Vol.5 リサーチ会社経営・安田玲美(北京和僑会理事) ー 北京世研伝媒広告有限公司・北京世研信息諮訽有限公司・等、CRCグループ10社およびエンジェルエンジェル服装服飾有限公司の総経理




(写真)安田 玲美


<プロフィール>

やすだ なるみ。1972年東京都足立区生まれ。小中高時代を岩手県久慈市で過ごす。94年大東文化大学外国語学部中国語学科卒。同9月北京の首都師範大学に語学留学。97年5月、舞台衣装製作の日中合弁企業を設立するが、倒産に近い状況を経験。さまざまな職を経て2001年、中国社会科学院メディア研究所調査センターに勤務、日中間コミュニケーションを学ぶ。02年調査会社(CRC)を設立、12年2月現在、CRCグループは10社に拡大。

 
 
 
 
1人め:胡堅(47) ー 撤退寸前を支えたパートナーは、熱い怪獣キャラ

 
日本と中国が国交正常化40周年を迎える今年、安田も40歳になった。田中角栄首相(当時)が北京で周恩来首相(当時)と国交正常化に関する共同声明に調印したのは1972年9月。安田は同年1月に生まれている。

こうした背景に育った安田は、小4の時、テレビで中国残留孤児の中国人養父母のドキュメンタリーを見て、中国に行きたいと思うようになった。国際関係に関心のあった母が、本を読んでは小さな安田に話して聞かせたことが、中国に引き寄せられた最初のきっかけという。小中高と、卒業文集では将来の夢を「中国語の通訳」と書き続けてきた安田は、大学で中国語を学ぶと94年に北京の首都師範大に留学。以来18年間、北京との縁は切れない。昨年末は女性向けビジネス誌・日経ウーマンの『2012 ウーマン・オブ・ザ・イヤー キャリアクリエイト部門』を受賞した。中国で調査会社を設立し、日本企業の中国展開を支援、日中の懸け橋として事業・交流促進に貢献してきたことが認められての受賞だ。

 
BB:ウーマン・オブ・ザ・イヤーの受賞おめでとうございます!

安田:ありがとうございます。去年は私の故郷・岩手県久慈市も被災して大変なさなかでしたので、お断りしようと思ったんです。でも、被災したふるさとの仲間の励みになり、私を支えてくれた中国のみんなに喜んでもらえるならと、お受けしました。中国のスタッフがとっても喜んでくれたのが嬉しかったです。

 
BB:被災後は毎月北京から岩手県久慈市に通って被災地支援を続けてこられていますが、そもそも、中国への目覚めがすごく早いですよね。

安田:ええ。小さい時から中国語の通訳になるのが夢でした。大学では中国語を専攻し、大学には中国人留学生も多く、当時から中国人の友人がたくさんいました。卒業後は中国への留学をと決めていて、母校と提携している北京師範大学に行くつもりだったんですが、中国からの留学生の友人の強い勧めで、彼の恩師で日本語の大家の先生がいる首都師範大学に留学先を変更しました。

 
BB:17年前の北京はどんな様子だったんでしょう。

安田:「真っ暗」。それが北京の第一印象でした。夜、現在の北京首都国際空港の第1ターミナルに到着し、迎えに来てくれていた車で、市内までただただ漆黒の闇が広がる中を疾走しました。街中に着いてもなお真っ暗でした。当時の北京の夜は本当に暗かったんです。先生の紹介で、すぐに中国共産党青年団の幹部に日本語を教えるアルバイトを始め、仕事を通して生きた中国語を吸収しました。2年間の留学を終えると就職活動のために一旦日本に戻りました。

 
BB:当時はどんな就職先を希望していたんですか?

安田:北京の大使館の派遣員の職を受験しようとしていました。この仕事なら必ず北京に戻れますから。どうしても中国で働きたかったんです。

留学を終えて日本に帰ったその日の夜、留学中に親しくなった友人が、自分が中国で出会った人たちを一堂に集めて開いた食事会に呼んでくれました。そこで、衣裳のデザイン事務所の社長さんと知り合いました。その女性社長ちょうど中国の天津で会社を設立したばかりでした。社長に同行通訳のアルバイトをしないかと誘われ、就職試験までの間ならと、ふたつ返事で引き受けたんです。

 
その会社は天津でスタートしていた。法律上の制約により、当時の北京では製造業として独資の会社をつくることはできなかったからだ。だが、天津では材料の供給や委託先など不便が多い。

社長に北京で一緒に会社をつくろうと誘われ、なんとか北京で独資の形態で会社をつくれないものかと周囲に相談していた安田に、留学時代からの中国人の友人が自分の以前のビジネスパートナーを引き合わせた。

 




(写真)福建の沙県という田舎町にある工場でのフージェン。工場から出てきた染色サンプルでは納得が行かず、2人して飛行機とバスを乗り継いで現地の工場まで直談判に出かけた時のスナップ


安田:「彼とパートナーを組みなさい。絶対に間違いないから。私が知っている人間の中で最も信頼できる人だよ」と、その友人が紹介してくれたのがフージエン(胡堅)です。フージエンは中国の大学で生産管理を学んだあと横浜国立大学大学院に留学し、北京に戻ってからすでにスリッパ工場を経営していました。

彼の方にも、日本人と組みたい理由がありました。当時、内資企業には輸出入権が与えられませんでしたが、外国資本と合弁することで、正規の輸出入権が獲得できます。また、外資企業には免税減税などの優遇政策が適用されていたため、こうした政策を活用したいと考えていたんです。

こうして私たちは共同で会社を設立することにし、彼のスリッパ部門と私たちの衣装部門をそれぞれ独立採算にしました。ひとつの会社で2つの事業をお互いに干渉し合わずに運営していくことにしたわけです。

 
大陸的な豪快さと日本人以上の繊細さを併せ持ったフージエンは、ビジネスのいろはも知らない25歳の安田をビジネスパートナーとして引き受けた。以来、フージエンのリクエストにより、安田は「ケンちゃん」と彼を呼ぶ。安田が「ドスドスして怪獣みたいな、でもあったかい人」と形容する「ケンちゃん」との打ち合わせは全て中国語。

97年の年明けに日中の合弁企業『エンジェルエンジェル』はスタートした。

 
安田:私たちの衣装部門はサンリオピューロランドやシーガイヤのオーシャンドームなど、アミューズメントパークのステージで使われるような舞台衣装の制作を主力事業としてスタートする予定でした。ところが、会社設立の手続きなどに当時は驚くほど時間がかかり、ようやく正式にスタートした98年には、すでに日本のバブル崩壊から実質経済にも影響が出始めていました。日本から来るはずだった仕事はなくなり、やむなく方向転換して中国国内で営業をかけていくことにしました。高校・大学時代にバンドをやっていたため、北京に留学してからも現地のミュージシャンの友人が多くできました。その彼らに衣装制作の仕事を始めたことを伝えたところ、友人たちが舞台衣裳の必要な芸能人を紹介してくれ、ステージ衣装の製作を受注するようになりました。ほかに、レストランや工場のユニフォームなども受注しました。日本から専門誌を買ってきて研究して、ナイトクラブのダンサーの衣装などもつくりました。

ある日、レストランを始める日本人の知人から「制服を作りたい」と依頼を受け、見積もりを持って行きました。彼は見積もりを受け取って数字を見ると「だめだなあ、玲美ちゃんは」と言いながら私が書いた金額の横に何か書いているんです。「あれ、高かったかなあ」と思いながら彼の手元をのぞくと、書いてあった数字をすべて倍の金額に書き直していました。経営が苦しいことを知っていたその人は、売上をたくさんつけてくれたんです。

 




(写真)日本出張した時、関空で出迎えてくれたクライアントとの記念撮影


BB:ケンさんとの共同経営で、難しかったことは?

