秦皇島市から60キロ、盧龍県付近で高速を下りて少しもたたないうちに、あたりの風景が変化し始めた。市街地を過ぎれば3階建て以上の建物は見当たらず、平屋の前にはトウモロコシのきびがらがうず高く積まれている。とうもろこしとサツマイモ以外の作物はこのあたりの畑には無縁のようだ。立ち遅れた農村の姿をここに垣間見ることができる。
当時三菱商事中国総代表を務めていた武田勝年さんとここにきた5年前、道路は今ほど整備されておらず、商店も少なかった。
「日本企業が中国でどのような社会貢献をすべきか、会社によってやり方は様々でしょう。私たちは学校などに対し長期にわたって支援できる方法を模索してきました」
武田さんはそのとき言った。私の出会った日本人 – 武田勝年さん:社会貢献の新しいかたち
三菱商事が導入した方法は、山間部にクルミなどの収穫できる作物を植え、そこから得た収入を付近に住む貧困児童の就学支援に充てるというものだ。2006年以降毎年日本円にして400万円以上を寄付、河北省盧龍山間部で中国緑化基金会と合同で就学支援プロジェクトを立ち上げ、盧龍県棋盤山にエコフォレストを造った。
過去5年間でクルミ、リンゴなどの作物を植樹した面積は1800ムー(約120万平米)、その収益をかの地の上庄小学校の教材購入に充てると同時に住民の収入を増やす手段とした。5年前に植えられたそのクルミは今年人の背丈ほどに成長し数十個の実を実らせている。そしてそのクルミの木の足元――5年前には荒れ放題だったその場所―― にはサツマイモが植えられている。
今年9月、三菱商事北京事務所のスタッフ数十名は再び盧龍県を訪れ、上庄小学校の児童と共にクルミを収穫した。豊作だった。そのクルミをスタッフが買い取ることで現金化し、そのお金で書籍と体育用品を購入、武田さんの提唱した支援プロジェクトのもと、小学校の学習机や椅子なども交換され、「三菱商事グリーンライブラリー」と体育施設が新設された。“気持ち”はきっと児童たちに届いたに違いない。
「ここ盧龍県と同様のプロジェクトを今後は他の地域にも広げていきたいと考えています」
スタッフの一人が言った。
武田さんはすでに三菱商事を退職している。しかし彼が導入した社会貢献の方法は今もなおしっかりと受け継がれている。
中国日立の常務副総経理の野本正明さんは中国各地を訪れる度に日立製品の評判を耳にする。20年前の日立のテレビが今でも使える。買って本当に良かった、という内容だ。
そんな評判を耳にして嬉しい反面複雑な心境になるという。“日立”ブランドの評判が良いことはとても嬉しいが、もはや日立はそのテレビを製造してはおらず(中国人の多くがそのことを知らないでいるだろうが)、現在の日立のデジタルメディアや家電製品全体を合わせた売上高総額9兆円の1割も占めていないからだ。
野本さんは日立のスマートシティ概念について語り始めた。日立の持つ総合的な力を中国のマーケットで最大限に生かしていきたいという。
日本の他社メーカーに比べると、日立の国際化の比率は43%と低い。
「しかしながら、わが社の中国での売上はヨーロッパとアメリカを超えており、海外売上高の第一位を占めています」
野本さんは言った。
1980年代から90年代にかけて日本企業の“グローバル化”はつまり“アメリカ化”だったと言える。企業は先を争うようにアメリカで投資し、かの地に基盤を築いてさえいれば他は大丈夫、といった考えだったろう。しかし日立の方向転換は他社よりも迅速だった。2010年の売上比率を見れば中国が13%、ヨーロッパとアメリカがそれぞれ8%と中国での成長が著しいことがよくわかる。その中国での成長があったからこそ、2008年のリーマンショックの際にも経営をいち早く立て直すことが可能だったのだ。
野本さんが今中国で打ち出しているのは全く新しいコンセプトだ。
「私たちが今掲げているのは社会イノベーション事業です」
具体的には3つの内容を統合させたものだという。一つ目は都市開発で、エコシティの建設や水循環システム、建設機械やエレベータなどの事業が含まれている。二つ目はIT系統で、クラウドコンピューティング、コンサル、データセンター事業など。そして三つ目は電力系統で、資源エネルギーやスマートグリッド関連だ。
「日立の総合的な力を最大限に活用することで、社会全体に関わる大きな新事業を展開することができると信じています」
野本さんははっきりした口調でそう言った。
野本さんがスマートシティを語る度、それが都市建設にあらゆるもの全てが含まれるひとつの大きなコンセプトであることが感じ取れた。当初私は、日立が自社の力を集結させ、新しいコンセプトのもとマーケットを開拓するのだと思っていたが、繰り返し彼の言葉を耳にするうちに、そのコンセプトは決して日立独自で進めるのではなく、他の企業と力を合わせて共に実現するものだということが分かった。彼の視線の先にあるのは日立だけでなく、日系企業はもちろん中国企業や外国企業と協力している姿だ。
「日立は天津と大連、そして広州でスマートシティ建設に参画しています」
野本さんは続けた。
天津エコシティ計画で日立は、三井不動産やシンガポールの企業、そして多くの中国企業と協力しながらそのスマートシティ計画をリードしている。これまでにない国際的な協力体制のもと、スマートシティ開発の商業化モデルが出来上がりつつあるのだ。
「我々は海外での成功経験を日本に持ち帰りたいと思っています。東日本大震災の復興計画の一部としてスマートシティのコンセプトが導入されるでしょう。その時日立はスマートシティ建設の専門家を日本に派遣し、中国での経験を最大限に生かすことで復興を推し進めたいと考えています」
野本さんは大きなビジョンを兼ね備えたスマートシティというコンセプトの実現、そしてそのコンセプトが幅広く受け入れられることを強く確信している。
ほかの団員の衣装と比べて森下さんの衣装はずいぶん古めかしく感じられた。
「40年以上前、周恩来総理に頂いた衣装です。それに相応しい舞台のときだけ袖を通します」
森下さんはうつむいて衣装を見やり、受け取ったのがつい最近であるかのように語った。
1955年、松山バレエ団によって世界で初めてバレエ化された『白毛女』は、58年に中国公演を果たしている。歌劇としての『白毛女』は多くの中国人にとってなじみ深く、京劇としても58年に上演されているが、そのことを覚えている中国人は少ないかもしれない。映画『白毛女』さえもその印象を薄くしていく中で、バレエの『白毛女』だけが人々の心の片隅に残り続けたと言えるかもしれない。
文化大革命の時代、8作品ある革命模範劇がたびたびテレビで放映されていたが、そのうち『白毛女』の放映回数は他の作品よりも少なかったように思う。大春と喜児の再会シーンが印刷されたパンフレットを古本市などでたまに見かける以外、『白毛女』は私たちから徐々に遠ざかっていった。
一方日本では『白毛女』がバレエの世界で生き続けていた。2011年10月、松山バレエ団の13回目の訪中公演でも再び『白毛女』が上演された。新版『白毛女』の音楽は歌劇の特徴を残し、歌も原版の王昆によるものが採用された。現代の歌謡曲を聞き慣れているであろう観客も『白毛女』の音楽とともに文革前のあの中国灯が色濃かった時代に舞い戻ったようだった。王昆の歌声には金持ちや地方の軍隊、悪政に対する深い憎しみが込められていた。そして現代の人々の心にも深い共鳴を覚えさせるような強い芸術的生命力を持ち合わせていた。
新版『白毛女』では、悪政をはたらく黄世仁と対抗する村民との戦いのシーンが以前よりも激しく残酷に描かれている。また、旧暦の12月30日に黄世仁が扇子を手にして武装した手下とともに揚家(喜児の家)に借金を取り立てに行くシーン(中国北部の農村で扇子を使うことはほとんどない)や、粉を挽く際に下女4人が石臼を回すシーン(通常は1人で回す)などは、新版に取り組んだ日本の脚本家が中国北部の農民生活をそう深く理解していないことがわかる。しかし一方でこうした中国人の常識を超越した舞台設計があったことで、この作品がまさに日本のバレエ団による『白毛女』だと強調できたのかもしれない。
森下さんは心を込めて全幕を踊りきった。20歳の喜児役を踊っているのがまさか63歳のバレリーナだとはとても想像できないような力強さだった。
『白鳥の湖』のオデット、『ジゼル』の村娘ジゼル、『くるみ割り人形』のクララ――森下さんが演じてきた世界的に有名な主役だ。今回喜児も仲間入りを果たしたのかもしれない。東西文化の懸け橋とも言える森下さんのバレエは、その鮮やかな色彩と無限に広がる表現とともに今もなお輝きを増している。
石島幹也さんと知り合ってから大分経った。彼の髪にも白いものが混じり始めたものの、つややかで血色のいい顔は以前と変わらない。日本人男性にとってスキンケアは珍しいものではなくなったのだ、ましてや石島さんは化粧品会社に勤めているから尚更だ、などと考える。
震災後、新橋にある石島さんのオフィスの喫茶スペースで会うことになった。エレベーターがまだ動いていなかった頃だ。そばには大きなスーツケースがおいてあり、私の視線を感じた石島さんは、
「お昼が済んだらこのまま出張なんですよ」
と言った。
話題はやはり震災のことが多くなる。特に私は被災地の取材から戻ったばかりで、その惨状を目の当たりにしていたということもあるだろう。日本は対口支援(中国の政策:中央政府が地方政府(省や市)に対して支援対象地区を割り当て、インフラ整備などの事業を行わせること)という方式がなく、被災地の復興は自らの力によるのみという現状や、衣食は足りているものの将来への不安を拭えない人々の沈んだ表情が私の心から離れなかった。
「被災地支援活動として会社から専門スタッフを派遣し、スキンケアやメイクの方法を伝えたり、実際に被災地の方にメイクをしました」
石島さんは言った。
企業の特性を生かし得意分野で被災地を支援するのはとてもいいことだ。しかし、スキンケアやメイク技術先進国である日本、初めて日本を訪れた中国人は日本人女性が皆しっかりお化粧していることに驚くほどだ。被災地の人々にとって化粧品会社からの“気持ち”は果たしてどれくらい伝わるものだろうか、と私は心の中で思った。
「お化粧してきれいにしている女性を見れば嬉しいですよね。そしてお化粧した方も相手が明るい表情で自分を見れば気分がいいでしょうし、自信にもなります。メイクにはそういう力があるんです。そして私たちは被災地の方々にメイクを施す際のプロセスを重視しています。誰かにお化粧をしてもらうということは、一人で鏡に向かうのとは違って会話が生まれます。これも一つのコミュニケーションだと考えています」
石島さんの言葉から、被災地でお化粧してもらった人々の表情やその場の和やかな雰囲気が私にも想像できるような気がした。
お化粧の後まるで別人のように明るくなった、という年配の女性が何人もいたという。石島さんはメイクによる支援活動に更に自信を持った。メイクは自分の沈んだ気持ちを隠してくれるだけでなく周りの人を明るくし、それが日常を取り戻す自信にもつながるだろう。救援物資では埋められない心の隙間がある。一度のメイクが果たした効果は小さくないだろう。
石島さんの引き締まった表情が心持ちから来ているのは当然だが、毎日のスキンケアの賜物という部分も多くあるのかもしれない。日本から戻って時折考えるのは、日常生活を少しだけ明るくする、こうした日本のスタイルが中国でも広まらないだろうか、ということだ。
