北京のIT関連会社に勤める吉岡礼子さんが中国に来た理由はこうだ。95年に大学を卒業して広島の建築会社に勤めていたが、入社3年目で「そろそろ結婚したら」と、あからさまな肩たたきにあったのだ。大卒で仕事も男性の同僚以上にしているのに、なぜ女性というだけで差別を受けなくてはならないなのか。小さな頃から仕事で力を発揮したいと考えていた礼子さんは失望した。
大学で中国文学を専攻していた礼子さんは、一から中国語を勉強し直せば中国で仕事のチャンスがあるかもしれないと、会社を辞めて99年、北京に留学する。猛勉強して1年後には北京の印刷会社で採用が決まった。最初は業務用の中国語がわからず苦労したが実践で中国語を学ぶことができ、中国語力は急速に伸びた。
仕事に慣れてくると、会社の同僚たちと食事をしたり遊びに行ったりする機会が増えた。そんな同僚の中に、吉林省出身でグラフィックデザインを担当する2歳年下のカレがいた。グループで集まっているうちに、だんだんとふたりだけで出かけるようになった。カレは、お寺や廟などを巡り、ゆっくりとものを考え静かに過ごすのが好きだった。礼子さんも趣味が近く、静かな時間の共有が心地よかった。
02年、ふたりは中国で結婚した。
カレにはひとつ結婚の条件があった。将来故郷の吉林省から両親を呼び同居すること。
結婚2年後にカレのお父さんが他界し、入れ替わるかのように第1子を授かった夫婦は、母親との同居を始めた。
「文化大革命を経験している母親はとにかく節約に厳しかったです。洗濯機は電気代がもったいないし、よく落ちないから使ってはいけないなど、時代差を感じました」
今でも家族は全員、ジーンスやシーツなどの大きいもの以外は手洗いしている。
さらに2年後には、子どもが生まれた義妹夫婦まで礼子さん夫婦の家で暮らし始めた。
「大家族に慣れるまでは大変でした。でもカレがいつでも不満のはけ口になってくれました。アドバイスをくれるとかたしなめたりはしないのですが、とにかくよく話を聞いてくれました。そして、お母さんがいろいろ言うのは君を家族と思っているからで、君も本当の母親と思って何でも言っていいんだよと言ってくれました」
妻が稼ぎ頭、夫は指令塔、姑と義妹は家事子育ての役割分担
08年、ふたりは第2子を授かった。中国では第2子は違法のため、子どもに中国籍を取らせる場合は数万元の罰金を払わなければならない。
将来も仕事を続けるつもりの礼子さんは、日本に帰国することは考えていない。夫婦は、中国で育てることになる第2子に、日本国籍ではなく中国籍をとり、中国語が母国語の中国人として育て、中国の文化をしっかりと身につけさせたいと考えた。
「子どもの成長の場が中国になるならば、中国人として育てようと決めました。国籍はどちらでもよかったのですが、完璧な母国語を話し、どちらかひとつの国のきちんとしたアイデンティティーを持つことは、人間の強さの土台になると思いました」
結果として子どもたちは、母親は日本人だと知っているが自分たちは中国人だと思っている。
今は7歳と4歳の子どもふたりと5歳になる妹の子を家族で育てている。
けれどもこれから先も、小学校探しに始まって大学受験まで悩みは尽きない。子どもたちの戸籍は吉林省にある。現在、一家は北京で暮らしているが、北京の戸籍がなければ北京で大学受験はできない。地元の吉林で大学受験をすることになるが、事前に数年間吉林で教育を受けないと受験資格が与えられないため、一家は吉林に引っ越さなければならない。拠点や仕事もなく、いい大学の選択肢が少ない吉林への引っ越しはしたくない。
「そんな風に悩んでいるとカレが、天津でマンションを購入すると戸籍を天津に移せると言ったんです。天津は北京に近く良い学校も多いので、子どものために天津に家を買うことに決めました」
今のところ、経済面は礼子さんの分担が多めで、家事子育ては母と妹と協力してやっている。妹は、1人っ子の子どもに兄弟ができて幸せだと、3人まとめて面倒をみてくれる。そして、将来的な大きな方向を考えたり、中国独特の関係社会を渡っていく情報やコネクションをつかんでくるのはカレの役目だ。
「私に気を使ってくれているんだと思いますが、母親は内孫と外孫をはっきり区別してうちの子の方をあからさまに可愛がってくれます。うちの子に何か買ってくれても妹の子には買わず、妹に、これを買ったからあなたの子どもにも自分で買ってあげなさいというのです」
中国人の家族と暮らしていれば、中国の習慣や考え方も多く学べる。
「私の実家の両親は、日本から孫に文具を送りたいけど、日本のものを持っていて幼稚園で友達にいじめられたりしないかと心配します。けれども北京の家族は、品質のいい日本製のものを持っていると尊敬されるから送ってもらえばいいと言います。日本では上でも下でも異質なものをいじめ、中国では弱いものお金のないものをいじめる、という違いを感じます」(文中は仮名)
北京中心部にあるオープンカフェで待ち合わせた長瀬理沙さんは、つややかな肌とロングヘアーが美しい目鼻立ちのすっきりした女性だった。中国の雑誌のモデルとして登場したこともある。その横で、ひとりの青年がラジコンカーを操り子どものように遊び、周りにはラジコンカーの性能を見ようと人だかりができていた。その青年が急成長中の不動産会社を経営する実業家、理沙さんより1つ年上、28歳のカレだ。
理沙さんは高校卒業後北京に語学留学すると1年後に北京大学の医学部に合格し、眼科を専攻。今は修士課程を専攻しながら研修医として病院で診療にあたり、オペも受け持つ。HSK(漢語水平考試)最高級の11級も取得している才女だ。
ふたりの出会いは3年前、知人の紹介だった。理沙さんは特別な感情は持たなかったが、カレはひと目で理沙さんを気に入った。その日、理沙さんを自分が送ると頑と主張し理沙さんを送って帰った。
その後会う機会が増え、カレは自分の家族のことを理沙さんに話し始める。小さい頃、父親の浮気で親は離婚し、母親は自殺未遂をしていた。理沙さんの両親も離婚していて、理沙さんは恋人・結婚の条件として固く心に決めていることがあった。
「見た目が悪くてもお金があってもなくても、私にはどうでもいいんです。ただ、浮気をしない人、これだけが私が男性に求める条件でした」
カレの背景を知った理沙さんは、この人なら絶対浮気はしないだろうと気持ちが動いた。そして、カレの頼りがいのあるところ、例えば学校や病院で問題が起き理沙さんが落ち込んでいるとカレは「先生に直接電話して僕が話してあげる」と大胆な解決策を持ち出すのだ。そんなカレに理沙さんも魅かれていった。
知り合って2ヶ月も経たない頃、カレは理沙さんが1人暮らしをしていることが心配になり、カレの実家での同居を提案した。理沙さんも、もし将来カレと結婚することになるのならカレの家族とも暮らしてみたいと両親との同居に同意した。カレの母親はふたりのための寝室を用意し、両親は家族のように理沙さんに接した。
同居してみてカレの派手な暮らしぶりに理沙さんは驚いた。近く上場することも視野に入れているカレの会社は最近の不動産事情と相まって急成長を遂げている。カレの生活消費額は理沙さんが知るだけでも1ヶ月10万元(約120万円)は軽く超える。ブランドの服に、ラジコンなどの高級おもちゃを躊躇なく買い、食事はいつでも5つ星ホテルのレストランや高級日本食。理沙さんにはブランドのバックやダイヤのアクセサリーを頻繁に贈る。
「ケンカしたりすると、さらに高いプレセントを買ってきてお茶を濁そうとするのですが、何でもお金で解決しようとするところは受け入れがたいこともあります。8万元(約100万円)の翡翠のペンダントを買ってきた時には、さすがにお店に返しに行ってもらいました」
カレの友達も成功している実業家ばかりだ。収入の違う人とは一切つき合わないような今の中国の風潮に理沙さんは違和感を感じている。理沙さんは高収入の友人しか持たないカレをたしなめたことがあるが、カレは言った。
「僕たちが遊ぶ高級クラブや水上スキー、乗馬、ホテルのプール、お金がない友達は一緒に遊びに行けないじゃん」
お金がもたらす幸と不幸
昨年から理沙さんは研修医として病院で働きだし、通勤に便利な場所にカレと留学中の弟と3人でマンションを借りた。同時に、日本から母親も呼び一緒に暮らし始めた。仕事を始めたばかりの理沙さんの帰りは遅く、お母さんは中国語が話せないため、カレは家に帰っても話し相手がいない。だんだんとカレの帰りは遅くなった。
アパートに移って半年が過ぎた頃、知らない女性から理沙さんに電話がかかってきた。
「あんたいったい、彼の何なの!」
カレだけは浮気はしないと信じていただけに、理沙さんのショックは大きかった。
カレを突き詰めると、理沙さんとの関係などを相談するために、仕事で知り合った既婚で10歳以上年上のその女性と何度か一緒に食事をしていた。初めのうちは親身に相談にのっていた彼女だが、そのうちに理沙さんと別れるよう迫り始めた。困ったカレが彼女の夫に連絡を取ると、彼女には浮気癖があり初めてのことじゃないので本気にしないようにと言われる。カレが女性と連絡を取ることをやめた4日目、怒ったその女性が理沙さんの携帯電話に嫌がらせの電話をかけてきたのだ。
その女性は自分の夫より格段お金持ちのカレと浮気をしてゴージャスな恋愛気分を味わいたかったらしい。お金はある意味で人を幸せにするが、トラブルもまたお金によって引き起こされる。