安田:怒鳴り合いのケンカはしょっちゅうでした。だいたい、ケンちゃんと私の2人の間だと考えはまとまりやすいんですが、第三者が絡むと意見が一致しなくなることが多かったんです。ケンちゃんは短気なところがあって、話が込み入ってきたり意見が合わなかったりすると「もういい!」などと言い出したりするんです。私も若かったので「そんなこと言ったってダメじゃん!」と大声で怒鳴ってました(笑)。お互いプンプンして「じゃあね、バイバイ!」と怒って帰って行き、翌日は何事もなかったかのようにケロリと「おはよう」。

ズケズケと言い合って、後にひかないのがケンちゃんと私のケンカです。

 
BB:会社の業績はどのように推移したんでしょうか?

安田:ケンちゃんのスリッパ部門は順調に伸びましたが、肝心の私たちの衣装製作部門は、日本の景気が回復して受注できるようになるまで会社を維持しようと北京での営業に走り回ったものの、好転の兆しは見えないままでした。日中かかわらずいろいろな方面から仕事をいただき細々と食いつないでいたのですが、3年後の2000年春、日本側のパートナーがついに撤退を決断したんです。

「玲美さん、このままいつになれば日本の景気が回復するか、まったく先が見えないので、残念ですがあきらめましょう。もう、あなたは自由になっていいのよ」と言われました。

 
BB:ケンさんのスリッパ部門はどう整理することになったんですか?

安田:事情をケンちゃんに話しました。すると彼は「心配するな。俺の方はうまくいっている。当面会社は俺が維持するから、いつかおまえたちの部門が再開する時がくるまで任せておけ。撤退しなくても、維持費を出さなくてもいいぞ」と言ってくれました。

政略結婚のいいところは、片方がうまくいっていれば倒れることはないということですが、本当にケンちゃんには申し訳なくて。本来は折半するはずだった会社の維持費や諸経費は、ケンちゃんに頼らざるを得ませんでした。

ケンちゃんの厚意に甘えて衣装制作部門を開店休業状態で残すことにしました。その後もケンちゃんの部門の業績は伸び続けました。

 
BB:ケンさんの事業にはその後もノータッチですか?

安田:ケンちゃんにはお世話になりっぱなしでしたが、2000年にケンちゃんのスリッパ部門が取引先の勝手な都合で在庫を抱えるハメになった時、その在庫の販売先を探したことがあります。

ケンちゃんのところにスリッパを注文していた日本のバイヤーが、中国の別の工場に同時にサンダルを注文していて、そのバイヤーは日本のクライアントと、スリッパとサンダルを同時に納めるという内容で契約していたのです。ところが、サンダルの工場の方で問題が起きて納品ができなくなり、バイヤーが逃げて連絡がつかなくなってしまったんです。でも、ケンちゃんのスリッパはすでに日本の港に到着して3カ月以上も経っていて、倉庫代や輸送費などの請求は全てケンちゃんにきました。莫大な損害です。

ケンちゃんから相談を受けてすぐにそのバイヤーを探して連絡をとったところ、相手は「訴えたかったら訴えてみろ」と開き直りました。頭に来て、日本に戻って探そうとしたのですが、ケンちゃんは「そんな人たちを相手にしても時間と金がもったいない」と。とりあえず、送り返されてきた商品を少しでも現金化するために、中国国内で日本式のスリッパを買ってくれるところを探すことにしたんです。結局、日系のスーパーに20足入りのカートンを数十カートン買い上げてもらうことができました。

そんな大変なことがありつつも、中国が世界の工場として力をつけていった当時、ケンちゃんの部門は日本専門に輸出するスリッパを生産していたので、年間80万足を生産する大工場に成長しました。 (文中敬称略)

 
 
2人め:リュウジミン/劉志明(48) ー 日中をつなぐ指標をくれた師匠は宇宙人?

 
立ちゆかない状況になった衣装製作部門。会社の運営は、好調だったスリッパ製造部門のフージエンに任せ、安田は中国での身の振り方を考えることに−—。

 

安田:さすがに一旦会社を落ち着けようと決心しました。そして今後のことを考えようとしていた時に、聴覚障害者による中国舞踊“千手観音”で有名な、中国障害者芸術団の日本公演にボランティアとして関わることになったんです。日中間に関わる各方面に支援のお願いをして回ったのですが、2000年の年明けに私の運命を変えた出会いがありました。中国社会科学院メディア研究所調査センター長の劉志明先生との出会いです。

劉先生は、社会科学院のポストにつく以前は、人民大学大学院での研究を経て、日本の一橋大学や神戸大学で研究や指導をされています。98年に中国に戻ってからは、社会科学院で日中間の世論調査やメディアの役割などメディアコミュニケーションを研究されていて、もちろん日本語もものすごく上手でした。

 




(写真)尖閣諸島問題が起きた直後の2010年9月、予定されていた日中間行事が次々とキャンセルになっていく中、「こんな時こそ対話が大事」と東アジアフォーラム2010を開催した劉。パネラーとしても登壇


BB:劉先生の第一印象はどうでしたか?

安田:初めてご挨拶にうかがった時、紹介者の方が私を紹介する際に先生に向かって「この子、カワイイでしょ」と言ったんです。先生がそれに対して「まあ、カワイイとはいえないですけどね」とあっさり切り返してくれたその対応がすごくかっこよくて、スカッとしました。

そもそも、私は机に向かう勉強は得意ではなく、北京で大学院に進むのを諦めていました。でも、もし将来また勉強する機会があるなら中国社会科学院でというのは私の夢だったんです。だから、劉先生に会った時は「社会科学院の先生!しかも日中のコミュニケーションをやっている!」と、私の中ではアイドルに出会ったに等しい感動でした。それに加えて、紹介者のつまらないマクラコトバに対する鮮やかな切り返しに、すっかりファンになってしまい、すぐにアタックを開始しました。といっても男性としてではなく人間として魅力を感じたということですが。何かあればすぐ先生に電話していろいろ話をしていたよう気がします。

 
BB:劉先生との出会いはどのように運命を動かすことになったんでしょう?

安田:すぐは何も変わりませんでした。とりあえずは中国障害者芸術団の日本公演を無事に終わらせる方に集中しました。同時に、実は2000年夏から工人体育館という北京の中心部にある競技場の一角でオーダーメイドサロンを経営しました。もともと洋服のオーダーメイドサロンをしていた知人がその場所を引き払うにあたって「この場所を使わない?」と声をかけてくれたんです。当時、おしゃれな洋服なんて北京にはなく、偶然にも私も衣装を作る仕事をしていて素材の仕入れや加工するところの知識やノウハウがあったので、民族大学に留学していた日本人のデザイナーを口説いてお店を開きました。そのデザイナーが1年後に家庭の事情で帰国するまで、エンジェルエンジェルの仕事も引き合いがあれば対応したり、ケンちゃんの工場を手伝ったり劉先生をお手伝いしたりと、いろんな仕事を掛け持ちしていました。

 
BB:劉先生のお手伝いはどんなことを?

安田:劉先生のところには日本の政府機関やメディア関係からいろんな調査の依頼がきて共同研究をしていました。日本語の部分で劉先生の手伝いをしながら日中間コミュニケーションを学んでいきました。1年後の01年夏にオーダーメイドサロンを閉じると、劉先生に呼ばれ、劉先生のもとで本格的に働くことになりました。

 
 
01年、中国はWTOに加盟。APEC国際会議が上海で開催されるなど、国際社会での転機を迎えていた。

APEC開催直後の10月、APECの会場としてつくられたばかりのコンベンションセンター・上海国際会議中心で、中国社会科学院メディア研究所調査センター主催の日中コミュニケーションシンポジウムが開催されることになった。安田はそのシンポジウムの運営を担当し、無事に取り仕切った。それが安田の新たな事業展開へのスタートとなった。

 




(写真)北京市の日航新世紀飯店で安田は挙式。劉は安田への結婚祝いに、劉のもとでの研究内容をまとめた書籍を中国で出版させた


安田:劉先生のもとで働き始めてすぐ、中国がWTOに加盟したことを受けて日本企業が大挙して中国に押し寄せてきました。中国に本格的に進出するにあたり、中国の市場調査の需要が爆発的に発生しましたが、それを受託できるようなところが中国になかったんです。そもそも市場がなかった中国では市場調査という概念がなかったので、市場調査会社も存在しなかったんです。必然的に、外務省やジェトロなどからの紹介を受けた日系企業からの問い合わせが、劉先生の調査センターにたくさん集まってきました。しかし、国家機関である中国社会科学院メディア研究所では企業の市場調査には対応が難しいため、02年4月、劉先生と一緒に調査会社を始めることになりました。

 
 
BB:こうして運命が動いたんですね。

安田:本当にそうだと思います。でも最初、劉先生って本当は宇宙人かもしれないと思っていました。発想がぶっ飛んでいて、いつも時代を先取りした先見性があるというか、誰も想像できないような中国の未来を話したりするので、はじめは先生の言っていることの意味がまったく理解できなくて、ついていくのに苦労しました。先生のところで働き始めて1、2年が過ぎた頃「そういえば、劉先生以前こう言っていたな」ということが実際にたびたび起こり、徐々に劉先生が言われることの背景を理解できるようになっていきました。

私にとって日中間コミュニケーションにおける師匠は劉先生です。日本と中国の理解を促進していくために必要なこととして最初に示された指標は、相手に対する「尊敬」「理解」「寛容」の3つです。当たり前と言われればそれまでですが、国と国のコミュニケーションギャップって、この中の何かが欠けている場合がほとんどなんですよね。

 
BB:これまでたくさんの会社を立ち上げていますが。

安田:02年に調査会社を立ち上げてから、03年4月にコンサルティング会社、05年4月にはPR会社を立ち上げました。その後、ウェブ調査会社、産業調査会社、上海支社、広州、唐山、成都などの出張所など、現在CRCグループは日本法人を含めて全部で10社です。これは中国の会社法の問題で業種ごとに免許をとらなければならないという特殊な事情のためです。09年末には日本法人を、昨年は中国のメーカーと手を組んで、ネット販売をメイン業務にした合弁会社をつくりました。ここまで経営内容を多角的にできたのは、中国でいろんな人に出会い助けられてきたからだと思います。(文中敬称略)

 
 
3人め:ワンヨンチャン/王永強 (41) ー 手仕事継承、日中プラットフォーム構築のパートナー

 
2009年、安田の会社は中国住宅産業に参入した。それまで、マーケティングやコンサル、PRなど、クライアントからの依頼・委託業務が中心だったが、住宅産業分野でのフォーラムと住宅産業化連盟という組織を運営していくこの新事業は、安田がしかけた。

現在中国で建てられている建築物は使用権でいえば70年後の人達の生活まで影響する。何十年も先まで責任が問われる住宅産業分野でいかに自分達が貢献できるかを考えていきたいのだという。

 
安田:08年にリーマンショックが起きた時、それまで100パーセント近くが日系企業からの依頼だったのが、一気に受注が減りました。同時に中国企業からの業務依頼が驚くほど増え、日中のクライアントのシェアが逆転したんです。中国の経済構造が内需の方に転換していったこの時期、これまで海外向け商品を作っていた中国のメーカーが自社ブランドを立ち上げて国内向けに動き出すにあたっての業務依頼がたくさんありました。その流れで、中国に足りないモノがあること、中国側にはそれらを日本から購入したいという需要があること、さらに、その需要は確実に増えていることもわかりました。

 




(写真)中国文化伝媒集団・家文化伝媒中心の常務副主任でもある王は、物質的な豊かさが追求されている現代の中国で忘れられがちな心の豊かさを大切にしている


BB:なぜ住宅産業事業だったんですか?

