その1 スナック小姐から実業家へ。彼女についていこうと決めたワケ ー 梅木鉄平さんの場合 —

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 梅木鉄平さんが乗った旧式のサンタナは、森林とジャガイモ畑だけが続く山道をゴトゴトと音を立てて走っていた。中国北部・黒竜江省、まさに、カントリ〜ロード♪と歌が聞こえてきそうな田舎道だ。あまりに未開発な風景に驚きながら、梅木さんは横に座るカノジョを見つめた。こんな山奥からたった1人で都会に出てきて自分の店を経営するようになるまでに、カノジョはどれほどの思いをしてきたのだろうか。カノジョとのこれまでの3年間を梅木さんは振り返っていた。

 カノジョと出会ったのは、梅木さんが35歳でIT関連の会社の駐在員として北京に赴任して間もない頃だった。失恋した友人の気分転換になればと、3日間続けてスナックに繰り出した。そこでホステス、いわゆるスナック小姐として働いていたのが梅木さんより11歳年下のカノジョだった。梅木さんいわく「ドラミちゃん似」のカノジョは、小柄で目がくりっとしたぽっちゃり体型の明るい子だった。何度か店に通ううち、何人かで遊園地に行ったり食事をしたり、店以外で会うことが増えてきた。カノジョはいつの間にか梅木さんの家に居着いていた。

 梅木さんは大学時代にミュージカル系サークルでセミプロとしてステージにも立ち、女性にも人気があった。卒業後に神戸の運送会社に勤めていた時には一般職の女性に囲まれていたが、結婚したいと思う女性はいなかった。
「恋愛の機会はけっこうありましたが、日本で知り合った女性は依存心が強く、結婚を目的に値踏みされているような気がして本気になれなかったんです。女性を守るのは苦手なので、頼られすぎるのが嫌だったんだと思います」
 カノジョとも、結婚は考えていなかった。家が明るくなるのでカノジョが一緒にいたいのならいればいい、それだけだった。しかし、一緒に暮らす中で梅木さんはカノジョの向上心と人間的な強さを知っていく。雇われのホステスだったカノジョがその後友人と2人で店を経営。やがて、北京で人気のエリアに自分のスナックを持った。駐在員である梅木さんの給料はかなりの額になるが、カノジョの収入は1年後には梅木さんのそれを超えた。カノジョは今後、別のビジネスも展開する予定だ。
「カノジョの仕事に関してお金を貸したりしたことは一度もないです。むしろよく小遣いをもらっています」
 ふたりの時間は穏やかに流れていた。

取っ組み合いのケンカで決意した結婚
 
 そんな日々はカノジョとの大喧嘩を機に展開が変わった。
 ある日、カノジョは体調が悪く梅木さんに「今日は早く帰ってきて」と電話をした。接待中で酔っていた梅木さんは彼女の体調のことを知らず「うるさい」と言って電話を切った。
 深夜、家に帰りドアを開けるといきなりクッションが飛んできた。クッションはテーブルの上のグラスにあたり、グラスはカシャーン!と尖った音を立てて床に落ちた。この音に梅木さんの何かが切れてしまった。
「いきなりモノを投げるなんて、何考えてんだ!」と怒鳴った梅木さんにカノジョは殴りかかってきた。梅木さんにとって生まれて初めて女性との取っ組み合いの喧嘩が始まった。梅木さんは唖然とした。男の力はカノジョよりもずっと強いと思っていたが、小さな頃から喧嘩慣れし肉体労働の経験もあるカノジョの力は驚く程強く、梅木さんは首を絞めようとするカノジョから自己防衛するのが精一杯だった。部屋中のあらゆる物も飛んできた。最後にはカノジョがゴルフクラブを持ち出すのではと、梅木さんは命の危険を感じた。休戦を交えながら2時間ほど続いた取っ組み合いがピークに達する頃、カノジョが叫んだ。
「あんた、ほかに女がいるんでしょう!」
 梅木さんは意地でつい、
「対、そうさ」
 と言ってしまった。そのひと言で急にカノジョの力が抜けた。
 午前3時、数メートルと離れていないソファーにうなだれたカノジョから梅木さんの携帯にショートメッセージが届いた。
「明日出て行きますが、荷物を運ぶのに2、3日だけ時間をください」
 翌日梅木さんが家に帰ると彼女の姿はなく、荷物もほとんど整理されていた。
 カノジョがいなくなった部屋で梅木さんは考えた。自分は大学でサークル活動を楽しみ、留年もして24歳になるまでずっと親に養ってもらっていた。 カノジョは中学を卒業してすぐ家を出て、野宿をしながらたった1人で北京の都会に来た。そして飲食店で働き、重いビールケースも運びながら家に仕送りをしていた。30歳前にして今では店の経営者として日本人の自分より稼ぐまでに仕事を成功させた。 体力も人間力もこの人にはかなわない。負けるのは悔しいけれど、でも、もしこんな強い人が身内だったらこれほど心強いパートナーはいないのではないか。カノジョがつけた体のアザと爪あとを見つめながら梅木さんは思った。
 カノジョからは全く連絡がなかった。数週間後、梅木さんはカノジョの店を訪ねた。そこにはげっそりと痩せたカノジョがいた。
「その姿を見た時、こいつは自分と別れて本当に悲しかったんだと思いました。裏切らないのはこいつだ。こいつとなら一緒に前に進めると思いました」
 梅木さんは結婚を決めた。
 
 梅木さんとカノジョを乗せた車は、初めて会うカノジョの両親の家につながる山道を、奥へ奥へと進んでいた。(文中仮名)


その2 6歳からひとりぼっちを生き抜いたカノジョのスーパー危機管理能力 ー 近藤大介さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

近藤大介さんとカノジョに友人を加えた4人は、旅行先の雲南省麗江の木造2階建ての食堂で夕食を終え、地元の黒米酒を飲んでくつろいでいた。その時、いきなり「バーン!」という大きな音とともに、建物が崩れだした。生まれて初めて聞く驚愕的な音に何が起きたのかまったくわからない。戦争が始まって爆弾でも落とされたのか? 崩れかける建物の柱に猿のように捕まりながら2階から滑り落ちると、一階の台所は火の海だ。火の粉をよけながら4人は外に飛び出した。周りの建物も崩壊し、そこら中に火が上がって近藤さんたちを照りつけた。
 1996年2月3日、マグニチュード7.0 死者300人以上、1万7千人の負傷者を出した麗江大地震だった。近藤さんたちは幸い、この地震から無事に北京に戻ることができた。それは近藤さんの中国人の妻、「カノジョ」の力によるものだった。

