2011年9月1日正午、私を乗せた飛行機は北京空港に降り立った。天気は快晴。これから一年間の中国生活、一体何が待ち受けているのか?期待と不安が入り混じった心境で、入国審査を済ませた私を、大学の先生が迎えてくれた。聞くと、彼は私と同じ36歳だということだ。
「北京は秋が一番いい季節だよ。でも秋はとても短い。暑い夏が終わると、すぐに寒い冬が来る」簡単な挨拶と自己紹介を済ませ、私たちは車に乗り込んだ。そこで開口一番、彼が発した言葉が、今でも強く印象に残っている。
「日本の総理は今誰だっけ?どうして毎年総理が変わるんだ?」
折しも前日、国会で野田佳彦総理が選出されたばかりだった。野田総理は、私が記者として担当したこともあったので、彼の人となりについて、先生に教えてあげることができた。しかし、「どうして首相が毎年変わるのか?」という素朴な質問については、すぐに答えることが出来なかった。そこで私は、逆に先生に聞いてみた。「どうして中国のリーダーはずっと変わらないんですか?」先生は本気か冗談かわからない口調でこういった「それはとても優秀だからだよ」
なるほど、13億人から選ばれているリーダーだから、やはり優秀なのか。でもどうやって選んでいるんだっけ?それとも、彼は冗談を言っていて、私は笑ったほうがいいのだろうか?
そんなことを考えているうちに、車は大学へとたどり着いていた。
大学についてからの手続きはまさに「中国式」の連続だった。聞くと、本来入れるはずの部屋がまだ工事中で、部屋がないのだという。じゃあどこに住むのか?授業はいつから始まるのか?授業までに何をすればいいのか?慣れない中国語でどんどん要求しなければ、事は何も運ばない。「待っていては駄目」というのが、中国に到着してまず得た教訓だ。
翌日行われた身体検査でも、トラブル発生。ビザを取るために預けたパスポートが、何日待っても帰ってこないのだ。挙句の果てには「本当に預けたのか」とこちらが疑われる始末…。結局、大学の先生にも協力してもらい、何度も当局に足を運んで、ようやくパスポートを取り戻すことができた。でも、担当者が「对不起(すみません)」と謝ってくれることはまず無い。やれやれ、なんだか疲れるなあ〜。
そんな私を癒してくれたのは、実は中国の屋台だった。祭りの縁日くらいしか屋台が出ない日本と違って、大学の西側には毎日屋台が何台も並び、非常に賑やかだ。しかも、とても安くて美味しい。「羊肉串」(羊の串焼き)「糖葫芦」(あんず飴)「臭豆腐」(その名の通り臭い豆腐。でもうまい)などなどが、私のお気に入りだ。中国の人たちと道端に座って屋台で買った食べ物を食べているときが、私にとっての至福の時間だ。そういえば、買い食いなんて、しばらくしていなかった。
こうして北京をぶらぶらする中で、私はまたあることに気がついた。物の値段の感覚が日本とぜんぜん違うのだ。屋台の食べ物はだいたい5元程度(70円程度)、地下鉄は2元(30円程度)で乗り放題、でも最新のiPhoneは平気で6000元(8万円以上!)くらいする。そして、屋台で買い食いをしている人たちの中も、平気でiPhoneを操作している人がいる。ものすごい勢いの経済成長は、明らかな貧富の差を生み出した。だから彼らは、お金についてはとても敏感だ。仲良くなれば、お互いの給料を聞くことも、別におかしいことではない。後から知ったことだが、一旗揚げるために北京に来る若者たちを「北漂(ベイピャオ)」というのだという。北京の街全体を覆っている活気の正体は、実は「漂流している」彼ら一人一人が発している「焦り」のオーラなのかもしれない。
こうして私の留学生活は始まった。もちろん、中国の人も日本の人も千差万別、一括りにして話すことはできない。だからこの連載では、私が実際に出会って、話した人との思い出を中心に書きたいと思う。そこから皆さんが、日中の相互理解に役立つ何かを見つけてくれれば幸いだ。
ところで最後に、皆さんに聞きたいことがあります。どうして日本の総理は、毎年変わるんですか(笑)?
私はテレビ局で働いている。なので、テレビ事情には関心が強いのだが、中国で真っ先に気になったのが、ゴールデンタイムのドラマの特殊性だ。
日本のドラマは恋愛ドラマが主流で、次に来るのが刑事ドラマ、病院ドラマといったところ。しかし、中国では先の日中戦争を描いたドラマが非常に多い。このようなドラマは「抗日ドラマ」と呼ばれている。もちろん、日本人は悪役で、劇中では「日本鬼子」と呼ばれる。もはや人ではなく鬼だ。毎日こういったドラマを見ていれば、私だって日本人が嫌いになる。
ただ翻って考えると、日本人の中国人観にも、画一的なイメージが無いだろうか?「マナーが足りない」「大声」などだ。それはきっと我々日本のマスコミにも一因があるのかもしれない。限られた電波を使って、多面的に物事を伝えることは、非常に難しいことだ。
そんな「偏った」状況の中でも、日本に興味や関心を持ってくれている大学生がたくさんいることに、私は感動した。彼らの興味のきっかけは、主にアニメやファッション、ゲームなどだ。個人的に彼らと交流することで、私自身が抱いていた中国像もやはり偏っていたことを痛感させられた。マクロな分析も大事だが、一番大切なのは、人と人との生の交流なのだろう。そう思い、私はなるべく多くの人と交流するように心がけた。そんな中で参加した、ある病院のボランティア活動の思い出が、強く心に残っている。
私が参加したのは、[临终关怀]というボランティアで、簡単に言うと、日本でいうホスピスのような病院に入院しているお年寄りの方をお見舞いする活動だ。入院されている方の多くは、癌のような治らない病気を抱えている。なので、私はある程度悲壮感が漂う雰囲気を想像したのだが、実際に訪れた病院は、非常に明るく清潔で、患者さんもとてもリラックスしているように感じられた。 日本人ということもあり、私たちが通されたのは、日本語を話せるおじいちゃんの部屋だった。「お名前は何ですか?」と私が尋ねると、「王です」とはっきりとした日本語で答えてくれた。聞くと、東北地方の出身で、かつての満洲国で暮らしていたという。満洲国のことは、もちろん歴史の勉強で知っている、ただ、実際に満洲国で暮らしていた中国の人と会うのは、初めての経験だ。何と話していいのかわからない私を尻目に、おじいちゃんはこう切り出した。
「日本の歌を歌えますよ。一緒に歌いましょう」。
そして、私が首を縦に振ったのを確認すると、おじいちゃんはゆっくりと歌い出した。
「き〜み〜が〜よ〜は…」
おじいちゃんが歌えるという歌は、日本の「君が代」だった。おじいちゃんに合わせるように、私もゆっくりと大きい声で歌った。「君が代」を歌うのは、何年ぶりだろうか?周りにいた中国の人達も、この歌が日本の国歌だということは、うすうすわかっているようだった。ただ、嫌な顔ひとつせず、一緒に手拍子をしてくれた。
「ありがとうございました」
私が歌い終わったおじいちゃんにお礼を言うと、間髪入れずに婦長さんが切り出した。
「じゃあ次は、中国の歌を歌いましょう」
そして、自ら手拍子を取り、歌い出した歌は、中国の国歌だった。
「起来〜!不愿做奴隶的人们!」
おじいちゃんも歌い出し、周りの中国の人も歌い出し、病室は大合唱となった。もちろん、私は歌えないので、一緒に手拍子を取るのが精一杯だった。
実は中国の国歌は、抗日戦争の時の軍歌がそのまま使われている。「奴隷になりたくなければ、立ち上がって戦え」という歌詞だ。2つの国の国歌を歌えるおじいちゃんは、きっと2つの国の間で翻弄された人生を送ってきたのだろう。
病室の他の人達も、孫の世代の大学生たちに色々な話をしてくれた。英語が堪能で、香港や上海で翻訳として活躍していたというおばあちゃん、文化大革命の時に大変な思いをしたという知識層のおじいちゃん、彼ら一人一人が、戦争や内戦の混乱を乗り越えた、まさに波乱の人生を送ってきていた。
最後に病室を出る時、あるおばあちゃんが私にこう話しかけてきた。
「中国語を勉強しているのですね。じゃあ一つ言葉を覚えて帰って下さい」
彼女が教えてくれた言葉は「一衣帯水」という言葉だった。日本と中国の関係は、まさに一つの帯のような川で隔てられているだけで、交流するのに何の障害もないという意味だ。ただし、その川は時には激流となり、両岸の人たちの運命を翻弄してきた。
日中両国の国歌を聞いた中国人の学生たちも、色々と感じるところは大きかったようだ。
これからの21世紀、日中の間に流れる川はどんな姿を見せるのだろうか?きっと、なるべく多くの橋をその川にかけて、なるべく多くの船をその川に浮かべることが、私たちの世代にとって大切なことなのだろう。帰りのバスで、多くのおじいちゃんおばあちゃんの話を思い出しながら、私はそんなことを考えていた。
出会いはひょんなところから始まった。ある日、私は友達に誘われ、日本から来た先生の授業に参加した。その時にたまたま隣の席に座っていたのがAさんだった。
「你是日本人吗?(あなたは日本人ですか?)」彼女は日本語はできないが、私の中国語のレベルにあわせて色々と話しかけてきてくれた。聞けば、彼女はすでに社会人で、空いた時間を利用して、大学の授業を聴講に来たのだという。
そこから、彼女との交流が始まった。彼女は大のイベント好きで、大学の近くで講演会や音楽会がある時は色々と情報を教えてくれる。一緒に行く際には、必ずお菓子や屋台で買った食べ物を持ってきてくれる。また、私が日本に一時帰国する際には、一緒に北京の雑貨市場までいって、おみやげを探したりもしてくれた。彼女はそんな時は必ず、中国語が下手な私の代わりに、一生懸命値段を値切ってくれる。一言で言えばとても世話好きな女性なのだ。
そんな彼女との思い出の中で、忘れられないのがあるテレビ局の収録を見学したことだ。中国では「春节晚会」と言って、旧正月の前後に流す娯楽番組が大変人気だ。一番人気があるのがCCTV(中国中央电视台)の作る「晚会」なのだが、各地方局も趣向をこらして独自の番組を制作している。内容は歌あり、漫才あり、コントあり、手品ありのバラエティーに飛んだものだ。日本で言えば、紅白歌合戦と、年明けの初笑い番組を一緒にしたようなイメージだろうか。
当然、出場する歌手やタレントたちも豪華絢爛、イベント好きのAさんにとってはたまらないイベントだ。彼女は欣喜雀躍として私を誘ってくれた。ただ、私には心配なことが一つだけあった。収録は北京郊外にあるスタジオで行われるため、大学から行く場合はゆうに2時間はかかる。夜から収録と聞いた私は、若干不安になって彼女に聞いてみた。
私「帰って来られるのか?」
Aさん「没事儿(大丈夫)」。
力強く答える彼女。でも具体的に大丈夫な理由はよくわからない。でもあまりにも自信満々なので、私も深く追求せずに彼女と一緒に収録を見学することに決めた。
スタジオの外では、すでに観客たちの長蛇の列ができていた。ただ一点、日本の番組収録と違うのは、「秩序」があまりないことだ。日本であれば、整理券を配って順番に入っていくのが一番順当なやり方なのだろうが、中国ではそれが通用しない。券らしきものはあるが、どこで誰がチェックするのか分からない。しかもみんな、良い席を取ろうと虎視眈々と狙っている。ある担当者がこっちに並べと言ったらそちらに移動、またあっちに並べと言ったらそちらに移動、その度にみんなが前の列を確保しようとするので、まさに熾烈な競争だ。また、収録中の写真撮影は禁止されているのだが、カメラの持ち込みもあまり厳格には規制されていない。見つかったら運が悪い、見つからなければ運がいい、まさにそんな感じだ。
私たちもようやくスタジオに入って、番組収録が始まった時には、時間はすでに夜の8時を回っていた。収録自体のやり方は日本のバラエティー番組とそんなに変わらない。前説のディレクターが会場を盛り上げて、拍手の指示をしたりする。タレントさんたちも観客と気さくに話を交わしていて、観客と一体で番組を作っていく感覚だ。「番組を作るっていうのは、いいものだなあ〜」とテレビマンとしての感慨にしばし浸っていた私だが、気になるのはやはり時間のことだ。
バラエティー番組の収録に時間が掛かるのは、洋の東西を問わず同じ事。収録が終わった時には、時間は深夜の2時を回り、電車もバスも当然ない。私はAさんに聞いた。
私「これからどうするの?」
Aさん「多分ネットカフェがあるだろうから、そこで徹夜しましょう」
私は耳を疑った。「多分?」実は彼女に、特に具体的な考えがあるわけではなかった。番組収録を見終わってから泊まる場所を考える、まさに「考えるより走る」という精神を実践していたのだ。
しかし、運命は皮肉なものだった。スタジオの回りにはネットカフェらしきものはあるにはあったが、すでにすべて閉店。タクシーもほとんど走っていない。ただ、それでもあきらめないのがAさんのすごい所。実はスタジオには、番組出演者が泊まる宿舎が併設されていたのだ。そこで彼女は何とかそこに交渉して泊めてもらおうと言い出した。
「難しいんじゃないかなあ」と私は内心では思っていた。何しろ、出演者が泊まる宿舎だ、セキュリティの問題もある。スタッフは泊まれても、一般人はまず無理だろう。ただ、彼女の粘り強い交渉のお陰で、奇跡は起きたのだ。
「ロビーのソファーで寝るんなら、寝てもいいよ」
警備員や責任者らしき人と何度もやり取りして、ようやく「ソファーで寝る権利」を獲得した彼女。収録は1月、外の気温はゆうにマイナス10度を超えていただろう。宿舎のロビーも暖房は入っていなかったので、気温は0度前後だろうか。それでも、寒風の中をさまよい歩くよりは何倍もマシだ。
「实在对不起(本当にごめんなさい)」彼女は何度も謝ってくれたが、全然彼女を責める気にはならなかった。凍える思いで夜を越した翌朝、キラキラと輝く朝日の中で食べたお粥の味が、どんな高価な食べ物よりも美味しかったことは、言うまでもない。
極寒の東北で「新年」を迎えた私は、次の目的地を中国中西部(陝西省・山西省)に定めた。両方とも大学で知り合った友達の実家がある場所だ。旅の楽しみは何と言っても食べること、ということで、今回は食べ物の話題を中心に筆を進めることとしたい。
まず訪れた陝西省・西安は日本でも有名な「唐の長安」だった場所。街の周りをぐるりと城壁が囲み、中心に鼓楼と钟楼が聳えるなど、北京とは違った趣だ。西安料理では、乾いた饼をちぎったあとに羊のスープに浸して食べる「羊肉泡馍」という料理が有名だ。この料理を紹介してくれた友人は「これは自分の手でちぎって食べるからうまいんだ」と力説していた。確かに、面倒な作業を終えて食べることで、食事の喜びが増すのかもしれない。日本人が蟹を食べるときと、似たような感覚だろうか?そんな西安での食べ物の一番の思い出は、イスラム街で「柿子饼」という小吃に出会ったこと。簡単に言うと干し柿の中に甘い餡を詰めて揚げた食べ物で、出来立ては甘くて、暖かくて、香ばしくて、『滋味あふれる』という表現がピッタリ。目下のところ、私の中での「キング・オブ・小吃」だ。
西安の次に訪れたのは山西省の祁县(チーシェン)という古い街だ。隣にある平遥(ピンヤオ)古城の街並みは世界遺産に登録されて有名だが、実は祁县も負けず劣らず昔の雰囲気を残している。「観光」色が強い平遥よりも、「生活」の匂いがする祁县のほうが、私は好きだ。
そんな山西省の人たちの一番の食へのこだわりは、とにかく麺が好きなこと。日本でも有名な刀削面を始め、米粒のように丸めた麺や、キャベツやじゃがいもになすりつけて茹でる麺など、とにかく様々な種類の麺料理が存在している。聞くと、一帯は土地があまり豊かではなく、米もあまり取れないので、必要に迫られて、麺食文化を発展させたということだ。
これは山西省に限ったことではないのだが、中国では麺は「自家製麺」が基本だ。飲食店はもちろん、普通の人の家でも、麺料理を作る時は小麦粉をこねるところから始める。そのあとは、もんで、ひねって、ねかして、ちぎって、切って(削って)、麺を作る。なので、買ってきた麺を茹でるだけの日本の麺料理と比べて、圧倒的に美味しく感じる。うまくいえないが、作る人の「体温」を感じることが出来るのだ。
祁县でも農村出身の友達の実家に泊めてもらったのだが、果物で最も印象に残ったのは特産のナツメだ。日本にいた時はナツメをあまり食べたことがなかったが、新鮮なナツメをお酒につけた「醉枣」は格別の味わいだ。ただ酒に弱い私にとっては、あまり食べ過ぎると酔ってしまうのが難点だが…
さらに彼の村では、農村の結婚式にも参加させてもらった。ほとんど全ての村人が来るということで、参加者の数は200人をゆうに超えていた。テーブルには次から次へと、数え切れないほどの料理が運ばれてくる。味付けはどれも素朴で、素材の味を生かしたものが多い。私も参加させてもらったが、おいしいものを食べている時の笑顔は万国共通だ。きっと何代にもわたって、同じご馳走をつついて新郎新婦を祝福することで、村の連帯感を紡いできたのだろう。ただ、若者がどんどん都市へと出ていく流れがある中で、彼らの子供の世代が同じように村で結婚式を挙げられるかは、まだ誰もわからない。
最近、中国で大ヒットしたドキュメンタリー番組「舌尖上的中国(舌の上の中国)」も、山西省の麺食をとりあげていた。中国ではかつて、「こんにちは」の代わりに「吃饭了吗?」=(ご飯食べた?)と言うのが共通の挨拶だったというのは、有名な話だ。基本的に、中国人は食べることが大好きなのだ。ただ最近は、ドブ油や毒粉ミルクなど、食品安全の話題が次々と報道されて、彼らは自分の国の食べ物に自信をなくしている。美食番組の大ヒットは、その不安の裏返しともとれるだろう。
危険な食品を作る人達は自分の利益を優先する余り、顧客の安全を軽視してしまった。「資本主義」の基本はもちろん利潤を求めることだが、やっていいことと悪いことがあるのは当然だ。「社会主義」の中に「資本主義」を急速に組み込んだ中国の矛盾が、食品安全の場面でもかいま見える気がすると言ったら、言い過ぎだろうか?
中国の冬休みは日本よりずっと長い。「春節」(旧正月)を挟んで2カ月近く続く。
そんな冬休みをどう過ごすか悩んでいた私に、声をかけてくれたのが、吉林省出身の社会人Bさんだった。「中国の新年に興味があるだろう、だったらうちで一週間くらい過ごせば良いよ!」彼は実家に私を誘ってくれた。しかし私は、即答を避けた。理由は単純、「とっても寒そう」だから…Bさんは私の悩みを見透かしたように、こう続けてきた。「大丈夫、家の中はあったかいから」。帰ってきたのは、なんともシンプルな答え。そうとなれば、行かざるを得ない。
北京から長春へは、高速鉄道が整備されている。長春からローカル線を乗り継いで、彼の村の一番近くの駅へ。さらにタクシーで、「満州」の広大な大地を1時間半ほど走り、ようやく彼の村に到着した。
「ようこそ、日本人の友達!」彼の家は、家族総出で私を迎えてくれた。彼は4人兄弟、お姉さんが3人で、彼が末っ子だ。一人っ子政策の中国だが、農村ではお金を納めれば、2人以上産むことも可能だという。3人のお姉さんはみんな結婚していて、子供がいる。他の親戚も勢ぞろいして、賑やかな団欒がすでに始まっていた。
彼らの春節のお祝いの仕方は、「シンプル」かつ「賑やか」だ。春節2、3日前には「対聯」といって、家族の幸せを願った紙を門に貼る。家の中には福の神の絵が飾ってあり、「お金儲け」を素直に願っているのが特徴的だ。大晦日の夜には手作りの餃子を食べる。さらに、年越しの瞬間は爆竹を鳴らし、花火を飛ばす。村には街灯も少なく、真っ暗な中を爆竹や爆竹が飛び交い、ある意味危険だが、皆楽しそうだ。そして年が明けた後はひたすら瓜の種やみかんを食べながら、麻雀、将棋、トランプだ。
東北の人はお酒が非常に好きなのが特徴で(「愛している」といっても、過言ではない…)、朝から白酒を飲んでいる。それもなぜか灯油のポリタンクのような特大容器からそのまま注いで飲んでいる。彼らの白酒は、アルコール度が60度くらいある。私は酒が弱いので、食事のたびに酔ってしまい、そのままダウンしてしまうことが多かった。そして目が覚めると次の食事、懲りずに酒を勧められ、またダウン。そしてまた…
心配していた寒さだが、家の中は本当に暖かかった。「炕(かん)」という、韓国のオンドルのような床暖房が整備されているので、体感温度は30度くらい。むしろ大変なのは、寒さではなく「温度差」だ。家の外はマイナス30度の世界で、自分の吐いた息が髪の毛の上で凍る。じゃあ外に出なければいい思うだろうが、そうも行かない。村にはまだ下水道が整備されておらず、「トイレ」に行くためには、家の外の小屋に行く必要がある。また、水は大変貴重で、お風呂はもちろん、シャワーもない。洗面器一杯の水を大切に使い、足と顔を洗って、歯磨きをする。都会の生活に慣れた身には大変だが、彼らの暮らしは決して不潔ではない。むしろ、とてもシンプルで、清潔な印象を受けた。
夕食の後はいつも、Bさんのお父さんや村の人達と話をした。彼らの村に外国人が来ることはほとんどなく、多くの村人が「見物」にやってくる。一帯はかつての「満州国」なので、日本人に対する感情も複雑だ。日本に対する批判ももちろん言われたが、暖かく歓迎してくれた人のほうが圧倒的に多かった。そして、村の人たちは悩みも色々と打ち明けてくれた。
一番多かったのは、農村と都市の格差に対する悩みだ。彼らが汗水垂らして1年間で稼ぐお金は、北京のマンションの1平方メートル当たりの値段にも満たない。村で過ごす分には問題はないが、北京で家を買うことは到底無理。農村でも暮らしは良くなっている。でも都会と比べると、どんどん置いていかれているという不安感が、特に若者に強いことが印象的だった。
旧正月を過ぎても、Bさんは北京に戻らなかった。お父さんの勧めに従い、吉林に帰ることを決めたのだ。ただBさんは、北京で働くことを諦めていない。私と話すたびに、農村はとても「退屈」だと愚痴をこぼしている。
以前も書いたが、北京には、かつてのBさんのように、農村から出てきた「北漂(ベイピャオ)」と呼ばれる若者たちが多く存在する。彼らにとっての「幸せ」は、どこにあるのだろうか。彼らはいつまで「漂流」すればいいのだろうか。
長かった冬休みを終えて大学に戻ってきた私を待ち受けていたのは、信じられない知らせだった。
その知らせを受け取ったのは、大学の授業が始まって間もない2月の終わり。午前中の授業を終えて、中国人の友達と喫茶店で話していた私に、仲の良い先生が電話をくれたのだ。
「Dさんが亡くなった。自殺みたいだ」
中国語だったこともあり、意味がとっさには理解できなかった。ただ、相手の声のトーンが非常に深刻だったことだけは強く脳裏に焼き付いている。
Dさんと初めて知り合ったのは、大学に来た翌日だった。留学生はまず病院に行って健康診断を受けなければならないのだが、その際たまたま隣に並んだのが、Dさんだった。長い待ち時間の間に、彼女のお母さんがもともと中国人で、日本人のお父さんと結婚したこと、北京におじいさんとおばあさんが今も住んでいることなど、いろいろな話をした。私たちは意気投合し、もう一人の日本人留学生と一緒に、お昼ご飯を食べることとなった。
「北京に着いたばかりなんだから、おいしい中華料理を紹介しますよ!」
日本人留学生とはいえ、北京に土地勘のある彼女は、地元の食堂のような場所で、次々と手際よく料理を頼んでくれた。また、食べきれなかった分は、「打包」(持ち帰り)にして、私たちに渡してくれた。非常に気が利く、優しい子だなあというのが、彼女の第一印象だ。
私たちが留学している中国伝媒大学は、日本語に直すと「中国メディア大学」だ。卒業生の多くはテレビ局や新聞社など、メディア業界に就職する。なかでもアナウンス学部は一番の名門で、一説によるとCCTV(中国中央テレビ)のアナウンサーの8割が、伝媒大学の卒業生だという。彼女もそんな名門のアナウンス学部に合格し、研究生としての一歩を踏み出したばかりだった。別れ際、彼女は私の手を握って、力強く声をかけてくれた。
「お互いに頑張りましょう!」
その後も、Dさんとは大学などで会うたびに色々と話をした。Dさんのお母さんはもともと中国語の先生だったので、お母さんに中国語を教えてもらったこともある。私が会う時の彼女はいつも明るく活発で、とても自殺するような子には思えなかった。
一報によると、彼女は飛び降り自殺をしたという。とても信じられなかった私は、彼女が飛び降りたという場所に行くことにした。「デマであって欲しい」、現場に行くまでの道すがら、私は一心に祈り続けていた。しかし、そんな私の願いは、現場に着いた途端にすぐ打ち消された。遺体はすでに別の場所に運ばれた後だったが、現場には物々しい警戒線が張られ、たくさんの警官が駆けつけていた。多くの野次馬がいたが、その中に、ひときわ大きな声を上げて泣いている彼女のお母さんの姿があった。もちろん、私は何も声をかけられなかった。
その後、彼女の自殺の原因について、色々な噂が飛び交った。恋人との関係で悩んでいたという話、学業で悩んでいたという話、国籍のアイデンティティに悩んでいたという話…でもそのうちのどの一つも、私にはピンと来なかった。実は私は、彼女が死ぬ3日前にも、たまたま彼女と世間話をしていたのだが、悩んでいる素振りは微塵もなかった。それだけに、私の頭の中の混乱は広がるばかりだった。
そしてその混乱は「どうして彼女を助けることができなかったのか?」という後悔に変わっていった。あとで知ったことだが、彼女の死の一報を私が聞いた喫茶店には、まさにその当日の午前中、彼女も来店していて、コーヒーを飲んでいたのだ。彼女はどんな思いでコーヒーを飲んだのだろう?もし万が一、その時私が居合わせて、世間話の一つでもしていれば、彼女の自殺を食い止めることができただろうか?しかし、歴史にイフはない。数日後、私たち日本人留学生は共同で花束とチョコレートを買い、彼女がなくなった現場で手を合わせた。10人以上はいただろうか。
どうして? どうして? どうして?
どれだけ考えても、結局答えは見つからなかった。
自分で自分の命を断つ行為は、非常に勇気のいる行為だ。自殺する人間は弱い人間ではなく、強い人間だ。きっと彼女は死ぬことで、何かを伝えたかったのだろう。でも生きていても、自分の思いを伝えることはできる。一番つらいのは残された人たちだ。この話を書くかどうか迷ったが、結局書くことにしたのは、自分も思いを伝えたかったからだ。
死なないで下さい。
残された私達にできることは、彼女のためにも精一杯毎日過ごすことくらいだろう。それができているかどうかはわからない。ただ今でも目をつぶると、彼女の笑顔が浮かんでくる。
私の携帯電話には時々知らない番号から電話がかかってくる。「家を買いませんか」「アメリカに移民しませんか」「スチュワーデスの女の子を紹介しますよ」、中身は殆どがゴミ広告の類で、普段は完全に無視しているが、そんな私も引っかかってしまった手口がある。お恥ずかしい限りだが、皆さんへの警告も兼ねて、ご紹介したいと思う。
きっかけは新学期開始直後にかかって来た、男性からの一本の電話だった。知らない番号だったので、「お前は誰だ」と私は冷たく聞いたのだが、相手は笑って「俺だよ、俺、当ててみて?」と人懐っこく聞いてくる。今思うと、相当怪しいが、もちろん相手は中国語、細かいニュアンスや訛りの違いが余り把握できない私は、すっかり友達の「Eさん」かと、思い込んでしまったのだ。
「ひょっとしてEさんじゃない?」とのんきに答えたのが運の尽き、相手は待ってましたとばかりに「そう、よく分かったね。Eだよ!電話番号変えたから、新しい番号を登録してね!」と話してきた。彼は続けて「今は旅行で北京にいない。戻る頃に電話するから、また北京で会おう!」と言って、電話を切った。この時点では、私はすっかり相手がEさんだと信じているので、新しい電話番号がわかってよかったな、くらいにしか思っていなかった。しかしすでに、悲劇は始まっていたのだ。
3日後、また「Eさんの新しい番号」から、電話がかかってきた。授業中だったので私は電話に出られなかったが、相手は3分おきぐらいに、ひっきりなしにかけてくる。「何が起きたんだ?」不安になった私は、授業が終わった後、すぐに折り返し電話をかけた。相手は明らかに尋常ではない様子だ。
「大変だ。俺の友達が交通事故にあって、今病院に入院した。手術が必要だが、手術代が足りない。今から言う口座番号にお金を送ってくれないか?」
ああ、なんて典型的な手口だろう。しかしすっかり友達と信じている人間から、焦ってまくし立てられると、こちらも冷静な判断ができなくなってしまう。どこかで怪しいと思っていても、万が一本当にけが人がいて、手術が必要ならば、やはり助けてあげるのが人の道だろう。
「いくら必要なんだ?」
私が聞くと、相手は「5000元」とふっかけてきた。日本円で5万円以上の大金だ。さすがにそんな大金はないと答えると、相手は「今財布の中にいくらある?それだけでもいいから送ってくれ。近くにあるのは何銀行だ?今から言うのは友だちの口座だから、あるだけでいい、送ってくれ!こっちは大変なんだ」と懇願してきた。
もし相手が日本人で、日本語で話しているのであれば、私は詳細を確認しただろう。「どんな事故だ?どの病院に入院したんだ?病状はどうだ?…」。しかし私の中国語はそこまでのレベルに達していなかった。少々おかしいとは思ったが、本当の事故なら一大事だ。私は馬鹿正直にも、財布の中にあった700元(1万円くらい)を指定された口座に振りこんだ。そして「Eさん」にはショートメールを送った。「Eさん、出来るだけのお金は振り込んだ。友達の回復を祈っている」そして「Eさん」からは、感謝のメールが帰ってきた。「今日の件は本当にありがとう」
真相が判明したのは、それから一週間後だ。電話番号を変えたはずの「Eさん」の古い番号から、また電話がかかってきたのだ。
「Eさん、電話番号変えたんじゃなかったの?友達の怪我は良くなった?」私が事故のことを尋ねると、Eさんは、「?」が10個くらいついた声で、「お前何言っているの?俺達が最後に話したのは、去年の年末だろう???」と返してきた。この時私はようやく気がついた。
「あ〜〜、騙された!!」
ただ本物のEさんはやはりいい人だった。彼は仕事が終わったその足で大学まで来てくれて、私と一緒に警察に行って被害届を提出してくれた。おかげで私も中国の警察の事情聴取を経験することができた。調書にサインをした後、Eさんは警官に
「彼は日本人の友人だから、中国の威信をかけて捜査してくれ」と冗談めかして頼んだが、警官はくすりとも笑わず、「次から気をつけろ」とだけ言って、私達を部屋から追い出した。Eさんはその後、「偽の俺がお前を騙したのだから、今日は俺がおごる」と言って、晩ご飯をごちそうしてくれた。
それから、犯人が捕まったという話はなく、お金ももちろん戻ってこない。こういった詐欺事件は日常茶飯事で、数百元単位の事件など、警察も一々真剣には捜査しないのだという。「700元で教訓を買ったと思えばいいじゃないか」と慰めてくれる人もいた。
こういった事件を経験すると、中国が嫌いになる人もきっといるだろう。でも日本にも中国にも詐欺師はいる。むしろ私は、本物のEさんの誠意を知ることができて、良かったと思っている。「捨てる中国人あれば拾う中国人あり」、もちろん700元は、今でもちょっともったいないとは思っているが……。
「あの女の子の友達と昔付き合ったことがある」などと、武勇伝を色々聞かされたものだ。
真面目なGさんは、F君が変わることを期待して付き合うことを承知したのだが、やはり彼は変わらなかった。そのため、破局に至ったというわけだ。絶対にうまくいくと思い込んでいたF君は非常に落ち込んだが、これも一つの人生勉強だろう。
もちろん、ロマンだけではうまくいかないのが恋愛だ。Hさんは大学院生の女性で、アメリカ人と国際恋愛をしていたが、つい最近彼に振られてしまった。彼女はあの手この手でよりを戻そうと試みたがうまく行かず、追いかければ追いかけるほど相手が引くという悪循環に陥っていた。そこで私は、彼女にこういって慰めたものだ。
「アメリカ人の彼はもう諦めて、新しい恋愛を始めたほうがいいよ。中国には13億人も人がいるじゃないか」
しかし彼女のお眼鏡にかなう男性はそうはいない。大学院まで来る女性は、それまで大変な競争を勝ち抜いてきたわけで、少なくとも大学を出ていない男性は相手にしない。また、「都市部」出身か「農村」出身かも、中国では非常に大きな要素だ。たとえ優秀でも貧しい農村から出てきた苦労人よりは、少々ボンクラでも「都市部」のお金持ちの息子のほうが、ずっと輝いて見えるらしい。さらに大事なのは家柄。「共産党の幹部」や「企業の重役」の息子たちは「官二代」「富二代」といって重宝される。かいつまんで言うと、日本よりずっと「現実的」なのだ。
また、よく言われることだが、一人っ子政策の中国では、子供は基本的に「お殿様」「お姫様」なので、非常にわがままに育ってしまうケースも多い。相手の立場にたって考えることを、中国では「换位思考」というが、大学生ですら、それができないことがままある。自己中心的な者同士が付き合っても、やはりなかなかうまくはいかないだろう。
「愛があれば関係ない」。口で言うことは簡単だが、実践することは難しい。特に中国は、日本どころではない壮絶な格差社会だ。様々な現実的な要素が「愛」より優先する社会、お金持ちが何人も愛人を抱える社会、そんな歪んだ社会の中で、真実の愛に辿り着くことは決して簡単なことではないだろう。そんな中でも、私は多くの学生が真実の愛を求めて奮闘する姿を目撃してきた。決して甘くはない青春だけど、簡単に諦めることだけはしてほしくない。なぜなら、青春は二度とは来ないのだから。
去年の9月に始まった私の留学生活も、あっという間に一年が過ぎようとしている。帰国前の最後の夏休みを利用して、私が何としても行きたかったのは、チベットや新疆などの「民族自治区」と呼ばれる場所だ。
ほぼ単一民族国家の日本とちがって、中国には56の民族が存在する。そのうち、自治区を持っているのは内モンゴルの蒙古族、新疆のウイグル族、寧夏の回族、チベットのチベット族、広西のチワン族などだ。中国のお札の裏側には、主要な民族の文字が印刷されていて、中国が多民族国家であることを実感させられる。チベットやウイグルの民族問題は特にナイーブで、外国人がチベットに行くには特別な許可が必要だ。私も何とか許可をもらい、この夏休みを利用して、チベット、新疆、内モンゴルなどを旅することができた。
彼らの漢民族に対する感情は非常に複雑だ。これまで書いてきた春節などの習慣は主に漢民族の習慣で、それぞれの民族にはそれぞれの民族の習慣がある。ただし、どうしても人数では漢民族に圧倒されるため、各地で「漢化」と呼ばれる現象が起きている。それぞれの民族の伝統や文化の特徴が薄れ、漢民族の影響が濃くなっていくという意味だ。もちろん、中央政府も少数民族の文化を保護する政策や、生活面で少数民族を優遇する政策を取っている。ただし、心の底から民族の融和を実現することは本当に難しいことだ。少数民族の友人の中には、「中国人」という意識より「カザフ族」「ウイグル族」といった意識が強い人たちが多い。民族問題は、格差問題と並んで、中国政府が避けて通れない問題の一つだろう。
この問題を考えているときに、私はふと、留学中に訪問した北京の少年野球チームのことを思い出した。その野球チームの先生は「ヒゲの李先生」と呼ばれる、強面の先生だ。中国で最も人気のある球技と行ったら、なんといってもサッカー、それから卓球、バドミントンぐらいだろう。そのため、中国の野球のレベルは決して高くはない。そんな中李先生は、中国の野球のレベルを高めようと、少年野球チームを自ら設立したのだ。
もっと興味深いのは、李先生はチームのメンバーを、様々な場所の、様々な境遇の子供たちから集めていることだ。貧しい農村から来た子、少数民族自治区から来た子、身寄りのない子、決して幸福とは言えない境遇の子供たちが、同じ場所に住んで、ボランティアの支援を受けながら、毎日野球や勉強に打ち込んでいるのだ。
李先生自身も、かつて中国の国家少年野球チームに所属していた。しかしその後喧嘩で学校を退学になり、以来様々な職業を転々としたという。悶々とした毎日を送っていた彼はある日、やはり自分が好きなのは野球だと気づき、そこから一念発起した。そこからコツコツとチームを作り上げ、2011年には軟式野球の大会で世界一を取るまでに成長させたのだ。
彼の野球チームには様々な民族の子供たちが集っているが、そこに民族差別の意識はない。なぜなら共に厳しい練習生活を過ごし、世界一という共通の目標に向かって日々汗を流しているからだ。そこで私はふと思った、もし各民族を超えて「中国人」として団結できる目標があり、そこに向けて共に苦しい経験を乗り越えていったとすれば、その時に民族の壁は取り除けるのではないだろうか?ただしそれは、日本のような外国を「共通の敵」にするといった、危険な思想にもつながりかねない。一心不乱に白球を追いかける彼らの姿を見ながら、これからの中国を担っていく子供たちは、自らのアイデンティティをどこに求めていくのだろうと、そんなことを考えていた。
かくして、私の中国生活は幕を閉じようとしている。1年を振り返ってみると、瓜の種は上手に食べられるようになったし、赤信号で大通りを渡る技術も身につけた、ぎゅうぎゅう詰めのバスで乗客が大げんかを始めても、道端でおじさんがお腹を出していても、大して驚かなくなった。中国語は…?日本に帰っても頑張ろう!
そして、この場をかりて、連載の機会を与えてくれたBillion Beatsのみなさん、拙い文を我慢して読んでいただいた読者の皆さん、留学の機会を与えてくれた会社、大学、そして中国で出会ったすべての皆さんに、心からの敬意を示したいと思う。
中国は、知れば知るほど奥の深い国だ。願わくは、再び中国に来て、今度は取材活動を通して、日本の皆さんに中国のありのままの姿を伝えていければと思う。
さよなら、中国、また会おう、中国。再见,中国!