東海道新幹線の窓から、泉卓也さんと南京出身のカノジョは五月晴れに輝く富士山を見つめていた。初めて訪れる日本の景色に無邪気に喜ぶカノジョ。そんなカノジョを愛おしく見つめながら、泉さんは大きな後悔の念を抱いていた。その後悔は、2年が過ぎた今でも泉さんの心をうずかせる。
2006年秋、友人のパーティーで知り合ったカノジョは当時21歳、泉さんより5歳年下のデザイナーだった。深津絵里に見た目も感じも似ているカノジョを泉さんは当時できたばかりの遊園地に誘った。その夜、二人で食事をしながら話しているうちに、カノジョの飾らない素直さ、裏表ない正直さに泉さんはこれまで誰にも感じたことがないときめきを覚えた。しかし、カノジョはボーイフレンドと別れたばかりで、前のカレ以外の人を好きになれないという。泉さんは、
「彼のこと忘れさせられたら僕の勝ちだね」
と、その日に緩い告白をしていた。
すぐに恋人とはならなかったが、常に相手の気持ちを考える優しい泉さんと一緒にいるのはカノジョにとっても恋人と友人の間の心地よい時間だった。どちらから誘うともなく二人で過ごす時間は増えた。そして翌年の夏、泉さんは部屋の合鍵をカノジョに渡した。
一緒に暮らし始めて半年ほどした頃、カノジョが「結婚したい」と泉さんに言った。泉さんも将来の結婚相手は彼女と漠然と感じていたが、27歳の泉さんにとって結婚はあまりに突然で、心の準備ができていなかった。もう少し時間を置いてゆっくり進めようとお茶を濁すような答えをして2年が経った。そして泉さんも結婚を考え出した頃、カノジョのお父さんが突然病気で亡くなった。それを機に、カノジョの母親はカノジョに地元の有力者の子弟と結婚をして地元に帰ってくるようにと言い出した。母親は泉さんとカノジョが暮らしていることは知っていたが、もともと戦争のイメージから日本人が嫌いな母親は、泉さんの存在をほとんど無視していた。1人きりになってしまって娘に執着する母親の気持ちもわかるカノジョは、ある日泉さんに言った。
「私たち、結婚できないかもしれない」
泉さんは驚きと混乱でパニックになりそうになりながら、二人のことを考え続けた。カノジョと一緒に母親の住む南京に暮らしてもいいとさえ思ったが、冷静に考えると、南京で日本人である泉さんが安定した職を得られる可能性は低い。現在現地採用で大手の会社に勤めている泉さんの待遇は、一般的な中国人に比べればかなりいい。しかし、正社員ではないので将来どのような道を自分が歩いていくのか悩んでいるところだ。こんな自分でカノジョを幸せにできるのか。将来が見えない自分と結婚するより別の人と一緒になる方がカノジョのためなのではないか。反対するカノジョの母親を説得し、彼女と結婚して南京で暮らし、カノジョと母親を幸せにする自信は泉さんにはなかった。
日本を巡った思い出づくりの旅
結婚をしないのならカノジョの時間を無駄にさせていけないと、泉さんはカノジョと別れることを決めた。泉さんは最後に二人の思い出をつくりたかった。前から一度見せたいと思っていた日本に招待しようと決めた。
しかし、日本の入国手続きは簡単ではなかった。身元引受人がいないとビザがおりない。泉さんは家族に保証人になってもらえないか相談した。
「結婚はできないかもしれない人だけど、何年も一緒にいてくれて僕の辛い時に支えてくれた人だから」と話すと、家族からはカノジョを歓迎すると返事がきた。泉さんの兄が保証人となり、泉さんはカノジョを連れ日本中を旅行した。実家でも両親と一緒に過ごした。素直で、片言の日本語や英語を交えて母親が作った料理をはっきり「VERY おいしい」「NO おいしい」というカノジョは両親にも評判がよく、笑いのたえない日々だった。泉さんは自分の中に後悔が残らないように、とにかくカノジョが楽しめるようにとできるだけのことをした。
彼女と別れて2年がたった今も、カノジョ以上に気持ちが通じる人に泉さんはまだ出会えていない。折りに触れカノジョとのことを思い出す。美しい時間は思い出の中でますます大きくなってくる。カノジョが結婚したいと言った時、なぜ、自分はカノジョとの結婚を真剣に考えなかったのだろう。カノジョ以上に愛せる人はいないと年月を追うごとに確信しているのに。
「僕の中ではカノジョは過去の人ではないんです。ずっと大事な友人で大切な人です。お互い、それぞれ違う人と結婚すると思うけど、でも、ずっと年老いたころ、やっぱり自分たちは一緒に暮らしているんじゃないかと、今もどうしても思えてしまうのです」
(文中仮名)
SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト)