その2 カレがいつも防波堤だった ー 石原さやかさんの場合 ー

2016年9月1日 / カレは中国人

 待ち合わせ場所に、テニスラケットを持ったさやかさんはさっそうと現れた。ちょうど、レッスンが終わったところだった。テニスはもう、20年以上続けている。
 1986年、24歳になる夏、さやかさんは北京大学に1ヶ月の短期留学をした。 
ある時、学内のテニスコートの前を通りかかったさやかさんは一人の男性に、
「私も一緒にプレイしていいですか?」
と話しかけた。
「中国人でテニスをする人はほとんどいなかったですし、着ている服も日本ぽくて、私はてっきりカレが日本人だと思ったんです」 
 さやかさんはカレや仲間たちとテニスを楽しみながら北京のひと夏を過ごした。

 天安門事件後の90年、カレは日本への留学を決める。だが出国管理は厳しく、日本での受け入れ先がないかぎり認められなかった。日本に戻り日本語教師をしていたさやかさんにカレの留学を応援する日本人のテニス仲間から、さやかさんの学校で受け入れることはできないかと連絡が入った。さやかさんの尽力もあって、カレはその日本語学校に留学することになった。
 北京を発つ前、日本人の友人たちが手持ちの日本円を集めてガラス瓶に入れ、カレに贈った。 パブル期まっただ中の日本、カレはそのガラス瓶を大事にかかえ、さやかさんの迎える関西空港に到着した。 
 その頃、北京の街に夜の照明はほとんどなかった。リムジンバスで通り抜けながら、カレは初めて見る大阪の夜景をずっとずっと見つめていた。 
 さやかさんは、教師としてカレの日本語学習を指導し、友人として日本での生活の手助けをしているうちに、だんだんカレに魅かれていく。
「カレが3歳から13歳のころ、中国は文化大革命の大混乱の中にありました。地主で知識分子、外国とも交流があったカレの家族は、当時、最悪の出身者として世間からひどい扱いを受けました。カレが4才の頃、紅衛兵が来て家の中をめちゃめちゃにしていった記憶がいまだに消えないといいます。カレが人の考え方を否定するのではなく人の立場で考えることができるのは、きっと、そのような大きな苦しみを乗り越えて、社会はいろいろな矛盾とさまざまな人の考えから成り立っていると自分の中で消化してきたからなのではないかと思います。そんなスケールの大きなカレと一緒にいると、私はありのままの素直な自分でいられました。 カレと家族になりたいと思いました」

 4年後の94年、ふたりはさやかさんの実家のある名古屋で結婚した。
 
 96年、カレは日本の商社の駐在員として、さやかさんは大学の日本語教師として、ふたりで北京に生活の場を移した。
 中国社会はいわゆる関係社会だ。親戚のコネクションを使うのは日常茶飯事だが、さやかさんが親戚から頼まれごとをしたのは結婚以来たった2回だ。
「帰国の際に紙おむつとテニスラケットを買ってきただけです。よく日本人が頼まれるような、出国の保証人や仕事のために友人を紹介したりなどはありません」
「カレは何も言いませんが、カレが親戚との間に立って、そういうことが私の耳に入らないようにしてくれたんじゃないかと思います」
「中国人と結婚して貧乏だと偏見を持たれたりしないように、洋服やバッグなど、絶対偽物は買わないように、いつでも私が質のいい物を身につけているように、カレは 私以上に気にしてくれます」
 カレは言う。
「その頃の北京は日本と比べて経済格差が大きかったんです。日本のような豊かな国から僕についてきてくれたんだから、彼女が絶対に中国でいやな思いや貧しい思いをしないようにしようと心に決めていました」
 

「僕たちのやり方で幸せになろう」

 ストレスは思わぬところにあった。
 中国では男性が家事を分担するのは当たり前だ。ところが日本の実家に戻った時、カレが料理や皿洗いを手伝うのを見たお母さんが、
「もう、どういう子なの!彼にこんなことさせてよく平気でいられるわね!」
 とさやかさんを叱った。
「大丈夫,大丈夫。私は気分転換になるから好きなんです」
 そう言うカレに、お母さんは、
「本当にすみません……」
 と、恐縮するばかりだった。
 2003年に待望の長女が誕生し、さやかさんはしばらく育児に専念した。育児が一段落した頃、カレが、
「子どもの面倒は僕がみるから、外出したい時には我慢しないで遊びにいっていいんだよ」
 と、言ってくれ、ひと月に2回ほどカレが早く帰れる日にあわせ友人と食事に出かけるようになった。さやかさんは、カレのおかげですっかりリフレッシュできたと知り合いの駐在員の奥さんに話した。するとその人は、
「さやかさん、母親のくせに小さな子どもをほったらかして遊び回ってるのよ、ひどいわねー」
 と言いふらし、周りの日本人女性からは子どもが小さいのに夜出歩くなんてと批判された。
 さやかさんは落ち込んだ。
「でも、カレにそのことを話したら『幸せになるためにはどうするのがよいのか、人にはいろいろな考え方がある。僕たちは僕たちのやり方で幸せなんだから、周りの意見は気にしなくていいよ』と言ってくれて。気持ちが楽になりました」

 一度だけ、大きな衝突があった。

 長女が誕生した頃から、教育方針の違いなどでカレと言い合いになることが出てきた。ある時ふたりは幼稚園の選択で意見が食い違う。さやかさんは、
「あなたはまったく子どものことを考えていない!」
 とカレを強く責めてしまった。その時、車を運転していたカレがポロポロ泣き出した。「僕は、家族のためにずっと一生懸命やってきたのに、それを理解してもらえなくてすごく悲しい」
 彼が泣くのを見たのは初めてだった。
 さやかさんはハッとした。
「結婚以来、ずっと彼は私を守ってくれた。カレの努力は知っていたのに、そんなカレになんということをいってしまったのかと、とても反省しました。カレの気持ちを考えず、ずっとカレに甘えていた自分にその時気がつきました」
 国際結婚という育った環境・習慣の違いの中で、どうすれば幸せな家庭をつくれるのかを一緒に考えてきたふたりだ。さやかさんは言う。
「夫婦って、片方だけじゃなく、お互いがお互いを思いやり続けていないといけないんですね。この気持ちを大切にしながら、カレと一緒に年をとっていきたいです」(文中は仮名)


SadoTamako

投稿者について

SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト