震灾与语言

2016年8月23日 / 黒四角





第7回/震灾与语言 

 黒四角」のアイデアをいつ頃思いついたのかよく覚えていないが、パソコンを探してみたら「黒四角・第4稿(2010/8/17)」というファイルが見つかった。これは映画になった「黒四角」とは別バージョンの「黒四角」の脚本だ。北京郊外の芸術家村が舞台で、そこに黒くて四角い物体が出現するのは同じ。映画の方の「黒四角」では四角の中から現れる男が主人公で、それを目撃する絵描きの男が二番手に据えられているが、以前の「黒四角」ではそれが逆になっていて、目撃する絵描きの男が主役を担っている。そして、物語の後半、絵描きの男は事情があって日本に行くことになるのだが、そこも映画「黒四角」とは大きく違っている。「黒四角・第4稿(2010/8/17)」は何度か手直しされたようで、最終更新日が2011年2月10日になっていた。ということは僕は前のバージョンの「黒四角」を携えて東京に行ったのだ。僕は思い違いをしていた。てっきり新たに書き直した脚本の方かと思っていた。いずれにせよ3月11日、僕は日本にいた。
 その日は「黒四角」の企画について知り合いのプロデューサーと会う約束をしていたが、約束はもちろん延期となった。数日後、北京の友達から電話があった。彼の知り合いがスウェーデン国営放送北京支局でカメラマンをしていて、記者と二人で震災の取材に日本に行くのだがコーディネーターを探しているという。震災以後、なす術無くただひたすらテレビ画面を見つめていた僕は二つ返事で引き受けた。それから福島で原発事故が発生し、スウェーデン本国から足止め指示があったりして、現地に入ったのは震災後2週間あまりが経ってからだった。
 最初に目にした光景は宮城県名取市の海沿いの住宅地の惨状だった。津波でなぎ倒された家屋のがれきが荒涼と広がっていて、空は高く青く澄み切っていた。倒れた家の傍らに呆然と立ち尽くす人の姿がぽつぽつと目に入った。僕は常々、言葉で考えることに対して警戒心を持っている。もちろん思考というのは言葉でしか成り立たない営みではあるが、言葉は権力を持つのでそれに気をつけなければならない。つまり、生の体験や感受から思考を経て導き出された言葉が、やがて本来の体験と感受を離れて独立し、権力を持ち始め、いつしか自分で考え出したはずの言葉に僕自身が支配されてしまうのではないかと恐れるのだ。津波の爪痕を目の当たりにして、僕は言葉を失っていた。僕はポッカリと開いた空洞で、そこを埋める言葉を僕は持っていなかった。それは僕が初めて直面する出来事だった。眠っている時を除いて、僕の意識や僕という人間の存在はいつも言葉と言葉の指す意味によって定義され続けている。けれども、名取市の海沿いの住宅地に立っている僕は、僕を僕であらしめる言葉の外にいた。その意味からすれば、この時の僕は僕ではない。何者でもない。本当にただの空洞だった。やはり人は言葉で考え続けなければならないのだ。人間は所詮意味の世界に絡めとられた存在であり、言葉で思考するしかないのだ。それを恐れるのは単なる怠慢に過ぎないのではないか。ゆっくりと時間をかけて、あの時の空洞を埋める言葉を探しながら生きていくしかないのだと僕は思う。
 再びパソコンに保存されたファイルをたどっていくと、映画になった現バージョンの「黒四角」の脚本は2011年5月に書き始められ、7月にほぼ今の形のものが完成している。そう考えてみると、この脚本にはおそらく震災の影響があった。今回、この文章を記憶を掘り起こしながらここまで書き進め、ようやく僕は気がついた。「黒四角」は確固たるテーマを言葉に持っている。「黒四角」は「亡霊」と「愛」についての映画だ。そう書いてしまうと気恥ずかしいが、事実、それをテーマに掲げて撮ったのだから仕方がない。これまで僕は抽象的な概念をテーマに据えて映画を撮るのに違和感を持っていて、そういう撮り方をしてこなかった。登場人物たちをある地点から別のある地点まで運んで行くのが僕の映画の物語であり、その間の過程を描くことこそが僕の映画だと考えていた。中国に来て数年が経ち、僕は心変わりしていた。慣れない中国の土地で、自由にならない北京語で、それでも何かを伝えようとすれば僕が日本で基準としていたコードを広げていかなければならないと、日々の生活を送る中で知らないうちに僕は悟っていったのだろう。「黒四角」で僕が新しい映画づくりに取り組んだのはそれが理由だと思っていた。けれども、それだけではなかったのだ。震災の地に、そしてまたそれを経験した僕らの心の中に「亡霊」と「愛」は渦巻いている。「黒四角」もまた震災後の映画なのだ。僕は今さらながら自覚した。
 書き改めた脚本を手に再度資金集めに奔走したが、思うような結果は得られず、結局借金をして自分で作ることに僕は決めた。調達した金額から見積もると、撮影までは何とか乗り切ることができそうだ。撮影さえ終えてしまえば、仕上げにかかる費用はそれからゆっくり探せばいい。物語の季節設定を考えれば、年明け2月には撮影を始めたかった。北京に戻り、僕は具体的な制作準備を始めていた。そんなとき、台湾から1本のメールが届いた。古い友達の映画監督からだった。北京で映画製作会社をやっている知り合いのプロデューサーがいるから興味があるなら会ってみたらどうかと書いてあった。僕は会うことにした。2011年のクリスマスの夜、近所の喫茶店で待っているとその男がやって来た。それが「黒四角」のプロデューサー、李鋭との出会いだった。


Hiroshi Okuhara

投稿者について

Hiroshi Okuhara: 映画監督  1968年生まれ。『ピクニック』がPFFアワード1993で観客賞とキャスティング賞を、『砂漠の民カザック』がPFFアワード1994で録音賞を受賞。99年に製作された『タイムレス・メロディ』では釜山国際映画祭グランプリを受賞した。その後『波』(01)でロッテルダム国際映画祭NetPac Awarを受賞するなど、高い評価を受ける。その他の作品に『青い車』(04)、『16[jyu-roku]』(07)がある。本作品は、5本目の長編劇場作品に当たる。