今年10歳になる息子の名前は伸宏くん。固定観念にとらわれることなく、大きな心でのびのびと生きてほしい。現在四国の私立大学准教授・井口一馬さんと、北京の芸術系大学准教授のカノジョの間に生まれた息子の名前にはそんな願いが込められている。
井口さんが5歳年上のカノジョと出会ったのは1996年、井口さんが27歳、早稲田大学の博士課程で日本政治外交史を学んでいる頃だった。東京学芸大学教育学研究科に留学していたカノジョの修士論文の日本語チェッカーを頼まれ、井口さんは軽い気持ちで引き受けた。ところが、カノジョの日本語能力は予想以上に低く校正は膨大な作業となった。しかし、論文を手直ししているうち、井口さんはカノジョの発想や論点が優秀でとても頭のいい人だと知った。しかも美人で小さな頃からバレエで鍛えた抜群のスタイルのカノジョを井口さんは好きにならないではいられなかった。カノジョも、井口さんを心から信頼できる人だと感じた。二人が恋人として親しくなるのに時間はかからなかった。
カノジョは四川省の出身だ。文化大革命が終わった77年当時の地元はとても貧しく、両親は、体も顔もきれいなこの子ならバレエの道に進めば食べていけるかもしれないと考え、13歳のカノジョを北京中央民族大学の舞踏の専門課程にひとり入校させた。カノジョはそこで国家を代表するバレリーナを育成するカリキュラムに18歳まで所属し特訓を受けた。練習は厳しかった。屈伸などの訓練で「痛い」というと、練習量は2倍にされた。カノジョは中央民族大学の助手を経て北京舞踏学院舞踏学科の第一期生として入学し舞蹈の理論を学び、その後、東京学芸大学で修士課程に進んだ。
ー フリーター、迷った末に結婚を決意 ー
修士論文は無事合格となり、カノジョは大学の博士課程を目指し勉強を続けた。井口さんも博士課程で研究を続けながら、大学の非常勤講師や予備校で講師のアルバイトをして生計を立てていた。カノジョはよく井口さんに結婚したいと言った。その度に未だ大学への就職も決まらず ”フリーター” だった井口さんは、「仕事も経済的にも安定していないから」と全否定していた。30歳半ばを迎えるカノジョのことを考えると、このままでいいのかと悩んでもいた。
そんな頃、北京の芸術系大学からカノジョに連絡が入った。常勤講師の空きがあるので戻ってこないかと。大学で働き口が見つかるほどいい機会はない。井口さんは現実を考えた。カノジョの年齢的にも出産をするならそろそろ結婚した方がよい。しかしその能力がない自分がカノジョの時間をこれ以上無駄にさせるわけにはいかない。
99年秋、「困ったことがあったらいつでも連絡してください」という言葉で井口さんは帰国するカノジョを見送った。
新しい暮らしに馴染めないカノジョからは時々国際電話が入った。お見合いもしているが、いい相手は見つからないという。リアリストの井口さんではあるが、カノジョのいなくなった淋しさは、日を追うごとにボディーブローのように効いてくる。カノジョ以上に魅かれる人にこれから出合うことはないだろうという思いが強くなるばかりだ。半年後、井口さんは電話でカノジョに言った。
「僕と結婚しませんか?」
カノジョは同意した。もし井口さんが大学に研究者として残れず一生フリーターのままになったとしてもそれでもいい、そうカノジョは思っていたという。
それから1年後、二人は入籍し、さらに1年後には長男の伸宏くんが生まれた。その後、井口さんは四国の大学で教鞭を取ることが決まり、以来11年間、カノジョが研修で1年間日本に滞在した期間をのぞいて、家族は四国と北京で別居生活を続けている。
「もともとは生活のための別居でしたが、常識から外れたことでもやってみると意外と何とかなるものです。カノジョと一緒に北京で暮らしている息子とはスカイプで毎日会話をしています。欠席した学生のために録音した私の授業の音声を息子は『僕のパパだ』と喜んで聞いているようで、ほぼネイティブな日本語を話します。『先生が二個いる(中国語では二人=両個人となるため)』など、ヘンな変換をすることもありますが(笑)」
中国人を家族に持ち中国を身近に感じ、そして、日本政治外交史の専門家として日中関係についても考察を深めてきた井口さんは、中国人とつき合うコツを次のように話してくれた。
「日本人と中国人の物の見方、特に歴史観はまったく違います。 たとえば、満州引き上げ、残留孤児問題など日本では悲劇と捉えていることが、彼らからは自業自得と思われているかもしれません。一般的に日本人が国内で見聞きしている中国人はノンエリート層が多いですが、中国のエリート層は特に、歴史問題に関しての彼らなりの知識と考えを持っています」
見る角度によって物事の捉え方は違う。終戦記念日を迎えると、夫婦で歴史解釈を巡り喧嘩になり、答えの見つからない言い合いが続いていた。理論武装してどちらかが相手を言い負かしたとしても何かが解決するわけでもない。今では夫婦はなるべく歴史問題には触れないようにしている。
「それでも話題にするのであれば、自分の見方や固定観念を相手に押しつけるのではなく、違いがあることを認識し、その違いの中でどうするのが一番お互いのためになるのかを考えていくことが大切だと感じます。息子には、双方の考えの違いを受け入れられる伸びやかな心で日中のハーフという宿命を生きていって欲しいと願います」(文中仮名)
SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト)