連載第7回は、肇庆で出会った中国地方都市の若者の素顔(前半)です。
肇庆は広州省中西部に位置する人口405万人の都市です(百度百科より引用)。
今回はいつもと少々形式を変えて書きます。
先日、私が連載しているこの「Slice of Life」のもととなったリサーチプロジェクト「China Normal」をいっしょに行ったマーケティング・リサーチ会社「China Youthology 」が、同社のクライアントであるドイツのある自動車メーカーに向けてプレゼンテーションを行いました。プレゼンのクライアントであるその自動車メーカーが、中国で自動車工場の設立にあたり、雇用する「migrant youth(出稼ぎ若者労働者)」について知識を深めたいとのことで、2年前に我々が行ったプロジェクト「China Normal」が再び注目されることとなりました。
そのなかで、今回の連載対象の都市である肇庆の若者に関する興味深い質問応答が交わされたので、紹介したいと思います。
同じくプレゼンターとして参加した北京師範大学の教授が説明した資料によると、1980年生まれ(一人っ子政策下)の出稼ぎ労働者は、現在約1億人にのぼるそうです。そのうち、92.3%は未結婚。4分の1以上の若者は、親が同じく出稼ぎ労働者で幼少期に親不在の家で育った経験を持つ若者だそうです。
約2時間に渡り交わされた質問応答のなかで、90后と80后の出稼ぎ労働者についての討論は印象深いものでした。90后の若者は、80后よりも趣味や興味をもとにマイクロ世代化(年齢別に細かく分けられたグループ)されたグループ意識が多様なようです。90后の若者が、より多くのサブカルチャーを発信する起点となっているのもそのためです。また、90后は先輩である80后から都市労働での困難や苦労を学んでいます。その代表的なものに、戸籍問題があります。戸籍問題とは、地方出身者は都市で戸籍が持てないため、将来子どもを持っても子どもが公立小学校に通えないなどの問題です。発展が著しい第3または第4都市の90后は、生活が困難な都市に出稼ぎに出る必要性に疑問を感じています。
私とChina Youthologyのリサーチャーが肇庆でインタビューをした90后(専門高等学校生)は、「お金を稼ぐことは大切であり、成功者のわかりやすいステータスであるけれども、浪費欲以外の精神的充実を模索している」と言っていました。お金を稼ぐというのが、出稼ぎ労働者の原動力であることは間違いないのですが、とりわけ90后に関しては、発展する社会でお金以外の幸福感を求め始めているようです。プレゼンに参加したChina Youthologyのリサーチャーが「90后は年齢さえ若いが考え方は80后よりも成熟している」と言った言葉に一同首を縦に頷いていました。
連載第8回は、肇庆で出会った中国地方都市の若者の素顔(後半)です。
プレゼンのクライアントからの要請で、中国の出稼ぎ若者労働者が短期間で転職する傾向について話し合いました。前章で紹介した北京師範大学の教授が説明した資料によると、 出稼ぎ若者労働者の問題として、全体(約1億人)の75%は3年以内に転職する統計になっています。クライアントは自動車メーカーのため、工場で養成した技術職の流出を食い止めなくてはという危機感が強く、その解決方法を、若者の理解を深めることに求めました。
続いてクライアントからの問題提起により、企城下町構想や福利厚生の充実がどのくらい現代の中国で生活する若者に魅力的なのか議論されました。短期転職の原因として、キャリアアップという手段や、自分の市場価値を高めるなどの主な理由以外に、「彼らは自分に合う職をさがしている」という意見がYouthologyの参加者側から出ました。特に情報の多様化が目覚ましい90后の若者には、ソーシャルネットワートの横の繋がりを活用した「転職」による「天職」探しが盛んだそうです。
クライアントが示す企業城下町構想や 福利厚生の充実以外に、Youthologyのメンバーは「精神的繋がり」の重要性を伝えていました。この「精神的繋がり」というのは、従業員が雇用者や企業に対して求めるものではなく、従業員同士の繋がりや彼らの会社内でのコミュニティーを指します。働くということに対して、利益追求だけではなく、同僚との仲間意識や共同性が、彼ら従業員一人一人のそこに存在しているという自覚に大きく影響するらしいです。結果、その自覚が長期的な雇用慣行を促進し、またフォックスコン(富士康:台湾に本社をもつ世界最大のEMS企業で、中国本土に工場を持ち、アップル社からは携帯端末であるiPhoneおよびiPadの生産も受託する)で起きたような過酷な労働状況での自殺者の減少にも役に立つのだとYouthologyメンバーは言いました。
私が訪れた肇庆では、ある会社の従業員達がお昼休みを利用して、川辺で裸足になり、同僚達と歌ったり、踊ったりしていました。週に数回、会社で決められている活動の一つだと教えてくれました。白いワイシャツに黒のスラックスを着た彼らは、生き生きした表情で仲間との交流を深めていました。
連載9回は、吉林市で出会った中国地方都市の若者の素顔(前半)です。
吉林市は吉林省に位置する人口441万人の都市です。(百度百科より引用)
私が「China Normal」プロジェクトのため、2010年に吉林省を訪れた際、同省长春から吉林市へ向かう途中に通った未開発の荒野はなぜか印象的でした。この道の先に第三都市吉林市がちゃんと現れるのか不安に感じていました。
长春を出発して数時間後、吉林市内へ到着しました。街は想像以上に整備されていて、ショッピングモールや繁華街が多く見られました。その繁華街の一角に降ろされた私は、既に現地入りしていたChina Youthologyのメンバーと合流し、さっそく取材を始めました。市内の东北电力学院を訪れた際に、私たちは大学生カップルと出会いました。そのカップル曰く、彼らのクラスの3分の1の男女はつき合っていると教えてくれました。中国の地方では、いまだ親同士が縁組みをする風習が根強く残っています。そのなかで、彼らの解答は意外でした。
「結婚するの?」という質問に、「卒業後は就職が先だ」と双方同意を示し、就職後の結婚を考えていると伝えてくれました。
吉林市を訪れた翌年に「裸婚時代」というテレビドラマが中国で流行しました。「裸婚」とは、2008年にインターネット上で生まれた新語で、マイホームもマイカーもなく、結婚指輪も挙式もなしで婚姻届を出すことです。
地方経済の発展が男女間の思想を家族中心の風習から個人的自由恋愛に変える大きな要因の一つになっていると思います。しかし、地方経済の発展は一方で広がる経済格差を助長しています。上記に示したような物理的な要求が高い中国人の結婚には、物価上昇に伴う、経済的に過大なプレッシャーを感じている男性が多いという事実も浮き彫りになっています。
ある調査によると「裸婚」に賛同する八割の男性に対して、七割の女性は消極的という事実もあります。中流階級の浮上よりも経済格差が膨らむ一方の中国で、これからさらに新しい形の男女間が生まれてくるのではと思います。
連載10回は、吉林市で出会った中国地方都市の若者の素顔(後半)です。
「吉林の夜は屋台だよ」とyouthologyのメンバーHelenが教えてくれた。
同市出身の彼女とさっそくナイトバザールへ出かけた。歩行者天国にぎっしりと並ぶビニールテントの屋台では様々な食べ物が売られていた。店先に並ぶ海鮮や肉料理の豊富なこと、またそこに集まる人の多さには驚いた。活気に満ちているという印象だった。
話は吉林から変わるが、粉ミルクや牛乳、最近では私の大好きな羊肉串(ヤンロウチュアン)の羊肉偽造問題など、食品に関する悪質なニュースが目立つ。知り合いの中国人とこの手の話になると、日本の高度成長期の食品問題を指摘されることがある。問題摘発後の対処と、その事例によるモラルの形成が大切だと思うのだが、中国ではこの手のニュースが一向に止む気配はない。人口的絶対数が多い分、自然とこのような問題も日本のそれと比べると二乗されるのだろうか。兎に角、アパートの下に並ぶ小さな軒下食堂とでも言うべき低価格な食べ物に、これまでのように気軽に手が出せなくなったのは事実であり、悲しいことだと感じている。
吉林は東北(ドンベイ)地方に含まれる。ドンベイの人の気質は、かんしゃくもちで、気が強いと知り合いの中国人は教えてくれた。私の知り合いにも、多くのドンベイ出身の友達がいるが性分は皆それぞれだ。ただ、吉林のナイトバザールで出会った若者は、上半身裸で酒をグイグイ飲み干す、粋がいい青年達だった。元気な下級都市の若者達を見て、更なる発展を想像できたのも事実で、これは私が訪れた他の4つの下級都市すべてにおいて共通する感覚だった。彼らの前向きな明るさに触発され、中国理解を更に深めたいと強く感じた。
そこは真っ暗な雪山。中型バイクの後部座席に股がっている私は、凍てついた冷気で顔面を叩かれているようだ。 足の感触はすでにない。 鎧のように重く着込んだ身体がバイクから弾き飛ばされないように、左手で必死に後部座席を握っている。 力む指先の皮が零下の外気にさらされた鉄にへばりつく。皮膚がもっていかれそうだ。垂れ流しの鼻水がマスク内に付着し息苦しい。 吐く息で眉毛が凍り、瞬きが重く感じられる。もうどのくらい経っただろうか?