 東京大学教育学部を卒業し大手出版社に勤めていた近藤さんは、大学時代から韓国に興味を持っていた。韓国の文化や歴史を研究していくと中国に突き当たる。1989年の天安門事件で、同じ若者が命がけで民主化のために行動を起していることに衝撃を受け、ますます中国への興味は募った。近藤さんは会社の研修制度で中国語を習い始めた。その担当教師がカノジョだった。近藤さんは当時「アッシー君」「メッシー君」という感覚で男性を見る日本女性たちとの会話にあまり興味を持てなかったが、カノジョとは哲学の話、文学、歴史、何でも同じスタンスで語り合うことができた。

 彼女の知識と見識の広さの背景はこうだ。北京生まれのカノジョは幼少期に1966年から10年間続いた文化大革命に巻き込まれた。大学教授で地主だった両親は最悪の階級とされ、父親は農村に下放され豚の世話をさせられた。母親は3年間監禁・拷問され、その後も軟禁生活を強いられた。両親がいなくなった家で、カノジョは6歳の時から3年間たった一人で暮らしていた。孤独な時間だけが有り余っていた。遊び相手もすることもないカノジョは、家にあった両親の書物を読みあさりその孤独を埋めた。その間にカノジョはほとんどすべての中国古典を読み終えていた。大学生になると、カノジョは民主化を求め天安門事件に参加した。その時、学生を武力鎮圧した中国政府に落胆し、カノジョは日本に渡ってきたのだった。
 子どもの頃から人間の暗の部分を見て育ってきたカノジョは近藤さんと出会い、中国で出会ったことがない正直で真っ白な人だと思った。1994年、近藤さんが29歳、カノジョが30歳でふたりは結婚した。

2度の革命をくぐり抜けた経験と直感が命を救った
 

 2年後、近藤さんはカノジョを伴って北京大学に社費留学した。
 冬休みを利用してふたりは留学仲間とともに雲南省を旅行し、麗江で歴史的大地震に遭遇したのだ。カノジョはどちらかというと体も弱く、普段は自己主張が強いわけではない。しかし、この旅行の時は最初から、カノジョは近藤さんが理解できないほど危機管理意識が強かった。
 まず、旅行のガイドは麗江の地元の人でと契約をしていたが、実際に来たのは地元民ではない漢族の学生アルバイトの女の子だった。ガイドを現地のプロに換えなければ絶対にツアーには行かないとカノジョは主張し、ガイドの女の子は泣き出した。近藤さんは「いい子そうだし、この子でいいじゃん」と言ったが、カノジョは絶対にダメだと譲らない。旅行社との口論の末、代わりに地元の納西(ナシ)族の男性ガイドがやってきた。
 ホテルにつくと、麗江で一番いいホテルで契約したはずが、3つ星ホテルになっていた。カノジョはこんなホテルには絶対泊まらない、もっと頑丈なホテルでなければダメだという。近藤さんは旅行の疲れもあり、このホテルでいいと思った。きれいな庭には大きな毛沢東像もあり、
「毛沢東像もあるし、ここでいいじゃん」と言ったが、カノジョはどうしても聞かない。仕方なく、一番ランクの高いホテルに移動した。
 その後一行は食事に出かけこの大地震に遭遇したのだ。

 燃え上がる民家の炎以外の明かりはなく、右も左もわからない近藤さんたちはうろたえるばかりだった。しかし、カノジョはすぐに地元ガイドを伴って、近くに水と食料を手に入れに行った。それから、安全な場所に移ろうとガイドと相談し、一番安全な場所は近藤さんたちが宿泊しているホテルだということになり、ガイドの案内で暗い道を歩いてホテルへ向かった。もし、これがアルバイトのガイドだったらどうなっていたかと近藤さんは想像した。
 途中の民家は総崩れだった。全壊した建物の中に、昼間に見た毛沢東像もあった。そうして山道を5時間歩き宿泊先のホテルに到着すると、そのホテルは崩れることなく地域の避難所になっていた。
 翌朝、カノジョは言った。
「とにかく、空港に向かわなければ私たちはここから出られない」
 だが近くには空港はなく、麗江空港が建設中なだけだ。カノジョはどんなにお金を使ってでも車を借りてその空港に行くと言う。近藤さんは使われていない空港に行くことにどんな意味があるのかと思ったが、他になす術もなくカノジョの言う通り空港へと向かった。空港はまだ何もないただの広い空き地だった。途方に暮れながら立ちすくんで30分ほどすると、そこへ何と政府の専用機が飛んできて当時の副総理(現在の全国人民代表大会常務委員長=国会議長にあたる)・呉邦国が降り立った。2度の革命をくぐり抜けて来たカノジョは、こういう大災害のときには国の要人が必ず現場に視察に来るとカンと経験で感じ取っていたのだ。カノジョは飛行機に向かって駆け出すと、関係者に救出の交渉をした。専用機は崑明空港に給油に寄るので、そこまでは搭乗してよいということになった。

 近藤さんたちは政府専用機で崑明に着き、そこから北京に無事戻った。被災地を脱出した最初の旅行者だった。


その3 中国人女性はもうこりごり。嫉妬・束縛に耐え続け、そして燃え尽きた関係

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

学生時代からIT系ベンチャー企業を立ち上げるなど、起業意識の高かった本田英俊さんは、2004年、家族の反対を押し切って北京にやって来た。約1年中国語を学ぶと05年から英語学習のためカナダにも留学。06年、貿易関連の会社を北京で立ち上げた。 
 本田さんは中国語力をアップさせ、また、この国の文化をより理解したいと積極的に中国人の友人を持とうとした。チャットでもよく中国人と会話をし、「カノジョ」ともQQのチャットで知り合った。数ヶ月の対話の後の07年春、カノジョの通う大学近くで初めてふたりは実際に会った。19歳のカノジョはAKB48の渡辺麻友似の美少女だった。何をご馳走しても「おいしい」と子どものように無邪気に喜び、積極的にソーシャルワークに参加する心優しいカノジョ。次の年の春節、カノジョから「我愛你」のショートメッセージが届く。それからカノジョが大学を卒業するまでの1年半は、本田さんにとって最も楽しく美しい時間だった。
 カノジョが大学を卒業し一緒に暮らし始めた頃から、カノジョの恐ろしいほどの嫉妬と束縛の日々が始まった。
 ある日ふたりで街を歩いていると突然カノジョの機嫌が悪くなった。どうしたの?と本田さんが尋ねても返事もしない。その夜、本田さんが眠りについた頃、カノジョはガバッと起き上がって怒鳴った。
「あなた、なんで他の女の子を見るのよ!」
 確かに道でかわいい子がいれば、男なら自然と目線はそちらにいく。その日もそういうことはあったかもしれないが、特に誰かをなめ回すように見た覚えはない。
「女性を見てはいけなかったらどこを見ればいいの?」と本田さんが聞くと、「男を見なさい」と言う。
 これを機に、携帯電話、持ち物、引き出し、すべてカノジョにチェックされるようになる。やましいことはないのでしたいようにさせておくと、要求は更にエスカレートし、女性と2人で会ってはいけない、チャットはダメ、mixiもダメ。共通の友人の女性をほめれば怒り、携帯のショートメッセージでビジネスの連絡を取っていた女性に「晩安!おやすみ」とメッセージを締めくくると他の女性に「おやすみ」と送ってはダメだという。 そして本田さんの友人や会社の従業員の悪口を言い、つき合う人を制限した。
 本田さんは、カノジョを甘やかしすぎた自分を反省し、態度をリセットした。本田さんは2年ぶりに友人の女性とお茶を飲んだ。当然このことも携帯をチェックしているカノジョの知るところとなり、逆鱗に触れた。我慢の限界にきていた本田さんはついに、
「僕を信用できないんなら別れよう」
 と切り出した。するとカノジョは人が変わったように「ごめんなさい、ごめんなさい」と、泣きながら謝り続けた。本田さんは努力するというカノジョをいとおしく感じた。

「朝ごはん、7時? 頭オカしいんじゃないの?」

 ある時友人の韓国人夫婦と食事し、お酒をついでくれるなど周りに細やかに気配りする韓国人の奥さんを見て、女性にはこういう風に優しくしてもらいたいと本田さんは改めて感じた。
 本田さんは結婚を前提にカノジョに話をした。
「もし僕たちが結婚をするのなら、毎日朝ご飯を作ってほしい、頑張ってと励ましてほしい、人前で感情を出さないでほしい、他人のことを悪く言わないでほしい、掃除洗濯をしてほしい。ダメなら、朝ご飯だけでも作ってほしい」
 カノジョは聞いた。
「朝ご飯って何時に?」
「7時」
 それを聞いてカノジョの答えはひと言、
「你疯了吗?=あんた、頭オカしいんじゃないの?」
 日本人的とはわかっているが、奥さんが作ってくれた朝ごはんを食べて1日が始まるのが本田さんの理想の家庭だった。
 朝ご飯を作ってくれないのなら結婚は無理だと言うと、カノジョはまた、努力すると泣き出す。実際、料理学校も探し始めた。だがしばらくするとカノジョは「朝ご飯のことを家族に話したら、家族全員にその日本人は頭がおかしいと言われた」と本田さんに伝えた。「お前を好きならそんなことは言わないはずだと」と言われたというのだ。家族の言葉に打ちのめされた本田さんは二人の関係に少し時間を置いて考えることにした。

 その後しばらくして女性の友人と食事をしていてばったりカノジョに出くわした。カノジョは誤解して「私たち別れましょう」と言った。カノジョとの関係に疲れ切っていた本田さんは、カノジョに釈明する力も尽き、そのままふたりの関係は終わった。
 本当のカノジョは一体本田さんとどう生きていきたかったのか、最後までわからなかった。カノジョは家族にも友人にも本田さんを紹介しなかった。知り合いの中国人女性から「カノジョを信用しない方がいい」とも言われ、「身分証(政府が発行し中国人は常に携帯する市民証)を見せて」と言った時に「なくした」と見せてもらえなかったことが、ふと思い出される。
 本田さんは振り返る。
「もしかすると、大学も出身も、名前だってウソだったのかもしれません。でも僕は本当にカノジョを愛していましたから、それはどうでもよかった」
 病的なまでの嫉妬も束縛も、両親が離婚をしているカノジョの生い立ちを考えれば折り合えたという。
「ただ、自分が当たり前と思ってなじんできたものを「疯=狂」と否定された時に全てが終わったのです。この人とは無理だと思いました。いつか結婚するなら、やっぱり日本人か、日本語が話せ日本に理解がある人と、と思ってしまいます」(文中仮名)


その4 老いた両親も和んだ、たどたどしい愛らしさ ー 木村祐介さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

2005年夏、会社の事務所設立に伴って木村祐介さんは北京に赴任した。現地スタッフとコミュニケーションをはかろうと中国語学習にも力を入れた。赴任して1年半ほどの頃、友人の結婚式に同席していた13歳年下のカノジョ・李麗(リ レイ)に出会う。ちょうど会話ができるようになっていた木村さんは、会話の練習のためにも中国人の友人を作りたいと思っていた。明るくて人懐っこいカノジョを木村さんは食事や映画に誘うようになった。それからしばらく、ふたりは親しい友人として過ごしていた。

 木村さんは実家の秋田に住む両親とスカイプのテレビ電話でよく話をしていた。2008年8月10日、デートでオリンピック競技を見に行きふたりが木村さんの家に戻ったとき、両親からスカイプ通信が入った。それまで、木村さんの結婚のことに触れたことはなかった母親だが、その日なぜか、
「国際結婚でもかまわないから、いい人がいたら早く結婚しなさいと」言った。そのとき、木村さんはふと、横にいるカノジョに聞いた。
「僕の両親と話してみる?」 カノジョは少し考えた後、うなずいて木村さんの両親に片言の日本語で初めて挨拶をした。
 ふたりが結婚を意識した瞬間だった。

 しかし、木村さんの勤める北京事務所は東京本社の方針転換で撤退を決め、木村さんも半年後の帰任が決まる。
 木村さんについて日本に移住するか決めかねているカノジョに、木村さんは先ずカノジョに日本を見せようと思い、日本の入国ビザを申請した。しかし、カノジョのビザ申請は簡単ではなかった。不法就労、偽装結婚の件数が増え、入国管理局の審査が厳しくなりビザがおりないケースもあると聞いて木村さんは気をもんだ。インターネットなどで情報を見ると、確実にビザを取るには保証人である木村さんとカノジョの関係を証明する何かが必要だった。木村さんは考えた。カノジョが婚約者であることを証明できるものはあるのか? ひとつ証拠になるものがあった。母親からの手紙だ。木村さんの母親は、食物など秋田の名産品を定期的に石川さんに送っていた。その中には短い手紙が入っていて、いつでも「レイちゃんは元気?レイちゃんによろしく」と書き添えてあった。
 帰国前の正月、ふたりは秋田の実家に行き、春節、木村さんは重慶に住むカノジョの両親を訪ね、結婚の申し込みをした。

言葉より、気持ちでわかり合えた

 帰任後、カノジョは木村さんが住む東京にやってきた。するとその2週間後に、木村さんの父親が入院、手術をすることになった。まだほとんど日本語ができないカノジョを実家に連れて行っても世話をする人もいないので、カノジョを残し木村さん一人が病院に行く予定だった。しかし出発の前日、カノジョは言った。
「言葉はできないけど、私にも何かお父さんお母さんの役に立つことがあるかもしれない」
 ふたりは一緒に秋田の病院に駆けつけた。憔悴した母親にカノジョがつき添い、代わって木村さんが父親につき添った。木村さんは驚いた。片言しか日本語がしゃべれないカノジョだが、木村さんの母親とはなぜか会話が成り立っていた。誰かがついていることで、母親も心強く感じているようだった。木村さんは言う。
「このとき思いました。日本人どうしでも、気持ちが通じない人はいます。コミュニケーションって言葉じゃなくて、お互いを理解しようとする気持ちなんだと」

 それから1年と少しが経ち、カノジョも東京の暮らしに慣れてきた。街にゴミが落ちていないこと、空が青いこと、道路が人優先で歩けることが東京の暮らしでカノジョが一番喜んだことだった。そして、物価が高いこと、これが一番のストレスだった。木村さんは、カノジョが病気になった時のコミュニケーションなど、日本でのカノジョの暮らしに心配事がなかったわけではないが、だんだんと日本語も話せるようになり、日本の暮らしに慣れていくカノジョを、子どもが育つようなうれしさで見守っていた。

 そんな頃、実家の木村さんの父親に余命1カ月の宣告があった。木村さんは思いきってひと月休みに近い体制を取り、カノジョを連れ実家に戻った。両親は、年若く言葉もまだ流暢ではない外国人のカノジョを、まるで孫ができたかのようにかわいがった。 そうして家族は一緒に悲しくも充実した最後の時間を過ごした。
 12月30日、木村さんの父親は永眠した。正月と重なり、お葬式は1月4日に行われた。それまでの5日間、実家に眠る父親に、カノジョは毎朝声をかけていた。まだ気の利いた日本語が話せないカノジョが言っていたのは、
「お父さん、おはようございます。レイちゃんですよ」
のひと言だった。けれども木村さんは感じていた。たったひと言でも、父親にはカノジョの気持ちはちゃんと届いている、と。


その5 鬼嫁は最強のビジネスパートナー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

大学時代に半年間北京に留学し、急速に変化・発展する社会にビジネスチャンスを感じた益子知大さんは、大学卒業後の2004年、北京大学で2年間中国語を学び、北京のクリニックに就職した。
 そこで、中国医薬大学を卒業して働いていた黒竜江省チチハル出身のカノジョと出会った。見た目もかわいく、一生懸命仕事に取り組む姿に益子さんは密かな好感を持った。ある時、益子さんはカノジョに鍼灸マッサージを施してもらい、初めてカノジョとゆっくり話した。日本語を勉強していたカノジョは益子さんに日本語を教えてほしいと言った。益子さんにとっては願ってもない申し出だった。それ以降、ふたりで日本語の勉強をしながら触れ合う中で、だんだんとお互いの気持ちが重なるのを感じた。益子さんはカノジョに日本語を教えてはいたが、中国人の考え方や流儀など多くを学んだのは益子さんの方だった。4年後の2008年、ふたりは愛情に満ちあふれ北京で結婚した。

 しかし結婚後、びっくりするほどカノジョの態度が変わった。束縛がすさまじく、1日に15回は所在確認の電話が益子さんに入る。ある時、益子さんがカノジョに無断で集金を兼ねてスナックに行ったことがバレてしまった。その夜カノジョは怒って家を飛び出し戻って来なかった。それ以降、益子さんは1日の行動のすべてをカノジョに報告するようにしている。
 また、家の家計を任せないのは信頼していないからだと詰め寄られ、家計のいっさいをカノジョに握られてしまった。益子さんは仕事以外でお金が必要な時にはカノジョの許可を得てお小遣いをもらう。仕事で忙しく、ほとんどお金を使う時間がないからではあるが、受け取る小遣いは月に200元ほどだ。
 益子さんは、この結婚後の変わりようをカノジョに尋ねたことがある。
「どうしてそんなに変わっちゃったの?」
 カノジョはひと言、
「妻の自覚よ!」
 と言った。

カノジョから教わる、中国人の機微

 カノジョは日本語学校に通い今では流暢な日本語を話す。現在は、中医の免許を取るために仕事と両立させながら大学にも通っている。恐妻家の益子さんではあるが、何事にも一生懸命に取り組み向学心の強いカノジョは、益子さんのこの上ないビジネスパートナーだ。中国でビジネスをする上で妻が中国人であるメリットは大きい。益子さんはカノジョを法人代表に益洋金塔(北京)電子商貿有限公司を中国内資企業として設立した。外資企業(主に北京の日系企業)のコンサルティング・代理業務を主とする。外資企業の場合、政府から許可される業務内容や輸入品目などには規制が多い。そういった許認可外の業務を益子さんの会社がサポートする。内資企業の強みを生かし、同時に日本人のきめ細やかなサービスを合わせた業務展開だ。益子さんは言う。
「中国のことは中国人でなければわかりません。たとえば、微妙な人間関係の保ち方は私1人ではうまく運べませんが、生活費を切り詰めてでもお客さんに会う時はお土産を持って行く、友人に仕事を手伝ってもらったお礼は直接ではなく『子どもに何か買ってあげて』と間接的に心づけを渡すなど、カノジョが教えてくれます」
 考えの方の違いで喧嘩をすることもしょっちゅうだ。業務契約を結ぶのに日系クライアントは本社とのやり取りなどで時間がかかることがある。益子さんは時間をかけて丁寧に対応すれば、次の仕事に繋がると信じ、契約前の問い合わせや相談にも忍耐強く対応する。しかし、カノジョは今後のつながりよりも今何件仕事が入るかという目の前の数字を重視し、「なんで仕事になるかわからない相手にそこまでするの?」と益子さんのやり方を無駄だと考える。
 考え方が違った場合、ふたりはとことん意見をぶつけ合うようにしている。そうして、一番いいやり方をふたりで探していく。 今ではカノジョも日本流のやり方を理解するようになってきた。

 益子さんはこれまでカノジョと暮らして感じた事をこう話した。
「一緒に暮らせば暮らすほど、中国人と日本人の大きな違いを感じます。特に、中国人と日本人ではまったく時間軸が違うと思います。日本人は積み重ねを大事にしますが、中国人はトライアンドエラーで、先よりも今できる事をスピーディーに思いっきり進めるやり方です。彼女と暮らしながらその違いをもっと知り、楽しんでいきたいと思います」


その6 想いはなお募る、別れても好きなカノジョ ー 泉卓也さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 東海道新幹線の窓から、泉卓也さんと南京出身のカノジョは五月晴れに輝く富士山を見つめていた。初めて訪れる日本の景色に無邪気に喜ぶカノジョ。そんなカノジョを愛おしく見つめながら、泉さんは大きな後悔の念を抱いていた。その後悔は、2年が過ぎた今でも泉さんの心をうずかせる。

 2006年秋、友人のパーティーで知り合ったカノジョは当時21歳、泉さんより5歳年下のデザイナーだった。深津絵里に見た目も感じも似ているカノジョを泉さんは当時できたばかりの遊園地に誘った。その夜、二人で食事をしながら話しているうちに、カノジョの飾らない素直さ、裏表ない正直さに泉さんはこれまで誰にも感じたことがないときめきを覚えた。しかし、カノジョはボーイフレンドと別れたばかりで、前のカレ以外の人を好きになれないという。泉さんは、
「彼のこと忘れさせられたら僕の勝ちだね」
 と、その日に緩い告白をしていた。
 すぐに恋人とはならなかったが、常に相手の気持ちを考える優しい泉さんと一緒にいるのはカノジョにとっても恋人と友人の間の心地よい時間だった。どちらから誘うともなく二人で過ごす時間は増えた。そして翌年の夏、泉さんは部屋の合鍵をカノジョに渡した。

 一緒に暮らし始めて半年ほどした頃、カノジョが「結婚したい」と泉さんに言った。泉さんも将来の結婚相手は彼女と漠然と感じていたが、27歳の泉さんにとって結婚はあまりに突然で、心の準備ができていなかった。もう少し時間を置いてゆっくり進めようとお茶を濁すような答えをして2年が経った。そして泉さんも結婚を考え出した頃、カノジョのお父さんが突然病気で亡くなった。それを機に、カノジョの母親はカノジョに地元の有力者の子弟と結婚をして地元に帰ってくるようにと言い出した。母親は泉さんとカノジョが暮らしていることは知っていたが、もともと戦争のイメージから日本人が嫌いな母親は、泉さんの存在をほとんど無視していた。1人きりになってしまって娘に執着する母親の気持ちもわかるカノジョは、ある日泉さんに言った。
「私たち、結婚できないかもしれない」
 泉さんは驚きと混乱でパニックになりそうになりながら、二人のことを考え続けた。カノジョと一緒に母親の住む南京に暮らしてもいいとさえ思ったが、冷静に考えると、南京で日本人である泉さんが安定した職を得られる可能性は低い。現在現地採用で大手の会社に勤めている泉さんの待遇は、一般的な中国人に比べればかなりいい。しかし、正社員ではないので将来どのような道を自分が歩いていくのか悩んでいるところだ。こんな自分でカノジョを幸せにできるのか。将来が見えない自分と結婚するより別の人と一緒になる方がカノジョのためなのではないか。反対するカノジョの母親を説得し、彼女と結婚して南京で暮らし、カノジョと母親を幸せにする自信は泉さんにはなかった。

日本を巡った思い出づくりの旅

 結婚をしないのならカノジョの時間を無駄にさせていけないと、泉さんはカノジョと別れることを決めた。泉さんは最後に二人の思い出をつくりたかった。前から一度見せたいと思っていた日本に招待しようと決めた。
 しかし、日本の入国手続きは簡単ではなかった。身元引受人がいないとビザがおりない。泉さんは家族に保証人になってもらえないか相談した。
「結婚はできないかもしれない人だけど、何年も一緒にいてくれて僕の辛い時に支えてくれた人だから」と話すと、家族からはカノジョを歓迎すると返事がきた。泉さんの兄が保証人となり、泉さんはカノジョを連れ日本中を旅行した。実家でも両親と一緒に過ごした。素直で、片言の日本語や英語を交えて母親が作った料理をはっきり「VERY おいしい」「NO おいしい」というカノジョは両親にも評判がよく、笑いのたえない日々だった。泉さんは自分の中に後悔が残らないように、とにかくカノジョが楽しめるようにとできるだけのことをした。

 彼女と別れて2年がたった今も、カノジョ以上に気持ちが通じる人に泉さんはまだ出会えていない。折りに触れカノジョとのことを思い出す。美しい時間は思い出の中でますます大きくなってくる。カノジョが結婚したいと言った時、なぜ、自分はカノジョとの結婚を真剣に考えなかったのだろう。カノジョ以上に愛せる人はいないと年月を追うごとに確信しているのに。
「僕の中ではカノジョは過去の人ではないんです。ずっと大事な友人で大切な人です。お互い、それぞれ違う人と結婚すると思うけど、でも、ずっと年老いたころ、やっぱり自分たちは一緒に暮らしているんじゃないかと、今もどうしても思えてしまうのです」

(文中仮名)


その7 「サルサが引き寄せる運命の男と女 ー 三谷義之さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 北京のIT企業に赴任して間もない三谷義之さんが北京のサルサクラブでカノジョと出会ったのは2006年、ある夏の夜だった。湖南省出身でデザイン関係の仕事をしているカノジョは明るくていつでも微笑みを絶やさず、まっすぐな視線で話をする。そんなカノジョに三谷さんは一瞬で魅かれた。カノジョにゆっくり手を差し出すとカノジョはにっこり立ち上がり三谷さんの手を取った。ふたりはラテンミュージックの響くホールに流れるように踊り出た。     
 サルサは未経験のカノジョだったがリズムはしっかり取れていて、三谷さんは久しぶりに波長の会う女性と踊る心地よさを堪能した。サルサを踊って10年になる三谷さんだが、ダンスで一番大切なのはお互いのリズムだそうだ。この夜ふたりは時間がたつのも忘れ一緒に踊り続けた。そしてその夜から一年後、ふたりは北京で結婚することになる。

 出会った翌日、三谷さんはカノジョの携帯にショートメッセージを送った。「你在哪儿(どこにいるの)?」「我在书店(本屋さんにいるの)」と返事があった。買いたい本もあった三谷さんは「 我也可以去吗(僕も行っていい)?」と聞いた。「可以(いいわよ)」と返信があった。当時まだ中国語があまり話せなかった三谷さんと、日本語も英語も話せないカノジョとの会話は主に筆談で始まった。けれども三谷さんはコミュニケーションの不自由をまったく感じなかった。言葉は通じなくともお互いの気持ちが何でも理解できるのだ。そんな不思議な波長の一致が心地よかった。

 カノジョも三谷さんにこれまで知り合った中国人男性とは違う魅力を感じていた。言動や立ち振る舞いに品があり、常に他の人を尊重し、先の事を視野に入れて物事を考える三谷さんに運命的な出会いを感じた。カノジョは三谷さんの印象をこう話す。
「彼と知り合うまでは、私は目の前にあるものだけを見ていました。例えば洋服でも何でも安いものがあれば安いから得したと思って買う。でも彼は、いいものを買って長く使ったほうが人の印象もよくなるし自分も気持ちいいからと、量は少なくともいいものを買うように私に言います」
「 今までつきあった中国人男性は表面的な事はいろいろとよくしてくれたけど、私の生き方とか、本質的なところでは私の気持ちを聞いてくれなかった。彼はいつでも私の立場に立って考えてくれるのです」

ソクラテスに背中を押され……

 知り合って2カ月後、三谷さんはカノジョから結婚したいと言われた。三谷さんは混乱した。彼女の事は大好きだ。でも、知り合ってたった2カ月で結婚とはいくら何でも早すぎる。三谷さんはたじろぎながら、
「もう少しお互いを知ってから考えよう」と、防線を張った。
 カノジョは言った。
「OK! あなたの言うことはわかったわ。じゃ、お互いを知るために私たち一緒に暮らしましょう」とカノジョは三谷さんが状況を判断する間もなく、三谷さんのマンションに越してきた。
 事の進展にどぎまぎしながらも、ふたりの生活は三谷さんにとって楽しいものには違いなかった。
 そして、それから半年した頃、彼女が言った。
「私たち、もう十分理解したでしょ。そろそろ結婚しましょう」
 三谷さんはまだ結婚に踏み切れなかった。 カノジョとは一緒にいたいけれど、もう少し時間をかけてお互いを理解したいと答えた。
「理解って、いったいどこまですれば気が済むの?歯を磨くとき、相手が縦に磨くか横に磨くかまで知ることが必要なの?」カノジョは言った。
 三谷さんは、自分の中にある結婚に踏み切れない理由をカノジョに伝えた。将来自分は仕事や両親のために日本に戻るかもしれない。そのとき、日本語ができないカノジョを連れて日本で暮らすことが、湖南省から出てきて北京でデザイナーとして仕事を成功させているカノジョにとっていいことのか?結婚して子どもが生まれたら、その子はどちらの国でどちらの国籍で暮らすのか?他にもどうするのがいいのかわからないことがたくさんある。その答えを出す時間をもう少し欲しいと三谷さんは思っていた。それを聞いたカノジョは言った。
「それは確かに難しい問題。難しいからこそ、結婚して一緒に考えましょうよ」

 その後、親との面会の日取りや、結婚手続き、式の日取りと、カノジョはどんどん前に進めていく。三谷さんは皆にとって一番よい方法を考え続けたが答えは出ない。そんなとき、前に読んだソクラテスの話を思い出した。
  ある若者が結婚すべきかどうか悩み、ソクラテスに相談した。ソクラテスはこうアドバイスした。
「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」
 どうせ後悔するのなら、結婚して後悔したほうが、しないで後悔するよりはいい、と、三谷さんは自分の迷いに結論を出した。

 三谷さんは言う。
 「結婚してよかった事は、波長の合う家族と一緒に過ごせることはこの上ない安らぎです。少しの後悔は、誰でもきっとそうであるように、結婚によって自分の自由な時間は少なくなりました。でも、こんなに波長のあうカノジョを失っていたら間違いなく後悔していたと思うので、やはり結婚しよかったと思っています」
 結婚して5年が経った現在、ふたりは2歳の子どもの父親と母親になった。今でも三谷さんはカノジョを連れときおり週末のサルサクラブに現れる。時が経つに連れふたりのダンスはより溶け合っていく。(文中仮名)


その8 タクラマカンに魅せられた探検隊長、上海で理想のカノジョに出会う ー 黒川真吾さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 2000年夏、タクラマカン砂漠のホータン川で立正大学探検部のカヌー3艇が激流に突き上げられながら目的地のアクスへ向かっていた。日本ではありえない流れの強さで押し寄せる大波は、海のしけに似ていた。いくつかの危険に遭遇しながらも、3艇は9日間かけて約700Kmのホータン川縦断を果たした。当時大学4年の黒川真吾さんはこのカヌー部隊の隊長だった。この縦断はその後の黒川さんの人生に大きな影響を与えた。
「努力して出来ないことは世の中にはない」。黒川さんはこのホータン川縦断の成功以来、この言葉を自分の信念とした。
 ホータン川縦断の経験から新彊ウイグル自治区に興味を持った黒川さんは卒業後新彊大学に2年間留学し中国語を勉強した。留学後東京に戻った黒川さんは通信社に就職し記者として働き出した。

  後に黒川さんの妻となる浙江省出身のカノジョは、アメリカ国籍の伯父がいることもあって、小さな時から国際感覚に触れて育ち英語が堪能だ。そして父親は実業家で、しつけのしっかりした家庭だった。
 長身で欧米人とのハーフのような顔立ちのカノジョは10年ほど前に上海に移りモデルとして活躍していた。 その後アメリカの叔父が上海に空運会社を立ち上げるとカノジョもその会社で営業職として働き出した。カノジョは極端なほどに好き嫌いがはっきりした性格で、社会知識などでも興味のないことにはまったく触れない代わりに、好きなこと、やりたいと思ったことは絶対にあきらめずにやり遂げる女性だった。持ち前の社交性とこの猪突猛進的な性格が相まって、カノジョは会社のトップセールスとして高額の収入を得ていた。
 
 2007年初夏、黒川さんが上海に赴任して間もない頃、ふたりは共通の友人に紹介され上海のバーで知り合った。カノジョは粋なワンピースでスレンダーな体を包み、コロナビールを傾けていた。黒川さんは一目見て、自分の理想の女性そのものだと思った。話をしても、お互いの前向きではっきりした性格がとても似ていた。これほど会話の波長が合う女性と出会ったのは生まれて初めてだった。カノジョも、人を批判することがなく、優しく、そして力強い黒川さんと一緒にいると、なぜかとても落ち着くのだった。 営業職のカノジョの仕事は主に接待で、仕事が終わる時間はいつも遅い。夜中の1時2時からでもふたりは、泰康路や巨鹿路といった眠らない上海の街に繰り出しふたりの時間を重ねた。それぞれが違った国、違った環境で育ったにも関わらず、こうしてこんなにふさわしい相手と出会えたことにふたりは「縁」というものを感じた。
 日中の習慣の違いも問題ではなかった。食べ残した食事を大量に捨てたり、食事中に立ち歩いたり、立て膝で食事をしたりと、中国では良く見かけることだが、日本人の黒川さんは違和感を覚えたこともある。けれども、ふたりの関係においてそういう小さなことはどうでもいいことだった。
 出会って1年と経たないうちに、ふたりは上海で入籍した。
 
カノジョに会って、前言撤回した父

 家族の反対がなかったわけではない。カノジョの故郷は旧日本軍が進駐していたこともあって、カノジョの親戚は日本人に負のイメージを持っていた。黒川さんの父親も、商社勤めで世界中の人や事柄に触れて来たにも関わらず、黒川さんが上海に赴任する際には、
「一つだけ言っておく。中国人女性とは結婚するな」と、黒川さんに釘をさした。中国人女性はきつくて怖いという漠然としたイメージを持っていた黒川さんは「はい」と、特に違和感もなく返事をしておいた。
 それぞれの家族の反対は予想していたが、黒川さんはさして気にしなかった。
「 反対されたら、何か手だてを考えればいいだけです」
 実際には、カノジョの親戚は黒川さんに合うとそのさわやかな人柄に好感を持ちすぐに家族として迎え入れた。中国人女性との結婚に反対していた父親には上海にやって来た際、まずは友人としてカノジョを紹介した。父親とカノジョはそれぞれ堪能な英語で話し会話は弾んだ。数ヶ月後、そのカノジョと結婚すると報告すると、知らせを聞いて誰よりも喜んだのは当の父親だった。
「僕は、相互不理解って、とても怖いと思います。日本に対していいイメージを持っていない中国人でも、一度日本に来ると、イメージが変わって日本を好きになる人が多い。日本側にしても中国側にしてもそうですが、メディアなどを通じたお互いの先入観があって、実際会って話してみれば好きになる人に反感を抱いている。こういうことが日中の場合はよくあります」

 結婚後、黒川さんは転勤で北京に赴任することになった。カノジョはためらうことなく黒川さんと一緒に、一人の友人もいない北京にやって来た。家事も料理も黒川さんのためによくこなす。カノジョが家族を大切にすることは、結婚後に身をもって知ったうれしい驚きだった。
 黒川さんは結婚当初のことを思い返した。結婚式後の二次会で友人が余興の手品をした時のこと。友人はカノジョに言った。あなたの一番大切な言葉を一文字この紙に書いてください。それを当てます。カノジョが紙に書いたのは「家」という文字だった。黒川さんはその時、カノジョの書いたその言葉が意外だった。けれども結婚して4年が経った今、それはカノジョが本当に一番大切に思っているものなのだと感じている。見た目も性格も理想的で、家庭も大切にするカノジョ。
「日本にいたら、彼女のような女性には出会えなかったかもしれません。どこの国というよりも、世界のどこかに自分の理想の女性がいて、その人と出会うことができた。そして結婚できて、僕はすごくラッキーな男だと思っています」


その9 大学准教授カップル+ひとり息子、北京と四国で営む11年の別居婚 ー 井口一馬さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 今年10歳になる息子の名前は伸宏くん。固定観念にとらわれることなく、大きな心でのびのびと生きてほしい。現在四国の私立大学准教授・井口一馬さんと、北京の芸術系大学准教授のカノジョの間に生まれた息子の名前にはそんな願いが込められている。
 井口さんが5歳年上のカノジョと出会ったのは1996年、井口さんが27歳、早稲田大学の博士課程で日本政治外交史を学んでいる頃だった。東京学芸大学教育学研究科に留学していたカノジョの修士論文の日本語チェッカーを頼まれ、井口さんは軽い気持ちで引き受けた。ところが、カノジョの日本語能力は予想以上に低く校正は膨大な作業となった。しかし、論文を手直ししているうち、井口さんはカノジョの発想や論点が優秀でとても頭のいい人だと知った。しかも美人で小さな頃からバレエで鍛えた抜群のスタイルのカノジョを井口さんは好きにならないではいられなかった。カノジョも、井口さんを心から信頼できる人だと感じた。二人が恋人として親しくなるのに時間はかからなかった。
 カノジョは四川省の出身だ。文化大革命が終わった77年当時の地元はとても貧しく、両親は、体も顔もきれいなこの子ならバレエの道に進めば食べていけるかもしれないと考え、13歳のカノジョを北京中央民族大学の舞踏の専門課程にひとり入校させた。カノジョはそこで国家を代表するバレリーナを育成するカリキュラムに18歳まで所属し特訓を受けた。練習は厳しかった。屈伸などの訓練で「痛い」というと、練習量は2倍にされた。カノジョは中央民族大学の助手を経て北京舞踏学院舞踏学科の第一期生として入学し舞蹈の理論を学び、その後、東京学芸大学で修士課程に進んだ。
ー フリーター、迷った末に結婚を決意 ー
 
 修士論文は無事合格となり、カノジョは大学の博士課程を目指し勉強を続けた。井口さんも博士課程で研究を続けながら、大学の非常勤講師や予備校で講師のアルバイトをして生計を立てていた。カノジョはよく井口さんに結婚したいと言った。その度に未だ大学への就職も決まらず ”フリーター” だった井口さんは、「仕事も経済的にも安定していないから」と全否定していた。30歳半ばを迎えるカノジョのことを考えると、このままでいいのかと悩んでもいた。
 
 そんな頃、北京の芸術系大学からカノジョに連絡が入った。常勤講師の空きがあるので戻ってこないかと。大学で働き口が見つかるほどいい機会はない。井口さんは現実を考えた。カノジョの年齢的にも出産をするならそろそろ結婚した方がよい。しかしその能力がない自分がカノジョの時間をこれ以上無駄にさせるわけにはいかない。
 99年秋、「困ったことがあったらいつでも連絡してください」という言葉で井口さんは帰国するカノジョを見送った。
 新しい暮らしに馴染めないカノジョからは時々国際電話が入った。お見合いもしているが、いい相手は見つからないという。リアリストの井口さんではあるが、カノジョのいなくなった淋しさは、日を追うごとにボディーブローのように効いてくる。カノジョ以上に魅かれる人にこれから出合うことはないだろうという思いが強くなるばかりだ。半年後、井口さんは電話でカノジョに言った。
「僕と結婚しませんか?」
 カノジョは同意した。もし井口さんが大学に研究者として残れず一生フリーターのままになったとしてもそれでもいい、そうカノジョは思っていたという。
 それから1年後、二人は入籍し、さらに1年後には長男の伸宏くんが生まれた。その後、井口さんは四国の大学で教鞭を取ることが決まり、以来11年間、カノジョが研修で1年間日本に滞在した期間をのぞいて、家族は四国と北京で別居生活を続けている。
「もともとは生活のための別居でしたが、常識から外れたことでもやってみると意外と何とかなるものです。カノジョと一緒に北京で暮らしている息子とはスカイプで毎日会話をしています。欠席した学生のために録音した私の授業の音声を息子は『僕のパパだ』と喜んで聞いているようで、ほぼネイティブな日本語を話します。『先生が二個いる(中国語では二人=両個人となるため)』など、ヘンな変換をすることもありますが(笑)」
 中国人を家族に持ち中国を身近に感じ、そして、日本政治外交史の専門家として日中関係についても考察を深めてきた井口さんは、中国人とつき合うコツを次のように話してくれた。
「日本人と中国人の物の見方、特に歴史観はまったく違います。 たとえば、満州引き上げ、残留孤児問題など日本では悲劇と捉えていることが、彼らからは自業自得と思われているかもしれません。一般的に日本人が国内で見聞きしている中国人はノンエリート層が多いですが、中国のエリート層は特に、歴史問題に関しての彼らなりの知識と考えを持っています」
 見る角度によって物事の捉え方は違う。終戦記念日を迎えると、夫婦で歴史解釈を巡り喧嘩になり、答えの見つからない言い合いが続いていた。理論武装してどちらかが相手を言い負かしたとしても何かが解決するわけでもない。今では夫婦はなるべく歴史問題には触れないようにしている。
「それでも話題にするのであれば、自分の見方や固定観念を相手に押しつけるのではなく、違いがあることを認識し、その違いの中でどうするのが一番お互いのためになるのかを考えていくことが大切だと感じます。息子には、双方の考えの違いを受け入れられる伸びやかな心で日中のハーフという宿命を生きていって欲しいと願います」(文中仮名)


その10 一文無しの元証券マン、最愛の中国女性と30歳年の差婚 ー 橋下慎太郎さんの場合 ー

2016年9月1日 / 僕のカノジョは中国人

 バブル絶頂期の1990年、42歳の橋下慎太郎さんは最年少で大手証券会社の法人部長を務めるエリート証券マンだった。当時銀行は橋下さんのようなエグゼクティブには無担保で数千万円の融資をしていた。自宅を担保に借りた資金と合わせ1億円を投資したゴルフの会員権は10倍となり、橋下さんは10億円の資産家となった。橋下さんはその10億円を担保にゴルフ会員権に再投資した。
 しかし、すぐにバブルが弾け会員権は価格が下がりはじめ、98年のアジア金融危機の頃には13億円ものマイナスに。橋下さんは一気に3億円の借金を抱えた。会社員の給料では一生かかっても返済できない。銀行から取り立てにあう橋下さんに当時の妻は冷たかった。貯金を数百万円返済に回したいと言ったが、そんなものはないと突っぱねられた。取り立ては会社にまで及ぶようになり、橋下さんは辞職。ノイローゼから深刻な鬱病になった。
 ある日、女性問題で妻と口論になった橋下さんは我を失い、気がつくと椅子を振り上げていた。これまで人に暴力を振るったことなどなかった橋下さんは愕然とした。緩めた手から落ちる椅子の音が家中に響いた。家庭が壊れる音だった。妻は鬱病と借金を背負った橋下さんを捨て出て行った。後日「なるべく早く提出して下さい」と添えられた離婚届が送られてきた。

 仕事も家庭も失い、3億円の借金とともに絶望のまっただ中にいた橋下さんに米国系ヘッジファンドから投資先コンサルタントへの誘いがあった。もともと証券会社では法人部長で投資のトップセールスだった橋下さん、成功報酬でマージンを受け取る形でどんどん数字を出し、再び1億円の黒字となった。橋下さんはその1億円を資金に株に投資し順調に利益を出した。また派手な生活が始まった。しかし金は潤沢でも1人の生活はわびしかった。
 夜、暗い部屋に戻って「ただいま」と言っても誰も答えてくれない。入浴中に心臓発作が起こっても1人で死ぬしかない。若い頃には想像もしなかった恐怖が頭をよぎるようになった。誰でもいいからそばにいてくれる人が欲しい、橋下さんは切実に思った。
 橋下さんは経済援助をする形で数人の中国人留学生とつき合った。
「援助交際とは違います。僕は本気で彼女たちを愛おしく思ったし、結婚を考えた子もいました。でも、つき合う段階では年も取って見た目もそれほどよくない僕ですから、経済的援助でもしない限り相手にされないのです。学費や大学の入学金や住むところの世話、帰国の際の家族へのお土産などで、1人に年1千万円くらい使っていました」

ジェットコースターなバクチ人生、ついに愛の巣に

 そんな頃、友人の紹介で黒龍江省出身のカノジョと出会った。カノジョ23歳、橋下さん53歳。カノジョは親戚中から借金をして知り合いもいない東京に留学、通っていた大学の狭い寮に数人で住み、一尾のアジを半身ずつ4日もかけて食べるような貧しい生活のなかで一生懸命勉強をしていた。自分よりずっと根性のある子だなと橋下さんは感じた。純粋にそんなカノジョの力になりたいと思った。その後、カノジョは結核で入院。アルバイトができないため学費を払えず国に帰るという。当時株の売買が順調で銀座で一晩数十万円も使っていた橋下さんは、50万円の学費くらいなら自分が支援してもいいと思った。
 顔見知り程度の橋下さんが学費を援助してくれたことにカノジョは驚く。お礼にせめて掃除でもさせてくださいとカノジョは橋下さんの家にやってきた。1人暮らしの橋下さんの部屋の荒れようにあきれながらもカノジョは数日かけて掃除をした。そこにはふたりの空間がだんだんと整っていった。
 17歳で母親を、19才で父親を亡くし、その後一人張りつめた思いで生きてきたカノジョは橋下さんと一緒にいると大きな安堵感を感じた。橋下さんも金目当てで近づいてくる女性たちとは違うものをカノジョに感じた。お金に興味がある風でなく、安いお好み焼き屋に連れて行くだけで子どものように喜ぶ。この子は本当に精神的に自分を必要としていると感じた。 ふたりは30歳の年の差を越えつながりを感じるようになる。
 2002年の暮れ、ふたりでカノジョの故郷に帰った。
「あなたたちいつ結婚するの」と聞くカノジョの叔母に、思わず「僕はいつでもいいと思っています」と答えた橋下さんの言葉がプロポーズとなった。
 翌年ふたりは結婚した。
 結婚後、橋下さんの運勢は上がり始め、順調に株式投資を続けた結果資産は数億円に膨らんだ。折しも小泉内閣が郵政民営化を掲げ総選挙で圧勝。橋下さんは今後の好景気と株価の上昇を確信し勝負に出た。信用取り引きを利用し手持ちの3.3倍の融資を受けて急成長中のライブドア株などを大量に購入。元エリート証券マンの読みは確かなものだった。その後ほとんどすべての株が値上がりし、一時期、日本はバブルの再来かと言われるほどの好景気を迎えた。しかし、なんとその直後にライブドア事件が起きる。東京地検の家宅捜索がライブドアに入ると、関連株価は連日ストップ安をつけ橋下さんは大慌てで持ち株を売りに出した。やっとのことで株価が3割下がった時点で売り抜けたものの、元金をすべて失い橋下さんはまた一文無しになった。残ったのは、以前にカノジョ名義で買ってあった中国のマンションだけだ。
 マンションは離婚してもカノジョのものになる。橋下さんはカノジョも自分を捨てて、金とともに去ってしまうのかと元妻との離婚を思い出した。しかしカノジョはそんな橋下さんに言った。 
「もともと、私はお金持ちと結婚したわけじゃありません。あなたという人と一緒にいたくて結婚したんだから、あなたにお金があってもなくても関係ないわ」
 その年ふたりの間に生まれた長男は、今年6歳になる。(文中仮名)