安田:中国企業からの業務依頼や日本企業との橋渡しをしていく中で、需要が多かったのが住宅産業分野でした。中国の経済成長を支える主幹産業でもあるし、実際問題これから先、中国市場に供給される不動産物件の数を考えても巨大な産業です。また、ちょうど日本企業がまだ入り込めていない分野でした。人の暮らしに直接関わるところでもあり、ぜひともこの分野をやってみたいと思いました。

09年末に中国住宅産業化フォーラムを立ち上げ、2年間で中国全国数十カ所で20回に及ぶフォーラムを開催しました。中国の住宅の未来について一緒に考えていく企業や専門家らによるチームを中国住宅産業化連盟として各地に組織して活動していこうという主旨です。

 
11年3月、東日本大震災で安田のふるさと・岩手県久慈市は甚大な損害を受けた。以来、安田は毎月北京と久慈市を往復し、地元の仲間と一緒にふるさと復興のための活動に取り組んできた。もともと平均賃金が全国ワースト1位の地域は、安田にいわせると震災がなくても再生困難な地域だった。安田は、地域を根本から復興するには経済復興しかないと考えた。地域の資源をいかに活用し、経済を呼び込んでいくか。安田は鉱物や農産物など、地域の特産品や資源を、既存の流通企業やメーカーとのビジネスマッチングにより商品化、ブランディングしていくプロジェクトをスタートした。同時に、中国市場と地元産品をつなげていくことを考えた時、中国のキーマンとなる人物は安田のすぐそばにいた。建築専門誌『中国建築装飾装修』とインテリア誌『家飾』を主宰する企業家・王永強だ。

 
安田:10年春頃、私たちが開催した住宅産業化フォーラムに王さんが参加してくれたことがきっかけで知り合いました。王さんは雑誌社を経営しているほか、住宅関係の事業を複数手がけています。甘粛省出身の彼は、甘粛省も含めた中国の各地方の手仕事による伝統工芸品を伝承していく社会活動にも取り組んでいました。

私も岩手県出身で地方のものづくりに思い入れがあったため、すぐに意気投合したんです。彼から、中国の民間の手仕事が産業化できずに廃れていってしまう一方なので日本の伝統工芸の産業化について教えてほしいと言われるようになっていました。お互いの事業やいろいろな話しをしていくうちに、私の中でも彼の社会活動への共感がふくらんでいき「仕事は別にして何か日中伝統文化交流的なことができればいいね」と相談していたんです。

 




(写真)中国でも多くの伝統文化が残されている南宋の古都・杭州のインテリアショップ『我的手芸』。中国の伝統的な手芸品や中国人アーティストの作品が並ぶ


 
BB:それを東日本大震災が後押しすることになったんですね?

安田:そうです。昨年、震災が起きたことでその思いはもっと強いものに変わりました。中国にいながら私ができることを考えた時「被災地をはじめ、日本の伝統工芸品と中国市場を結びつけられないか」と思い立ちました。王さんに相談すると「できることからすぐやろう」と。そこで、日本の伝統工芸品を中国で販売するための合弁会社を立ち上げることにしたんです。

 
BB:具体的にはどのようなビジネスモデルなのでしょうか。

安田:彼の会社はインターナショナルデザイナークラブというネット上の会員制クラブを運営しています。国内20万人のデザイナーはじめ、海外からも多くのデザイナーが参加しているこのクラブのウェブサイトで日本の商品を紹介・販売します。この会員制ウェブサイトが日本のインテリア用品に関するBtoBのプラットフォームの機能を持つわけです。

日本と違って空間をデザイナーがトータルでデザインする中国では、デザイナーが閲覧するネットで商品を販売すれば、大量販売も可能になります。デザイナーにとっても自分の仕事の幅を広げるためにも、業界関係者だけが集まるサイトは優れた販売ツールになり得ます。

彼は上海と杭州にショップを持っていて、そこでも商品を展示・販売する予定です。雑誌『家飾』では「現代に活きる日本伝統文化」というテーマで連載します。1月号で紹介する岩手県の南部鉄器に始まり、漆器や陶器なども取り上げました。

こんなふうに、自分が持っているメディアを使わせてくれるなど、資源を惜しみなく提供してくれます。

 




(写真)王の経営する出版社が発行するインテリア誌『家飾』1月号では、新連載『現代に活きる日本伝統文化』の初回、南部鉄器の歴史や暮らしに息づく様子を4ページにわたり紹介した


BB:王さんは日本の伝統工芸品をどのように見ていますか?