眠気と疲労で意識が朦朧とする。前方を照らすバイクのライトが、暗闇のなかに唯一現実を照らし出している。見上げると溢れんばかりの星々。天然のプラネタリューム。
タイヤが小刻みに滑ると同時に両足に力が入る。暗やみのなか、氷った川を渡っていることを確認した。突然、「バキバキ!」と静まり返った空気が息を吹き返した。 氷が割れ、後輪が沈むのを感じた。重さの負担を軽くするため、私は氷った川を歩いた。 川幅がどれほどなのか、暗くて想像もできなかった。 後方はついて来ているだろうか? 振り返りヘッドライトの数を声に出して数えた。 1つ、2つ、3つ…… 7つのライトは、まるで蛇のように、伸びたり縮んだり、上がったり消えたりしながらこちらに向かって来ている。
こう回想して思い出すのは、私が7日間過ごした冬の遊牧民生活を夜の闇に残し、氷の山を麓へと目指している旅路だ。
中国の首都北京から約3000キロに位置する新疆ウイグル自治区のウルムチから、南西に列車で約25時間下るとカシュガルに着く。すでに現代化が深刻なシルクロードの古都カシュガルから、乗り合いの車で西へ更に数時間、そして今回訪れた遊牧民が生活する谷は、そこからバイクで北上9時間半の人里離れた山深い谷である。遠いと形容詞するより、中国は広いのだ。
今回私が訪れた雪山は中国の西の端。西方に隣国キルギスタンのアレイ谷。南方には「世界の屋根」と呼ばれるパミール高原。高度3000メートルを超える中国天山山脈に位置する辺境である。
中国の克(ク)族(キルギス少数民族)の村を訪れるのは、今回で2度目だ。昨年2011年の夏、個人の撮影プロジェクトとして訪れた際に出会った家族を再び2012年の冬に訪問したのである。彼らの言葉、宗教、食べ物、住居は、我々が「中国」とまとめる中華人民共和国、主に「漢族」のそれと全く異なるのである。キルギス語を使い、イスラム教を重んじ、豚を食べることは御法度。羊が主なタンパク源で、ナンという小麦粉を薄く伸ばして焼いたパンが、主要な炭水化物である。
2度目の訪問にも関わらず、この場所は中国からは遠い「異国」だと錯覚してしまう。
5ヶ月ぶりにこの村に再来した夜、雪山行きの話が持ちあがった。遊牧生活をリタイアした両親はすでに山を下りている。家族の次女AR、三女JR、そ して長男JMは天山山脈を1年に4回移動する遊牧民だ。ちょうど冬の約4ヶ月間を過ごす雪山の谷から帰ってきていたJMと姉ARが、数日以内に谷に戻ると いう。私は好奇心と期待だけで、いっしょに行かせてほしいと訴えたのである。
運転したことのない雪山を中型バイクで走行するというのが、彼らが私に課した同行の条件であった。私の根拠のない自信と無謀な決断で話は一端まと まったかにみえた。しかし、JMは山を熟知している。私の不安を読み取ったのだろう。出発前夜、夏に連れて行くとの約束で今回は断念するよう言われた。迷 惑はかけられない。命あっての撮影だと、私も一度は諦めた。ところが、彼らが村を出発する朝、JMに電話がかかってきた。姉ARからである。もう一人谷に 行きたいという人間が現れたというのである。そして、私をいっしょに連れてってもいいと言う。急いで準備した。靴下2枚、スパッツ2着、フリースのズボン と更に綿パンを重ね着すると、短足を極めたような格好になった。上半身は、Tシャツ、長袖のシャツ、セーター、フリースのベスト、その上に厚手の防寒ジャ ケット。持参した上着は全て着込んだ。首から上は、ネックウォーマー、マスク、ニット帽で身体の露出を最低限におさえた。夜は氷点下15度を下回る雪山 だ。カメラを首から下げ、厚手のジャケットで保護した。もう一台を収納した小型バックと三脚をたすきがけに背負った。機材の多さに家族は目を丸くしていた が、その時私はこの先9時間を超す雪山走行になるなど考えもつかなかった。
新疆時間の午前9時過ぎ(非公式ながら北京時間より2時間遅い)、仲間との集合場所である慌ただしい駐輪場に到着した。林檎、蜜柑、バナナ、干し た梅、ナン、米、小麦粉、生卵などが、バイクの両脇にぶら下がる麻の袋にはち切れんばかりに押し込まれる。後ろから見たバイクは太った羊のお尻みたいだ。 冬の谷へ向かうバイクは5台。一行は私を含め11人。無論私以外の10人はその谷で暮らすキルギス人。同行する母親は赤ちゃんを毛布でグルグルに巻いて 抱っこし、運転席の夫と彼女の間に赤ん坊をはさむようにバイクにまたがった。赤ちゃんが平気なのだから、私などへっちゃらだろうと確信のない安心が動揺す る心をすこしだけ落ち着かせてくれた。
いよいよ私の相棒が明らかになった。JMが指差す方向には、なんと先ほどまで赤ん坊を抱いていた16歳の少女UHがいた。私は目を疑い尻込みし た。運転したことのない雪山でも、私が運転したほうがましだろう。16歳の少女が荷を積んだ中型バイクに男一人後部座席に乗せ雪道を走行できるのか? 私の甥っ子と数歳しか違わないではないか。急速に募る不安は突如皆の高らかな笑い声で鎮圧された。運転手と後部座席の者が通常逆であるべき状況が地元の男 達には滑稽にみえたのだろう。私は情けなさと恥ずかしさに苦笑するしかなかった。
そこからは徒歩だった。新疆時間の午後12時頃。少しでも距離と時間を稼ぐため前進した。歩いて実感したのだが、氷の上に積雪していたらしく、徒 歩でも滑らないよう踏ん張るような雪道だった。スパイクなしのタイヤで運転してきたことが恐ろしく感じられた。歩くと呼吸がすぐに乱れる。目指す谷は、 3000メートルを超える天山山脈にある。照らす太陽と反射する雪が眩しかった。両手が自由になったため、カメラを取り出した。フィルム交換の際に足を止 めると、限りなく無音に近いことがわかった。無風のなかに、やけにギラギラと光る雪、どこまでも青い空。数時間歩いた後、私を含め徒歩3人組は川の対岸で 待つ仲間のバイクを発見できた。川はうねりの形状を残したまま止まるように凍っていた。時間が静止しているようで美しく感じられた。川底を流れる水の低い 音は、その川が生きていることを語っていた。
川岸の仲間に合流すると、私は次女の夫KPの後ろにまたがり再出発することになった。少女UHはと振り返ると、今度は大人の女性2人を後部座席に 乗せていた。なんと逞しいこと。ちなみに2人ともJMのお姉さん。姉妹ともにハイヒールを履いていた。私には困難に感じられるこの旅路でも、彼女達には モールに買い物に行く感覚なのだろうか。そもそもモールに出かけたことはあるのだろうか。
安定したKPの運転にホッとしていると、間もなく休憩場所である土壁の家に辿り着いた。家のなかに入ると薪のストウブで部屋が大変暖かい。細かく 刻んだ揚げパンに無言でくらいついた。小さな窓から差し込む光を受けて、大きなアルミのボウルは、皆の空腹を満たしていった。ここで長男JMと合流。少女 UHと私は再び相棒として雪山を目指す。
