多くの命が助かるだろう。
「原発事故が起きて、“福島”は世界に知られるところとなりました。でも福島に特別な麻素材があることはほんの一部の人しか知らないはずです」
本田さんは細かい縞模様の入った麻布を見せてくれた。地元の麻から織られたその布は独特なデザインと丈夫さが売りで、見る人が見れば福島の特産品であることがわかると言う。
「製品の素材として福島の麻を使ってもらえないかと、いくつかの有名ブランド・メーカーに提案しています。既にジーンズとバッグのメーカーの新作に一部起用されることが決まりました」
福島産の素材を使うことも、企業による被災地支援の一環になっている。
こんなふうに本田さんは様々な策を練る。そしてアイデアを携えて、東京や京都などを訪れ各方面の人に提案をする。すべては故郷福島のために。
社長室で早坂裕さんとお会いした。血色がよく人当たりが優しそうな、日本の経営者の典型のような方だ。
「3月11日、私は上海の空港に到着したところでした。しかし、日本で大きな地震がありわが社が被災したことを知り、すぐにチケットを手配してとんぼ返りしたのです」
早坂さんは言った。
すでに仙台空港は閉鎖されており、新潟を経由してなんとか翌日には到着できたという。「既に工場ではスタッフが機械のメンテナンスをしていました。その時“私たちは必ず復興できる”と確信したのです」
早坂さんは続けた。
加美電子工業は部品にスプレー塗装や印刷などの表面加工を施す会社だ。日本の携帯電話や海外自動車メーカーの多くの部品がここで塗装・印刷されている。
「以前、スプレー塗装の際には有害なVOC(揮発性有機化合物)が排出されていましたが、希釈剤を有機溶剤からCO2に替える技術を開発したことで、その排出を大幅に削減しました」
宮城県にあるこの会社のスプレー塗装技術はもちろんのこと、企業として目指しているものがよくわかるだろう。
加美電子工業はこの革新的な技術とともに順調にマーケットを開拓している。被災後の生産ライン復旧の迅速さはもちろん、さらに大きく飛躍する強さを持ち合わせている。
「江蘇省呉江の経済開発区に新しい工場を建設しているところです。中国の携帯電話市場、自動車業界の規模拡大に合わせて私たちの中国事業も強化しなくてはなりませんから」
早坂さんは自信に充ち溢れていた。
加美電子工業がスピーディな海外展開を進め被災を克服し、さらに大きく飛躍する姿が目に見えるようだ。
我眼中的日本人 – 渡边日出夫:让会展中心变成避难所
私はその産業交流館(Big Palette Fukushima)を7月25日に訪ね、館長の渡辺日出夫さんとお会いしている。中肉中背で肌つやは良く、ユーモアがあり良く通る声の持ち主だ。
3月11日以来、渡辺館長は産業交流館ではなく避難所の責任者として多忙を極めた。私は日本貿易振興機構(JETRO)福島事務所長の紹介で、渡辺館長を取材することになった。7月25日、非常門から入った私は、数十人が大部屋に固まって忙しく事務作業をしている様子を目にした。そして渡辺館長に感謝の意味も込めて言った。
「裏口から入れていただきありがとうございました」
「その裏口は今では立派な正面玄関ですよ!」
と笑顔で渡辺館長。
産業交流館が避難所になってから正面玄関ロビーはもちろん、廊下もすべて人でいっぱいになっている。忙しい中取材に応じる時間をとってくれた館長は、私の言った“裏口”の意味も察してくださったようだ。
そして館内地図を示しながら地震後の状況を語ってくれた。
「3月30日には2294名を収容していました」
館内至るところ、人が横になれる場所はすべて人で埋め尽くされていたという。原発事故の後は発電所付近の住民が着の身着のままに近い状態でやってきたとのこと。
「あの頃はこの会議室も人でいっぱいで足の踏み場もないくらいでした」
