いたずら好きなクラスのムードメーカー!2010年内モンゴル自治区の海拉尔にて。
<プロフィール>
1983年江苏省太仓市生まれ。1人息子で、父親は元陸軍所属、現在は税務局勤務。母親は会計事務所勤務。上海のトップ校である上海交通大学電気工学部を卒業後、上海电气を経て清華大学MBAに入学。今夏よりマサチューセッツ工科大学(MIT)とのダブルディグリー・プログラム(2年間で清華大学とMITの2つの学位を取得するプログラム)のためアメリカに出発予定。
Q.名門MITとのダブルディグリー・プログラムに合格した秘訣は?
一番の決め手は、国内電機最大手の国有企業、上海电气での経験をアピールできたことだと思います。入社直後の1年半は、ディーゼルエンジンの組み立て工場でオペレーション管理をしました。トヨタ方式を重点的に学びラインの効率化に努めましたが、導入するのがなかなか難しく、一筋縄ではいきませんでした。というのも、中国の工場労働者の多くは農工民(農村からの出稼ぎ労働者)で、所得も低く、教育もまともに受けたことがありません。そのため、自分たちに与えられた最低限の仕事しかやろうとしませんし、中長期的な視点がないため、組み立てラインの改善案をなかなか理解してくれないのです。入社間もない私には実務経験がなかったため、とても苦労しました。
Q.日本企業が中国で工業労働者の管理に苦労している話は よく聞きますが、同じように中国の方も苦労しているのですね。
そうですね。中国人同士でも育った環境の異なる人に考え方を理解してもらうのは骨が折れます。ところが、現場での苦労が絶えない中、2008年にディーゼルエンジン部門が自動車大手の上海汽车集团に買収されることが決まりました。私は新会社に移るか、上海电气に戻るか選ぶことができたので、上海电气に戻ることにしました。ディーゼルエンジン部門では苦い経験が多く、上海电气に戻れば設立されたばかりの風力部門にいくことができたからです。
Q.風力部門での仕事はどうでしたか?
設立されたばかりで人数も少なく、また安全管理や「カイゼン」の仕組みも整っていませんでした。そこで、ディーゼルエンジン工場での経験を活かして、自主的に安全管理や生産性向上に関する「カイゼン」レポートを役員会に提出しました。そんな折、作業員が風力発電機の設置の際にセーフティベルトを着けずに作業をし、発電機から転落し死亡するという事故が発生してしまいました。これは、安全管理に関するマニュアルがなかったために起こってしまった事故です。このような背景も相まって私の書いたレポートが風力部門の总经理(社長)の目に留まり、当時最も強化が必要であった営業部門に副部长(副部長)として転籍することになったのです。
部長の励ましに泣いた日
Q.25歳で副部長に昇進、しかも経験のない営業とマネジメントですか?
そうなんです。営業マンとしては、国有企業の電力最大手である华能,华电,大唐等を担当し、私自身が技術畑出身だったこともあり、顧客には非常に重宝されました。しかし、副部長としては、私より年上の部下が多く、どのように接してよいか困惑していました。ある時、年上の部下の営業成績が悪く営業報告も時間通りに出さなかったので、問い詰めるような態度で話し合っていたところ、その部下が急に大声で私を罵り始めたのです。この口論はオフィス中に響き渡り、当時の部長が飛んできて仲裁に入ってくれました。厳しく叱責されると思っていたのですが、「人生は長く厳しいから、そんなに慌てなくても良いよ。」という意外な言葉をかけてもらい、ここだけの話ですが、思わず泣いてしまいました。このときの部長の言葉は、私の営業マン、マネージャーとしての原点です。
その後、部下の扱いには徐々に慣れてきてきたのですが、一方で高圧的な副总经理(営業統轄役員)には苦労させられました。熱血営業タイプであることはよいのですが、突然、週末に8時間に及ぶ営業報告会を始めたのです。最初は営業統轄役員の思いつきでその日のテーマを決め、方向性もないままダラダラ議論をする週末が続きました。多くの不満が寄せられたのですが、一党独裁体制の中国では、国有企業では上司の考えに反対するというのは自分の立場を著しく危うくする行為です。そこで、報告会自体を廃止するのではなく、会議の効率化を提案しました。事前に議題を決め情報収集と資料作りをする、時間を区切る、そして会議の進行役を私がするなど、「カイゼン」をしたことで、2時間以内に収まるようになりました。また、上司も部下も納得して会議に参加するようになったことで、次第に営業部全体の成績向上に大きく寄与する会議となってきます。風力発電事業に対する政府支援もあって、売上は副部長に就任した2008年の約7000万元(約8億4000万円)に対し、2011年は40億元(約480億円)と、4年間で約60倍という伸びを記録することができました。
Q.なぜ清華大学MBAに入学しようと思ったのですか?
工場の組み立てラインでオペレーション管理を、更に副部長としてマネジメントを経験し、それらをMBAで体系的に学び直したいという気持ちがありました。実は清華大学を受験した際は、パートタイムMBA(働きながら夜間と週末に通うMBA)で合格したのですが、フルタイムだと清華大学で人脈を広げられたり、中国の経営を学べたりするだけでなく、MITとのダブルディグリー・プログラムで本格的な経営の勉強もすることができるという環境があったため、会社を辞めて、フルタイムの英語クラスに転籍することにしたのです。
Q.今後の方針は?
9月から約1年間のMITの授業が始まるのですが、まずは6月からハーバード大学のサマースクールに通う予定です。将来的には、私のエンジニア、営業、そしてマネジメントという多様な経験を活かして、調達・生産から販売に至る広範なサプライチェーン管理のプロフェッショナルになって、1950年代以降トヨタ自動車を始めとする日本企業に生産現場の統計的管理手法を指南したW・エドワーズ・デミングのように、中国の品質改善や生産性向上に貢献したいと思っています。
Hitoshi Kono: 1981年鹿児島県出身。 一橋大学経済学部卒業後、2005年に新卒で外資系金融機関に入社、金融派生商品の開発や法人営業を担当し、2010年9月に退社。 世界一周旅行をエンジョイした後、2011年9月より清華大学MBAに入学。 北京では大好きなサーフィンができないけれど、出会いと発見に満ちた中国生活を満喫中。