私はこのウェブサイトで今まで出会った日本人、私の尊敬する先輩、師匠などを書きたいと思う。これは初めてのことだ。筆を執るとなると、どなたから書くべきか迷ってしまう。
今、その強烈な存在感に私がもっとも気持ちをひきつけられているのは、何といっても「フクシマ・フィフティ」だ。50人の勇士の誰一人として名前、年齢、勤める企業名などの情報はない。写真からは、いずれもその個人を識別できない。同じ色の防護服を頭から足までかぶり、大きな防護用マスクを掛け、胸に放射能の量を記録するバッチをつけている。彼らが向き合っている原子力発電所の危機もまた一つだ。
彼らができるだけ速く原発事故を処理しようとしているのは、企業のため、原子力発電所周辺の数千万人の市民のためである。また彼らは、日本周辺の国々に絶対に放射能漏えいの影響を及ぼしてはならないという気持ちで尽力している。
50人のなかには、東京電力、東電工業、導電環境エンジニアリング、東芝、日立製作所の人がいるだろうが、その会社から一人たりともその個人的な名前を知ることはできない。日本のメディアも今のところ報道していない。そもそも初めから名前を伏せていたかのようだ。おそらく事故処理が終わって初めて、彼らの名前が公になるのかもしれない。
原発事故の影響の拡大、今以上の放射能漏えいを防ぐために闘う彼らの無事の帰還を願う。次回日本に行く際にはその中の何人かにぜひ会いたい。
もし中国だったら、勇士とも闘士ともいえる彼らの名前はすでにメディアで報道されているだろう。私たちも彼らに敬意をもって、彼らの思想や仕事の中から閃いた偉大な精神を見つけだし、人々を感動させるような物語を書くだろう。しかし、日本のメディアはそうはしていないようだ。また日本の読者も、ひたすら彼らが安全に注意を払い、無事に帰ってくるのを祈っている。
私のような国外の記者が彼らと会うとすれば、彼らは仕事帰りの酒場でビールを飲んでいる普通のサラリーマンという形で姿を現すかもしれない。特定の分野には詳しいが、日本の重要な国事、世界の変化などについて知っていることはわれわれより少ないかもしれない。ほろ酔いの中で彼らは電車に揺られ帰宅していく。
日本はヒーローが出にくい国になったようだ。首相も草の根出身。官僚を支配するパフォーマンスは少なく、怒った時には朝早く首相官邸から車で東電本社に乗りつけ、大声で企業の上層部を叱る。首相もまた、普通の企業経営者がイライラするときとあまり変わりはない。
東京の街では迷彩服を着て大声で叫ぶようなタイプの人はあまり見かけなくなった。同じような黒い街宣車でいろんな旗をかかげて、そこで演説する人も背広を着ている。政治家の選挙キャンペーンとそう変わらない。
私はこれから、このような社会で暮らす具体的な日本人を書いていくが、第1回はどうしてもこの「匿名」の日本人を書きたかった。ごく普通の日本人は、時代の要請を受ければ身を挺して義務と使命とでその仕事を成し遂げる。義務や使命は名誉、金銭より価値が高い。おそらくそれは匿名の日本人の特徴ではないか。
自然災害に襲われた際の日本人は、他国の人々を驚かせるような冷静さと秩序をもって対処している。このことは、また多くの日本人の「匿名」という特質と大きく関わっているかもしれない。
北京 | 陳言 | 勝又依子(翻訳)
すでに古城三千代さんと連絡を取るすべはなくしてしまっている。わかっているのは、彼女が仙台の若林区に住んでいたということだけだ。今はただただ彼女とご家族の安否が心配でならない。がしかし、新聞を読んでいる時、震災で亡くなった宮城の方々の名前の欄を目にすると、急いで次のページへとめくってしまう。私は、いつの日か紙面を通して、彼女たち一家が元気に暮らしているということを知る時が必ず来ると信じているのだ。
かれこれ30年近く前のことである。私は朝日新聞の論壇に、中国の日本語教育というテーマで原稿を寄せていた。それを読んだ多くの日本人読者が私に手紙を書いてくれた。古城さんもその中の一人で、手紙には、彼女が鹿児島県出身であり、東京で仕事をしていること、中国語が大好きで、機会があればぜひ中国に留学したい、ということが書かれてあった。
その時私は仕事を始めたばかりで、月給はといえば、もしエアメールを送るとなれば10通くらいがせいぜいといった少なさだった。手紙をくれた日本の読者に返信したくとも、できなかった。古城さんの手紙には、私が返信に使えるようにと中国の切手が何枚か同封されており、私はその心遣いにたいそう驚いたものだ。その時私は彼女以外の読者にも返信することができ、うち数名とはその後も長く交流を続けることができた。
そして古城さんが北京にやってきた。中央民族大学で勉強することになったのだ。キャンパスは、ちょうどいいことに私が当時日本語教師として勤めていた学校ととても近かった。初めて会ったその時、私はひと目で彼女だとわかった。なぜなら彼女は自分の写真を、しかもカラー写真を事前に送ってくれていたからだ。その頃中国にもカラー写真はあったけれども、それは写真館の美術スタッフが自分の想像をもとに色付けしたもので、彼女が送ってくれた本物のカラー写真とは違うものだった。だから私の同僚の先生たちは皆そろって彼女のカラー写真を見たがり、私は写真が汚れてしまわないかと心配したものだ。
春節を過ぎたばかり北京の1月はまだ寒さが厳しい。でも古城さんはスカート姿で私に会いに学校に来た。1月の北京でスカートを穿く女性などほとんどいなかったあの頃、バスから降り立つスカート姿の女性が古城さんであることはすぐに分かった。身長は167センチくらいと、けっこう高い方だと思う。写真から出てきたようなその人は、ほんのりといい香りを漂わせ、物言いはごく控えめ、まるで姉を思わせるような女性だった。でも男性の前ではいつも一歩下がるようなところがあった。
古城さんが私の勤める学校に来て、学生たちと日本語について話し合うという機会が何度かあった。私や学生たちが投げかける日本語文法についての質問に対し、どんな風に説明すればよいものかといささか困った様子だった。もちろん彼女は日本語教育について学んだことはなく、したがって日本語文法を深く考えたこともないわけで、我々のような、文法に対して少し生真面目ともいえるような人たちを相手に、うまく答えることは本当に難しかったろう。後になって私が日本に留学し、日本人から中国語文法について質問され、自分もまたうまく答えられずにいた時、その時の彼女の気持ちが更に理解できるような気がしたものだ。
“まず私が読みますから、その後に続いて読んでください” 古城さんに続いて全員が声を揃えて教科書を読んだ。教室には朗読の声が明るく響き渡った。後になって分かったことだが、彼女は東京でしばらく仕事をしていたものの、発音には鹿児島訛りが少なからず残っていた。“実は私、きちんとした標準語は話せないんですよ”と率直に言ったことがあったが、私は私でずっと気にとめていなかったのだ。数年後私は東京に行き、方言とはこういうものか、とやっと理解したのだが、次に再び彼女に会った時には、彼女の発音はかなり標準語に近いものになっていた。彼女は仙台出身の男性と結婚し、苗字が小林となり、2人の子供に恵まれた。彼女に出す手紙の宛名が小林三千代に代わっても、私の心の中では昔と変わらず、中国語での呼び名“Gucheng”のままだった。
十数年前、古城さんとご主人は仙台に引越し、若林区で小さなお店を開いた。きっと女の子が欲しかったのだろう、夫婦には2人の息子に続いて娘が生まれた。嬉しくて仕方がないといった様子で、私のところにも写真を送ってきてくれた。
彼女の年齢を尋ねたことは一度もないが、たぶん私より年上だから、今50代そこそこだろう。日本女性の優しさ、誠実さ、そして温かさは、彼女とのそう多くはない交流を通して私の心に刻まれることとなった。今回の震災で、仙台若林区が津波で非常に大きな被害を受けたことを知り、悲しく、やりきれない気持ちでいる。想い出せば今も、まるで彼女の淡い香りがすぐそこに漂い、鹿児島なまりのその声が耳もとに迫ってくるかのようだ。どうか、どうか彼女とご家族が無事でありますように。心から願う。
大地震の発生から1カ月経った4月11日、林先生は電話でそう言った。ちょうどその日の午後にもマグニチュード7の地震があり、それは余震とは言われているものの、彼にとっては地震と言った方が納得できそうな規模のものだった。中国人の林先生は約20年前から東京に住み、大学で中国語を教えている。
建物が激しく揺れ、家具がガタガタと音を出し始め、自分自身も強い耳鳴りのようなグラつく感覚に襲われた時、林先生はそれが地震なのだと分かった。
我眼中的日本人4 – 林老师在日本的地震与停电中
いつものようにすぐテレビをつけると、すでに地震の規模がアナウンスされていた。マグニチュード7。他の国では数百人、いや数千人の命までもが一瞬にして奪われてしまうかもしれない数字である。しかし彼が耳にしたのは、自分が実際聞いたか、感じただけか、いずれにせよ地震の“ドーン”という音だけだった。地震に驚いて叫ぶ人の声はまったく聞こえてこなかった。
建物からはすぐに人が出てきた。互いに話すでもなく、それぞれが携帯の画面を見ているかメールを打っているだけだった。先生は外に出ていくのが億劫で、窓からその光景を眺めていたのだ。彼の5階の部屋から見渡す限り、日本の一般的な住宅である2階建ての一軒家は特に損傷を受けた様子はない。程なくして、表に出て携帯をいじっていた人々も建物の中に戻って行った。彼らもきっと先生と同様、テレビをつけ、マグニチュード7という数字といくつかの地名を確認すれば、また淡々と、何事もなかったように過ごすのだ。たった今起きた地震について家族と話すことすらしないかもしれない。
“冷静に、あるいは仕方なく、とも言おうか、自然の脅威をただ黙って受け入れるしかない”その日本的な感覚を、先生もまた自身の経験から身に着けていた。人々は自然や政府に対して恨みごとを言うでもなく、ただひたすら耐え忍ぶ。しかしその声なき忍耐の陰には再起への叫びが潜んでいる。先生はその無言の叫びを、耳でなく肌で感じとっていた。
より現実的な問題として先生が向き合わなければならなかったのは、地震そのものよりもその後の停電だった。皆こぞって電池を買いに走り、お店では品切れ・品薄となる。家に電池のストックがあったとしても、売られているのを目にしたら買わずにいられないというような状況だった。
停電すればテレビは見られない。先生はラジオを聞き始めた。夜は枕元に置いた。何度か聞きながら眠りにおちてしまったこともあった。停電が終わって、スイッチを消し忘れていた部屋の照明が突然灯ると、先生は目を覚まし、自分がもう何時間か眠っていたことに気付く。先生のラジオは1時間聞くと自動的にオフになる、タイマー付きのタイプだ。日本では様々なものが周到にデザイン・設計されている。地震や津波、台風や集中豪雨にしばしば襲われる日本だが、普段の生活が便利で快適なのはもちろん、人々は災害時のような非日常であっても尚更、その便利さ快適さを保つために最大限の努力をしている。
中国から日本にやってきた林先生は、今回の大地震という状況下で、初めて2つの国がこんなにも違うものかと、悠久(中国)と刹那(日本)の絶対的な違いに気がついたのだった。そして自分もまた、地震が起きていない時に仕事や暮らしをより充実させるにはどうするべきなのかを考えた。
「停電が終わったので、灯りをつけて学生の提出物に目を通し始めました。その作業をするにはその一つの灯りだけで充分だったので、テレビは消したままにしておきました。とてもはかどりましたよ」
先生はそう言った。
停電に見舞われる以前の日本は、街全体がきらびやかなネオンに彩られ、その光が人の心をも過度に照らし、浮足立たせていた。停電は生活には大きな不便をもたらしたけれども、社会があるべき姿に戻ったのではないか、と先生は考えたのだった。
地震に対する日本人の冷静な対応と、停電という状況下で現れた生活の変化、これらはもう20年あまり日本で暮らす林先生にとって、初めて目にする日本の姿であった。
「どうもどうも!」
脳外科病棟から一般病棟に移った富岡隆夫さんは、私を見るなり顔をほころばせてそう言った。この「どうも」という言葉は、感謝や謝罪、不満なども表すことができる独特な日本語である。
「もう夫は顔を見ても誰か分からなくなってきているし、あまりお話もできないんです。でもあなたのことは分かって、とても嬉しそうです」奥さんは傍でそう言った。
その3 富岡隆夫さん・雑誌編集長 本
富岡さんは数ヶ月前手術を受けるために入院した。手術そのものは成功したのだが、おそらくある期間降圧剤を服用し忘れたためか、その後脳出血を引き起こし、言語障害と半身麻痺が残りベッドの上で生活する日々となった。
今私の目の前にいるのは、あの、毎週箱いっぱいの本を自宅に宅急便で送っていた編集長その人なのか?