渡辺館長は続けた。
館内には大きな掲示板が掛けられ、人探しや無事を知らせる伝言が次々に貼られていった。家族・親戚などと連絡を取り合うため、無料の電話も設置された。
「日が経つにつれ避難している人々のプライバシーが重視されるようになってきました」
我眼中的日本人 – 渡边日出夫:让会展中心变成避难所
渡辺館長はまず段ボールで仕切られた空間に案内してくれた。高さ1メートルほどの段ボールの壁、少なくともその内側は自分の空間として使用できる。ふと目を向ければ、ペットボトルに百合が活けられていた。こんなときでも、いやこんなときだからこそ、なのかもしれない。花を飾る心を忘れない人がいる。
「しばらくすると、ボール紙素材でフレームを作り始める人が出てきました。高さを出すことで、よりプライバシーが保たれます」
渡辺館長は続いて人の背丈ほどの紙製フレームと水色の布で仕切られた空間に私を案内して言った。
「視線を遮ることはできますが音は無理ですね」
地震から1,2カ月が過ぎると、しばらく帰宅が許されない原発付近の住民のため、今後長期にわたって住み続けられる場所と仕事を探す必要がでてきた。一方で避難所を出て行く人も出始め館内スペースに余裕ができた。そのスペースには仕事を紹介する窓口や被災地の役所機能などが置かれた。大勢のボランティアが館内で活動し始めたときはボランティア情報センターも設置された。
私を案内しながら渡辺館長は避難所にいる人々に次々と声をかける。産業交流館の館長はつまり福島県に勤める地方公務員だ。地震が起きる以前は様々なイベントや展覧会を企画・実施していたわけだが、一夜にして避難所の責任者となりその仕事を着実にこなしてきた。二千を超える人の避難生活を支え続けて半年、渡辺さんは再び産業交流館の館長となり通常営業に向けて準備を始めている。
秦皇島市から60キロ、盧龍県付近で高速を下りて少しもたたないうちに、あたりの風景が変化し始めた。市街地を過ぎれば3階建て以上の建物は見当たらず、平屋の前にはトウモロコシのきびがらがうず高く積まれている。とうもろこしとサツマイモ以外の作物はこのあたりの畑には無縁のようだ。立ち遅れた農村の姿をここに垣間見ることができる。
当時三菱商事中国総代表を務めていた武田勝年さんとここにきた5年前、道路は今ほど整備されておらず、商店も少なかった。
「日本企業が中国でどのような社会貢献をすべきか、会社によってやり方は様々でしょう。私たちは学校などに対し長期にわたって支援できる方法を模索してきました」
武田さんはそのとき言った。私の出会った日本人 – 武田勝年さん:社会貢献の新しいかたち
三菱商事が導入した方法は、山間部にクルミなどの収穫できる作物を植え、そこから得た収入を付近に住む貧困児童の就学支援に充てるというものだ。2006年以降毎年日本円にして400万円以上を寄付、河北省盧龍山間部で中国緑化基金会と合同で就学支援プロジェクトを立ち上げ、盧龍県棋盤山にエコフォレストを造った。
過去5年間でクルミ、リンゴなどの作物を植樹した面積は1800ムー(約120万平米)、その収益をかの地の上庄小学校の教材購入に充てると同時に住民の収入を増やす手段とした。5年前に植えられたそのクルミは今年人の背丈ほどに成長し数十個の実を実らせている。そしてそのクルミの木の足元――5年前には荒れ放題だったその場所―― にはサツマイモが植えられている。
今年9月、三菱商事北京事務所のスタッフ数十名は再び盧龍県を訪れ、上庄小学校の児童と共にクルミを収穫した。豊作だった。そのクルミをスタッフが買い取ることで現金化し、そのお金で書籍と体育用品を購入、武田さんの提唱した支援プロジェクトのもと、小学校の学習机や椅子なども交換され、「三菱商事グリーンライブラリー」と体育施設が新設された。“気持ち”はきっと児童たちに届いたに違いない。