安田:王さんはNYの大学でMBAを取得した後、中国でインテリアや建築の雑誌を出版する雑誌社を立ち上げた人で、生活の中のアート、デザインで生活を豊かにするということに敏感、なおかつ、それらアートやデザインをビジネスとして中国で取り扱う企業家でもあります。昨年10月には、会津若松で開かれた東日本の伝統工芸品を集めた展示会に、11月には東京で開かれたインテリアライフスタイルリビング展に王さんに行ってもらい、日本各地の伝統工芸品を実際に手に取って見てもらいました。王さんの反応はよく、全部で約50社ほどの会社のパンフレットや名刺を持ち帰りました。

実際、彼はこの時すでに数十社と話をしました。王さんは東日本支援として1年間は全面協力すると言ってくれていて、日本の企業には「サンプル提供が難しければ買い取ります」「私たちが責任を持ってやります」などと日本側にとって好条件を提案しているのですが、半数ぐらいの企業は「まだ商標登録ができていない」とか「コピーされる危険がある」などを理由に及び腰なのが現状です。今後、私たちのビジネスモデルを日本の企業にきちんと伝えていきたいと考えています。

 
 
変化のスピードが速い中国で、安田は敢えて目標を設定せずに仕事をしてきたという。師匠・劉志明には「何をどう決めてもそれにこだわるな」「いつどの時点でも、その時にいちばん正しいと思ったこと、いちばん必要と思ったことを選びとっていくこと」「続ける勇気以上に捨てる勇気が大切」と教えられてきた。

毎年、自動車の販売台数や経済成長率など、さまざまな人がさまざまに予想し、なかなか当たらないという事実を目の当たりにし「中国は簡単に予想できる国ではない」と考えてきた安田が、21世紀の2回目の10年を迎えるにあたって、初めて長期目標を設定した。

 
安田:私は30年後の目標を立てました。被災をした私のふるさとの平均賃金を全国最高レベルまで引き上げることです。今、平均賃金が全国ワースト1位の岩手県は、国で規定されている最低賃金を大きく下回るぐらいに労働に対して価値がつかない地域と言わざるを得ません。でも、根本的に社会の仕組みや構造、価値観を大きく変えていく時期に来ていますし、それができれば、私の立てた目標は実現不可能ではないと。

震災はひとつのきっかけであって、本気で変えていこうとしなければこの町はなくなってしまうかもしれないという危機感を覚えたのも事実です。そして、ふるさとになくなってしまってほしくないと強く思ったんです。

 
BB:北京からどうやって実現していくんでしょうか。

安田:「ふるさと復興」はどうしてもやらなくてはならないことです。ふるさと・久慈市の復興に自分が関わらない人生は考えられません。自分が中国にベースを持っていることがふるさとに対しての価値になると私は確信しています。

久慈市には世界に自信をもって誇れる資源がたくさんあるので、伝統工芸品をはじめそれらをいかに中国市場とつないでいけるか、挑戦していきます。30年で実現できるかわかりませんが、それくらい時間をかけてやっていく覚悟がないとだめだと思います。日本一給料が高い街、日本中でいちばん有名な街になればというのが目標です。

 
BB:パートナーたちはどのように支持してくれていますか?

安田:ケンちゃんも劉先生も王永強さんも、私が毎月被災地に行っている間の業務について一切言いません。むしろその逆で、全力で応援してくれています。そういう時、中国人の懐の大きさ、器の大きさを感じます。

仕事をしていると大変なことや崖っぷちに立たされることはたくさんありますが、3人とも必ず「有我在、你放心(私がいるんだから、何も心配はいらないよ)」と言ってくれる。この言葉に勝る励ましはありません。

この3人がいるから何があっても大丈夫だと思えるし、本当にその通り、何があってもちゃんと守ってくれるんです。私もこの人たちのためだったらなりふり構わず全力で返していきたいと思っています。そしていつか、私もこの言葉を誰かに言える人間になりたいと思っています。(文中敬称略)