富岡さんは病室のテーブルで新聞を1枚1枚めくっていた。その姿は昔私が彼の仕事場を訪れた時と同じだ。ただ、仕事場で新聞をめくっていた彼は、ついさっき私を目にしたときのようなほほ笑んだ表情だった。時には紙面を遠ざけて読んでいたので、私は横で「きっと老眼なのだろう」と思ったものだ。今の彼はというと、機械的にページをめくるだけで、掲載されている写真や見出しについても何も言葉を発しない。私が傍にいることも全く意識していないようだった。「夫はまだ文字を理解できているのかしら?」奥さんはひとり言のように呟いた。
中国よりも日本の雑誌編集長の方が格段にやり手、そんな印象を私は持っていた。富岡さんのデスク前にいる副編集長たちはそれは厳しく、編集者が提出したものに誤字脱字があろうものなら大声でどなりつけた。誤った表現や構成があやふやな文だったら言わずもがなだ。でも富岡さんはといえば、編集部の一番奥のデスクで新聞や本を読んで、ゆったりと構えている様子だった。
編集長としては、政財界はじめ各界の人たちとの面会にとても忙しくしていた。日本の雑誌編集長の多くが自らも筆を執る。通常、巻頭に寄せる言葉は富岡さんによるものだった。それは他のどの記事をも凌駕した、雑誌の方向性をクリアにするようなものである必要があった。彼のデスクには《戦国策》《史記》や、古代・現代小説が山積みされており、彼は古い資料の山からも現代社会に通用する珠玉のエッセンスとなる言葉を探し出しているのではないか、と私は思っていた。
「どうも・・・」富岡さんは頭を悩ませ呟いた。おそらく筆が進んでいないのだろう。しばらくすると、「この中国の作家ですが、私の引用方法は正しいでしょうか」富岡さんは私に尋ねた。彼の原稿用紙は縦書きの、1ページに200マスしかないタイプだった。行間のスペースはたっぷりあり、そこには何度も書き改めた跡が残っていた。私が中国文学に詳しくないことを彼は知っていたはずだが、それでも尋ねてきたのだった。探し出した言葉や引用する故実にピタリとはまる表現を考えだせた、そんな時彼はとても嬉しそうにしていた。副編集長たちはそんな彼の記事に敬服してはいたが、忌憚なく意見を飛びかわすことで表現はますます磨かれていった。編集長の表現が典型となって、編集者や記者がみんな同じような表現をすれば問題ない、というどこかの状況とは違っていたのだ。富岡さん自身も何度も推敲を重ね、文章を練り上げていった。
私が日本の雑誌を手にする度に巻頭の言葉を熱心に読むのは、そこに全精力を傾けている編集長たちの姿が垣間見えるからだろう。しかしこの頃では多くの雑誌で、編集長がそのプレッシャーに耐え切れず、学者や専門家による文章に取って代わられている。だからこそ私は彼の、いち早くテーマを定め、歴史的考察を深め、かつ現代的なセンスを持ち合わせた職業人としての記者精神に敬服してやまないのだ。
富岡隆夫さん・雑誌編集長 春餅
北京で食べる春餅
富岡さんのお宅を訪問させていただいたこともあった。そのとき奥さんは桶に盛ったすし飯と新鮮ないくらを食卓に出してくれた。そのいくらは私が幼いころに口にした肝油と同じくらい大きくて、きらきらと輝いていた。他にしその葉などもあしらわれていたと思う。富岡さんはまず海苔の上に薄めにご飯を、それからいくらをのせた。そしてアイスクリームコーンのような上が太くて下は細い形に巻いてかぶりついた。
私は北京で食べる春餅と同じように、上も下も同じ太さに巻いて、その“日本の手巻き寿司”を食べてみた。「どうも、王さん」と富岡さんは笑いだしたが、特に何を言うでもなかった。それからだいぶ経ってから、私は手巻き寿司とは上が太くて下は細い、ご飯がこぼれないような形にして食べるものということを知り、日本の生活の端々を細かく見てこなかった自分を省みると同時に、富岡さんがなぜあのとき一言教えてくれなかったのか、とも思った。もしかすると彼は中国人が春餅を食べるように手巻き寿司を食べる、それもまたよし、と思ったのかもしれない。
あの日も食後ソファで新聞を広げた。彼の家ではほとんどの一般紙・スポーツ紙を購読していた。私たちは新聞を読んでは語り合い、編集部にいるような、でもいないような雰囲気だった。生活から新聞と雑誌を除いてしまえば何も残らないのでは、とも思えた。話すことも歩くこともままならない今になっても尚、富岡さんは新聞をめくっている。たとえそれが機械的にではあっても。
敬服を帯びた「どうも」、もしくはわずかに不満を抱いた「どうも」、私は彼が新聞をめくりながら一言「どうも」と言ってくれはしまいかとどれだけ願ったろう。しかしその声を聞くことは最後まで叶わなかった。
「また太りました!?」
工藤泰志さんと再会した中国人は口を揃えて言った。
“太った”——。この表現は今の中国では褒め言葉でも何でもない。50過ぎの外国人、とりわけ平均よりも太めの日本人に対し、当人に遠慮なくそう言えるということは、中国メディア界に身を置く彼らと日本の『言論NPO』の理事長を務める工藤さんがどれだけ親しいかを物語っている。
工藤さんには、筆が進まなくなると立て続けにタバコを吸うという、記者にありがちな癖がある。ただ、大多数の男性記者と違うのは、甘いものに目がない、というところだ。デスクにあるお菓子類を食べ尽くしてしまってもなお書けない、そんなとき彼はタバコに手を伸ばし煙の中で原稿と格闘するのだった。
工藤さん
工藤さんが運営する
『東京ー北京フォーラム』は昨年第6回を迎えた
工藤さんが“太った“ことは今回の大地震と少なからず関係している。
「私は青森県出身だから東北人の気質をよく分かっています。東北人は自分がどれだけ切羽詰まっていても、もっと困っている、助けを必要としている人がいると気遣い、救援は自分たちではなく他のもっと辛い状況の人たちに、と目を潤ませて言うのです」
彼は中国の記者たちにそう言った。地震発生後、原稿を書いていないときでもストレスを強く感じ、常に何かを口にせずにはいられなくなった。何を食べているのかを意識することもないまま体重だけが増えていった。
工藤さんのこの特徴を知る人は多くいる。数か月かそれ以上ぶりに再会すると、彼がその期間どんな状態にあったのか、比較的リラックスしていたのか、それともストレスが多かったかを体型の変化から判断できるのだ。ひとまわり肥えた工藤さんが、旅の疲れを滲ませつつ目の前に現れれば、記者たちは彼の地震後のストレスにさらされた日々を容易に想像できるのだった。
工藤さんが東北人について語った時、中国人記者の多くは普通の日本人の姿を思い浮かべた。今回あれだけ大規模な地震と福島原発事故が発生したにもかかわらず、海外に助けを求める日本からの声はほとんど聞こえてこなかった。東京電力はアメリカにも、IAEAや関連組織にも自ら援助を求めなかったので、いったい日本の政府や企業は何を考えているのか!?とまで思わせることとなった。しかし工藤さんの言葉を耳にしたことで、日本人の気質を知り、人に頼らずに自分で困難を克服しようとするその態度に納得すれば、日本に対する敬服の念までもがわき起こってくるのだった。
地震後の2、3週間は、日本国内の援助活動の実施に混乱が見られていた。
「阪神大震災の時と比べて今回は、民間ボランティアの行動が迅速かつ経験豊富で、皆自分用の食料と生活用品を持参した上で被災地に入ろうとしました」
工藤さんはそう言った。しかし多くの救助隊が被災地までの道を阻まれていたうえ、ボランティアの多くもどこに向かえばいいのか分からないといった状況で、災害下でこそ大きな力を発揮すべき『言論NPO』として、全くなすすべを知らず、工藤さんはただ焦りを募らせていた。そして彼は救援の呼びかけをしたり、政治家・官僚や他のNPOと救助対策について話し合う時以外は、甘いものを食べ続けることでその焦燥感から逃れようとしたのだった。
「甘いものばかり食べてはいけませんよ。お茶を飲んでください」
やはり中国メディアに携わる古い友人に勧められ、工藤さんは中国に来て以来積極的にウーロン茶を飲み始めた。
現在彼は、中国の力を借りて共に震災に立ち向かう方法を中国メディア関係者と話し合っている。非常に難しい課題である。第二次大戦後の日中関係はこれまでずっと助ける側(日本)と助けられる側(中国)であり、それが逆となるのは今回が初めてだからだ。言論NPOとしてその解決策を迅速に示さなくてはならない。
活気あふれるその話し合いの場で、彼はウーロン茶を飲み続けている。折よくそこには甘いものが置かれていない。
建設ラッシュの北京
建設ラッシュの北京
当時の東京は、すでに贅沢三昧の時代だった。最先端の現代建築に囲まれ、超一流の料理に舌鼓を打ち、いち早く新商品が手に入る場所、そしてそれを支える極めて勤勉なサラリーマンたち――。東京にはそんな世界の“最上級”が集結しており、それに伴うかのように経済も“沸点”に達しようとしていた。
「家を買うべきですよ!世の中何でも作り出せるけれど、土地だけは増やせませんから」
当時30代前半だったワタナベさんは私に言った。
その頃、私の頭の中では家というものは国からあてがわれるものであり、政府の高官などは広いところ、一般市民はそれなりのところ、農民に至っては自分で建てるものだった。そして日本にはこんなにたくさんの埋立地があるのに、ワタナベさんはなぜ土地は増やせないなどというのか、とても不思議に思ったものだ。
「ハハハ!わかってないですね、君は。埋立地ができたことで地球の面積は増えましたか?」
彼は私に尋ねた。
当然増えてなどいない。大学で法律を学んだ彼はその頃司法試験に向け準備中だった。弁護士資格を得るまでの間、とある事務所で働いていたのだった。法律を学ぶ人は他人とは違う視点を持ち合わせていてごく抽象的な部分からでも物事をはっきりと見通せるものなんだな、と私は思ったものだ。
収入も高くなかったし、司法試験のために相当の精力を傾けなくてはならなかったが、ワタナベさんは当時成功していた若者たちと同様にマンションを買った。東京の閑静な高級住宅街のひとつである目黒区で、ワンルームタイプを二部屋買った。
「東京に出てきて働いているような人に貸せるんです。借り手も探してくれると購入時にディベロッパーが約束してくれました」
ワタナベさんは満足げに話してくれた。彼の住んでいた賃貸マンションから事務所までは1時間半かかっていたが、目黒の部屋からなら30分ほどだった。
一部屋は賃貸にまわし、一部屋は自分用として住む――。ワタナベさんは手堅かった。私の記憶が正しければ、当時30平米未満のその部屋は3000万円くらいだったと思う。彼の10年分の給料に相当する額だ。でも一部屋を貸すことができれば、彼の1カ月分の給料とほぼ同額の賃料が入ってくる。
「日本の不動産価格の上昇局面を加算すれば、遅くとも6、7年で元をとることができるでしょう。不動産価格は毎年二桁ペースで上昇するでしょうから」
日本経済の戦後40年あまりの発展過程を踏まえ、ワタナベさんは結論を出した。
バブル後の東京
4月、古くからの友人の家に孫娘が誕生した。名前は“光”あかり。
一昔前の日本人女性には“光子さん”がたくさんいた。私でもすぐ何人か思い浮かべることができる。たとえば女優の森光子さん、ピアニストの内田光子さん、政治家なら東京都議の西崎光子さん、など。しかし私のその友人は彼女たちの例には習わず、最後に“子”を加えずに“光”と名付けた。
光ちゃんは友人の家に大きな喜びをもたらした。とてもおりこうさんでほとんど泣くことがないとのこと。生まれてまだ1カ月にも満たないから、起きている時間よりも眠っている時間の方が長いわけだが、一度その瞳を見開けば、家族みんなが光ちゃんの周りに集まり、その顔をいくら眺めても飽き足らないといった様子のようだ。
友人は数年前に還暦を迎えている。彼が昔聞いた、父親世代に起きた出来事を私にも話してくれたことがある。
「父は、1945年に終戦を迎え、やっと家の灯りを点せるようになった当時の話をしてくれました。戦争中は空襲があるので家の灯りは厳禁で、戦争が終わってやっと明るくなったと。だから父の世代はみなその明るさがとても幸せなものに感じたのです。彼らにとって光とは家の灯りのことであり、その灯りは平和や幸せの象徴のようにも見えたのでしょう」
一方で、友人自身にとって電気はあって当たり前のものであり、夜の停電なども経験したことがなかった。買い物の際にレジでバーコードを読み取って価格を計算できるのも電気があってこそ、もし電気がなければそんなことさえできなくなる。今の東京について、そんな些細な一場面からも多少のことが見てとれる。もともと値段の駆け引きもなければ、レジの計算を間違えることもない東京での便利な生活、だか一方でそのぜい弱さがここに表れている。停電は、灯りを点せないのはもちろん、エレベータに乗って帰宅することも、交通手段を利用することも不可能にしてしまう。ちょっとした買い物さえ満足にできなくなるのだ。
至るところで蛍光灯が消されたり外されたりし、お店も早々と閉店するようになった。眩しいばかりの不夜城を誇っていた東京は、今はこうしてその姿を薄暗く変えてしまっている。道行く人々は依然として足早だが、その顔には曇りの表情が見え隠れしている。
1868年から1945年の77年間、日本は封建的な後進国から世界の列強に肩を並べるまでになったが、第二次大戦に再び廃墟と化してしまう。そして1945年から2011年の66年間、その三分の二近くの期間をGDP世界第二位という栄誉ある立場にあり続けた日本。今回の大地震と原発事故によって再び陰りの中にあるこの国は、今一度新しい光を追い求め、自分たちがどこに向かうべきなのかを考えなくてはならない。
心の中に点したその灯りで日本の未来を探し求める――友人はそんな希望を孫娘の“光”に託したのだった。光ちゃんの人生はまだ始まったばかり、自分が生まれた数週間前に日本が大地震と原発事故に襲われたこともまだ知らない。しかし今後生きていく中で、友人が父親から第二次大戦後の灯りへの思いを受け継いだのと同様に、友人自身の思いをもきっと繋いでいってくれるだろう。私たちは日本がそう遠くない将来必ず復興すると信じている。そう、涅槃の鳳凰のように。
光ちゃんに託された友人の希望、それはすべての日本人の願いでもあるだろう。
東京中野区に新井薬師という閑静な住宅街がある。車庫付きの低層一戸建てが並び、家々を取り囲む壁にはフラワー ポットが掛けられ、見た目に美しく環境にもやさしい花の壁が出来上がっている。
その新井薬師に“ドットコム”というネットカフェがある。
「5月24日に閉店します。店内のパソコン、テレビや机、そして本棚などは欲しい方に差し上げます。もしご希望のものがございましたらここにお名前を書いてください」
と20代後半のように見える女性の店長は、お店の備品が記されている一冊のノートを取り出しながら言った。東京の若い女性の例にもれずきちんと化粧されたその顔からうかがえる表情は淡々としたものだった。閉店まではあと半月、20数台のパソコンやテレビ、机たちの新しい行き先はまだないようだ。
日本のネットカフェは中国のそれとはだいぶ違う。ここに来ているのはネットゲーム目当ての高校生ではなく、決してパソコンが得意とは言えない中高年の日雇い労働者だ。彼らはパソコンでテレビを見たりしながら時間をやりすごしている。ネットカフェの利用料金は大抵どこの国でも比較的安い。ここでもソフトドリンク付き2時間で500円、高校生のアルバイトの時給の半分程度だ。
ここに来る人は皆スリッパに履き替え、思い思いの姿勢でゆっくり、寝転がったりすることもできる。基本的にはひとりで1ブース、カプセルホテルとさして変わらないそのスペースを利用できる。夜になれば、ホテルには泊まれない懐事情の人たちもやってくる。一晩過ごすのには2000円かかる。ビジネスホテル代の3割ほどだろうか。シャワーはないが、とにかく眠ることができる。住む家のない日雇い労働者の最低限の生活を支えている場所だ。
パソコンにはそれぞれヘッドフォンがつながれており、利用者がパソコンで映画を観ようがチャットしていようがカフェ自体は静かなものである。夏になれば団扇も置かれ、暑ければそれであおぐこともできる。もちろんエアコン完備のその空間自体は利用者が暑がることなどほとんどないのかもしれないが。
「ここで働いて5年になります」
その女性の店長は、まるで自分とは関係ないことを話すかのような口調で言った。夜のシフトは主に男性スタッフが担当するのだが、店長である彼女はやはりお店が気にかかる。このカフェが閉まったらどこで仕事をするのかも悩みの種だ。大地震の後には消費者の購買意欲が一気に減退、街中には特売広告があふれた。新規オープンするお店などほとんどなく、仕事探しは難航するだろう。
ネットカフェを維持していくのはもっと大変だ。いつもならもっと利用客がいたはずであろう夜、今は20あまりあるそのブースの半分以上が空のままだ。客層はというと若者中心で、ここに泊まるというよりはただつぶしのために来ているようだ。私は別の日の昼間にも来たことがあるが、その時お客は一人もいなかった。東京でこの規模の店舗を維持するのは簡単なことではなく、家賃や光熱費だけでも相当の金額だろう。一人あたりの利用客がもたらす利益はほんのわずかだから、客数が減ることは店にとって大きなダメージとなる。
閉店を決めたのはオーナーなのか店長なのか、いずれにせよネットカフェという商売を今後するつもりはないようだ。5年間営業したことでパソコンは減価償却がほぼ完了したが、机などは丁寧に扱われていたのだろう、まだ十分に使える状態だ。でもそれを欲しがる人はいない。
その店は3階建ての2階部分にある。店長は3階に住んでいるのだろうか。2階から3階へと続く階段にはテレビや小型スクリーン、漫画などが置かれている。「ご自由にお持ちください」と書かれた紙がカフェの入り口に貼られているが、今のところ誰かが触れたり持っていったりした様子はないようだ。
茨城県日立市内にある日立製作所の事業所は、3月11日の大地震で大きな被害を受けたが、3月29日にはすでに操業を再開している。
「日立事業所が被災した際、我々はまず従業員を帰宅させ、家の状況や家族の安全の確認をさせました。それから工場の設備や生産ラインの復旧に向けた準備を始めました」
日立製作所の常務、斉藤裕さんはそう言った。
日立市内に勤務する従業員のうち、軽傷者および住居の被害が比較的大きかった従業員が数名いたが、従業員の家族は皆無事だった。会社はまず従業員と家庭の状況を確認して初めて、自社の設備や生産ラインの被害状況を確認することに集中できたとのこと。
「従業員自身の健康や家庭に不安があっては、会社として震災復興、生産復旧に取り組むことはできませんからね」
斉藤さんは重ねて言った。
震源から遠くない日立市が受けた打撃は大きく、設備の修復や生産ラインの復旧には比較的長い時間がかかると思われたが、日立製作所は半月あまりの時間でそれを成し遂げている。
「日立製作所はお客さまに様々な装置を提供する立場にあります。納品した装置に問題があれば、日立の従業員が365日、24時間体制で修理に駆けつけていました。日立の工場が被災してしまった今、我々はこれまで以上に一致団結して立ち向かっているのです」
东京的日常景象-5 斋藤裕的“家、企业与城市”概念 危機管理に対する日ごろの備えと経験が、今回自社の被災復興に生かされている。
震災復興後の斬新な日立市の姿——。操業再開後に日立製作所が考え始めたことだ。日立市はもともと数百年の歴史がある地方都市で、今回の被災で壊滅的とは言わないまでも、かなりのダメージを受けている。
日立市の復興とは、以前の姿に戻すことではなく、全く新しい日立市に生まれ変わること―—。日立製作所はお膝元である日立市の新しい復興計画を立て始めた。
日立製作所の構想は全く新しい『スマートシティ日立』をつくることである。工場がエネルギー消費する際にはITなどのツールを駆使することで効率化を実現、今後数年にむけての一歩進んだ省エネを目指し、外国人や中小企業にも技術提供できるような都市をつくろうとしている。
