中日ある記1「中国の多様性と日本の単一性」
BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第1週

2016年9月11日 / 中日ある記






Billion Beatsで「中国と日本」をテーマに新連載がスタートすることになった。このリレーコラムの最初の書き手を担当させていただく。

 絶えず歩き続けることを中国語で「終日行走」と言う。だが私は「終日」ではなく、まず「中日」、自身が中国と日本を往来する中で感じたことを書きたい。(訳者注:「終日」と「中日」は中国語の発音が同じです)

 中国から日本を見た際に最も感じられるのがその「単一性」だ。
 近ごろは日本で「爆買」する中国人観光客が目立つ。自国では財布の紐が固い彼らも、日本では何かに取り憑かれたかのように買い物をする。場所も価格も品質もお構いなし、我先にと買い漁っている。

 そうした中国人は「日本は何でも素晴らしくて、どんなものでも中国より安い」と信じて疑わない。東京の露天で売られている商品と高級デパートで売られている商品は同じで、価格もさほど変わらないと判断する一方で、北京の秀水街では、売り手の言い値の一割からディスカウント合戦を始める。日本人観光客がためらいつつも意を決して値切るのとは大違いだ。商業的な習慣の問題もあるが、おそらく単一性と多様性という違いがより色濃いのではないだろうか。広大な国土と多くの民族を有する中国の多様性は日本と比べてはるかに複雑であり、その中国から日本を見れば単一性が際立つ。

 食事に関する例を挙げよう。私が中国の各地を取材で訪れる際、その土地の郷土料理を試そうと思うことは稀だ。だが日本では逆なのである。
 四川で本場の四川料理を食べた時のことである。私は絶えず咳こみ、水を飲みつつその食事を終えた。あまりに辛いその料理は野菜と肉、肉と魚の区別さえつかなかった。真っ赤な唐辛子にまみれた、その肉か魚のようなものを箸でつまみ口に送る。辛さで咳は止まらず、水を飲んでも全く治まらなかった。
 広東でもまた別の苦難を経験した。白いおかゆには異臭を放つ黒いピータンとピンク色の肉でんぶ。広東人はそうしたおかゆを好む。30年前、香港にほど近くまだ漁村だった深圳に行った際、現地の人びとがそのおかゆをすするのを見て思わず吐き気を催したのを覚えている。今ではすっかり大都市となった深圳だが、理解しがたいことにそのおかゆは健在だ。

 日本なら話は別である。Billion Beats発起人の1人は熊本県出身で、私も熊本を訪れた。あちらでは馬刺をよく食べると知り私も試してみた。その時思い出したのは、日本で初めて魚の刺身を食べたときのことだ。あれは長年アメリカで記者をしていた知人と一緒だった。彼はいささか躊躇している私に「レアに焼かれた牛肉と思って食べれば大丈夫」と言った。その赤身のマグロを味わってみると、本当に牛肉のようだった。そんな経験があった私は熊本でも馬刺を抵抗なく試すことができたのだ。
 刺身が食べられるようになればあとは簡単だ。それは日本に入国するのと似ているかもしれない。入国審査で向き合う無表情な担当官以外、ほぼ全ての日本人はとても親切で温かい。入国審査さながらの「刺身」というゲートをくぐってしまえば、生の魚でも馬刺でも、困難であるどころか楽しみにさえなるのだ。

 中国の四大料理あるいは八大料理は、今後数百年を経ても変化しないだろう。これが中国の多様性だ。日本料理の中には懐石料理や郷土料理などの細かい違いはあるにせよ、日本文化に詳しくなければそれらを区別することは難しい。

 だが最近日本に行った際、20年前とは明らかに違ってきていることを感じた。以前は主に焼き魚の匂いがしていたところで、時折韓国料理のニンニク、更にはインドカレーの匂いが感じられることがあるのだ。だがそれでも日本の中華料理が日本料理に組み入れられることがないのと同様、韓国料理やインド料理も日本料理の一部になることはないだろう。中国における洋食もよく似た状況だ。洋食はあくまで独立した存在で、今もこれからも中国料理の一部になることはできない。

 それぞれの国の料理という観点から、中国の多様性と日本の単一性というコントラストが見て取れる。

文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子

 
 
 


中日ある記2「やかんの水」と「池の水」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第1週

2016年9月11日 / 中日ある記







 中国とは異なり日本の企業の人事異動は4月に集中している。10年来の友人であるKさんも再び日本に帰国することになった。かれこれ40年近く中国で仕事をしている彼が今後再び中国に来る機会は少なくなるのではないだろうか。

 Kさんの中国の友人たちと共に送別会を開いた。やはり寂しいものだ。10数年前上海で初めて会ったときのことから近年数回参加した植樹ボランティアのことなどとりとめなく話をした。時の流れは実に速い。Kさんもそれを強く実感している。就職当時、中国語の勉強のためにはまだ台湾しか行けなかった頃から、中国大陸で様々な仕事をしてはや40年近く、本当にあっという間だったという。

 「中国と日本、この2つの国をどのようにとらえていますか?」
私はKさんに尋ねた。
 「日本はやかんの水のようだと思います。熱くなるのも速いが、冷めるのも速い。一方で中国は池の水のようです。熱くするのは非常に難しいが一度熱くなり始めたら冷ますのは容易でない」
 Kさんの30年あまりの日中両国に対する理解はこの言葉に凝縮されている。

 おしなべてそれなりの生活水準を保ち、行動スタイルに大きな差がないという意味で日本は画一的である。やかんの水はかき混ぜる必要なく沸くのも速い。多くの国も工業化(近代化)を進めたが、水温が80度、90度になったところで突然ストップしてしまった。例えばラテンアメリカ諸国だ。中所得の罠に陥ってしまったのだ。今後それを乗り越えて成長する可能性はあまり高くない。水は100度に達してこそ沸騰する。沸騰した水は冷めても白湯であり、ただの水とは違う。日本にも停滞した時期があった。メディアは「失われた20年」と表する。だがその停滞と、他のアジア諸国が予想する停滞は全く異なるのだ。日本は「失われた20年」で国民の生活レベルが大きく下降したわけではなく、常に安定した社会を保っている。

 中国を池の水に例えるとは、言い得て妙である。私が子どもの頃出かけた大浴場では係員が常にお湯をかき混ぜていた。そうしなければ熱いところ冷たいところとムラが出てしまい利用者からは不満の声があがる。日本には温泉がたくさんあり、湧き出る水は熱いか、温度が低ければ加熱している。湯が熱すぎれば冷たい水を差して入浴に適した温度に調節する。やはり中国とは違う。

 中国の30数年の変化を体験してきたKさんも、ふりかえるとその変化が当初想像したよりもかなり大きかったことに気付く。80年代、中国も工業化を謳ったが、実際その兆しを肌で感じることはなく、90年代に入ってようやく熱気を帯び始めた。そして2000年以降は想像以上の勢いで工業化の波が押し寄せた。

 「冷まそうと思っても容易ではない」
そうKさんが言うのもまた感慨深い。2008年の金融危機ではすぐに日本の企業の不良債権問題が表面化した。しかしその時中国ではさほど問題がないように見えた。それは中国企業のリーダーが優秀だったわけではなく、冷まそうと思っても難しかっただけなのだ。中国経済は逆風の中でも成長を続けていた。

 やかんの水と比べれば、池いっぱいの水を沸騰させるためのエネルギーはもちろん、時間も多く必要だ。10億以上の人口を有し「中所得の罠」が待ち受ける国なら尚更だ。中国崩壊論や中国脅威論はこの池の水から得られる感覚だろうが、いずれも正確とは言えない。やかんの水が沸く過程やその特徴を結論づけるのは簡単だが、池の水となれば話は別だ。やかんがどれほど大きくてもそれなりの結論は出る。小さな池であれば多少分かる事もあるかもしれないが、大きくなれば無理な話だ。ましてや自分が見た事もない大きな池について何らかの結論を導くことの難しさは言うまでもない。

 やかんの水と池の水、両国の分析にふさわしい例えだと思う。

文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子





中日ある記3 それぞれの「多神」信仰  BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第1週

2016年9月11日 / 中日ある記


 


世界陸上や9月の軍事パレードで、北京は青空ときれいな空気に恵まれている。こんな季節には郊外の寺巡りも良さそうだ。
 
 ここ数年、街にキリスト教会が目立つようになったが観光スポットと言えるようなところはまだ少ない。道教は中国で数千年の歴史があるが、北京の白雲観以外有名な道観(道教の寺院)は少ない。北京の寺院は「南朝の四百八十寺、多くが霧雨で霞んでいる」(唐代の詩人杜牧の詩)とその数は確かではないものの、数百カ所はあるはずだ。
 
 度々日本と中国を往復する私だが、北京の寺院を訪れた際に感じるのは「神様」の多さだ。門には怖い顔をした仁王像が立っているが、その仁王像に向かってお辞儀する人はほとんどいないようだ。敷地を進むと布袋和尚や韋駄天、それぞれ違うご利益があるが、やはりお参りする人は少ない。本堂に足を踏み入れ仏像を前にして初めて真剣に拝み始める。だが周辺の十八羅漢も忘れてはならない。それぞれに異なるご利益があり、特定の羅漢を信仰してお参りし続ける人も多いのだ。
 
 もし日本のお寺でそんな風にお参りしていたらなかなかの信心深さだろう。だが中国ではその程度に収まってはいない。敷地内に五百羅漢像が立つ寺院もあり、そのうち1人を選び出してお参りし続けるというような人もいる。本堂だけ参拝する人にとっては羅漢の1人を信仰するなんて驚きだろう。それなりのお寺なら羅漢の名前やご利益が記されているかもしれない。そうなると尚更信じる方も敬虔になり、度々訪れては願掛けする。
 
 お寺の神様が多すぎるためか、中国で参拝者を見ていても、一心不乱にお祈りしているような人はあまりいない。左右を見渡して、そそくさとぬかずいてお辞儀をし、また周りを確認する。他の神様に見られて、ご利益が薄まってしまうのを恐れているかのようだ。日本でそのような光景を見ることはほとんどない。
 
 だが実は日本にもたくさん神様がいる。「八百万の神」との言葉があるが、いかに優秀な神職でも神様全員をリストアップするのは不可能だろう。日本では万物に、一本の草木にも神が宿っている。身の回りに神様がいるから人々は常に自分を律する必要がある。
 
 寺院は社会を反映しているのかもしれない。中国社会ではお役所の多さが目立つ。管理すべきところもそうでないところもお役所が関わってくる。課長や所長の権限は非常に大きく、局長や部長などの管轄は更に多く、実に具体的である。欧米のようにトップが全ての責任を負えば物事はよりスムーズに進むだろう。法律で全てを解決できる社会なら人々も法に則って事を進めるだけだ。至る所に神様がいる日本では、特に管理せずとも社会の秩序が保たれている。神様がたくさんいて、幅広く管理される中様々な矛盾が起こっているのが中国だ。
 
 神様が多いということは宗派も多くなるということだ。中国を起源とする宗派は特に多い。ある宗教の中に神様が多くいれば、それぞれのご利益も多くなり、そのご利益が際立てば一つの宗派が形成される。宗教体制から見れば自然なことだ。宗派間に激しい争いも生じるが、中国での宗教戦争は歴史的に見てもごくわずかである。欧米における宗教、そして日本でもかつて僧侶が国政を司っていたのとは異なり、中国で宗教が政治に大きな影響力を及ぼすことは少ない。
 
 北京の寺院を訪ねながらそんなことを思ったのだった。

文・写真:陳言 | 翻訳:勝又依子





その1 匿名

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

 私はこのウェブサイトで今まで出会った日本人、私の尊敬する先輩、師匠などを書きたいと思う。これは初めてのことだ。筆を執るとなると、どなたから書くべきか迷ってしまう。

 今、その強烈な存在感に私がもっとも気持ちをひきつけられているのは、何といっても「フクシマ・フィフティ」だ。50人の勇士の誰一人として名前、年齢、勤める企業名などの情報はない。写真からは、いずれもその個人を識別できない。同じ色の防護服を頭から足までかぶり、大きな防護用マスクを掛け、胸に放射能の量を記録するバッチをつけている。彼らが向き合っている原子力発電所の危機もまた一つだ。
 彼らができるだけ速く原発事故を処理しようとしているのは、企業のため、原子力発電所周辺の数千万人の市民のためである。また彼らは、日本周辺の国々に絶対に放射能漏えいの影響を及ぼしてはならないという気持ちで尽力している。

 50人のなかには、東京電力、東電工業、導電環境エンジニアリング、東芝、日立製作所の人がいるだろうが、その会社から一人たりともその個人的な名前を知ることはできない。日本のメディアも今のところ報道していない。そもそも初めから名前を伏せていたかのようだ。おそらく事故処理が終わって初めて、彼らの名前が公になるのかもしれない。
 原発事故の影響の拡大、今以上の放射能漏えいを防ぐために闘う彼らの無事の帰還を願う。次回日本に行く際にはその中の何人かにぜひ会いたい。

 もし中国だったら、勇士とも闘士ともいえる彼らの名前はすでにメディアで報道されているだろう。私たちも彼らに敬意をもって、彼らの思想や仕事の中から閃いた偉大な精神を見つけだし、人々を感動させるような物語を書くだろう。しかし、日本のメディアはそうはしていないようだ。また日本の読者も、ひたすら彼らが安全に注意を払い、無事に帰ってくるのを祈っている。

 私のような国外の記者が彼らと会うとすれば、彼らは仕事帰りの酒場でビールを飲んでいる普通のサラリーマンという形で姿を現すかもしれない。特定の分野には詳しいが、日本の重要な国事、世界の変化などについて知っていることはわれわれより少ないかもしれない。ほろ酔いの中で彼らは電車に揺られ帰宅していく。

 日本はヒーローが出にくい国になったようだ。首相も草の根出身。官僚を支配するパフォーマンスは少なく、怒った時には朝早く首相官邸から車で東電本社に乗りつけ、大声で企業の上層部を叱る。首相もまた、普通の企業経営者がイライラするときとあまり変わりはない。

 東京の街では迷彩服を着て大声で叫ぶようなタイプの人はあまり見かけなくなった。同じような黒い街宣車でいろんな旗をかかげて、そこで演説する人も背広を着ている。政治家の選挙キャンペーンとそう変わらない。

 私はこれから、このような社会で暮らす具体的な日本人を書いていくが、第1回はどうしてもこの「匿名」の日本人を書きたかった。ごく普通の日本人は、時代の要請を受ければ身を挺して義務と使命とでその仕事を成し遂げる。義務や使命は名誉、金銭より価値が高い。おそらくそれは匿名の日本人の特徴ではないか。
 自然災害に襲われた際の日本人は、他国の人々を驚かせるような冷静さと秩序をもって対処している。このことは、また多くの日本人の「匿名」という特質と大きく関わっているかもしれない。


その2 仙台在住の主婦・小林(古城)三千代さん

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

北京 | 陳言 | 勝又依子(翻訳)

 すでに古城三千代さんと連絡を取るすべはなくしてしまっている。わかっているのは、彼女が仙台の若林区に住んでいたということだけだ。今はただただ彼女とご家族の安否が心配でならない。がしかし、新聞を読んでいる時、震災で亡くなった宮城の方々の名前の欄を目にすると、急いで次のページへとめくってしまう。私は、いつの日か紙面を通して、彼女たち一家が元気に暮らしているということを知る時が必ず来ると信じているのだ。
  
 かれこれ30年近く前のことである。私は朝日新聞の論壇に、中国の日本語教育というテーマで原稿を寄せていた。それを読んだ多くの日本人読者が私に手紙を書いてくれた。古城さんもその中の一人で、手紙には、彼女が鹿児島県出身であり、東京で仕事をしていること、中国語が大好きで、機会があればぜひ中国に留学したい、ということが書かれてあった。