我眼中的日本人 – 本田雅一:独立撰稿人的独立精神
そんな中、本田さんの毛色は少々異なる。
「私はフリージャーナリストです」
初めてお会いしたとき、彼は自己紹介で言った。そして中国語に翻訳された彼の著作『インサイドドキュメント「3D世界規格を作れ!」』を私にプレゼントしてくれた。日本のテレビ業界、なかでも3Dをテーマに彼が追いかけたドキュメンタリーだ。
「まだ実際には読んでおりませんが、どんなことをお書きになったかはだいたい分かります」
私がそう言うと本田さんは怪訝そうな顔で、しかし目を見開き表情をほころばせながら、
「え?日本語版をお読みになったんですか?」
と尋ねた。
「そうではありません。でも本田さんの書かれた記事をいつも真剣に読んでいるので記憶に残っているのです」
私は答えた。
私は毎日まとまった量の日本の新聞や雑誌、専門書を読んでいる。その中で書き手の視点や立場が明確なものだけが記憶に残る。メジャーな新聞各紙の記事は読んだそばから消えて行く、という感覚だ。一方で本田さんの文章の印象はいつまでも鮮やかに残っている。
本田さんと3Dやハイビジョンについて、そして液晶テレビから家電メーカーの今後までを語り合った。話は中国メーカーと日本メーカーの競争や協力についても及んだ。
実際本田さんは新聞社の経済部記者と比べ独特な存在だ。しかし情報が平均化している日本、本田さんだけに特ダネが集まる可能性は考えにくい。本田さんの強みはその独自の視点・観点にある。本田さんは自身の見解、例えばメーカーに対する批判などでも忌憚なく文章に綴る。当事者にとっては耳の痛い話であろうが、事実は事実としてメーカーの戦略ミスをいずれは誰かが総括しなければならないのだ。本田さんがその役目を果たす=IT家電メーカーに対する新しい認識を人々に示すことになるのではないか。
「今後の記事はどこに重点を置かれますか?」
私の問いかけに対して
「日中協力の可能性についてもっと書きたいと思います。中国は人材も豊富で、その背後には大きな市場が広がっています。もし日中協同で国際市場を開拓できれば、日本企業の高コストという問題を解決できると思うのです。テレビはもはやハードとソフト、そしてサービスという三位一体での運営に変わってきています。これから皆さんにお伝えしたいことはたくさんあるでしょう」
北京に来た本田さんは答えた。
私はこの言葉から、本田さんが日本のIT家電の問題点を指摘するだけでなく、問題解決についても考えを持っているのだと思った。中国人消費者は日本製品に対して、作りが精巧で使いやすく壊れにくいという一定の理解を持つ。このことは日本の評論家、とりわけ本田さんのようなフリージャーナリストによる鋭い分析の賜物と言えるかもしれない。
日本のメディアにおけるフリージャーナリストの役割は非常に大きいと言える。しかし中国メディアにはこうしたフリージャーナリストがほとんどいない。
2011年11月10日、玉三郎さんは京都国際会館の壇上にいた。舞台ではなく稲盛財団の「京都賞」授賞式だ。この京都賞は毎年の授賞者が3人のみという国際的な賞で、2011年の思想・芸術部門は1950年生まれの歌舞伎女形、坂東玉三郎さんに贈られた。
女形について語る時、中国では京劇役者の梅蘭芳がしばしば例に挙げられるだろう。
「子どもの頃は自分が歌舞伎の世界に入るとは思いもしませんでした」
受賞の挨拶で玉三郎さんは過去を振り返り語った。あの頃はただ体を動かしたい、舞台に上がりたい、という気持ちだけがあり、玉三郎さんのご両親も息子の自由にさせてくれていた。言いたいことを言い、踊りたいように踊り、いつしか舞台は自分を表現する大切な場所になっていたという。
天性の素質に恵まれた玉三郎さんは14歳で“坂東玉三郎”を襲名した。
「養父である第14代守田勘弥はその時私に『これでお前もプロの役者だ。この先の道は更に厳しいだろう』と言いました。私もそのプロという感覚を多少なりとも理解したことを覚えています」
玉三郎さんは語った。
そして5代目坂東玉三郎としての人生が始まった。実名は過去のものとなり、4代目坂東玉三郎の芸を継承するという使命を負った。養父は玉三郎さんが24歳の時に亡くなっているが、
「養父が繰り返した言葉が今も鮮明に心に残っています」
玉三郎さんは続けた。
「これでいい、と思ったらそこでおしまいだ」
自らの50年あまりの舞台経験と養父や師匠の教えから、玉三郎さんが考える役者として一番大切な姿勢‘舞台に立って観客に良く見せようとするな。その役柄になりきることだけを考えよ’を真摯に実践してきたという。
中国では、玉三郎さんによる昆劇『牡丹亭』を観た人も多いだろう。日本の歌舞伎役者が演じているとは思えない、というのが大部分の感想かもしれない。『牡丹亭』のずいぶん前にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場で『鷺娘』を演じている。日本舞踊とバレエの鍛え抜かれた身体表現を調和させ、ある種の静謐さと壮絶さを醸し出したその舞台は圧倒的な美しさでもって観客を包み込み、鮮烈な印象を残し続けている。
その後はドストエフスキーの『白痴』を原作とした『ナスターシャ』に出演、非常に困難とされる男女2役を見事に演じ喝采を浴びた。
『桜姫東文章』、『伽羅先代萩』、『壇浦兜軍記』など日本の歌舞伎における玉三郎さんの活躍については、私がここで改めて言い及ぶ必要はないだろう。
「京都賞」の受賞後、私は玉三郎さんにこう尋ねた。
「今後どういった分野で女形を昇華させていきたいですか?」
玉三郎さんは少し間を置いて、
「自分の若い時と比べて、新しい役柄に挑戦したいという気持ちに衰えは感じませんが、やはり時の流れには逆らえません。でも、もし肉体的・時間的に許されるのであれば沖縄の舞台芸術に挑戦してみたいです」
女形に関するものはすべて、日本や中国はもちろんアメリカやヨーロッパに至るまで、玉三郎さんは情熱を持って学び、表現してきた。こうして大きな成果を上げた今でも、さらなる高みを目指す姿勢は変わらない。
芸術に対する玉三郎さんの尽きることのない探究心————世界に名だたる数々の賞を引き寄せている理由だろう。
ジャーナリスト・陳言 山名健司さん : 日中が共有できる経験から
山名さんは四川で日中両国の大きな違いも目にした。
「四川は綿陽(四川大地震で最も大きな被害があったところ)を全く新しく作り直したのです」
山名さんは驚きを隠せない様子で言った。日本だと同じようにはいかないことだろう。
日本政府が津波の被害を減らすために更に高い防潮堤を築いたり、新しい場所に居住区を作ったり、といった話はまだほとんど耳にしていない。
「日本は被災者に対する心理的なサポートが比較的多いと思います」
山名さんは続けた。物質的に豊かな日本、援助物資よりも被災者に対する関心や思いやりがより必要とされる場合が多々ある。そうした日本の経験も今回山名さんのメンバーを通して中国のボランティアたちに伝えることができたのだった。
山名さんは自身が発見した日中両国の救援活動における共通点と相違点、そして数々の情報交換を通じて、今後も多くの分野で市民レベルの日中交流を押し進めなければならないと感じた。国際交流センターが組織した救援ボランティアの日中交流は今回が第一回だが、これからも他の分野での交流や、更に掘り下げた交流が期待できるだろう。
日本国際交流基金の理事長である安藤裕康さんは、2011年10月まで駐イタリア大使を務めていた。場所や肩書きは大きく違っても、仕事内容はほとんど変わりないようだ。
「外国人に日本の外交政策を説明する、日本文化をより多くの人に理解してもらう、これが私の仕事です」