「エネルギー、交通、水などは、都市とは切り離せないものです。新しい日立市は更なる交通の整備、情報公開、資源の循環利用を実現させるべきです。特に資源利用については、最も効率よい方法を見つけ出せるはずです。それが私たちが考える新しい日立市なのです」
斉藤さんは言った。
家があるから企業がある。企業があるから現代の都市がある。斉藤常務は震災復興後の個人、企業、そして都市の新しい姿を描き始めている。日本には彼と同じような志をもつ人が他にも多くいるだろう。そうした人々の努力の結果、遠くはない将来に全く新しいスマートシティが生まれ、再び世界の注目を集めることを私は信じている。
羽田空港、東京駅、そして新宿の長距離バスターミナルなどでは、リュックサックを背負い被災地に向かう人の姿がよく見られる。彼らは特別な組織やグループに属しているわけではなく、一個人のボランティアとして、困っている被災者の助けになりたいという一心で被災地に赴く。日本におけるボランティア活動は、もはや一種のスタイルとして確立されており、海外からの目には、自らの襟を正させるような尊敬すべきスタイルとして映っているといえるだろう。
日本政府もこうしたボランティア活動に対してさまざまな便宜をはかり、ボランティア活動の広がりを推進している。衆議院議員である辻元清美さんはそうした中で非常に重要な役割を担っている。
大地震発生2日後の 2011年3月13日に、辻元議員は被災地救援活動を行う災害ボランティアをまとめる専門の役職として「内閣総理大臣補佐官」を命じられ、彼女自身も岩手、宮城そして福島の各被災地に赴いている。
救援活動に最も必要とされているものは何か、被災地ではどんなスキルを持つ人が必要か、誰がボランティアをまとめていくのか、ボランティアやNPOと協力すべきはどの部署か―。地震直後はそうした県レベル、市レベルの対応がうまく進んでいなかった。辻元議員は自身の阪神大震災での経験や各NPOと過去に築いた関係を生かし、そして政府としての立場も踏まえ、ボランティア活動の条件を整えていった。
「被災地に赴けば、そこに来ていたほとんどすべてのNPO,NGOに私の知り合いがいました」
辻元議員は言った。
30年前、学生時代に自ら設立したピースボートでの活動をはじめ、さまざまなNPO活動経験を持ち合わせる辻元議員、その世界で彼女を知らない人はいない。彼女のようなNPO専門家が国会議員の中にいれば、政府とそうしたNPO間における情報の共有・伝達もかなり効率がよくなるはずだ。
「地震発生後は多くのボランティアが被災地に駆けつけようとしましたが、まずはそうした多数のボランティアよりも先に、被災地の状況を把握するためのチームを派遣しなくてはなりません。被災地までのルートは各救援部隊と緊急物資を輸送する車しか通れませんから、まずはそうしたチームに特別通行証を発行してもらいました。ガソリンも不足する中で、この通行証があったおかげで途中の給油も優先して受けることができました」
辻元議員は議員会館でそう話してくれた。今回の大規模なボランティア活動による被災地救援は、16年前の阪神大震災とは大きく異なり、政府レベルからのサポートが大きく効力を発揮している。
「海外からもボランティアやNGOが多数来日し、数千人が被災地に赴きました」
辻元議員は言った。欧米人、中国人や台湾人、そして在日中国人なども次々と被災各地に救援の手を差し伸べている。
「救援活動において、そうした外国人ボランティアに最大限力を発揮してもらうためにはどうすればいいのかを考えました」
辻元議員は新しいボランティア活動方式の構想を練った。今回の地震と津波、そして特に福島の原発事故の影響で、日本に旅行を計画していた外国人の多くがその計画をキャンセルしている。
「原発から数百キロの距離にある岩手県や宮城県は、繊細な日本の食文化を誇る風光明媚なところです。ところが今回のことで観光客の客足が突然途絶えてしまいました」
辻元議員はこうした現象に心を痛めている。観光客が来なければ地方経済の回復にはさらなる時間がかかってしまうからだ。
「もし外国人ボランティアを乗せた飛行機が毎週1機やってきて、被災地復興活動を終えた夜には近くの温泉地で温泉と日本料理を、そして帰国前に日本の風景も楽しんで帰っていただければ、被災地の観光業が真っ先に復興するのではないかと思うのです」
彼女は興奮気味に語った。
観光を兼ねて被災地を訪れ、そのうちの1日、がれきの撤去や清掃など、それぞれが自分なりにできることをして帰っていく。そしてその小さな流れが集まって大きな流れになる――
そうしたボランティア活動が一種のスタイル、被災地が復興に向けて動き出すためのひとつのスタイルとなり得るのではないだろうか。
数十年前に多くの若者を率いて諸外国との民間交流を重ねていた辻元議員、彼女は今、さらに多くのボランティアとともにその新しいスタイルを実践している。