第4回Maria / ペルー「中国からラテンアメリカへのインパクト投資を創りだす」

<プロフィール>
1985年ペルーの首都・リマ生まれ。ペルー、中国、イタリア、スペイン、アフリカ混血をルーツに持つ。ペルーで中国人を支援しているカトリックの高校を卒業後、ペルーのトップ大学ペルーカトリカ大学でジャーナリズムを専攻。在学中には大学初の中国交換留学生として北京大学に留学し中国語を学ぶ。大学卒業後、清華大学大学院にて中国語で国際関係学を専攻。修士課程修了後、ペルーの新聞社、スペインの通信社でのジャーナリスト経験を経て、清華大学MBAへ進学。卒業後は、中国とラテンアメリカの関係を強化することをビジョンに、中国人のラテンアメリカ向け対外投資支援プラットフォームの立ち上げを計画中。




周藤(以下、(周)):もう中国に住んで9年目だよね?最初の中国との関わりは?

Maria(以下、(M)):実は高校のころから中国と関わりがあるの。私の高校はカトリックの司祭が中国人を支援するために始めた私立高校で、中国人は無料で入学できるの。私の曽祖父が中国人ということもあって、そこに入学したの。と言っても、私はスペイン語を使うクラスにいたから、この頃、中国語は全くわからなかった。あと、私の家庭は、いろいろな人種がミックスしていて、中国の血も入っている。大学生のころ中国に初めて来るまでは気づかなかったんだけど、家族の日常生活の中に、食習慣とか中国の習慣が一部あったってことを考えると生まれた頃から一応中国とは関わりがあるかな。でも、もう中国9年目だし、兄は去年北京でバー経営を始めて、弟は去年から私と同じ清華大学MBAに入ったし、気づいたらもう家族で中国にどっぷり。


(周): 初めて中国に来たきっかけは?

(M):私はペルーの大学でジャーナリズムを専攻していたんだけど、大学がちょうど北京大学との交換留学を始めて、私が第一号の実験台として北京大学の国際関係学に留学したの(笑)。授業は英語のはずだったんだけど、なぜかHSK(中国政府公認の中国語資格)の中級レベルに受かってからじゃないと英語の授業が受けられない変な決まりがあって、必死に中国語を勉強したね。


(周):初めてきた時はやっぱり苦労した?

(M):もちろん。冬でも気温15度くらいのペルーに比べると北京はすごい寒いし、なにより中国語がニーハオとシェイシェイくらいしかわからなかったからね。しかも、交換留学のクラスメートには英語をしゃべれる人がほとんどいなかったから、ジェスチャーと片言の中国語でずっと一緒に大学生活を送ったんだ。でもその生活はすごく楽しかったよ。当時、ペルー⇔中国便は当時30時間はかかって値段も高いから簡単には帰れなかったのもあって、もう必死に勉強して、最後は母国語のはずのスペイン語の発音を忘れるくらいになったからね(笑)。交換留学が終わって、中国語の勉強をもっと続けたいと思っていたから、前から興味があった清華大学の国際関係学(中国語)の大学院に進学した。奨学金ももらえたしね。


(周):中国語始めて1年ちょっとで中国語で国際関係を学ぶって相当大変だったんじゃない?

(M):うん、もう最初の1年はずっと中国語漬けだったけど、授業は半分もわからなかった。国際関係学に特有の難しい単語で頭の中もすごい混乱してた。もう本当に疲れたから1年目が終わった夏休みにはペルーに戻って2ヶ月間ずっと中国語から離れて生活したんだ。それから北京に戻って2年目が始まった時に、不思議な事が起きたの。2ヶ月間中国語を全く勉強していなかったのに、急に授業がほとんど理解できるようになった。休んだことで脳の中が整理されたのかな。


(周):具体的にはどんなことを勉強したの? 語学以外に苦労したことはあった?

(M):研究のテーマは中国とラテンアメリカのSouth-South Cooperation(途上国同士が政治、経済等で国際協力する体制)で、指導教官は清華大学で唯一ラテンアメリカの研究をしているアメリカ人教授だった。中国での汚職問題とかセンスティブな話題も取り上げてたせいもあって、学位審査でけっこう反対されて、結局は一部修正したりとか、語学意外にもいろいろ苦労したよ。あと、当時の清華大学では国際関係学は政治学に属していたみたいで、卒業証書の学位が国際関係学じゃなくて、政治学で発行されたり、とかのどんでん返しもあったよ。


(周): 卒業後は中国でジャーナリストに? 中国だと規制とかあって大変だったんじゃない?

(M): うん。ずっと社会に対して良いインパクトを与える仕事をしたかったんだけど、報道を通じて国際関係を改善できればなと思って、スペインの通信社のジャーナリストになった。中国でのラテンアメリカに関連する政治、経済、文化、イベントとかの取材が主担当だったけど、そもそも中国語とスペイン語を両方話せる記者がいないこともあっていろいろな経験をすることができたよ。中国政府の軟禁から脱出したばかりの人権活動家の陳光誠に取材で突撃したりとかね。でも、やっぱり政治とかセンスティブな話題は取材も難しい。外交部に言って直接質問してもまともに回答してもらえないから、質問を少し変えて違う角度から説明してまた断られたりとかね。でも変化の速い中国では良くも悪くも毎週のようにいろいろな事が起きるからすごく勉強になったよ。


(周): ジャーナリストからMBAに転換したのは?

(M):社会に対して良いインパクトを与える仕事、もう少し言うと中国とラテンアメリカの関係強化の架け橋になりたくてジャーナリズムの道を選んだんだけど、記者の立場だと、よく「お前はただの記者だろ」とか「マネジメントのことも知らないくせに」とか通用しないことが増えてきてね。それに、世界により大きなインパクトを与えることができるのは、やっぱりビジネスなんだって思ったの。それで中国のマネジメントを学ぼうと思って、また清華大学に行こうと思ったんだ。清華大学は中国トップ大学だし、グローバルな面でも海外といろいろなコネクションがあって、中国内外でレベルの高い教育が受けれると思った。実際、フランスに交換留学とかもできたし、いい経験ができたね。


(周): MBA終わってからはどうするの?

(M):今、修士論文の中で1つのプロジェクトを進めていて、それを続けようと思っているよ。中国の経済発展にともなって、今、ペルーに投資をしている中国人も増えている。投資が上手くいけば、お互いの国にとっていいことなんだけど、実際は言語の壁とか、お互いの理解、制度上の問題とかがあって上手くいっていないケースも多いの。中国は今キャッシュがあるからけっこう投資はするんだけど、対象はペルーの伝統的な資源ビジネスがほとんどで、投資を起因とした環境問題とかも発生している。そこで私は、ヘルスケアとかクリーンテクノロジーとかの新しい分野を対象に中国がペルーに良質な投資をするためのプラットフォームを作ろうと思ってるの。特に今考えているのはインパクト投資(利益追求をすると同時に、社会問題の解決の実現を目指す投資手法)の分野で、語学面、制度面、文化面、ビジネス面で中国とペルーの架け橋になりたいなって。上手くいけば、中国とラテンアメリカとの関係まで拡大したい。


(周):今のペルーの産業って具体的にはどんな状況? 最近は中国経済成長がゆるやかになってきてるけどインパクトはありそう?

(M): ペルーの一番の産業は、鉄鋼とか銀とかの鉱物、あとは天然資源で、中国にも大量に輸出してるよ。太平洋に大きく面しているのもあって漁業も盛ん。中国の新常態化はインパクトはないとは言えないけど、それでも世界最大人口の国であることは変わらないし、経済が成熟しつつある今だからこそ、お互いの国の投資品質を向上することができたらなと思ってる。私はもう中国9年目で、いろいろ大変だったけど中国に感謝もしている。中国はペルーから遠くて簡単には行かないけど、もっとたくさんのペルーの人に中国に来てほしいね。ビジネス以外にも、哲学とか文化とか他にも学ぶところはあると思うよ、お互いにね。


(周):今日はありがとう、とりあえずはお互い修士論文頑張ろう!


Kazuhiro Sudo

投稿者について

Kazuhiro Sudo: 1981年東京生まれ。 東京工業大学計算工学修士修了。在学中は投資・Webビジネスの学生ベンチャーに従事。 2007年野村総合研究所入社後、日系金融機関向けのシステム開発、コンサルティングを経て、2014年清華大学MBAへ社費派遣留学。