Away from home in Shanghai ~大都会上海で暮らす学生のすがた~

第5回 于瑞川 「ボランティアは社会を理解する手段」

第5回目のインタビューは現在上海交通大学公共管理学部4年生の于瑞川(ユ・ルイチュアン)です。同じ奨学金団体のプログラムに参加していたことをきっかけに知り合った彼。のほほんとした性格、口調の中にも彼の鋭い視線がうかがわれます。



大学の洋食レストランにて。
 

ボランティア活動を通して中国の発展について学ぶ

普段はどんな大学生活を送っているの?
学習以外もインターンやボランティア等の課外活動に参加している。例えば大学2・3年の夏休みには中国中西部の田舎でのサマーキャンプでボランティア教師をしたり、大学4年次に早稲田大学に留学していたときは日本の小学校で中国を紹介した。大学内では海外の著名な科学者を招いた特別な講義に参加し、時には遠方を訪ねた。大学や奨学金団体が提供してくれた機会に感謝している。

どうしてボランティアに興味があるの?
社会を理解する手段の一つだから。自分自身も幼いころに農村で育った身として、やはり農村部と都市部の格差が大きいと感じる。公共サービス、生活の利便性,生活スタイルなど、様々な側面でね。中国の農村部は地理的に不利な位置に置かれているので、なかなか発展しにくい。また、地元の若者が都市に出て仕事をしたがるので、人口流動も加速している。この格差をなくすには長い時間がかかる。

ボランティア活動の内容は研究テーマと関係ある?
あるよ。所属する公共管理学部では、国家や市民の生活という側面から、どのように中国の発展を理解し、更にはどのように発展過程で生まれた問題を解決するかを学んでいる。卒業後、ハンガリーの大学院でも引き続き比較政治を学ぶ予定。東南アジア諸国の多くは中国と同じく社会主義の影響を受けているが、違う発展の道をたどった。それぞれの発展の課程や問題を学びたい。

中国の発達する中、直面している一番の問題はなんだと思う?
都市と農村部、貧富の差が大きい。これらの問題はだれか1人の手によって発生したものでも解決されるようなものではなく、大衆全体が向き合い、解決に努める必要がある。

将来はどうしたい?
国際組織か国境をまたがる企業で働くか、研究を続けたい。まだ明確ではないけれど。



日本の小学校でのボランティア活動の様子 
 

沿岸経済都市・青島から上海へ

故郷はどんなところ?
故郷は青島。沿岸都市で、中国では最も早い段階で解放された都市のひとつ。山も海もあって、海鮮が美味しいし山東省で最も高い山である崂山もある。歴史的には、青島は春秋戦国時代からある古代都市。ドイツの租借地として、その後は日本の占領によって現代化した。未だに当時の建築や青島ビール等、ドイツや日本の影響が色濃く残る。また、青島は地域の経済の中心。日本と韓国との関係がとても強く、商業の往来が盛ん。公共交通手段も発達していて、生活は一般的な都市生活という感じ。

上海の印象は?故郷と何が違う?
国際化のレベルがやはり違う。そして上海で生活している人は全国、世界各地からやってきている。交通や生活において利便性が高いし、教育レベルも高い。ここに来て勉強できて幸運だと思う。

卒業後上海に残りたい?
今はあまり残りたくない。まず、外地人として上海に残るのはあまりにも障壁が高い。戸籍制度によって、上海人と同じ公共福利を享受するために彼らより多くの仕事や時間を要する。他の条件はまずまずだけれど、僕は個人的にまずは異国に行って見識を深めたい。もし仕事の機会があれば戻ってきたいけれど期的に住むのは厳しい。

故郷への思い
故郷は僕にとって変わらない場所。青島は発展した街だけど、上海に比べたらまだまだ遅れている部分が多いなと気づいた。でも当分の間僕は外にいるし、すぐに帰る気はない。



青島の街並み。租界時代の建築が今も多く残る 
 

インタビューを終えて
今回のインタビューから浮かび上がったのは中国の農村部と都市部の発展の格差。香港留学中に中国の地理についての授業を受講していましたが、中国沿岸部と内陸部、南部と北部の発展の差に驚きました。実際現地を訪れてみるとなおさらです。一帯一路政策の影響もあってか、最近は内陸部の開発も進んでいるようですが、まだまだ先は長そうです。また、ボランティア活動で得た経験を一過性のものではなく、しっかりと研究に活かそうとしている彼の姿勢に感銘を受けました。


Away from home in Shanghai ~大都会上海で暮らす学生のすがた~

第4回 艾雨 「朝鮮族や日本人、様々な文化や価値観に触れ、自由に生きる」

第4回目インタビューは東華大学日本語学科4年生艾雨(アイ・ユー)さんです。大学進学を機に自らの視野を広げるために大都市上海にやってきました。友人の紹介で上海で知り合ったのですが、なんと秋田に留学経験があるという彼女。インタビュー中地元トークで盛り上がりました。



東華大学の最寄り駅、延安西路にて。
 

北朝鮮との国境で生まれ育つ

アイユーの故郷ってどんなところ?
私の故郷は中国東北部の街、遼寧省丹東市。北朝鮮との国境に接していて、実際新鴨緑江大橋という橋で北朝鮮と繋がっている。北朝鮮の近くだから危ない印象を受けられがちだし、私自身幼いころは核実験や戦争を恐れて引っ越したいなと思ったりした。でも、国境に接している影響で朝鮮族の人が多く、独特の文化を持つ程よく発展した街です。最近は緊張が少し緩和したおかげで、丹東の印象が良くなって家賃も上がったみたい。

朝鮮族、「独特の文化」って?
中国と朝鮮、2つの文化が影響しあって、共存しているということ。北朝鮮と国境を接しているので、丹東には朝鮮族、北朝鮮から出稼ぎに来る人がたくさんいる。だから中国語と朝鮮語、どちらも話されている。街の看板にはハングルが併記されていて、料理も中華料理と同じくらい朝鮮料理もよく食べる。昔は朝鮮語しか話せない人もいたみたいだけど、今は朝鮮族の人も中国語を話すようになった。



丹東と北朝鮮を結ぶ橋、新鴨緑江大橋
 

アイユーも朝鮮族なの?
私は朝鮮族ではなく、漢族。でも父は満族だから、本当は満族になる予定だったけど、戸籍の手続きに手違いがあって母親のほうの漢族になってしまった。満族だったら高考で追加点もらえたのに、と思ったりもする。笑 満族も昔は独自の言語を話したけど、今は皆普通語を話すね。

上海で気づいた北と南の文化の違い

東北部、特に丹東と上海は全く違うよね。上海に来て何か気づいたことはあった?
地元の方が田舎だから、人が優しくていい意味で世話焼きな人が多い。中国の北部は男性が強くて男らしいけど、上海は女性が強くて家事も男性がすることが多いのは驚きだった。
でも一番の驚きは北部と南部の風習の違い。南は食べ物が甘くて、北は辛いものが多い。最初こっちで甘いお粥を食べたときは慣れなかったなあ。あと、北部はどんな行事ごとでも餃子を食べるし、皆手際よく作るけど、南部の人は作れない人もいてびっくり。代わりに彼らは他の物を食べるね、例えば清明节のときは青团とか。

そういえば日本に留学中も東北・秋田大学に留学していたよね?故郷と比べてどうだった?
故郷と同じで、秋田は穏やかで人が優しいけど少し不便。だから就職は上海でするけど、いつか遊びに帰りたいなと思っている。あと、中国東北部は暖气の設備がしっかりしているから冬もあまり寒く感じないけど、日本はそうでもないみたいで冬の寒さが身に染みた。笑

北と南、両方見た今、中国ってどんな国だと思う?
とにかく広い。留学中に韓国人の人と付き合っていたことがあったけど、中国国内でもこんなに大きいから国家間の距離は全然気にならなかった。

ファーストリテイリングでインターン中・就職予定

大学生活について聞かせて。
もう4年生だから授業はほぼなくて、ファーストリテイリングでインターン中。3か月のプログラムで4月から6月までは店舗で接客、陳列等をしていて、7月からは正社員として生産管理を担当する予定。日系企業かつ昇進制度に優れているという点に惹かれて入社を決めた。

日系企業で働いてみて、何かきづいたことはあった?
細かいところにこだわることころ。例えば部屋に入る前には「失礼します」と必ず言って、部屋の人の返事を待たないといけなかったり。中国にいるとあまり周りに気を使わないから楽な分、ちょっと面倒くさいなと思う。でも留学中には挨拶をたくさんする日本の習慣はとても素敵だなと思ったよ。



1年間留学していた秋田大学での修了式の様子
 

これからも上海に残る予定?
上海は物価が高くて1人暮らしをするのが大変だけど、上海は日系企業もイベントも多いから日本語を活かせる機会がたくさんある。地元に帰ったら理想的な仕事はないし、給料も低いので上海に残って、1年に数回故郷に戻るのが一番だと思う。語学が好きで、今は韓国語も勉強しているから、ほかの仕事もしてみたい。

インタビューを終えて
今回のインタビューで印象的だったのは、中国の少数民族について。中国には約90パーセントを占める漢族のほかに55の少数民族がいて、独自の文化を形成しています。マイノリティは教育等様々な点で不利な立場に置かれており、それを克服するためにアイユーが言及していたように高考の際に加点される制度が設けられています。私自身も朝鮮族自治州である延辺に行ったことがありますが、中国にいるのに韓国にいるような、不思議な感覚に陥りました。現地の友人が、両親が出稼ぎに韓国に行っていて年に数回しか会えないと言っていたこと、朝鮮語よりも中国語を重視する人が増えていると言っていたことが印象に残っています。これから中国の少数民族、言語はどのように変化していくのだろうか、加点政策のような制度は本当に機能しているのだろうか。改めてこのような問題について考えさせられたインタビューでした。


無錫篇 その8 ー うーたん、遠足にいく

2016年9月10日 / 未分類



(写真)カウボーイ村だけど、スワンに乗りました


幼稚園の予定は未定な「臨機応変」

 9月に年中さんになったうーたん。
 
 新しいクラスに変わって初めての大きなイベント、それは秋の遠足。
 
 うーたんの幼稚園では年に2回、親子遠足があります。いつもは平日に行われるのですが、今回はなぜか土曜日。うちの園の遠足は希望者のみが参加するというスタイルなので、土曜日だったらうちの相方も参加できると、一家で参加することにしました。
 
 今回は遠足予定日の10日ほど前の火曜日に遠足のお知らせをいただきました。やっぱり、お知らせの到来は急です。しかも今回はさらに高度な『臨機応変』の出来事が発生しました。
遠足の申し込みを早くいかなきゃと思っていた水曜日、

「遠足を予定している来週の土曜日、教育局(日本でいう教育委員会??)の方が園に視察に来られることになりましたので、予定を繰り上げて今週の土曜日を遠足にします。参加される方は至急ご連絡ください」

 そこで木曜日、私は急いで遠足の申し込みをしに幼稚園へ。

 すると金曜日にまた新たなお知らせが。「教育局の方が来られるのは明日の土曜日になりました。考慮した結果、遠足は予定通り明日に行いますが、教育局の対応のため担任は参加することができません。副担任一人が引率します」
なんといえばいいのか。遠足に担任なしでいいのか?と一人で考えていても仕方ないんだよね、きっと。学校行事まで『臨機応変』なんだ。いつもいろいろ急で困ってしまうけど、困っている場合ではない、私の修行がまだまだ足りないんだと実感しました。

ドキドキのお菓子配り

 今回の遠足は、無錫の隣町の蘇州にあるカウボーイ村というところ。我が無錫からはもちろん、蘇州市内からも離れた太湖を望む島の一角にあります。幼稚園に8:00集合で、クラスごとに振り分けられたバスに乗り込み、参加できない担任に見送られて出発しました。
 
 うーたんは仲良しのお友だちと並んで、最前列に座りました。本来うちの幼稚園にクラス替えはなく、年長さんまでクラスメイトと担任の先生は同じというのが基本。しかし、これから将来、おそらく転校など環境の変化が多くなるであろううーたんに、このまま居心地のよいクラスにばかりいてはよくないと思い、特別にお願いをして、新学期にクラスを変えてもらったのです。今回はその新しいクラスでうーたんがどのように過ごしているのか初めて見ることができるチャンスでした。日頃うーたんに幼稚園での様子を尋ねても、答えをいつもはぐらかされてしまい、不安に思っていたので、仲良いお友だちがいるのを知って少し安心しました。
 
 で、お友だちと並んで何をするのかと見ていると、各々に持ってきたお菓子をかばんから取り出して食べはじめました。やっぱり…。
 
 こちら中国では、大人でも子どもでも「移動する」となると、皆さん大量の食べ物を用意するのが習慣のようです。遠足もご多分にもれず、どの家庭も毎回果物やらお菓子やらを大量に持参。持参して各自でたべるならいいのですが、その食べ物を配るのです。『福を配る』というこちらの習慣のようで…。
私ゆかっちは、この食べ物配りがいつも悩みの種。私が配ると遠慮されることが多く、どうしてもいただくばかりになってしまうからです。このやりとりをうまくこなせてないのが、無錫に来てからどうも気になっていました。私が用意したお菓子が好まれないものなのか。だからといって、果物を持参するのもかさばるし、配るタイミングもわからず。バス旅行前はどんなお菓子を持っていくかが大きな悩みのタネになっているのです。
 
 今回はどのお菓子で挑もうかとチョイスしたのは、現地メーカーのスナック菓子とうーたんが選んだ某ヨーロッバの国のくまのグミと日系メーカーのお菓子。気づけば小分けになっていないお菓子ばかりで、配りにくいものばかり。今回もまた駄目かとおもいきや、うーたんの仲良しなお友だち持参のお菓子は日系メーカーばかり。2人と近くにいたクラスメイトにもお菓子を配り、皆で仲良く食べ出しました。もちろんうーたんのお菓子も喜ばれたようで、一安心。
しばらくしてバスの進行中にも関わらず、危険を顧みず?!お菓子をクラスの皆に配りに来るお友だちが現れました。それを見たうーたん、私も配りたいといいだし、これまたバスが動いているにも関わらず、くまのグミを配りに行きました。でもみんなが快く食べてくれ、うーたんも私も大満足でした。
 
 その後もクラスメイトが持参したいろんなお菓子を配りにきました。ちなみに、うちのクラスの子が持参したお菓子ナンバーワンは、『海苔』でした。次回から味のりもおやつのアイテムの一つにしてみようかな、と考えています。

親子の会話も英才教育

 遠足は親子参加なので、私にとっては子どもの様子を見るだけでなく、親御さんの様子を観察するいい機会となります。バスに乗っているといろんな会話が聞こえてきます。最初は皆で歌を歌ったりしていたのですが、そのうち疲れてくる子どももいるので、親子のみでの会話に。
 
 子どもに向かって「もうすぐ小学校だね。小学校は1年生、2年生、3年生、4年生、次は何年生?」とか、「あの漢字は〇〇だね」とか。会話の中で何気に勉強しているではないですか。やはり親子の会話が大事なんだろうねえとゆかっち反省。
 そうこうするうちに視界にみかん畑が広がって来ました。そういえば、この遠足、みかん狩りもするんだっけと思っていると、

 「ママがみかん2個持っていて、〇〇ちゃんが7個持っていたら、合わせて何個?」という会話が聞こえてきました。
 
 足し算ではありませんか。うーたん、確か+1ぐらいなら習っていたはずだけど、+7ってすごいなあ。と感心していると。

 「じゃあママが3個で、〇〇ちゃんが8個なら?」
繰り上げの足し算になっていました。さらに

 「みかんが4個で2元です。では8個だったら何元?」
おおおお!!掛け算になってる。それにちゃんと答える子ども。すごすぎます。普段からこういう会話をすることが子どもの教育にいいのでしょう。ここでも中国ママの意気込みを知りました。
 
 ちなみに後から聞いたところによると、この掛け算のママさんのお勤めの会社は金融関係。妙に納得しました。



第3回 テレビ番組の収録を見学

(写真)Aさんとはたくさんの番組や舞台を見学した

 出会いはひょんなところから始まった。ある日、私は友達に誘われ、日本から来た先生の授業に参加した。その時にたまたま隣の席に座っていたのがAさんだった。

 「你是日本人吗?(あなたは日本人ですか?)」彼女は日本語はできないが、私の中国語のレベルにあわせて色々と話しかけてきてくれた。聞けば、彼女はすでに社会人で、空いた時間を利用して、大学の授業を聴講に来たのだという。
 
 そこから、彼女との交流が始まった。彼女は大のイベント好きで、大学の近くで講演会や音楽会がある時は色々と情報を教えてくれる。一緒に行く際には、必ずお菓子や屋台で買った食べ物を持ってきてくれる。また、私が日本に一時帰国する際には、一緒に北京の雑貨市場までいって、おみやげを探したりもしてくれた。彼女はそんな時は必ず、中国語が下手な私の代わりに、一生懸命値段を値切ってくれる。一言で言えばとても世話好きな女性なのだ。
 
 そんな彼女との思い出の中で、忘れられないのがあるテレビ局の収録を見学したことだ。中国では「春节晚会」と言って、旧正月の前後に流す娯楽番組が大変人気だ。一番人気があるのがCCTV(中国中央电视台)の作る「晚会」なのだが、各地方局も趣向をこらして独自の番組を制作している。内容は歌あり、漫才あり、コントあり、手品ありのバラエティーに飛んだものだ。日本で言えば、紅白歌合戦と、年明けの初笑い番組を一緒にしたようなイメージだろうか。
当然、出場する歌手やタレントたちも豪華絢爛、イベント好きのAさんにとってはたまらないイベントだ。彼女は欣喜雀躍として私を誘ってくれた。ただ、私には心配なことが一つだけあった。収録は北京郊外にあるスタジオで行われるため、大学から行く場合はゆうに2時間はかかる。夜から収録と聞いた私は、若干不安になって彼女に聞いてみた。
私「帰って来られるのか?」
Aさん「没事儿(大丈夫)」。
 
 力強く答える彼女。でも具体的に大丈夫な理由はよくわからない。でもあまりにも自信満々なので、私も深く追求せずに彼女と一緒に収録を見学することに決めた。
 
 スタジオの外では、すでに観客たちの長蛇の列ができていた。ただ一点、日本の番組収録と違うのは、「秩序」があまりないことだ。日本であれば、整理券を配って順番に入っていくのが一番順当なやり方なのだろうが、中国ではそれが通用しない。券らしきものはあるが、どこで誰がチェックするのか分からない。しかもみんな、良い席を取ろうと虎視眈々と狙っている。ある担当者がこっちに並べと言ったらそちらに移動、またあっちに並べと言ったらそちらに移動、その度にみんなが前の列を確保しようとするので、まさに熾烈な競争だ。また、収録中の写真撮影は禁止されているのだが、カメラの持ち込みもあまり厳格には規制されていない。見つかったら運が悪い、見つからなければ運がいい、まさにそんな感じだ。
 
 私たちもようやくスタジオに入って、番組収録が始まった時には、時間はすでに夜の8時を回っていた。収録自体のやり方は日本のバラエティー番組とそんなに変わらない。前説のディレクターが会場を盛り上げて、拍手の指示をしたりする。タレントさんたちも観客と気さくに話を交わしていて、観客と一体で番組を作っていく感覚だ。「番組を作るっていうのは、いいものだなあ〜」とテレビマンとしての感慨にしばし浸っていた私だが、気になるのはやはり時間のことだ。
 
 バラエティー番組の収録に時間が掛かるのは、洋の東西を問わず同じ事。収録が終わった時には、時間は深夜の2時を回り、電車もバスも当然ない。私はAさんに聞いた。

 私「これからどうするの?」

 Aさん「多分ネットカフェがあるだろうから、そこで徹夜しましょう」
私は耳を疑った。「多分?」実は彼女に、特に具体的な考えがあるわけではなかった。番組収録を見終わってから泊まる場所を考える、まさに「考えるより走る」という精神を実践していたのだ。
しかし、運命は皮肉なものだった。スタジオの回りにはネットカフェらしきものはあるにはあったが、すでにすべて閉店。タクシーもほとんど走っていない。ただ、それでもあきらめないのがAさんのすごい所。実はスタジオには、番組出演者が泊まる宿舎が併設されていたのだ。そこで彼女は何とかそこに交渉して泊めてもらおうと言い出した。

 「難しいんじゃないかなあ」と私は内心では思っていた。何しろ、出演者が泊まる宿舎だ、セキュリティの問題もある。スタッフは泊まれても、一般人はまず無理だろう。ただ、彼女の粘り強い交渉のお陰で、奇跡は起きたのだ。

 「ロビーのソファーで寝るんなら、寝てもいいよ」
警備員や責任者らしき人と何度もやり取りして、ようやく「ソファーで寝る権利」を獲得した彼女。収録は1月、外の気温はゆうにマイナス10度を超えていただろう。宿舎のロビーも暖房は入っていなかったので、気温は0度前後だろうか。それでも、寒風の中をさまよい歩くよりは何倍もマシだ。
 
 「实在对不起(本当にごめんなさい)」彼女は何度も謝ってくれたが、全然彼女を責める気にはならなかった。凍える思いで夜を越した翌朝、キラキラと輝く朝日の中で食べたお粥の味が、どんな高価な食べ物よりも美味しかったことは、言うまでもない。


第5回 冬休み旅行記Ⅱ(山西省)

(写真)山西省の結婚式

 極寒の東北で「新年」を迎えた私は、次の目的地を中国中西部(陝西省・山西省)に定めた。両方とも大学で知り合った友達の実家がある場所だ。旅の楽しみは何と言っても食べること、ということで、今回は食べ物の話題を中心に筆を進めることとしたい。
 
 まず訪れた陝西省・西安は日本でも有名な「唐の長安」だった場所。街の周りをぐるりと城壁が囲み、中心に鼓楼と钟楼が聳えるなど、北京とは違った趣だ。西安料理では、乾いた饼をちぎったあとに羊のスープに浸して食べる「羊肉泡馍」という料理が有名だ。この料理を紹介してくれた友人は「これは自分の手でちぎって食べるからうまいんだ」と力説していた。確かに、面倒な作業を終えて食べることで、食事の喜びが増すのかもしれない。日本人が蟹を食べるときと、似たような感覚だろうか?そんな西安での食べ物の一番の思い出は、イスラム街で「柿子饼」という小吃に出会ったこと。簡単に言うと干し柿の中に甘い餡を詰めて揚げた食べ物で、出来立ては甘くて、暖かくて、香ばしくて、『滋味あふれる』という表現がピッタリ。目下のところ、私の中での「キング・オブ・小吃」だ。
 
 西安の次に訪れたのは山西省の祁县(チーシェン)という古い街だ。隣にある平遥(ピンヤオ)古城の街並みは世界遺産に登録されて有名だが、実は祁县も負けず劣らず昔の雰囲気を残している。「観光」色が強い平遥よりも、「生活」の匂いがする祁县のほうが、私は好きだ。
 
 そんな山西省の人たちの一番の食へのこだわりは、とにかく麺が好きなこと。日本でも有名な刀削面を始め、米粒のように丸めた麺や、キャベツやじゃがいもになすりつけて茹でる麺など、とにかく様々な種類の麺料理が存在している。聞くと、一帯は土地があまり豊かではなく、米もあまり取れないので、必要に迫られて、麺食文化を発展させたということだ。
 
 これは山西省に限ったことではないのだが、中国では麺は「自家製麺」が基本だ。飲食店はもちろん、普通の人の家でも、麺料理を作る時は小麦粉をこねるところから始める。そのあとは、もんで、ひねって、ねかして、ちぎって、切って(削って)、麺を作る。なので、買ってきた麺を茹でるだけの日本の麺料理と比べて、圧倒的に美味しく感じる。うまくいえないが、作る人の「体温」を感じることが出来るのだ。
 
 祁县でも農村出身の友達の実家に泊めてもらったのだが、果物で最も印象に残ったのは特産のナツメだ。日本にいた時はナツメをあまり食べたことがなかったが、新鮮なナツメをお酒につけた「醉枣」は格別の味わいだ。ただ酒に弱い私にとっては、あまり食べ過ぎると酔ってしまうのが難点だが…
 
 さらに彼の村では、農村の結婚式にも参加させてもらった。ほとんど全ての村人が来るということで、参加者の数は200人をゆうに超えていた。テーブルには次から次へと、数え切れないほどの料理が運ばれてくる。味付けはどれも素朴で、素材の味を生かしたものが多い。私も参加させてもらったが、おいしいものを食べている時の笑顔は万国共通だ。きっと何代にもわたって、同じご馳走をつついて新郎新婦を祝福することで、村の連帯感を紡いできたのだろう。ただ、若者がどんどん都市へと出ていく流れがある中で、彼らの子供の世代が同じように村で結婚式を挙げられるかは、まだ誰もわからない。
 
 最近、中国で大ヒットしたドキュメンタリー番組「舌尖上的中国(舌の上の中国)」も、山西省の麺食をとりあげていた。中国ではかつて、「こんにちは」の代わりに「吃饭了吗?」=(ご飯食べた?)と言うのが共通の挨拶だったというのは、有名な話だ。基本的に、中国人は食べることが大好きなのだ。ただ最近は、ドブ油や毒粉ミルクなど、食品安全の話題が次々と報道されて、彼らは自分の国の食べ物に自信をなくしている。美食番組の大ヒットは、その不安の裏返しともとれるだろう。
 
 危険な食品を作る人達は自分の利益を優先する余り、顧客の安全を軽視してしまった。「資本主義」の基本はもちろん利潤を求めることだが、やっていいことと悪いことがあるのは当然だ。「社会主義」の中に「資本主義」を急速に組み込んだ中国の矛盾が、食品安全の場面でもかいま見える気がすると言ったら、言い過ぎだろうか?


第6回 友の自殺

(写真)学生たちの様々な思いで埋め尽くされた喫茶店の壁

 長かった冬休みを終えて大学に戻ってきた私を待ち受けていたのは、信じられない知らせだった。
 
 その知らせを受け取ったのは、大学の授業が始まって間もない2月の終わり。午前中の授業を終えて、中国人の友達と喫茶店で話していた私に、仲の良い先生が電話をくれたのだ。

 「Dさんが亡くなった。自殺みたいだ」

 
 中国語だったこともあり、意味がとっさには理解できなかった。ただ、相手の声のトーンが非常に深刻だったことだけは強く脳裏に焼き付いている。
 
 Dさんと初めて知り合ったのは、大学に来た翌日だった。留学生はまず病院に行って健康診断を受けなければならないのだが、その際たまたま隣に並んだのが、Dさんだった。長い待ち時間の間に、彼女のお母さんがもともと中国人で、日本人のお父さんと結婚したこと、北京におじいさんとおばあさんが今も住んでいることなど、いろいろな話をした。私たちは意気投合し、もう一人の日本人留学生と一緒に、お昼ご飯を食べることとなった。