空に明るさが失われ、辺りは青白くなった。寒さが私の不安を駆り立てる。少女UHは疲労困憊だ。バイクを停めて小刻みに手を振っている。ハンドルを固定する握力が限界なのだろう。見ると本当に小さな手だ。辺りは午後4時過ぎの太陽だろうか。出発してすでに5時間は雪道を運転している。心配そうな少女UHを説得して、私が運転を代わることにした。実は数時間前にも私は運転を試みたのだが、川を渡るはめになり、後輪をバキバキと凍った川に沈めてしまい、進行不可能という失態を犯してしまっていた。その後なんとか押して川岸へ着いたが少女UHの信頼を損なうこととなった。そういうわけで、今回は気合いを入れ、相当集中して運転していた、はずだった。しかし、バイクは玩具のように転げ、2人は再び積雪の上へ放り出される。「大丈夫?」と彼女に駆け寄ると互いに顔を見合わせ苦笑した。その後何度か転倒を重ね、段々と要領を体得していった。左下に落差のある崖を目視しながらの走行は、スリルを超えて緊張のため背筋が数センチ伸びる感覚だった。後輪が右に滑り車体が崖へ傾くと、左足で地面を蹴って体制を立て直した。腕も足もパンパンに張っていた。この道のりを少女UHは何時間も運転してきたと思うとつくづく彼女の逞しさに敬服し、また小さな体が疲れ果てている事実を身をもって感じた。
日が沈むか沈まないかの頃に、仲間達が待つ谷越え地点へ到着できた。後部座席の者は歩いて谷を下る。道らしきものを崖下に確認できたが、そのすぐ先は崖に隠れてみえない。私が運転すると言ったけど、相棒は決して譲ってくれなかった。同行中の仲間にも彼女に従えと目で合図を受けた。心配しながら彼女の後ろについて見守っていると、突如ブレイキをかけたせいで、彼女はバイクもろとも滑り出した。目の前は崖。私は焦るよりはやく走っていた。滑るバイクの後部座席を掴んだと同時に両足で踏ん張った。だがいっしょに滑り落ちる。体が倒れると同時にその力を利用して、バイクごと転倒させた。背負っていたカメラが背骨へあたる痛みを感じた。バイクは崖前で停まり、ホット胸を撫で下ろした瞬間、後ろで笑い声が聞こえた。キルギスの人々はどこまで陽気なのだ。必死に人命を救ったと思ったのに、少女UHまでケロッとしていた。とにかく、自分一人胸を撫で下ろした。
しばらく下ると目下に広がる村SRの壮大な景色が一望できた。俗にいうトワイライトの時間帯でそれは美しかった。夕食を仕度しているのか煙が点々と昇り、陽が沈んだ後の数分間の青と紫のなんとも表現しにくい色合いが、雪山の無地に溶け込むように映えていた。長い道のりをここまで来たことが急にうれしくなった。
中腹から約1時間後、さきほど眺めた村を左方向に走り抜けていた。人のお尻以上ある石をバイクで右へ左へ避けながら更に進む。辺りはすでに真っ暗だが、川を渡っていることを耳で確認できた。「後輪沈むなよ」と心のなかで祈っていた。川を渡り終えると先方を行く2台が停車した。近づくと見覚えのある女性と子供が出迎えてくれた。長男JMの奥さんと息子だった。こうして約9時間半の旅は終わった。ソーラーパネルを使い発電させた電球が、細々と皆の笑顔を照らし出した。それぞれ目で確認し合い、笑顔で喜び合った。するとJMが麻の袋から白酒を取り出した。お祝いするらしい。ドンブリになみなみと注がれた酒は、回り回って私のところへやってきた。いっぱいにつぎ足された白酒をほこりで詰まる喉に流し込んだ。胃のほうへスッと冷たくたどりついた白酒が、その後カッと燃えるように熱いのを感じた。2杯目のドンブリはさすがに飲めなかった。私はその夜4回嘔吐した。目を閉じると転倒の恐怖が蘇り、吐き気は治まらず遅くまで寝つけなかった。
