その1 むかし中国に出征した祖父が許した、カレとの結婚 ― 中村いずみ さんの場合 ―

2016年9月1日 / カレは中国人

鹿児島県出身の中村いずみさんと山西省出身の「カレ」との出会いは、1999年。いずみさん(当時26才)が、作業療法士として東京で働いていた頃だ。友人の誘いで、食事会に参加した。そこで出会ったカレ(当時23歳)は、北京で日本語を勉強したのち日本へ留学に来たばかりだった。
 初めて会った時のカレの印象を、いずみさんはこう語る。
「なんだか、どこかで一度あったことのあるような、懐かしい感じがしました」
 
 いずみさんとカレとの交友は速い速度で進んでいく。知り合って2ヶ月もするとふたりは結婚の話をしていた。いずみさんの両親にも彼を紹介し、家族もみんなカレを気に入り、結婚に向けて順調に進んでいるように見えた。
 
 けれども、国際結婚は簡単には運ばないようだ。いずみさんのおじいさんの大反対にあう。
 ふたりの気持ちが固まったのち、2000年のGWにいずみさんは鹿児島に里帰りし、結婚をおじいさんに報告した。するとおじいさんは、
「絶対に許さん。中国人と結婚するなんて、世間になんて説明すればいいんだ!」
と、怒鳴りながら部屋に引きこもった。いずみさんは大泣きしてしまった。結婚を反対されたこともそうだが、おじいさんが孫の幸せよりも世間体を大事にしたことが、悲しかった。それを見て、いずみさんのお母さんも泣き出した。あとでいずみさんが親戚から聞いたことだが、お父さんも「俺の方が悲しい」と、おじいさんに抗議していたそうだ。そして親戚はみな、いずみさんに同情した。

 おじいさんは、満州に出征し、終戦を知らずに戦い続けた経験を持つ。その当時、多くの中国人に助けられたという話もよくしていたが、孫と中国人との結婚には複雑な思いがあったのだろう。世代的にも、孫の国際結婚は思いも寄よらなかったことに違いない。その後も、親戚の間でいずみさんのおじいさんの孤立は続いた。
 その年の末、おじいさんはともかく親戚にカレを紹介するために、いずみさんは再び鹿児島を訪れた。すると絶対にカレとは会わないと言っていたおじいさんから
「連れてきなさい」
 と連絡があった。いずみさんは、おじいさんに面と向かって大反対されるのではないかと心配だった。カレは
「おじいさんに会いたい」
 と言った。ふたりはおじいさんを訪ねた。
 おじいさんは無表情のまま、ただ、コップになみなみついだ芋焼酎をカレに差し出し、
「飲みなさい」
 と言った。
 カレは、それほどお酒に強い方ではなかったが、差し出された芋焼酎をがんばって飲み干した。その後おじいさんは、一度もカレとは目を合わせず、横のマッサージ用の椅子に座ったまま話をしなかった。
 あとで、おじいさんはいずみさんの両親に
「今どきの男に珍しい優しそうなやつだ。彼の親に会ってきなさい」
 と伝えた。
 
 翌年の春節、いずみさんは両親とともに北京を訪れた。カレの親とおばあさんは大同からいずみさんたちに会いに来た。戦争経験者であるおばあさんが、日本人のいずみさんにどんな印象を持つのか、不安は大きかった。教育者でもあったおばあさんは、いずみさんたちに会うと告げた。
「过去是过去。未来是你们来创造的(過去は過去。これからの未来は、あなたたちがつくっていくのよ)」

 その秋、ふたりは結婚した。

 2004年、カレの仕事の関係でふたりは北京に生活の場を移した。その年に子どもを産むと家族に富が訪れると言われた2007年、待望の女の子を出産。
 いずみさんは中国でチャイルドケアコーディネーターの勉強をし、現在はその資格を生かして外資系クリニックで働いている。チャイルドケアに関して、新聞や雑誌で執筆もしている。
「彼は、私がやりたいことをやるためのサポートをしてくれます。仕事も勉強も好きなだけやるというのは、おそらく、日本にいたらできなかったこと。私は、彼と結婚して中国で生活することによって、日本にいたときよりも自分らしく生きていられるように感じています」
 カレは現在、北京の中心地・国貿エリアで日本料理店を経営している。素材にこだわった人気店だ。

 北京に来てからいずみさんはカレの両親と同居していた。だが1年経った頃、いずみさんは、親との同居は精神的につらいことをカレに相談した。小さな習慣の違いがいつの間にか重なっていた。迷った末のことだった。カレは反対することもなく、すんなりとことを運んでくれた。

「今は同居はしていませんが、娘の幼稚園が終わってから、私の仕事が終わるまでの間面倒を見てもらっているので、親とは迎えの時に毎日会っています。とてもいい関係です。思い切って別居をしてよかったと思っています」

「日本では、沈黙は金。以心伝心的な美学があります。大切な感覚ですが、実際には言わないとわからないことが多いもの。今は、夫婦間でも親戚の間でも、我慢しないで自分の考えを主張していいんだと思うようになりました。そうやって意見を言ってコミュニケーションを取れば、解決できます。ボタンの掛け違いも、一段めなら、簡単に掛け直せるように」

 最後にいずみさんは今の思いをこう結んだ。
「北京で暮らして、大変なこと,辛いこともたくさんあります。でもそれは、ひとつずつ解決していけばいいことです。おじいさんに反対されたときは、本当に辛かったですが、それを超えられた私たちにはそれ以上に辛いことなんてありません。今は、ふたりで何でも話し合って乗り越えられると思っています。おじいさんが、私たちの最初の、そして一番大きなハードルになってくれたことに感謝しています」(文中は仮名)


その2 カレがいつも防波堤だった ー 石原さやかさんの場合 ー

2016年9月1日 / カレは中国人

 待ち合わせ場所に、テニスラケットを持ったさやかさんはさっそうと現れた。ちょうど、レッスンが終わったところだった。テニスはもう、20年以上続けている。
 1986年、24歳になる夏、さやかさんは北京大学に1ヶ月の短期留学をした。 
ある時、学内のテニスコートの前を通りかかったさやかさんは一人の男性に、
「私も一緒にプレイしていいですか?」
と話しかけた。
「中国人でテニスをする人はほとんどいなかったですし、着ている服も日本ぽくて、私はてっきりカレが日本人だと思ったんです」 
 さやかさんはカレや仲間たちとテニスを楽しみながら北京のひと夏を過ごした。

