カレは中国人

佐渡多真子さんは、北京歴15年のカメラマンです。北京の人のおおらかさやぬくもりを撮り続ける中で、「幸せってなんだろう」ということをずっと考えてきました。変化激しい北京で、中国人男性と結婚した日本人女性が見つけた中国の家族との絆を描きます。



その1 むかし中国に出征した祖父が許した、カレとの結婚 ― 中村いずみ さんの場合 ―

鹿児島県出身の中村いずみさんと山西省出身の「カレ」との出会いは、1999年。いずみさん(当時26才)が、作業療法士として東京で働いていた頃だ。友人の誘いで、食事会に参加した。そこで出会ったカレ(当時23歳)は、北京で日本語を勉強したのち日本へ留学に来たばかりだった。
 初めて会った時のカレの印象を、いずみさんはこう語る。
「なんだか、どこかで一度あったことのあるような、懐かしい感じがしました」
 
 いずみさんとカレとの交友は速い速度で進んでいく。知り合って2ヶ月もするとふたりは結婚の話をしていた。いずみさんの両親にも彼を紹介し、家族もみんなカレを気に入り、結婚に向けて順調に進んでいるように見えた。
 
 けれども、国際結婚は簡単には運ばないようだ。いずみさんのおじいさんの大反対にあう。
 ふたりの気持ちが固まったのち、2000年のGWにいずみさんは鹿児島に里帰りし、結婚をおじいさんに報告した。するとおじいさんは、
「絶対に許さん。中国人と結婚するなんて、世間になんて説明すればいいんだ!」
と、怒鳴りながら部屋に引きこもった。いずみさんは大泣きしてしまった。結婚を反対されたこともそうだが、おじいさんが孫の幸せよりも世間体を大事にしたことが、悲しかった。それを見て、いずみさんのお母さんも泣き出した。あとでいずみさんが親戚から聞いたことだが、お父さんも「俺の方が悲しい」と、おじいさんに抗議していたそうだ。そして親戚はみな、いずみさんに同情した。

 おじいさんは、満州に出征し、終戦を知らずに戦い続けた経験を持つ。その当時、多くの中国人に助けられたという話もよくしていたが、孫と中国人との結婚には複雑な思いがあったのだろう。世代的にも、孫の国際結婚は思いも寄よらなかったことに違いない。その後も、親戚の間でいずみさんのおじいさんの孤立は続いた。
 その年の末、おじいさんはともかく親戚にカレを紹介するために、いずみさんは再び鹿児島を訪れた。すると絶対にカレとは会わないと言っていたおじいさんから
「連れてきなさい」
 と連絡があった。いずみさんは、おじいさんに面と向かって大反対されるのではないかと心配だった。カレは
「おじいさんに会いたい」
 と言った。ふたりはおじいさんを訪ねた。
 おじいさんは無表情のまま、ただ、コップになみなみついだ芋焼酎をカレに差し出し、
「飲みなさい」
 と言った。
 カレは、それほどお酒に強い方ではなかったが、差し出された芋焼酎をがんばって飲み干した。その後おじいさんは、一度もカレとは目を合わせず、横のマッサージ用の椅子に座ったまま話をしなかった。
 あとで、おじいさんはいずみさんの両親に
「今どきの男に珍しい優しそうなやつだ。彼の親に会ってきなさい」
 と伝えた。
 
 翌年の春節、いずみさんは両親とともに北京を訪れた。カレの親とおばあさんは大同からいずみさんたちに会いに来た。戦争経験者であるおばあさんが、日本人のいずみさんにどんな印象を持つのか、不安は大きかった。教育者でもあったおばあさんは、いずみさんたちに会うと告げた。
「过去是过去。未来是你们来创造的(過去は過去。これからの未来は、あなたたちがつくっていくのよ)」

 その秋、ふたりは結婚した。

 2004年、カレの仕事の関係でふたりは北京に生活の場を移した。その年に子どもを産むと家族に富が訪れると言われた2007年、待望の女の子を出産。
 いずみさんは中国でチャイルドケアコーディネーターの勉強をし、現在はその資格を生かして外資系クリニックで働いている。チャイルドケアに関して、新聞や雑誌で執筆もしている。
「彼は、私がやりたいことをやるためのサポートをしてくれます。仕事も勉強も好きなだけやるというのは、おそらく、日本にいたらできなかったこと。私は、彼と結婚して中国で生活することによって、日本にいたときよりも自分らしく生きていられるように感じています」
 カレは現在、北京の中心地・国貿エリアで日本料理店を経営している。素材にこだわった人気店だ。

 北京に来てからいずみさんはカレの両親と同居していた。だが1年経った頃、いずみさんは、親との同居は精神的につらいことをカレに相談した。小さな習慣の違いがいつの間にか重なっていた。迷った末のことだった。カレは反対することもなく、すんなりとことを運んでくれた。

「今は同居はしていませんが、娘の幼稚園が終わってから、私の仕事が終わるまでの間面倒を見てもらっているので、親とは迎えの時に毎日会っています。とてもいい関係です。思い切って別居をしてよかったと思っています」

「日本では、沈黙は金。以心伝心的な美学があります。大切な感覚ですが、実際には言わないとわからないことが多いもの。今は、夫婦間でも親戚の間でも、我慢しないで自分の考えを主張していいんだと思うようになりました。そうやって意見を言ってコミュニケーションを取れば、解決できます。ボタンの掛け違いも、一段めなら、簡単に掛け直せるように」

 最後にいずみさんは今の思いをこう結んだ。
「北京で暮らして、大変なこと,辛いこともたくさんあります。でもそれは、ひとつずつ解決していけばいいことです。おじいさんに反対されたときは、本当に辛かったですが、それを超えられた私たちにはそれ以上に辛いことなんてありません。今は、ふたりで何でも話し合って乗り越えられると思っています。おじいさんが、私たちの最初の、そして一番大きなハードルになってくれたことに感謝しています」(文中は仮名)






Tamako Sado

投稿者

佐渡多真子

フォトグラファー

北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。

『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。
HP http://www.tamakophoto.com

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