 「北京に着いたばかりなんだから、おいしい中華料理を紹介しますよ!」
 
 日本人留学生とはいえ、北京に土地勘のある彼女は、地元の食堂のような場所で、次々と手際よく料理を頼んでくれた。また、食べきれなかった分は、「打包」(持ち帰り)にして、私たちに渡してくれた。非常に気が利く、優しい子だなあというのが、彼女の第一印象だ。
 
 私たちが留学している中国伝媒大学は、日本語に直すと「中国メディア大学」だ。卒業生の多くはテレビ局や新聞社など、メディア業界に就職する。なかでもアナウンス学部は一番の名門で、一説によるとCCTV(中国中央テレビ)のアナウンサーの8割が、伝媒大学の卒業生だという。彼女もそんな名門のアナウンス学部に合格し、研究生としての一歩を踏み出したばかりだった。別れ際、彼女は私の手を握って、力強く声をかけてくれた。

 「お互いに頑張りましょう!」
 
 その後も、Dさんとは大学などで会うたびに色々と話をした。Dさんのお母さんはもともと中国語の先生だったので、お母さんに中国語を教えてもらったこともある。私が会う時の彼女はいつも明るく活発で、とても自殺するような子には思えなかった。
 
 一報によると、彼女は飛び降り自殺をしたという。とても信じられなかった私は、彼女が飛び降りたという場所に行くことにした。「デマであって欲しい」、現場に行くまでの道すがら、私は一心に祈り続けていた。しかし、そんな私の願いは、現場に着いた途端にすぐ打ち消された。遺体はすでに別の場所に運ばれた後だったが、現場には物々しい警戒線が張られ、たくさんの警官が駆けつけていた。多くの野次馬がいたが、その中に、ひときわ大きな声を上げて泣いている彼女のお母さんの姿があった。もちろん、私は何も声をかけられなかった。

 その後、彼女の自殺の原因について、色々な噂が飛び交った。恋人との関係で悩んでいたという話、学業で悩んでいたという話、国籍のアイデンティティに悩んでいたという話…でもそのうちのどの一つも、私にはピンと来なかった。実は私は、彼女が死ぬ3日前にも、たまたま彼女と世間話をしていたのだが、悩んでいる素振りは微塵もなかった。それだけに、私の頭の中の混乱は広がるばかりだった。
 
 そしてその混乱は「どうして彼女を助けることができなかったのか?」という後悔に変わっていった。あとで知ったことだが、彼女の死の一報を私が聞いた喫茶店には、まさにその当日の午前中、彼女も来店していて、コーヒーを飲んでいたのだ。彼女はどんな思いでコーヒーを飲んだのだろう?もし万が一、その時私が居合わせて、世間話の一つでもしていれば、彼女の自殺を食い止めることができただろうか?しかし、歴史にイフはない。数日後、私たち日本人留学生は共同で花束とチョコレートを買い、彼女がなくなった現場で手を合わせた。10人以上はいただろうか。
 
 どうして? どうして? どうして?
 
 どれだけ考えても、結局答えは見つからなかった。
 
 自分で自分の命を断つ行為は、非常に勇気のいる行為だ。自殺する人間は弱い人間ではなく、強い人間だ。きっと彼女は死ぬことで、何かを伝えたかったのだろう。でも生きていても、自分の思いを伝えることはできる。一番つらいのは残された人たちだ。この話を書くかどうか迷ったが、結局書くことにしたのは、自分も思いを伝えたかったからだ。
 
 死なないで下さい。
  
 残された私達にできることは、彼女のためにも精一杯毎日過ごすことくらいだろう。それができているかどうかはわからない。ただ今でも目をつぶると、彼女の笑顔が浮かんでくる。