 天安門事件後の90年、カレは日本への留学を決める。だが出国管理は厳しく、日本での受け入れ先がないかぎり認められなかった。日本に戻り日本語教師をしていたさやかさんにカレの留学を応援する日本人のテニス仲間から、さやかさんの学校で受け入れることはできないかと連絡が入った。さやかさんの尽力もあって、カレはその日本語学校に留学することになった。
 北京を発つ前、日本人の友人たちが手持ちの日本円を集めてガラス瓶に入れ、カレに贈った。 パブル期まっただ中の日本、カレはそのガラス瓶を大事にかかえ、さやかさんの迎える関西空港に到着した。 
 その頃、北京の街に夜の照明はほとんどなかった。リムジンバスで通り抜けながら、カレは初めて見る大阪の夜景をずっとずっと見つめていた。 
 さやかさんは、教師としてカレの日本語学習を指導し、友人として日本での生活の手助けをしているうちに、だんだんカレに魅かれていく。
「カレが3歳から13歳のころ、中国は文化大革命の大混乱の中にありました。地主で知識分子、外国とも交流があったカレの家族は、当時、最悪の出身者として世間からひどい扱いを受けました。カレが4才の頃、紅衛兵が来て家の中をめちゃめちゃにしていった記憶がいまだに消えないといいます。カレが人の考え方を否定するのではなく人の立場で考えることができるのは、きっと、そのような大きな苦しみを乗り越えて、社会はいろいろな矛盾とさまざまな人の考えから成り立っていると自分の中で消化してきたからなのではないかと思います。そんなスケールの大きなカレと一緒にいると、私はありのままの素直な自分でいられました。 カレと家族になりたいと思いました」

 4年後の94年、ふたりはさやかさんの実家のある名古屋で結婚した。
 
 96年、カレは日本の商社の駐在員として、さやかさんは大学の日本語教師として、ふたりで北京に生活の場を移した。
 中国社会はいわゆる関係社会だ。親戚のコネクションを使うのは日常茶飯事だが、さやかさんが親戚から頼まれごとをしたのは結婚以来たった2回だ。
「帰国の際に紙おむつとテニスラケットを買ってきただけです。よく日本人が頼まれるような、出国の保証人や仕事のために友人を紹介したりなどはありません」
「カレは何も言いませんが、カレが親戚との間に立って、そういうことが私の耳に入らないようにしてくれたんじゃないかと思います」
「中国人と結婚して貧乏だと偏見を持たれたりしないように、洋服やバッグなど、絶対偽物は買わないように、いつでも私が質のいい物を身につけているように、カレは 私以上に気にしてくれます」
 カレは言う。
「その頃の北京は日本と比べて経済格差が大きかったんです。日本のような豊かな国から僕についてきてくれたんだから、彼女が絶対に中国でいやな思いや貧しい思いをしないようにしようと心に決めていました」
 

「僕たちのやり方で幸せになろう」

 ストレスは思わぬところにあった。
 中国では男性が家事を分担するのは当たり前だ。ところが日本の実家に戻った時、カレが料理や皿洗いを手伝うのを見たお母さんが、
「もう、どういう子なの!彼にこんなことさせてよく平気でいられるわね!」
 とさやかさんを叱った。
「大丈夫,大丈夫。私は気分転換になるから好きなんです」
 そう言うカレに、お母さんは、
「本当にすみません……」
 と、恐縮するばかりだった。
 2003年に待望の長女が誕生し、さやかさんはしばらく育児に専念した。育児が一段落した頃、カレが、
「子どもの面倒は僕がみるから、外出したい時には我慢しないで遊びにいっていいんだよ」
 と、言ってくれ、ひと月に2回ほどカレが早く帰れる日にあわせ友人と食事に出かけるようになった。さやかさんは、カレのおかげですっかりリフレッシュできたと知り合いの駐在員の奥さんに話した。するとその人は、
「さやかさん、母親のくせに小さな子どもをほったらかして遊び回ってるのよ、ひどいわねー」
 と言いふらし、周りの日本人女性からは子どもが小さいのに夜出歩くなんてと批判された。
 さやかさんは落ち込んだ。
「でも、カレにそのことを話したら『幸せになるためにはどうするのがよいのか、人にはいろいろな考え方がある。僕たちは僕たちのやり方で幸せなんだから、周りの意見は気にしなくていいよ』と言ってくれて。気持ちが楽になりました」

 一度だけ、大きな衝突があった。

 長女が誕生した頃から、教育方針の違いなどでカレと言い合いになることが出てきた。ある時ふたりは幼稚園の選択で意見が食い違う。さやかさんは、
「あなたはまったく子どものことを考えていない!」
 とカレを強く責めてしまった。その時、車を運転していたカレがポロポロ泣き出した。「僕は、家族のためにずっと一生懸命やってきたのに、それを理解してもらえなくてすごく悲しい」
 彼が泣くのを見たのは初めてだった。
 さやかさんはハッとした。
「結婚以来、ずっと彼は私を守ってくれた。カレの努力は知っていたのに、そんなカレになんということをいってしまったのかと、とても反省しました。カレの気持ちを考えず、ずっとカレに甘えていた自分にその時気がつきました」
 国際結婚という育った環境・習慣の違いの中で、どうすれば幸せな家庭をつくれるのかを一緒に考えてきたふたりだ。さやかさんは言う。
「夫婦って、片方だけじゃなく、お互いがお互いを思いやり続けていないといけないんですね。この気持ちを大切にしながら、カレと一緒に年をとっていきたいです」(文中は仮名)


その3 二度の‘家出’と宝くじ — 鈴木 百合子さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 百合子さんとカレが出会ったのは、93年。百合子さんが勤める下着メーカーにカレが中国担当として入社してきた。
 日本の大学に留学後、カレはその会社に入社。1年ほど中国に長期出張をし、翌年、また百合子さんと一緒のフロアーで仕事をするようになる。そして間もなく、カレは百合子さんを食事に誘い、結婚を前提にした交際を申し込む。
「単刀直入で、びっくりしました」
 いきなりの申し込みだったが、百合子さんもカレにそれなりに好感を持っていた。同僚からも「年回りもいいし、いい感じ」と祝福され、一緒に過ごす時間が増えたふたりは、翌95年に結婚した。
 国際結婚を決めるにあたって、百合子さんには何の迷いもなかったという。
「私、大阪人だからか、あまり深く考えずこれからの中国はおもしろそうだから、このくじ引いてみよう、くらいの気持ちで決めてしまいました」