JMと笑顔で挨拶を交わしたのだが、少々笑われているように読み取れたのは、昨夜数回にわたって無様に嘔吐したせいだろう。隣にいる息子BNは恥ずかしそうにしながら、私のほうをチラチラと気にしている。彼のニックネームは「老師」と呼ばれている。顔つきが妙に落ち着いていて、私から言わせれば、先生よりも僧侶というほうが適切だと思うのだが。綺麗な丸刈りでもあったし。
間もなくJMが水を汲みにいこうとジェスチャーをした。自給自足に近い生活を営むこの谷では、水汲みは大切な日課であり、また力仕事でもあった。大きなバケツ2つと斧を持って、谷の対岸へと歩いた。(谷の端から端まで約380歩ほど。歩幅で計算すると谷幅はざっくり380メートル以上はあることになる。)JMの家から対岸に数百メール歩くと凍った川を確認できた。深い鮮やかな緑色をしていた。突如声もなくJMの一打が振り下ろされた。斧で叩かれた氷が周辺に飛び散る。薪を割る要領で、何度も的確に同じ場所を叩いていた。やがて直径50センチほどの穴ができあがった。掘り下げること約30センチ。川底を流れる清く透明な水に私は手を伸ばして少量口元へ運んだ。新鮮な雪解け水が口内を洗った。
バケツの水を家まで往復し終わった頃、JMの奥さんが帰宅していた。地元の言葉で「アッシュポロ」という炒めた麺と羊肉を絡めた料理を昼食として出してくれた。これが大層うまくおかわりをして食べた。その後、JMの誘いで谷奥の姉達の家を訪れることになる。
谷奥の幅の狭い場所に姉ARの家はあった。長男JMの家とそっくりで、四角い積み木を置いて並べたような家だ。ドアを開けると姉ARが笑顔で迎えてくれた。昨日の困難な旅路を共にしたせいか、女性の包容力か、彼女を前にすると不思議な安心感に包まれ互いに笑顔で頷き合った。地面よりも一段高くなっているところに腰をかける。綺麗な手編みの絨毯が敷き詰められているこの十畳ちょいの空間で、寝たり料理をしたり、また家族団らんを過ごす。
皆お昼を済ませたあとのようで、我々来客には杏子を砂糖で煮た甘い飲み物を出してくれた。これがまた旨い。その美味しさが顔に出たか、姉ARは杏子を次々と皿に盛ってくれた。人間の基本的な感情を伝達するには言葉は不必要なのかもしれない。杏子の種はなかの実まで食べる。便利な生活とはほど遠い谷では、この実が貴重に思えた。子供達はうまくその辺の石を手に取り、パチ、パチと種を叩き割ってなかの実を吟味している。
姉ARの家を後にして私とJMは谷を更に奥へ進んだ。30分ほどバイクで走って、次なる家へ到着。この家はなんだか慌ただしい。来客も多数いるようで、誰かが屋根へ登って、なにやらアンテナみたいなものをいじっていた。「ボルド!」「ボルド!」と家のなかから叫び声が聞こえた。恐る恐る室内へ入ると、大人数名が15インチほどのテレビを囲み、映像が映し出されるたびに「ボルド!」と叫ぶ。その声に応答して、窓から顔を出しているもう一人が屋根の上へ「ボルド!」と伝える。ただ、時間差が微妙にあり、この「ボルド!」が何度も繰り返されているのだ。私は皆の叫び声に調子を合わせて「ボルド!」と叫んでみた。皆がフッと笑い、暗い室内に笑顔が映えた。このキルギス語は、「ok」や「十分」という意味に当たるらしい。漢族の中国人さえ足を踏み入れたことのないというこの辺境でテレビを見るとは思ってもいなかった。アンテナの設置には約1時間半を超える労働と「ボルド」という叫び声が何度も谷にこだましたのだった。