「カレが私を選んだのは、拝金主義主流の中国社会で、お金や物より気持ちを大切にし、質素な生活を好むからなんじゃないかと思います。カレの以前のガールフレンドたちは最高のものが欲しいという人たちだったようですが、逆にいらないという私が新鮮だったんでしょう。ブランドのバックも1つくらいは持っていてもいいですが、いくつもあっても私には持っていくところがありません。私には、カレがいてもいなくても将来誰かと結婚するにしてもしないにしても、自分でしっかり生きていけるように今の仕事を頑張っていくことが大切なんです」(文中は仮名)
村上久美さんはその日、北京市民政局の婚姻登記所に結婚手続きの書類を取りに行った。5年前に北京で知り合った中国人のカレと2週間後に結婚の予定だ。中国では男性22歳、女性20歳から結婚でき、手続きには、二人の身分証明書、写真3枚、戸籍簿(中国人)、婚姻要件具備証明(日本人) を持って婚姻登記所に届ければよい。以前必要とされていた性病などの健康診断は今は必要条件ではなくなった。
家の近所に台湾人が住んでいたので小学生の頃から中国語に触れ、大学では中国語を専攻し学生時代に2年間北京に留学している。大学卒業後は中国語力を生かして北京で仕事がしたいと、2006年、25歳で北京の貿易会社に就職した。
カレは物流会社を経営していて、久美さんの勤める会社と取引があった。5年前のある日、仕事の打ち上げでふたりは一緒になった。9歳年上で色が黒く、Tシャツにジーパンと姿はまるで肉体労働者、その時久美さんは特別なものは感じなかった。しかし、ユーモアもあり日本の歴史や文化にも詳しいカレと話をしていると楽しい。ある時カレに「恋人はいるの?」と聞かれ、女性として意識されていると感じた久美さんは、半ば拒否するつもりで、
「いないし、いらない」
と答えた。
すると、カレから毎日ショートメッセージが来るようになった。
久美さんはうれしいとは感じなかったが、ある時3日続けてカレからのメッセージが来なかった。久美さんは心配になり、気がつくと自分からカレに連絡をしていた。
ある日、久美さんはカレに食事に誘われたがすでに友人と先約があり断った。しかし友人と食事をしているうちに本当はカレと食事に行きたかった自分に気づき、その思いを押さえることができなくなった。友人との食事を途中で切り上げ、久美さんはカレのところに行った。
今時の中国人らしくないカレ
カレから正式な交際の申し込みがあった。久美さんはカレに好意を持っている自分を感じながらも中国人とのつき合い、結婚、子どものこと、文化の違い、将来のことなどを考えるとそれを自分が越えられるか心配で踏み込めなかった。久美さんはカレに聞いた。
「外国人とつき合ったり結婚したりすることがいかに大変か、あなたは考えていますか?」
カレはこう答えた。
「外国人だから特別だとか大変だとか考えたことはない」
久美さんはカレのこのひと言で、今まで縛られていた固定観念から解き放たれた。そうだ、国籍が違うからといって問題が起こるとは限らない。心配は問題が起こってからすればいい。起こる前から考えすぎて、行動をストップしてしまうのは愚かなことだ。
3ヶ月後、久美さんはカレと一緒に暮らし始める。料理が得意なカレは久美さんが食事までに帰宅できる日には何品ものメニューを作り、毎晩二人でビールを飲みながらお互いその日の出来事などをしゃべって寝るまでの時間を過ごす。
喧嘩をしたこともある。ある時、友人の奥さんとカレがゲームをしていて、それがあまりに親密に見えて久美さんは嫉妬した。「先に帰る」と席を立つと、カレは後から追いかけて来た。しかし、なだめるのではなく、
「僕のことが信用できない君はおかしい」
と、久美さんをたしなめた。久美さんは感情から理性に引き戻された。いつでもカレの言うことは理に叶い、久美さんは納得できるのだ。
一緒にいればいるほど、素朴で生きる道理と原則がぶれないカレと過ごす時間が久美さんは心地よかった。
しかし今の中国、スポイルされた若い中国女性たちは、何でも自分のしたいようにしないと気がすまず、男性は女性のヒステリックな我侭を叱らず聞いてしまう傾向がある。そんな中、悪いことは悪いときちんと言うカレは、今時の中国人男性らしくない中国人だ。だが中国人女性の間では受けがよくない。久美さんの中国人の女性上司もそんなカレのことを当初評価しておらず、上司と取引先のカレとの間で困ったこともあった。しかし久美さんにとっては誰よりも尊敬でき、信頼できる人なのだ。
「結局、ひとは国籍ではなくその人その人で違います。私は中国人と結婚するというより、カレという一人の男性と結婚するんです。そして、その人は、素直な気持ちで好きになれた私の”カレ”ということです」(文中は仮名)