安藤さんは国際交流基金の応接室で言った。
今回私は就任後2ヶ月の安藤さんと東京で再会した。初めてお会いしたのは震災被災地の仙台で、挨拶を交わす程度だったため、後日改めて東京でお会いする約束をしたのだった。
応接室で握手を交わした時、私は安藤さんの手が少し冷たいように感じた。
震災後の日本各地での節電励行を知っていた私は、安藤さんのオフィスでも暖房を入れていないのかもしれない、と思った。12月の東京とはいえ、少し道に迷ってしまった私は小走りで移動し汗ばむ程だった。だから安藤さんの手の冷たさと節電を心がけていらっしゃることが一層感じ取れたのだろう。
「3月11日の震災後、多くのイタリア人や外国の友人からお見舞いをいただきました。日本に対する友情を深く感じました」
話が海外での仕事に対する感想に及んだ時、大震災があったことで安藤さんにより強い印象を残したことを知った。
まさにそうした経験があったことで、大使の任期を終えた安藤さんがまず考えたことは、国際交流基金の理事長という公募ポストに応募することだった。1970年から2011年までの41年間の外交官経験は、他の応募者の誰よりも国際交流を心得ていることを示していた。
国際交流基金はちょうど安藤さんが外交の世界に入った頃設立されている。そして安藤さんご自身もその設立に関わっており、思い入れも深かった。基金の主な活動は海外交流のネットワーク作りと文化・芸術の交流、日本語教育の推進や日本研究・学術交流に対するバックアップ等である。
「2012年は日中国交正常化40周年です。国際交流基金も多くの記念活動を企画しています。民間交流も一層盛んになるでしょう」
安藤さんは言った。具体的には青少年交流や民間交流、日中サマーキャンプ等が予定されているとのことだ。
安藤さんは私の取材に答える以外にも、70年代に関わっていた教育分野の日中交流について、当時の写真を見せながら話してくれた。安藤さんの誠実なお人柄や話し振りが感じ取れた。文化交流の使者でもある外交官は安藤さんのような人であるべきだと感じた。イメージ豊かで具体的な言葉を使って沈着冷静に日本を伝え、全く文化の異なる人にも日本への理解を深めてもらう———安藤さんの手は冷たいかもしれないが、彼の言葉とアクションには人を温かくするパワーがある。
その時の話題は日中の経済成長段階の違いや、2008年末に発表された中国政府による4兆元の景気刺激策がもたらす効果等だった。日立経営陣の一員である大野さんは数字に対して敏感で、投入額が4兆元、つまり当時のレート換算で57兆円と知り、その経済的な意義を感じられたようだった。
半時ほどお話して大野さんのオフィスを後にした。社屋の前で大野さんの写真を撮り、別れの挨拶をという時に突然お煎餅の包みを差し出された。
「最近はお店も大分減ってしまいましたが、実は大森はお煎餅で有名なんです。私はこのお店のお煎餅が好みでしてね」
そういえば私は以前、大抵の日本の食品は北京で手に入るけれども美味しいお煎餅はとても少ない、ということを日立勤務の友人に話したことがあった。何かのついでに言っただけで自分でも忘れていたそのことが思いがけず大野さんの知るところとなったようだ。IT部門のトップでもある大野さんの情報収集の細やかさが感じられた出来事だ。
大野さんが北京にいた3年間にも取材や会食等で何度かお会いする機会があった。大野さんは大学の先輩でもあり同窓会でもご一緒したが、やはり年長者ということで同じテーブルにつけば多少緊張したものだ。
大野さんが帰国する少し前、比較的ゆっくりとお話する機会があった。この3年間で印象深かったのは、リーマンショックによって中国の経済成長が減速するどころか逆に加速したこととのことだ。
「2011年には中国での売上が全体の13パーセントを占めるようになりました。額として1000億元です」
大野さんは得意げに言った。換算すると約140億米ドル、リーマンショックへの対応と同時に速いペースで成長を遂げたのは並大抵のことではない。中国業務拡大に対する大胆な姿勢と中国経済を正確に捉える広い視野で、世界経済が最も困難なときにあっても積極的に攻めて行く、大野さんにはそんな決心があったのだc 中国に数年滞在して太ったという人が少なからずいるが、大野さんには特に変化が見られないようだ。相変わらずスリムなスーツとネクタイを着こなしている。社員の中に混じってしまえば彼が中国で1000億元の売上を誇り数万人が在籍する企業のトップだとはわからないかもしれない。堅実さと綿密さ、そして業務展開における決断力は数字から読み取ることができるだろう。日本での更なる発展を私は確信している。
2012年4月10日、東京新聞の論説主幹清水美和さんが亡くなった。享年58。
私が清水さんと初めてお会いしたのは2003年頃だったと思う。その後も幾度となくご一緒する機会があり、2006年にとある経済誌でコラムを順番に担当することになってからは、彼の記事をより興味深く読んでいた。
中国の政治に明るい清水さんの記事は、中国現代政治に関するものが多く『中国問題の内幕』という著作もある。日本語の“内幕”は中国語の意味“不正を暴く”よりも“内情”というニュアンスに近いだろう。
清水さんの情報源がどこかは詳しくは知らない。一時的に人々の話題に上る有名人についてなどは、私ならば記憶に留めないどころか分析したり関連情報を集めることもないだろうが、清水さんは知り得た内情を詳しく整理・分析した。今彼の本を読み返せば、そこに非常の多くの史実が反映されていることに気付く。
私は後に中国問題の専門家から、清水さんが1977年に京都大学経済学部を卒業したこと、在学中は全日本学生自治会の委員を務めていたことを聞いた。77年ならば、中国の文化大革命が日本に及ぼす影響はかなり小さかったと思うが、多くの内部抗争があった自治会という組織で委員を務めたということは、彼の政治闘争に対する感覚の鋭さが容易に想像できる。
清水さん愛読の“ML”とはマルクス・レーニンの略称であると周りの人間は長い間考えていたが、文化大革命の重要人物である毛沢東と林彪を指すことが後になって分かった。これには中国人も驚くだろう。清水さんは60年代の終わりに学生運動をした世代よりも10歳ほど年下だ。私は左翼の活動家を知ってはいるが、清水さんのように新聞社に勤めるような人物は非常に稀だ。日本の大手新聞各紙が原子力政策を支持する中で、「脱原発」の見解を論説主幹として示したことは、その経歴と少なからず関係があるだろう。
清水さんは中国の政治に精通していたが、東京新聞を代表する社説を書く立場にあれば日本国内はもちろんアメリカ等の国際問題に対しても独特の見解を持つ必要がある。中国専門家としてスタートしながらその役割をきっちりと果たすのは並大抵のことではない。
2011年、日本記者クラブでお会いしたのが最後になった。濃い目のほろ苦いコーヒーを飲みながら、話題は中国経済に始まり徐々に日本経済へ移っていった。民主政権後の政策に対する清水さんの分析は実にすっきりと理解できる。民主党の経験不足というよりも党内部のアメリカ志向とポピュリズムが理由で、今後数年内日中関係に転機は訪れないとのことだ。これを聞いて民主党に対する過度の期待は徐々に消えていった。一度の会話から私の日本政治に対する判断に影響を与える——清水さんはその数少ない人物の1人だった。
残念なことに清水さんは遠くに旅立ってしまった。あちらの世界からどんな風にこの世の中を眺めるのだろうか。腹を立てることも多いかもしれないが少なくとも病で苦しめられることはないだろう。
清水美和さん、どうぞ安らかにお眠りください。