 その時私は仕事を始めたばかりで、月給はといえば、もしエアメールを送るとなれば10通くらいがせいぜいといった少なさだった。手紙をくれた日本の読者に返信したくとも、できなかった。古城さんの手紙には、私が返信に使えるようにと中国の切手が何枚か同封されており、私はその心遣いにたいそう驚いたものだ。その時私は彼女以外の読者にも返信することができ、うち数名とはその後も長く交流を続けることができた。
  
 そして古城さんが北京にやってきた。中央民族大学で勉強することになったのだ。キャンパスは、ちょうどいいことに私が当時日本語教師として勤めていた学校ととても近かった。初めて会ったその時、私はひと目で彼女だとわかった。なぜなら彼女は自分の写真を、しかもカラー写真を事前に送ってくれていたからだ。その頃中国にもカラー写真はあったけれども、それは写真館の美術スタッフが自分の想像をもとに色付けしたもので、彼女が送ってくれた本物のカラー写真とは違うものだった。だから私の同僚の先生たちは皆そろって彼女のカラー写真を見たがり、私は写真が汚れてしまわないかと心配したものだ。

 春節を過ぎたばかり北京の1月はまだ寒さが厳しい。でも古城さんはスカート姿で私に会いに学校に来た。1月の北京でスカートを穿く女性などほとんどいなかったあの頃、バスから降り立つスカート姿の女性が古城さんであることはすぐに分かった。身長は167センチくらいと、けっこう高い方だと思う。写真から出てきたようなその人は、ほんのりといい香りを漂わせ、物言いはごく控えめ、まるで姉を思わせるような女性だった。でも男性の前ではいつも一歩下がるようなところがあった。
   
 古城さんが私の勤める学校に来て、学生たちと日本語について話し合うという機会が何度かあった。私や学生たちが投げかける日本語文法についての質問に対し、どんな風に説明すればよいものかといささか困った様子だった。もちろん彼女は日本語教育について学んだことはなく、したがって日本語文法を深く考えたこともないわけで、我々のような、文法に対して少し生真面目ともいえるような人たちを相手に、うまく答えることは本当に難しかったろう。後になって私が日本に留学し、日本人から中国語文法について質問され、自分もまたうまく答えられずにいた時、その時の彼女の気持ちが更に理解できるような気がしたものだ。
  
“まず私が読みますから、その後に続いて読んでください” 古城さんに続いて全員が声を揃えて教科書を読んだ。教室には朗読の声が明るく響き渡った。後になって分かったことだが、彼女は東京でしばらく仕事をしていたものの、発音には鹿児島訛りが少なからず残っていた。“実は私、きちんとした標準語は話せないんですよ”と率直に言ったことがあったが、私は私でずっと気にとめていなかったのだ。数年後私は東京に行き、方言とはこういうものか、とやっと理解したのだが、次に再び彼女に会った時には、彼女の発音はかなり標準語に近いものになっていた。彼女は仙台出身の男性と結婚し、苗字が小林となり、2人の子供に恵まれた。彼女に出す手紙の宛名が小林三千代に代わっても、私の心の中では昔と変わらず、中国語での呼び名“Gucheng”のままだった。

 十数年前、古城さんとご主人は仙台に引越し、若林区で小さなお店を開いた。きっと女の子が欲しかったのだろう、夫婦には2人の息子に続いて娘が生まれた。嬉しくて仕方がないといった様子で、私のところにも写真を送ってきてくれた。

 彼女の年齢を尋ねたことは一度もないが、たぶん私より年上だから、今50代そこそこだろう。日本女性の優しさ、誠実さ、そして温かさは、彼女とのそう多くはない交流を通して私の心に刻まれることとなった。今回の震災で、仙台若林区が津波で非常に大きな被害を受けたことを知り、悲しく、やりきれない気持ちでいる。想い出せば今も、まるで彼女の淡い香りがすぐそこに漂い、鹿児島なまりのその声が耳もとに迫ってくるかのようだ。どうか、どうか彼女とご家族が無事でありますように。心から願う。


林先生-地震と停電のなかで

2016年8月31日 / 私の出会った日本人





 「毎日大きな船に乗っているような感覚です。その船は時には大きく、時には小さく、ずっと揺れ続けています」

 大地震の発生から1カ月経った4月11日、林先生は電話でそう言った。ちょうどその日の午後にもマグニチュード7の地震があり、それは余震とは言われているものの、彼にとっては地震と言った方が納得できそうな規模のものだった。中国人の林先生は約20年前から東京に住み、大学で中国語を教えている。

 建物が激しく揺れ、家具がガタガタと音を出し始め、自分自身も強い耳鳴りのようなグラつく感覚に襲われた時、林先生はそれが地震なのだと分かった。

我眼中的日本人4 – 林老师在日本的地震与停电中
 
 いつものようにすぐテレビをつけると、すでに地震の規模がアナウンスされていた。マグニチュード7。他の国では数百人、いや数千人の命までもが一瞬にして奪われてしまうかもしれない数字である。しかし彼が耳にしたのは、自分が実際聞いたか、感じただけか、いずれにせよ地震の“ドーン”という音だけだった。地震に驚いて叫ぶ人の声はまったく聞こえてこなかった。

 建物からはすぐに人が出てきた。互いに話すでもなく、それぞれが携帯の画面を見ているかメールを打っているだけだった。先生は外に出ていくのが億劫で、窓からその光景を眺めていたのだ。彼の5階の部屋から見渡す限り、日本の一般的な住宅である2階建ての一軒家は特に損傷を受けた様子はない。程なくして、表に出て携帯をいじっていた人々も建物の中に戻って行った。彼らもきっと先生と同様、テレビをつけ、マグニチュード7という数字といくつかの地名を確認すれば、また淡々と、何事もなかったように過ごすのだ。たった今起きた地震について家族と話すことすらしないかもしれない。