 だが百合子さんのお父さんの大反対にあう。
「父は、昭和一桁の保守的な戦中世代の人です。外国人は厄介だと思っていたのか、猛反対。私の方も反発して、友人に頼んでバンを運転してきてもらい、荷物を全部のせて”家出”しました」
 
 そこまでの決断を百合子さんにさせたカレの魅力とは、何なのだろうか。
「給料日まであと何日もあるのに数百円しかなくなってしまった時、カレはどういうふうに材料を買ってくるのか、いろいろ工夫して豪華な主菜を3つもつくって発泡酒までまかなえてしまう。カレのアイデアで、お金がないことがかえって楽しいイベントになるんです。そんなふうに、どんな状況でも創意工夫して問題を解決していける人。これまでにも何度か経済的や精神的に大変なことがありましたが、カレの生活力、サバイバル能力のおかげで、いつでもカレといれば大丈夫と思えるんです」

 日本と中国の生活習慣の違いを感じるのは、どんな場面なのだろう。
「いちばん日本人との違いを感じるのは、カレが家族や友人にとてもよくしてしまうことです。こちらだって苦しいのに、友人にお金を貸したり、友人が勝手にカレの通帳からかなりの大金をおろして使ってしまったりしても、怒らないんです。『家族・親戚と親友は、血を売ってでも面倒を見る』と、カレが言ったことがありますが、そのあたりは日本人の感覚ではなかなか理解しづらい部分です」

カレがわんわん泣いた日

 そんな感覚の違いから、ある時些細なことで大げんかになってしまった。
 カレが中国で日本輸出向けの包帯などの衛生材料工場を合弁で立ち上げ、2004年に日本から北京に移ってきた頃のことだ。
「その頃、北京の生活は、電話を設置するのもガス代を払うのも、さまざまな日常生活が日本ほど便利ではありませんでした。また、中国語のコミュニケーションがうまくとれなかったりで、生活習慣の違いなどからストレスが溜まっていたんだと思います。それで、小さなことでカレとぶつかってしまいました」

「私、出て行く」
 百合子さんがスーツケースに荷物をまとめだすと、カレが実家に電話していた。 
 彼女、出て行くから、子どもたちの面倒を見に上京して、と親に話している。   
 カレもそういうつもりなら、もう、出て行くしかない。
 だが、出て行ったはいいが、行くあてはない。百合子さんは、住んでいる団地の敷地をスーツケースをごろごろ引っ張りながら何周かすると、結局部屋に戻った。
 すると、カレが声をあげてわんわん泣いていた。
「君が僕と子どもを置いて出て行ってしまったことが悲しい」
 と泣きながら話すカレ。両親からも‘彼女は経済的にも文化的にも違う外国から来て大変に決まっているのに、どうしてお前はそんな彼女を守ってやれなかったんだ’と叱られたというのだ。百合子さんは心配をかけたことをすぐに電話で両親に謝った。

 時間の経過とともに北京の生活にも慣れ、今では中国で楽しく暮らせるようになったと話す百合子さん。カレとの結婚という”くじ”を引いて18年が経った。
 くじの結果はどうだったのだろう。
「年末ジャンボとサマージャンボが一緒に大当たりした感じです」

 反対していたお父さんも、だんだん百合子さんたちの結婚を認めてくれるようになったという。
「結婚して数年し、私たちが幸せそうにしているのを見て、父の気持ちも変わったみたいです。子どもにも会ってくれるようになったし。結局、親って子どもが幸せでいてほしいと願ってくれていたんですね」(文中は仮名)


その4 結婚の「あるべき論」をカレとシェアするチャレンジ — 園田律子さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 園田律子さんと6歳年上のカレとの出会いは、2001年、律子さんが 21歳で北京に3ヶ月の留学をした時だった。ふたりは運命的なものを感じた。 
 カレのもとに行きたくて、律子さんは2003年に再度北京に1年間留学した。休みの日や仕事や学校が終わった後、ふたりは時にキャンパスで、時に公園で、喫茶店で、または近くの病院の庭で、時間の許す限り会っていた。けれども、なかなか中国語は通じない。お互いに辞書を持って筆談で会話をしていた。
「大阪出身なので、時々私の大阪弁が辞書に載ってなくて彼が困った時もありますが、ほとんどすべてのことを私たちは意思疎通できていました」
 律子さんはこう分析する。
「コミュニケーションって、相手を知ろうとすることが大切だと思います。日本人同士は、言葉は通じても心は遠いと感じることがあるのですが、外国人だとお互いのことを理解しようと努力するところから始まるので、かえって心は通じやすいことがあるのかもしれません」
 この年の終わりに、律子さんはカレからのプロポーズを受ける。

 律子さんは、外国への留学経験が多い。ハワイに1年半、韓国にも短期留学をしている。 ハワイ留学時代には大学生向けの結婚カウンセラーのアシスタントとしてボランティアもした。 律子さんはカレを選んだ理由についてこう話す。
「必要なことは、ちゃんと表現しないとわからないと思います。日本人男性は言葉も愛情表現も少ない。かといってアメリカ人は、私には、表現が軽すぎるように感じました。一般的に中国人男性って、ちょうどその間くらいのような感じがします。彼は中国人としてはおとなしい方ですが、誕生日や記念日などのポイントポイントで、ちゃんと愛情表現をしてくれるので、私にはちょうどよい気持ちの触れ合いが持てる人でした。それにカレ、私が言うのもなんですが、私の父に似ていて、彫りの深い東南アジア系ハンサムなんです」
と、律子さんははにかんだ。
 
 2003年、律子さんは留学を終えて帰国。
 2004年はじめ、カレが、ちょっと桜でも見に行こうかな、くらいのノリで日本に遊びに来た。そして日本で就職。ふたりは入籍し家族としての暮らしがスタートした。その後、男の子と女の子をもうけた。
 1年前、カレは貿易関連、律子さんは日系の飲食産業で仕事を得て、家族は北京で暮らし始めた。今は、5歳の男の子と4歳の女の子の子育てと午前10時から夜9時までの仕事の両立に忙しい。
「お兄ちゃんは、彼に似て優しい子ですが、食べ物の好みは私と一緒で、みそ汁や茶碗蒸し、野菜など淡白なものが好き。妹は、とても芯の強い子。中華や韓国料理など味が濃く辛いものが好きなところはカレ譲り。年子でも、性格や好みは全然違うんです。子どもっておもしろいですね」