「ここ盧龍県と同様のプロジェクトを今後は他の地域にも広げていきたいと考えています」
スタッフの一人が言った。
武田さんはすでに三菱商事を退職している。しかし彼が導入した社会貢献の方法は今もなおしっかりと受け継がれている。
中国日立の常務副総経理の野本正明さんは中国各地を訪れる度に日立製品の評判を耳にする。20年前の日立のテレビが今でも使える。買って本当に良かった、という内容だ。
そんな評判を耳にして嬉しい反面複雑な心境になるという。“日立”ブランドの評判が良いことはとても嬉しいが、もはや日立はそのテレビを製造してはおらず(中国人の多くがそのことを知らないでいるだろうが)、現在の日立のデジタルメディアや家電製品全体を合わせた売上高総額9兆円の1割も占めていないからだ。
野本さんは日立のスマートシティ概念について語り始めた。日立の持つ総合的な力を中国のマーケットで最大限に生かしていきたいという。
日本の他社メーカーに比べると、日立の国際化の比率は43%と低い。
「しかしながら、わが社の中国での売上はヨーロッパとアメリカを超えており、海外売上高の第一位を占めています」
野本さんは言った。
1980年代から90年代にかけて日本企業の“グローバル化”はつまり“アメリカ化”だったと言える。企業は先を争うようにアメリカで投資し、かの地に基盤を築いてさえいれば他は大丈夫、といった考えだったろう。しかし日立の方向転換は他社よりも迅速だった。2010年の売上比率を見れば中国が13%、ヨーロッパとアメリカがそれぞれ8%と中国での成長が著しいことがよくわかる。その中国での成長があったからこそ、2008年のリーマンショックの際にも経営をいち早く立て直すことが可能だったのだ。
野本さんが今中国で打ち出しているのは全く新しいコンセプトだ。
「私たちが今掲げているのは社会イノベーション事業です」
具体的には3つの内容を統合させたものだという。一つ目は都市開発で、エコシティの建設や水循環システム、建設機械やエレベータなどの事業が含まれている。二つ目はIT系統で、クラウドコンピューティング、コンサル、データセンター事業など。そして三つ目は電力系統で、資源エネルギーやスマートグリッド関連だ。
「日立の総合的な力を最大限に活用することで、社会全体に関わる大きな新事業を展開することができると信じています」
野本さんははっきりした口調でそう言った。
野本さんがスマートシティを語る度、それが都市建設にあらゆるもの全てが含まれるひとつの大きなコンセプトであることが感じ取れた。当初私は、日立が自社の力を集結させ、新しいコンセプトのもとマーケットを開拓するのだと思っていたが、繰り返し彼の言葉を耳にするうちに、そのコンセプトは決して日立独自で進めるのではなく、他の企業と力を合わせて共に実現するものだということが分かった。彼の視線の先にあるのは日立だけでなく、日系企業はもちろん中国企業や外国企業と協力している姿だ。
「日立は天津と大連、そして広州でスマートシティ建設に参画しています」
野本さんは続けた。
天津エコシティ計画で日立は、三井不動産やシンガポールの企業、そして多くの中国企業と協力しながらそのスマートシティ計画をリードしている。これまでにない国際的な協力体制のもと、スマートシティ開発の商業化モデルが出来上がりつつあるのだ。
「我々は海外での成功経験を日本に持ち帰りたいと思っています。東日本大震災の復興計画の一部としてスマートシティのコンセプトが導入されるでしょう。その時日立はスマートシティ建設の専門家を日本に派遣し、中国での経験を最大限に生かすことで復興を推し進めたいと考えています」
野本さんは大きなビジョンを兼ね備えたスマートシティというコンセプトの実現、そしてそのコンセプトが幅広く受け入れられることを強く確信している。