 “冷静に、あるいは仕方なく、とも言おうか、自然の脅威をただ黙って受け入れるしかない”その日本的な感覚を、先生もまた自身の経験から身に着けていた。人々は自然や政府に対して恨みごとを言うでもなく、ただひたすら耐え忍ぶ。しかしその声なき忍耐の陰には再起への叫びが潜んでいる。先生はその無言の叫びを、耳でなく肌で感じとっていた。

 より現実的な問題として先生が向き合わなければならなかったのは、地震そのものよりもその後の停電だった。皆こぞって電池を買いに走り、お店では品切れ・品薄となる。家に電池のストックがあったとしても、売られているのを目にしたら買わずにいられないというような状況だった。

 停電すればテレビは見られない。先生はラジオを聞き始めた。夜は枕元に置いた。何度か聞きながら眠りにおちてしまったこともあった。停電が終わって、スイッチを消し忘れていた部屋の照明が突然灯ると、先生は目を覚まし、自分がもう何時間か眠っていたことに気付く。先生のラジオは1時間聞くと自動的にオフになる、タイマー付きのタイプだ。日本では様々なものが周到にデザイン・設計されている。地震や津波、台風や集中豪雨にしばしば襲われる日本だが、普段の生活が便利で快適なのはもちろん、人々は災害時のような非日常であっても尚更、その便利さ快適さを保つために最大限の努力をしている。

 中国から日本にやってきた林先生は、今回の大地震という状況下で、初めて2つの国がこんなにも違うものかと、悠久(中国)と刹那(日本)の絶対的な違いに気がついたのだった。そして自分もまた、地震が起きていない時に仕事や暮らしをより充実させるにはどうするべきなのかを考えた。
「停電が終わったので、灯りをつけて学生の提出物に目を通し始めました。その作業をするにはその一つの灯りだけで充分だったので、テレビは消したままにしておきました。とてもはかどりましたよ」

 先生はそう言った。

 停電に見舞われる以前の日本は、街全体がきらびやかなネオンに彩られ、その光が人の心をも過度に照らし、浮足立たせていた。停電は生活には大きな不便をもたらしたけれども、社会があるべき姿に戻ったのではないか、と先生は考えたのだった。

 地震に対する日本人の冷静な対応と、停電という状況下で現れた生活の変化、これらはもう20年あまり日本で暮らす林先生にとって、初めて目にする日本の姿であった。


その3 富岡隆夫さん・雑誌編集長

2016年8月31日 / 私の出会った日本人




「どうもどうも!」

 脳外科病棟から一般病棟に移った富岡隆夫さんは、私を見るなり顔をほころばせてそう言った。この「どうも」という言葉は、感謝や謝罪、不満なども表すことができる独特な日本語である。
 「もう夫は顔を見ても誰か分からなくなってきているし、あまりお話もできないんです。でもあなたのことは分かって、とても嬉しそうです」奥さんは傍でそう言った。
 
その3 富岡隆夫さん・雑誌編集長 本
 
 富岡さんは数ヶ月前手術を受けるために入院した。手術そのものは成功したのだが、おそらくある期間降圧剤を服用し忘れたためか、その後脳出血を引き起こし、言語障害と半身麻痺が残りベッドの上で生活する日々となった。
 今私の目の前にいるのは、あの、毎週箱いっぱいの本を自宅に宅急便で送っていた編集長その人なのか?
 富岡さんは病室のテーブルで新聞を1枚1枚めくっていた。その姿は昔私が彼の仕事場を訪れた時と同じだ。ただ、仕事場で新聞をめくっていた彼は、ついさっき私を目にしたときのようなほほ笑んだ表情だった。時には紙面を遠ざけて読んでいたので、私は横で「きっと老眼なのだろう」と思ったものだ。今の彼はというと、機械的にページをめくるだけで、掲載されている写真や見出しについても何も言葉を発しない。私が傍にいることも全く意識していないようだった。「夫はまだ文字を理解できているのかしら?」奥さんはひとり言のように呟いた。

 中国よりも日本の雑誌編集長の方が格段にやり手、そんな印象を私は持っていた。富岡さんのデスク前にいる副編集長たちはそれは厳しく、編集者が提出したものに誤字脱字があろうものなら大声でどなりつけた。誤った表現や構成があやふやな文だったら言わずもがなだ。でも富岡さんはといえば、編集部の一番奥のデスクで新聞や本を読んで、ゆったりと構えている様子だった。
 編集長としては、政財界はじめ各界の人たちとの面会にとても忙しくしていた。日本の雑誌編集長の多くが自らも筆を執る。通常、巻頭に寄せる言葉は富岡さんによるものだった。それは他のどの記事をも凌駕した、雑誌の方向性をクリアにするようなものである必要があった。彼のデスクには《戦国策》《史記》や、古代・現代小説が山積みされており、彼は古い資料の山からも現代社会に通用する珠玉のエッセンスとなる言葉を探し出しているのではないか、と私は思っていた。
 「どうも・・・」富岡さんは頭を悩ませ呟いた。おそらく筆が進んでいないのだろう。しばらくすると、「この中国の作家ですが、私の引用方法は正しいでしょうか」富岡さんは私に尋ねた。彼の原稿用紙は縦書きの、1ページに200マスしかないタイプだった。行間のスペースはたっぷりあり、そこには何度も書き改めた跡が残っていた。私が中国文学に詳しくないことを彼は知っていたはずだが、それでも尋ねてきたのだった。探し出した言葉や引用する故実にピタリとはまる表現を考えだせた、そんな時彼はとても嬉しそうにしていた。副編集長たちはそんな彼の記事に敬服してはいたが、忌憚なく意見を飛びかわすことで表現はますます磨かれていった。編集長の表現が典型となって、編集者や記者がみんな同じような表現をすれば問題ない、というどこかの状況とは違っていたのだ。富岡さん自身も何度も推敲を重ね、文章を練り上げていった。
 私が日本の雑誌を手にする度に巻頭の言葉を熱心に読むのは、そこに全精力を傾けている編集長たちの姿が垣間見えるからだろう。しかしこの頃では多くの雑誌で、編集長がそのプレッシャーに耐え切れず、学者や専門家による文章に取って代わられている。だからこそ私は彼の、いち早くテーマを定め、歴史的考察を深め、かつ現代的なセンスを持ち合わせた職業人としての記者精神に敬服してやまないのだ。

富岡隆夫さん・雑誌編集長 春餅
北京で食べる春餅




(写真)北京で食べる春餅

 富岡さんのお宅を訪問させていただいたこともあった。そのとき奥さんは桶に盛ったすし飯と新鮮ないくらを食卓に出してくれた。そのいくらは私が幼いころに口にした肝油と同じくらい大きくて、きらきらと輝いていた。他にしその葉などもあしらわれていたと思う。富岡さんはまず海苔の上に薄めにご飯を、それからいくらをのせた。そしてアイスクリームコーンのような上が太くて下は細い形に巻いてかぶりついた。
 私は北京で食べる春餅と同じように、上も下も同じ太さに巻いて、その“日本の手巻き寿司”を食べてみた。「どうも、王さん」と富岡さんは笑いだしたが、特に何を言うでもなかった。それからだいぶ経ってから、私は手巻き寿司とは上が太くて下は細い、ご飯がこぼれないような形にして食べるものということを知り、日本の生活の端々を細かく見てこなかった自分を省みると同時に、富岡さんがなぜあのとき一言教えてくれなかったのか、とも思った。もしかすると彼は中国人が春餅を食べるように手巻き寿司を食べる、それもまたよし、と思ったのかもしれない。
 あの日も食後ソファで新聞を広げた。彼の家ではほとんどの一般紙・スポーツ紙を購読していた。私たちは新聞を読んでは語り合い、編集部にいるような、でもいないような雰囲気だった。生活から新聞と雑誌を除いてしまえば何も残らないのでは、とも思えた。話すことも歩くこともままならない今になっても尚、富岡さんは新聞をめくっている。たとえそれが機械的にではあっても。
 敬服を帯びた「どうも」、もしくはわずかに不満を抱いた「どうも」、私は彼が新聞をめくりながら一言「どうも」と言ってくれはしまいかとどれだけ願ったろう。しかしその声を聞くことは最後まで叶わなかった。 


その4 『言論NPO』代表・工藤泰志さん:救援・甘いもの・ウーロン茶

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

「また太りました!?」
 工藤泰志さんと再会した中国人は口を揃えて言った。
“太った”——。この表現は今の中国では褒め言葉でも何でもない。50過ぎの外国人、とりわけ平均よりも太めの日本人に対し、当人に遠慮なくそう言えるということは、中国メディア界に身を置く彼らと日本の『言論NPO』の理事長を務める工藤さんがどれだけ親しいかを物語っている。
 
 工藤さんには、筆が進まなくなると立て続けにタバコを吸うという、記者にありがちな癖がある。ただ、大多数の男性記者と違うのは、甘いものに目がない、というところだ。デスクにあるお菓子類を食べ尽くしてしまってもなお書けない、そんなとき彼はタバコに手を伸ばし煙の中で原稿と格闘するのだった。
工藤さん
工藤さんが運営する
『東京ー北京フォーラム』は昨年第6回を迎えた

 工藤さんが“太った“ことは今回の大地震と少なからず関係している。
「私は青森県出身だから東北人の気質をよく分かっています。東北人は自分がどれだけ切羽詰まっていても、もっと困っている、助けを必要としている人がいると気遣い、救援は自分たちではなく他のもっと辛い状況の人たちに、と目を潤ませて言うのです」
 彼は中国の記者たちにそう言った。地震発生後、原稿を書いていないときでもストレスを強く感じ、常に何かを口にせずにはいられなくなった。何を食べているのかを意識することもないまま体重だけが増えていった。
 工藤さんのこの特徴を知る人は多くいる。数か月かそれ以上ぶりに再会すると、彼がその期間どんな状態にあったのか、比較的リラックスしていたのか、それともストレスが多かったかを体型の変化から判断できるのだ。ひとまわり肥えた工藤さんが、旅の疲れを滲ませつつ目の前に現れれば、記者たちは彼の地震後のストレスにさらされた日々を容易に想像できるのだった。
 工藤さんが東北人について語った時、中国人記者の多くは普通の日本人の姿を思い浮かべた。今回あれだけ大規模な地震と福島原発事故が発生したにもかかわらず、海外に助けを求める日本からの声はほとんど聞こえてこなかった。東京電力はアメリカにも、IAEAや関連組織にも自ら援助を求めなかったので、いったい日本の政府や企業は何を考えているのか!?とまで思わせることとなった。しかし工藤さんの言葉を耳にしたことで、日本人の気質を知り、人に頼らずに自分で困難を克服しようとするその態度に納得すれば、日本に対する敬服の念までもがわき起こってくるのだった。
 地震後の2、3週間は、日本国内の援助活動の実施に混乱が見られていた。
「阪神大震災の時と比べて今回は、民間ボランティアの行動が迅速かつ経験豊富で、皆自分用の食料と生活用品を持参した上で被災地に入ろうとしました」
 工藤さんはそう言った。しかし多くの救助隊が被災地までの道を阻まれていたうえ、ボランティアの多くもどこに向かえばいいのか分からないといった状況で、災害下でこそ大きな力を発揮すべき『言論NPO』として、全くなすすべを知らず、工藤さんはただ焦りを募らせていた。そして彼は救援の呼びかけをしたり、政治家・官僚や他のNPOと救助対策について話し合う時以外は、甘いものを食べ続けることでその焦燥感から逃れようとしたのだった。
「甘いものばかり食べてはいけませんよ。お茶を飲んでください」
 やはり中国メディアに携わる古い友人に勧められ、工藤さんは中国に来て以来積極的にウーロン茶を飲み始めた。

 現在彼は、中国の力を借りて共に震災に立ち向かう方法を中国メディア関係者と話し合っている。非常に難しい課題である。第二次大戦後の日中関係はこれまでずっと助ける側(日本)と助けられる側(中国)であり、それが逆となるのは今回が初めてだからだ。言論NPOとしてその解決策を迅速に示さなくてはならない。
 活気あふれるその話し合いの場で、彼はウーロン茶を飲み続けている。折よくそこには甘いものが置かれていない。
 


その5 ワタナベさん :ハンカチ落とし―バブルのあとに残ったものは―

2016年8月31日 / 私の出会った日本人



(写真)建設ラッシュの北京


「家を買いましたか?」
「何軒買いましたか?」
 私が2003年に中国に戻ってからの数年、しばしば投げかけられた質問である。しかし実際のところ、50代以上、そして北京のような場所ではこの手の質問に答える必要はない。こぞって家を買おうとするのは大抵30前後の若者で、その偏狂的ともいえる熱心さ、着々とターゲットを手中に収めている姿は羨むばかりである。
 私にも30前後の頃があった。1980年代の終盤、かのバブル経済が、日本にいた私の肩をかすめて行くのを感じた頃だ。

建設ラッシュの北京
建設ラッシュの北京

 当時の東京は、すでに贅沢三昧の時代だった。最先端の現代建築に囲まれ、超一流の料理に舌鼓を打ち、いち早く新商品が手に入る場所、そしてそれを支える極めて勤勉なサラリーマンたち――。東京にはそんな世界の“最上級”が集結しており、それに伴うかのように経済も“沸点”に達しようとしていた。
  
「家を買うべきですよ!世の中何でも作り出せるけれど、土地だけは増やせませんから」
 当時30代前半だったワタナベさんは私に言った。
 その頃、私の頭の中では家というものは国からあてがわれるものであり、政府の高官などは広いところ、一般市民はそれなりのところ、農民に至っては自分で建てるものだった。そして日本にはこんなにたくさんの埋立地があるのに、ワタナベさんはなぜ土地は増やせないなどというのか、とても不思議に思ったものだ。
「ハハハ!わかってないですね、君は。埋立地ができたことで地球の面積は増えましたか?」 
 彼は私に尋ねた。
 当然増えてなどいない。大学で法律を学んだ彼はその頃司法試験に向け準備中だった。弁護士資格を得るまでの間、とある事務所で働いていたのだった。法律を学ぶ人は他人とは違う視点を持ち合わせていてごく抽象的な部分からでも物事をはっきりと見通せるものなんだな、と私は思ったものだ。
 収入も高くなかったし、司法試験のために相当の精力を傾けなくてはならなかったが、ワタナベさんは当時成功していた若者たちと同様にマンションを買った。東京の閑静な高級住宅街のひとつである目黒区で、ワンルームタイプを二部屋買った。
「東京に出てきて働いているような人に貸せるんです。借り手も探してくれると購入時にディベロッパーが約束してくれました」
 ワタナベさんは満足げに話してくれた。彼の住んでいた賃貸マンションから事務所までは1時間半かかっていたが、目黒の部屋からなら30分ほどだった。
 一部屋は賃貸にまわし、一部屋は自分用として住む――。ワタナベさんは手堅かった。私の記憶が正しければ、当時30平米未満のその部屋は3000万円くらいだったと思う。彼の10年分の給料に相当する額だ。でも一部屋を貸すことができれば、彼の1カ月分の給料とほぼ同額の賃料が入ってくる。
「日本の不動産価格の上昇局面を加算すれば、遅くとも6、7年で元をとることができるでしょう。不動産価格は毎年二桁ペースで上昇するでしょうから」
 日本経済の戦後40年あまりの発展過程を踏まえ、ワタナベさんは結論を出した。

バブル後の東京



(写真)バブル後の東京


  
 今北京の人々が、この20年前のワタナベさんの姿を目にしたとしたら、今後20年の給料を全てつぎ込んで北京の二環の内側にワンルームの部屋を買うと想像したら、どんな言葉が出てくるだろうか?
  
20年ぶりにワタナベさんと再会した。60代に見えなくもない白髪のその人は今も同じ事務所で働いていた。
「価格は下がり続ける一方だし、ローンの負担も重いので、ふたつとも売却してしまいましたよ」
 彼は言った。この20年来、日本のほとんどの場所で不動産価格は下がり続け、ピーク時の約6分の1にまで落ち込んでいる。頭が切れるワタナベさんだから悲惨な状況までには陥らなかったにせよ、不動産投資に失敗したことで、その後の飛躍のチャンスを失ってしまったと言えるだろう。もちろん彼は職を失ってはいないから、まだいい方なのかもしれない。がしかし当初の目標であった弁護士の資格を得るには至らなかった。
「給料が上がらないどころか、ボーナスも減る一方です」
 彼は力なく言った。80年代の日本でまだ若かった彼らは、バブル時代の重い負担が足かせとなって、50代になった今も社会を支える人材になりきれていない。社会を新しい発展段階へと導く中堅どころのパワーを思いがけず失った日本、その社会のどんよりとした暗さはそんな彼らの失速と密接に関係しているのではないだろうか。
 20年前の東京では、かなりの人が家を買おうとしたため不動産価格の上昇を招いた。一方で賃貸物件の借り手の減少が、所有者のローン返済を困難にした。地球の面積についての見通しは明るかったワタナベさんだったが、この付帯してきた小さな問題について歴史から学べるものはなかったようだ。ハンカチ落としのババをうまくパスできないままゲームが終わってしまい、いまワタナベさんの手の中にハンカチは持っている、ということか。
 今回の地震による建物の被害はほとんど見られず、東京は変わらずその現代的な容貌を保っている。依然として一流の味覚を楽しめ、原宿ファッションは目に鮮やかだ。これらとはもう縁がないかのように見えるワタナベさんは、すでに手放したその二部屋の20数年ローンを早く完済するために、せめて残業を増やすことはできまいかと考えている。
 今の日本で、彼に
「家を買いましたか?」
「何軒買いましたか?」
 と尋ねたとすればこれはもう皮肉以外の何物でもない。


その6 光:大地震後に生まれた新しい命 ― 世代を繋いで ―

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

 4月、古くからの友人の家に孫娘が誕生した。名前は“光”あかり。
 一昔前の日本人女性には“光子さん”がたくさんいた。私でもすぐ何人か思い浮かべることができる。たとえば女優の森光子さん、ピアニストの内田光子さん、政治家なら東京都議の西崎光子さん、など。しかし私のその友人は彼女たちの例には習わず、最後に“子”を加えずに“光”と名付けた。

 光ちゃんは友人の家に大きな喜びをもたらした。とてもおりこうさんでほとんど泣くことがないとのこと。生まれてまだ1カ月にも満たないから、起きている時間よりも眠っている時間の方が長いわけだが、一度その瞳を見開けば、家族みんなが光ちゃんの周りに集まり、その顔をいくら眺めても飽き足らないといった様子のようだ。
 友人は数年前に還暦を迎えている。彼が昔聞いた、父親世代に起きた出来事を私にも話してくれたことがある。
「父は、1945年に終戦を迎え、やっと家の灯りを点せるようになった当時の話をしてくれました。戦争中は空襲があるので家の灯りは厳禁で、戦争が終わってやっと明るくなったと。だから父の世代はみなその明るさがとても幸せなものに感じたのです。彼らにとって光とは家の灯りのことであり、その灯りは平和や幸せの象徴のようにも見えたのでしょう」
 一方で、友人自身にとって電気はあって当たり前のものであり、夜の停電なども経験したことがなかった。買い物の際にレジでバーコードを読み取って価格を計算できるのも電気があってこそ、もし電気がなければそんなことさえできなくなる。今の東京について、そんな些細な一場面からも多少のことが見てとれる。もともと値段の駆け引きもなければ、レジの計算を間違えることもない東京での便利な生活、だか一方でそのぜい弱さがここに表れている。停電は、灯りを点せないのはもちろん、エレベータに乗って帰宅することも、交通手段を利用することも不可能にしてしまう。ちょっとした買い物さえ満足にできなくなるのだ。
 至るところで蛍光灯が消されたり外されたりし、お店も早々と閉店するようになった。眩しいばかりの不夜城を誇っていた東京は、今はこうしてその姿を薄暗く変えてしまっている。道行く人々は依然として足早だが、その顔には曇りの表情が見え隠れしている。

 1868年から1945年の77年間、日本は封建的な後進国から世界の列強に肩を並べるまでになったが、第二次大戦に再び廃墟と化してしまう。そして1945年から2011年の66年間、その三分の二近くの期間をGDP世界第二位という栄誉ある立場にあり続けた日本。今回の大地震と原発事故によって再び陰りの中にあるこの国は、今一度新しい光を追い求め、自分たちがどこに向かうべきなのかを考えなくてはならない。
 心の中に点したその灯りで日本の未来を探し求める――友人はそんな希望を孫娘の“光”に託したのだった。光ちゃんの人生はまだ始まったばかり、自分が生まれた数週間前に日本が大地震と原発事故に襲われたこともまだ知らない。しかし今後生きていく中で、友人が父親から第二次大戦後の灯りへの思いを受け継いだのと同様に、友人自身の思いをもきっと繋いでいってくれるだろう。私たちは日本がそう遠くない将来必ず復興すると信じている。そう、涅槃の鳳凰のように。

 光ちゃんに託された友人の希望、それはすべての日本人の願いでもあるだろう。