きれいごとも、時には大切

 律子さんはハワイ留学時代、カウンセラーのアシスタントのボランティアで、どうすれば理想的な結婚ができるかということを学生と一緒に考えた。不倫はだめ、離婚もだめ。自己中心的ではだめ、まわりのことを考えて一日一善——。そこで到達した結論はというと、「結婚はゴールではない、結婚後もお互い内面も外見も磨く努力を続けなくてはいけない」という、いささか教科書的な「あるべき論」だった。
「でも、人にはきれいごとって、大切なんじゃないかと思うんです。どうやって人に接するのがよいのか、カレとはコンサルタントのアシスタントの時からよく話し合っていたのですが、お互いの価値観がとても似ていました」
 将来は中国でふたりで何かビジネスを立ち上げられたらと考えている。
 自分次第でどこの国で暮らしていても、楽しく、素敵な時間を過ごせる自信があるという律子さん。
「北京で暮らす中で、これから子育てや仕事など、問題が出てくるかもしれませんが、苦労は覚悟していますので私は大丈夫だと思っています。何があってもその時々で一番いい道を探して行けばいいと考えています」(文中仮名)


その5 カルチャーギャップから孤独に。不安埋めるため 選んだ離婚と再婚。— 大泉奈美さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 大泉奈美さんとカレが出会ったのは、1994年、奈美さんが大学在学中に北京に留学した時だ。北京のあるクラブで、長身の目がクリッとした木梨憲武似のカレと知り合った。その時の印象を奈美さんは話す。
「とてもピュアな人で、すごく感動したんです。いつでも、私と話す時は顔を真っ赤にしてはずかしそうに、でも、すごく素朴に、好きです、とか、今度会いましょうとか、なんの駆け引きもなく話す人で、そういう純粋な人に日本では出会ったことがなく、ぐーっと魅かれました」
  
 1年後、日本の大学に戻った奈美さんは、卒業後、北京に赴任する仕事を探す。HSK(漢語水準考試)の8級を持つ奈美さんにとって、それは難しいことではなかった。 
 97年、衣料メーカーの生産管理責任者として北京に赴任した。北京では、カレの婚約者としてカレの実家で両親と一緒に暮らした。けれどもそこで、家族との大きなカルチャーギャップに奈美さんは打ちのめされる。
「いちばん耐えられなかったのは家の中で私の物がなくなるということです。親戚でも友人でも、日本から来た私の持ち物は珍しかったらしく、ブランドの服や小物を勝手にカレのお母さんが人にあげてしまったり、親戚が黙って持っていっちゃったりするんです。最後には、日本から持って来たノートパソコンとカレが贈ってくれた指輪もなくなりました。それには私も我慢できず、お母さんに大抗議しました。でも、お母さんはなんで私がそんなに怒るのかわからないという態度です。カレに言うと、大事な物をなんでスーツケースに入れて鍵をかけておかなかったんだと、逆にたしなめられました。中国って、家族の物は自分の物という考えがあるようですが、私はどうしてもそれを受け入れることができませんでした」
 
 日本企業から赴任している奈美さんは、経済的に余裕があった。ひとりでアパートを借り、そこに、カレが実家から通う形でふたりの生活をリセットした。
 その頃カレは何度も結婚したい、子どもがほしいと言ったが、奈美さんは、高卒の学歴でデパートの店員だったカレとは、まだ結婚に踏み切れなかった。

国際結婚は相手の国までまるごと受け止めないと難しいー

 その後、カレは奈美さんの要求に沿うようにと、演劇系の大学に進み卒業した。まだ、それほどの収入にはならなかったが、役者として活動も始めだした2003年、知り合ってから10年めにして、ふたりは別居結婚の形で入籍した。
 そして、30歳を超えた奈美さんは、そろそろ子どもがほしいと思った。けれども、仕事がちょうど軌道に乗り出したカレに、今は仕事に集中したいからと拒否された。
 経済的問題も奈美さんをいらだたせた。役者の卵として仕事を始めたカレだが、収入は少なく、ほとんど奈美さんがカレを養う形となっていた。奈美さんは、家計は二人で分担するか、または、どちらかというと男性が女性を養うものだというイメージがあった。カレの兄弟親戚はとても裕福なのに、日頃の生活費をなぜ、奈美さんばかりが負担しなくてはならないのか。しかし、まわりの中国人の友人に相談しても、中国では夫婦両方とも仕事をしているケースが多いので、お金がある方が払うのが当たり前と、カレを肯定することしか言われない。けれども奈美さんはどうしても納得できなかった。
 あるとき、カレが風邪を引いて、病院に行くお金数百元を奈美さんにせびった。奈美さんは「もういい加減にして!」と、頑としてお金を出さなかった。カレは「僕は病気なのにあまりに冷たすぎる!」と怒り、ふたりの関係に決定的距離が生まれてしまった。

 奈美さんは将来が見えないこの結婚の意味について深く長く悩みだす。そんな中、2005−6年には抗日運動、サッカーワールドカップの混乱などが続き、中国内で怖くて日本語が話せないような事件に遭遇した。中国で暮らしていても中国人ではない自分。しかし、この国では日本人として堂々と暮らすこともできない。中国では自分はやっていけないと感じはじめ、先の見えない不安と恐怖で奈美さんは精神不安に陥っていく。
 食欲はなく、眠れない、無意識のうちに涙が流れている。 既にこの頃には、事実上の結婚生活は終わっていた。奈美さんは、先の見える安定が欲しかった。そのために日本人男性との未来を求めた。それが、自分が自分らしくいられる最良の方法だと感じたからだ。そして、カレには感じなかった包容力のある日本人男性と知り合い、カレとは離婚の手続きをした。今は、その日本人の男性と家庭を築き、将来への漠然とした不安や恐怖というものもなくなり幸せに暮らしている。

 奈美さんは中国人のカレとの離婚を振り返ってこう話す。
「私は彼が好きだというだけでこの国に来ました。特に中国が好きなわけではなかったですし、両親と別居した時も、解決したつもりで、実はこの国の習慣から逃げていたのです。カレも、知り合って結婚していた13年間、何度誘っても、興味がないといって、一度も日本には行ってくれなかった。今振り返って離婚のいちばん大きな理由、それは、お互いがお互いの国,背景を受け入れようとしなかったことでした。国際結婚は、相手とともに、相手の国のことも理解し好きにならなければ成り立たないのです」
 
 離婚後、カレは不意にひとりで日本を訪れた。初めての渡航だった。その理由を聞くとカレは言った。
「一度、君のふるさとを見ておきたかったから」
 遅すぎた訪問だった。(文中は仮名)


その6  中国では女性が仕事を持つことはあたりまえ。姑が支えた仕事と子育て — 伊草好恵さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 医療アシスタントとして働く伊草好恵さんと、美容形成外科医として活躍するカレとが初めて出会ったのは1990年、大阪。共通の友人の紹介でふたりは知り合った。京都大学医学部の博士課程に留学中だったカレとの初めてのデートはカレの研究室、カレは自分で縫った実験用のマウスの手術の縫い目を見せて、
「きれいに縫えているでしょ」
 と、好恵さんに見せた。
「初めてのデートでねずみの縫い口を見せて女性が喜ぶと思うんだ……。真面目で勉強だけしてきたピュア=変な人なんだな」
 面白好きな大阪人の好恵さんのツボにはまり、好恵さんはカレに好感を持った。

 その後、好恵さんは、仕事で大きなトラブルに遭遇し、胃に穴があくほどつらい時期があった。その時カレは、何も聞かず好恵さんに付き添い、鍼灸や整体なども施しながら、好恵さんの精神、肉体的衰弱を治してくれた。この時好恵さんは感じた。
「この人になら、私の人生と生命を預けられる」
92年ふたりは大阪で結婚。日本で2人の男の子をもうける。

 98年、カレは美容形成外科を開業することになり、家族は北京に生活の場を移した。6歳と2歳の男の子とともに、カレの両親と同居を始めた。と、カレの母親は言った。
「中国では、女性が働くのはあたりまえ。子供は私がみるから大丈夫。明日からでもあなたは仕事に出なさい。家事は、ひと月500元(約6000円)も出せばあなたの代わりなんていくらでも見つかるから」
  日本で仕事をしていたこともあり、好恵さんも数ヶ月中国語を勉強して、生活に慣れてきたら仕事を探そうとは思っていた。しかし、すぐに仕事をしろといわれるとは思っていなかったし、仕事をしない専業主婦の自分の価値は、たった500元と言われたような気がして、ショックを受けた。カレに相談すると、カレはこう言った。
「仕事をするか、専業主婦になるか、僕はどちらでもいいよ。でも、自分の生き方を選ぶのは、君自身。そして、選んだら、その道を責任を持って全うしなさい」
「この国では女性も、人生を選ぶところから自分で自立し、責任を持って生きていかなくてはならないのだと、中国人の母とカレから教わりました」
 好恵さんは話す。

SARSでも職場に出続け、同僚の信頼を勝ち取る

 すぐ、好恵さんは日本語教師として働きだす。2年後、医療アシスタントの仕事に就いた。日本人が言葉の通じない中国で病気になったり、家族を亡くしたりした時のサポートをする仕事にやりがいを感じ、また、母親の全面協力もあり、この仕事を続け今年で10年になる。
「母は、子どもが病気になった時でも安心して私が働けるように、家事育児に完璧なサポートをしてくれました」
 
 中国では、仕事面において、まったくと言っていいほど男女の格差を感じないと話す好恵さん、今では、充実感を持って楽しく仕事をしている。けれども、中国で仕事を始めた当初は苦労が多かった。 
「最初の頃は、主に言葉の問題で大変苦労をしました。会議に出ても、内容が聞き取れない。上司は優しく、わからないところは、いつでも質問してくださいと言ってくれるのですが、わからないところを質問できるほども聞き取れていないのです。そしてよく、決定事項と違うことをしてしまうミスをしました」
「コニュニケーションがうまくとれないので、中国人同僚の信頼を得るのに時間がかかりました。けれども2003年にSARSが発症した時、多くの日本人が帰国しましたが、私は帰らず中国人スタッフと一緒に毎日出勤していました。それ以来、逃げない日本人、同じ苦労をした仲間として認めてもらい、信頼が生まれてきたように思います。信頼し合えるよい同僚に恵まれ、今、彼らは私の人生の宝です」

 彼と結婚してから、多くの中国人女性と同じように仕事を持ち続けてきた好恵さん。約20年間をこう振り返った。
「仕事を持ち、自立し続けるということは時に苦しいこともありました。本気で専業主婦に憧れた時期もあります。けれども、仕事をすることで、私は、中国に、社会に、そして、家族に育ててもらいました。今は、仕事を続けてきて本当によかったと思っています」
  2人の息子は19歳と15歳になった。バイリンガルである息子たちは将来どこの国で生きていくことになるのかわらない。仕事や生活で行き詰まった時、海外でたくましく働いて来た母親の姿を思い出してくれたらと、好恵さんは願う。(文中は仮名)


その7 理想のカレは中国人。中国ネット婚活事情 — 城崎美加さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 高校時代にカンフー映画を見たのをきっかけに、城崎美加さんは学生時代から中国の様々な文化や歴史に魅かれてきた。1993年、外語大学在学中に21歳で北京に留学。大学卒業後には貿易関係の会社の駐在員として北京に赴任した。2000年からはフリーランスとして北京で翻訳の分野で活動しはじめ、今では北京通として知られている。その彼女は1年半前からお見合いサイト『世紀佳縁』で中国人の結婚相手を探している。
『世紀佳縁』は03年、清華大学の女子学生が開いた会員数4千万人、1日の新規加入者が1万人という巨大お見合いサイトだ。
 このサイトに申し込むには、まず自己の履歴を登録する。携帯番号、身分証明書、収入証明書などの具体的な資料を提出すれば自己ポイントが上がり、信頼度が高い情報だと認識されアクセス数は増える。無料会員と有料会員があるが、無料会員は、異性からのメールを閲覧するたびに2元(約25円)の料金がかかる。年会費490元(約6100円)の有料会員は受け取ったすべてのメールを見ることができる。毎日数千組のカップルが生まれていて、理想の相手との出会いも期待できるらしい。
 
 美加さんは有料会員に登録している。連絡をもらった異性と最初はチャット、電話などでお互いを知り、気が合いそうだったらお茶や食事などのデートへと進む。しかし、日本人である美加さんへの中国人男性からのアクセス数はそれほど多くない。
「テレビドラマ『おしん』の影響などで日本人女性に人気があったのはひと昔前です。以前は日本に対して先進国への憧れもあったかもしれませんが、中国が経済発展した今はそんな感覚はほとんどないようです。それに、歴史的な問題もあって結婚には相手の両親が反対する可能性が高いので、日本人女性はリスキーなんです」
 美加さんがこれまで実際に面会まで進んだのは20数人。好感を持った人も2、3人いた。けれども、やはり知らない人と会うことには危険もある。
 一度、チャットで気が合った男性と会ってみたところ、実際に話をしてみるとタイプとは違っていたので美加さんはやんわり交際を断ったのだが、相手の男性は美加さんを気に入り、どうしてもつきあいたいという。断っているうちに、男性はストーカー行為に走ってしまった。愛情は憎しみにかわりやすい。最後には、電話で、
「中国にいられなくしてやる!」と脅迫電話まで受けた。怖くなって、美加さんは10年間使った携帯電話の番号を変えた。それでも男性がつきまとってくるので、友人のつてをたどり相手の仕事先の上司の名前と携帯番号を調べ「あなたのストーカー行為を上司に言いつける」と友人に言ってもらって、やっと男性はストーカー行為をやめた。

中国人のカレがいないと、渡るにはシビアな中国社会

 この先も中国で活動しようと思っている美加さんは、そんな経験をしてもお見合いを続け、中国人男性と結婚したいのだという。北京は文明が古い分、社会構造も複雑だ。そのなかで営まれる微妙で深い人間関係は、たとえ中国人であっても北京人でないと一生かけてもわからないと美加さんは感じてきた。ましてや、日本人にはこの社会の構造をきちんと理解し、対応していくことはとても無理、そう美加さんは話す。そして小さな日常生活にこう例えた。
「中国の社会では、危機管理は日本よりずっと必要です。例えば、家の契約などでも、もっといい条件の借り手がいたら、契約期間内でも大家さんに追い出されたり、人間関係を利用して仕事のポジションをいきなり奪われたり、私の場合、ストーカー事件に巻き込まれたりもしたように、日常の生活でもいつ何が起こるかわかりません。日本人のパートナーとではとてもこの国では渡っていけないのです。中国で生活し、仕事をしていくのに、私を守ってくれる中国人が必要なのです」
 それに、と、美加さんは続けた。
「中国人男性は荷物を持ったりエスコートするのはもちろん、愛情表現もきちんとしてくれるので、一緒にいると心地いいのです。また、男女平等というより、女こどもは弱いから守らなくてはいけないという観点からだと思いますが、女性に手を振り上げたり、怒鳴ったりしないですし。彼らは大人だと思います」

 美加さんは15年以上北京に暮らし、中国を肌で感じてきた。今後はさらに中国を知り尽くし、中国の歴史や文化を小説などで日本に伝える第一人者になることを目指している。そして、中国への思いは、この国を知れば知るほど強くなっている。人はその国の文化や歴史背景によって形成されていくものだろう。中国を愛する美加さんが、その土地で育った中国人男性と結婚したいと思うのは自然なことなのかもしれない。(文中は仮名)


その8 わがままと束縛から浮気へ。それでもお互いを選んだふたり — 金子恵美さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 金子恵美さんは、小さな頃おじいさんから出兵した経験を聞いて中国に興味を持っていた。96年9月、大学在学中の19歳で北京に留学し、知人から家庭教師として一人の中国人学生を紹介された。恵美さんが初めて話をしたその中国人青年が、2006年に恵美さんと結婚をすることになるカレだった。当時、北京の学生の服装は一目で中国人とわかるものだったが 、長髪でギターを弾いていた奥田民生似のカレは、アーミールックを着こなし、まったく日本人と変わらない外見だった。
 
 日本に彼がいたが、中国語を教わったり買い物や観光に連れて行ってもらったりして一緒に過ごすうちに恵美さんの気持ちはカレに接近していった。罪悪感と裏腹に、人ごみを利用してカレの腕をとったり、カレのほほにお休みのキスをしてみたり、カレに近づく行動をとっていた。
 当時のうぶな中国人学生が反応しないはずはない。あるとき、混雑したバスの中でカレは恵美さんを強く抱きしめた。恵美さんはふと我に返った。
「でも、私には日本に彼がいる」
 するとカレはカレの日本語で言った。
「君がそういうことを言うと、こころが寒い。俺にも競争に参加する権利がある」
 その年の12月のことだった。

 事件が起きた。大学の試験でカレがカンニングの疑いで退学処分となったのだ。田舎から駆けつけたカレの母親が、息子の将来は終わりだと宿舎の前に座り込んで泣いている。恵美さんは思わず彼の母親に声をかけていた。
「カレを日本に留学させましょう。私が絶対手伝いますから、私を信じて下さい」
 98年、恵美さんは本当にカレを日本に呼び、自分の実家に住まわせた。その後カレは日本の大学に合格。恵美さんは大連に1年間留学、先に大学を卒業すると、東京の会社に就職した。2003年にカレも日本の大手メーカーの東京本社で採用されるが、すぐ駐在員として北京に赴任する。

気持ちが戻らないカレを待った長い時間

 日本の大会社の社員として好条件で駐在するカレは、中国人女性の憧れの的。毎晩のようにカラオケバーなどを飲み歩き、この頃からカレの態度が変わり始める。恵美さんと一緒になることが最良の選択なのか悩みだしたのだ。中国人女性と一緒になった方が、自分らしく生きられるのではないかーー。電話やメールの反応は鈍く会話も弾まない。急速にカレの愛情は冷めていった。けれども、恵美さんはこれまでの絆を捨てることはできない。カレもそうだったのだろう。関係は冷えていたが、2年後、カレは恵美さんとの結婚を決断する。2006年、恵美さんは北京にやってきた。 
 結婚式の夜、恵美さんの携帯に見知らぬ中国人女性から電話が入った。カレの浮気相手だったその女性は嫌みたっぷりに結婚のお祝いを言った。パニックになった恵美さんにカレは「あ、それ、無視していいから」と説明すらない。カレの母親は「バカ息子!」と恵美さんを抱きしめて一緒に泣いた。母親は言った。
「なんであれ、息子はあなたとの結婚を選んだのだし、あなたには妻の座がある。彼女の攻撃は無視しなさい」
 だが、新婚なのに会話もセックスもない。冷めきった生活に耐えきれず、アパートを探し始めた恵美さんに、
「あなたは中国をなめている。外国人の女性が1人で暮らすなんて危険すぎる。出て行くのなら私もついて行く」 
 と言うと母親は続けた。
「ここにいれば家賃もかからない。あなたは生きる武器として、明日からでも自分でお金を稼ぐ技術を身につけなさい。男に頼らず自立しなくてはだめ」専業主婦の母親のもとで育った恵美さんにとって、カレの母親からの言葉は思いも寄らぬことだった。中国人女性の強さを知り、中国にお嫁に来たら自分も強くならねばならないと知った。
 すべてを打ち明けた恵美さんに、実家の父は「彼もわかっているはずだ。彼を責めるようなことは言うな。言えば言うほど、男は離れていく」と諭した。
 恵美さんはこの時気がついた。自分は、常にカレの人生を決めてきた。日本に来ることも、大学の学部の選択も、仕事も、結婚の時期も。結婚するんだったら、最低でも日本人の平均以上の給料と肩書きがないと見下されてしまう、と要求ばかりしていた。カレは疲れ、自分の人生を生きてみたいと思ったのだろう、と。
 10年で積み上げてきた信頼と愛情は一瞬で簡単に崩れると知ったが、何年かけてももう一度積み上げたいと恵美さんは思った。
  
 北京で結婚生活を始めた1年後、カレは東京に帰任したが、恵美さんは北京に残り仕事を続けた。その間はメールや電話などで「北京は今秋空が気持ちいいよ」、「庭に桃の花が咲いたよ」など、心がぬくもる言葉だけをカレに送り、詮索は控えた。そんなさりげないコミュニケーションを重ねるスタンスを3年間保った。
「少しずつですが、彼の気持ちが戻ってきました。そして、失って初めて気がつきました。カレの笑顔を見ること、カレからメールをもらうことが、こんなにもうれしいんだと」
 
 今年の始め、カレは東京の会社を辞めて北京の恵美さんのもとに戻ってきた。関係はずいぶん修復されたが、昔のような熱い関係には戻らない。カレが夜帰ってこなくても、話をしてくれなくても、恵美さんはずっとカレの気持ちを尊重し続けた。
そして取材した日のちょうど1週間前、カレは恵美さんに言った。
「そろそろ子どものこと、考えようか」
 カレが、恵美さんと前向きにやり直すと決めた宣言だった。(文中は仮名)


その9 子育ては家族全員で担うもの。双子出産で体験した中国子育て事情 ー 天野清美さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

北京で映像・デザインの仕事をする天野清美さんと、通訳・コーディネーターのカレ・金大成さんが出会ったのは1997年、静岡。清美さんが21歳の時だ。中国語に興味を持っていた清美さんは、瀋陽から同じ大学に留学していたカレを友達に紹介された。親戚中から留学費用を借りて留学していたカレは大学で真剣に学び、日々を一生懸命に生きていた。 流行や遊びに夢中な日本の友人とは違うものを清美さんは感じた。
「カレといると、将来の夢や人間関係など、大事なことを考えることができたのです」 
 2002年に日本で結婚すると、翌年には長女を出産。IT関連の会社に勤めていたカレは仕事が忙しく、長女の子育てはほとんど清美さんが担った。
 2006年、カレの仕事の都合でふたりは3歳になる長女を連れて北京に生活の場を移した。既に、長女はそれほど手がかからなくなってはいたが、家事と子育ては家族みんなでという北京の習慣に清美さんはうれしい驚きを感じた。清美さんが仕事で忙しければ、カレやカレの両親が子育ても家事も手伝ってくれる。日本でテレビ局のディレクターとして働いていた清美さんは、北京でも映像・デザインの仕事を始めた。

出産後中国と日本の大きな違い知る

 3年が経った頃、清美さんは双子を授かった。中国の病院では、性別による中絶を防止するために、出産間近まで子どもの性別を知らせないなど、日本との違いはあるものの、2度めの出産ということもあり、清美さんは帰国せずに北京で出産することに戸惑いはなかった。しかし、出産間近になって1人が逆子だとわかり、清美さんは不安を感じだす。中国語はある程度話せる清美さんでも出産や医療関係の言葉となると心細く、通訳としてカレの立ち会いを希望したが、地元の病院では男性が分娩室に入ることは許されず、許可されなかった。 出産は帝王切開になった。
 手術が始まった。清美さんはもともと麻酔が効きにくい。麻酔テストで医者にお腹を押されながら「どうですか」と聞かれ、「鈍い痛みがする」のを「何かを感じる気がする」というような中国語で表現してしまった。実際には、少しでも痛みを感じる段階ではまだ麻酔は効いていない。だが、清美さんの言葉から医者は「開始」の判断をし、清美さんのお腹にメスを入れてしまった。
「もう、驚くほどの痛さで、痛い〜痛い〜!と叫びました」
 医者も驚いたが、ここで手術をやめるわけにはいかない。医者は手術を続けた。
 死ぬほどの痛みを伴いはしたものの、無事に二卵性双生児の男の子2人が誕生した。

 術後の病院の対応にも驚いた。通常日本では、自然分娩でも退院までに1週間ほどかかるが、双子の帝王切開にもかかわらず、清美さんは3日ほどで病院を出された。お腹の痛みで一歩も歩けず、カレに抱えられるようにしてやっと家に戻った。
 
 そして、清美さんは日本と中国の子育の大きな違いを体験する。
 まず中国では、出産後の1ヶ月を「座月子」といい、妊婦は体を冷やさないために守らなくてはならない習慣がある。外出してはいけない、冷たいものを食べてはいけない、いつでも靴下と帽子を身につけ暖かくしていなくてはいけない、味を加えないフナのスープを飲まなければいけない、などだ。科学的根拠がどれほどかは不明で異議を唱える学者もいるが、この時期にこの習慣を守らないと、将来病気になったときに家族から「座月子にちゃんと養生しなかったからだ」と言われるので、今でも産後の習慣となっている。
「この時期はお風呂にも入れないし、日本人の私にはとてもきつかったです」と清美さんは話す。
 けれども「座月子」を終え普通の生活に戻ると、中国での暮らしが3人の子どもを持ち働く清美さんにどれほど心地よいものかを改めて知る。赤ん坊の面倒と家事はカレとカレの両親、そして清美さんの4人体制であたればいいのだ。 親もカレも、育児や家事は手伝うものではなく、主体的にするのを当たり前と考える人たちだった。仕事がある人はそれを優先し、できる人が家事と育児をするのだ。カレは言う。
「自分の子どもなんですから、男性も一緒に子育てをするのは当然のことだと思います。日本で長女が生まれた時、僕も一緒に育児をしたかったです。でも、仕事が忙しくて毎日帰りも遅く、家にいられる時間がありませんでした。それに子育てがありますから先に帰りますと上司に言えるような雰囲気ではなかったんです。中国では、子どものために休みをとりたい時や早引きしたい時、たいてい上司はOKを出します。 日本では、男性の意識の問題もありますが、社会のシステム自体が男性が育児に参加しにくいようにできているのだと感じました。また、 中国では男性同士が今妻は第何週でどういう状態と普通に会話をします。日本では週ごとに妊娠の状態がわかるような男性はいませんでした」
 
 今、清美さんは、家族とともに家事・育児をしながら、仕事も充実している。映像・デザインの仕事に加え、編集の仕事にも携わっている。8月に北京で出版される写真集「北京美少女図鑑」の編集・デザインを担当し、徹夜の作業もこなす清美さんは話す。
「私は子どもが大きくなるまでは、日本に戻らず北京で暮らしたいと思っています。家族で子育てをするのが当たり前な中国は、仕事と育児を無理なく両立できて、私にとってとてもありがたい場所なのです 」


その10 姑のみならず妹一家も同居。中国人として育てる、大家族子育て — 吉岡礼子さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 北京のIT関連会社に勤める吉岡礼子さんが中国に来た理由はこうだ。95年に大学を卒業して広島の建築会社に勤めていたが、入社3年目で「そろそろ結婚したら」と、あからさまな肩たたきにあったのだ。大卒で仕事も男性の同僚以上にしているのに、なぜ女性というだけで差別を受けなくてはならないなのか。小さな頃から仕事で力を発揮したいと考えていた礼子さんは失望した。
 
 大学で中国文学を専攻していた礼子さんは、一から中国語を勉強し直せば中国で仕事のチャンスがあるかもしれないと、会社を辞めて99年、北京に留学する。猛勉強して1年後には北京の印刷会社で採用が決まった。最初は業務用の中国語がわからず苦労したが実践で中国語を学ぶことができ、中国語力は急速に伸びた。
 
 仕事に慣れてくると、会社の同僚たちと食事をしたり遊びに行ったりする機会が増えた。そんな同僚の中に、吉林省出身でグラフィックデザインを担当する2歳年下のカレがいた。グループで集まっているうちに、だんだんとふたりだけで出かけるようになった。カレは、お寺や廟などを巡り、ゆっくりとものを考え静かに過ごすのが好きだった。礼子さんも趣味が近く、静かな時間の共有が心地よかった。
 
 02年、ふたりは中国で結婚した。
 
 カレにはひとつ結婚の条件があった。将来故郷の吉林省から両親を呼び同居すること。
 
 結婚2年後にカレのお父さんが他界し、入れ替わるかのように第1子を授かった夫婦は、母親との同居を始めた。
「文化大革命を経験している母親はとにかく節約に厳しかったです。洗濯機は電気代がもったいないし、よく落ちないから使ってはいけないなど、時代差を感じました」
 
 今でも家族は全員、ジーンスやシーツなどの大きいもの以外は手洗いしている。
 
 さらに2年後には、子どもが生まれた義妹夫婦まで礼子さん夫婦の家で暮らし始めた。

 「大家族に慣れるまでは大変でした。でもカレがいつでも不満のはけ口になってくれました。アドバイスをくれるとかたしなめたりはしないのですが、とにかくよく話を聞いてくれました。そして、お母さんがいろいろ言うのは君を家族と思っているからで、君も本当の母親と思って何でも言っていいんだよと言ってくれました」

妻が稼ぎ頭、夫は指令塔、姑と義妹は家事子育ての役割分担

 08年、ふたりは第2子を授かった。中国では第2子は違法のため、子どもに中国籍を取らせる場合は数万元の罰金を払わなければならない。
 
 将来も仕事を続けるつもりの礼子さんは、日本に帰国することは考えていない。夫婦は、中国で育てることになる第2子に、日本国籍ではなく中国籍をとり、中国語が母国語の中国人として育て、中国の文化をしっかりと身につけさせたいと考えた。

 「子どもの成長の場が中国になるならば、中国人として育てようと決めました。国籍はどちらでもよかったのですが、完璧な母国語を話し、どちらかひとつの国のきちんとしたアイデンティティーを持つことは、人間の強さの土台になると思いました」
 
 結果として子どもたちは、母親は日本人だと知っているが自分たちは中国人だと思っている。
 今は7歳と4歳の子どもふたりと5歳になる妹の子を家族で育てている。
 けれどもこれから先も、小学校探しに始まって大学受験まで悩みは尽きない。子どもたちの戸籍は吉林省にある。現在、一家は北京で暮らしているが、北京の戸籍がなければ北京で大学受験はできない。地元の吉林で大学受験をすることになるが、事前に数年間吉林で教育を受けないと受験資格が与えられないため、一家は吉林に引っ越さなければならない。拠点や仕事もなく、いい大学の選択肢が少ない吉林への引っ越しはしたくない。
「そんな風に悩んでいるとカレが、天津でマンションを購入すると戸籍を天津に移せると言ったんです。天津は北京に近く良い学校も多いので、子どものために天津に家を買うことに決めました」
 
 今のところ、経済面は礼子さんの分担が多めで、家事子育ては母と妹と協力してやっている。妹は、1人っ子の子どもに兄弟ができて幸せだと、3人まとめて面倒をみてくれる。そして、将来的な大きな方向を考えたり、中国独特の関係社会を渡っていく情報やコネクションをつかんでくるのはカレの役目だ。

 「私に気を使ってくれているんだと思いますが、母親は内孫と外孫をはっきり区別してうちの子の方をあからさまに可愛がってくれます。うちの子に何か買ってくれても妹の子には買わず、妹に、これを買ったからあなたの子どもにも自分で買ってあげなさいというのです」
 
 中国人の家族と暮らしていれば、中国の習慣や考え方も多く学べる。
「私の実家の両親は、日本から孫に文具を送りたいけど、日本のものを持っていて幼稚園で友達にいじめられたりしないかと心配します。けれども北京の家族は、品質のいい日本製のものを持っていると尊敬されるから送ってもらえばいいと言います。日本では上でも下でも異質なものをいじめ、中国では弱いものお金のないものをいじめる、という違いを感じます」(文中は仮名)