第1回 清華大学MBA Linda(女性)27歳 ー アルジェリアが初任地!MBA後は夫連れてパリ?!

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

週末、郊外に出かけたり、コンサートに行ったりするのが大好き。写真は北京の十渡(北京十六景の1つ)にて。

<プロフィール>
1984年四川省宜宾生まれ。父は地方政府機関(中国人民政治协商会议)勤務、母は産婦人科医。リベラルな両親のもと伸び伸びと育つ。上海対外貿易学院(大学)での専攻はビジネスフランス語。卒業後、国営企業からフランス語圏であるアルジェリアの支社に派遣される。2年後、北京に戻りカナダ系企業に転職。2年間勤務ののち退職、2011年秋より清華大学MBAコース(英語)で学ぶ。

 
 
Q.就職していきなりアルジェリアに赴任したんですね?

ええ。現在中国企業はアフリカに積極的に進出していて、私が就職した中国建筑工程总公司もその1社です。インフラ設備の建設をする国営企業です。フランス語の語学力を見込まれ、入社してすぐフランス語圏のアルジェリア支店に赴任しました。プロジェクトマネージャーのアシスタントからスタートし、その後アルジェリア支店の中国人向け社会保障システムの設計を担当しました。ふつう、大企業であれば社会保障システムはHR(人事部)が管理します。しかしアルジェリアは宗主国であるフランスの社会保障システムを「形」だけ導入しおり、法律上の形式と実態が異なる部分も多く、かなり複雑だったため、HRから独立した部署となっていました。この複雑さは中国の比ではありません。
このことに関して興味深い話があります。アルジェリアは、労働者への社会保障が手厚いフランスの制度を過去に積極的に導入してしまったため、例えば働いている人は中国元に換算して月給約1,500元(日本円:18,000円)である一方、働いていない人も国から月1000元が失業保険として支給されていました。だから多くのアルジェリア人は今もって働かないし、政府の財政も悪化する一方なんです。

 
Q.中国企業がアルジェリアでやっていく上で大変だったことは?

特に面倒だったのはやはり監査です。決算を締めた後、監査局の役人がやって来るのですが、大したことでもないのに根掘り葉掘り調べては文句をつけてくるんです。外国企業をコントロールしようとするんですね。とは言っても、現場の役人にとっては賄賂がほしいだけだったりするので、本当に困ったら、最終的に袖の下で解決していました(笑)。

 
 
外資へ転職、そしてMBA。遠恋だった夫と次はパリ?

 
Q.2年で北京に戻っていますね?

実は当時の彼氏、現在の夫が北京で働いていて、さすがに2年以上のアフリカと中国の遠距離恋愛に耐えられなくなり、本社への転勤を願い出ました。
北京に帰国後、中国建筑工程总公司の進出先の外国政府関係者とやり取りをする部署に転籍しました。しかし、アフリカでの仕事に比べ、国営企業の本社で働くのはつまらないことが多い毎日。そんな時にカナダ系環境企業BIOREMが中国市場に新規参入するというので、そちらに転職しました。バイオテクノロジー(汚染物質を食べる特殊な微生物)を使った排ガス対策機器メーカーです。

 
Q.転職先は外資系ですが、国営企業での仕事とはどのように違ったんでしょう?

中国法人の立ち上げから入社したので、最初は10人未満で、それこそプロジェクトマネジメントから経営企画、HR、財務まで多くの業務を担当し、非常に働き甲斐のある毎日でした。
しかし、予算の達成がうまく行かず、本社からカナダ系中国人である上司へのプレッシャーは強まる日々が続きました。というのも、競合である中国企業の類似商品は非常に低価格で、入札ではなかなか勝てません。また、中央政府、地方政府も表面上は「環境保全」を謳っておきながら、与えられた数値目標を、嘘の数値でも本当の数値でもいいから、とりあえず達成したいだけで、環境のことを本当に考えているケースはまだまだ少ないです。そのため、入札に関しても、性能や価格よりも人脈で決まってしまい、結局中国企業が応札してしまうケースが多くなります。

 
Q.資金力の大きくない外国企業が中国で生き残っていく秘訣はありますか?

まずは、中国のビジネス作法を知るべきです。例えば、BIOREMの本社からカナダ人社長が中国企業に挨拶に行った時のこと。夜そのまま飲み会になったのですが、その日の夜は地方政府の役人も出席し、宴会自体はかなり盛り上がりました。翌日、相手方中国企業の担当者も、当社カナダ人社長が非常に満足しただろうと思って質問したところ、カナダ人社長は「仕事の話もほとんどせずに、単なる飲み会だけだったのは時間の無駄だった」と怒っていました。それを聞いて、相手方中国企業担当者も怒ってしまい、結局契約自体がなくなってしまったのです。
この経験から分かること、それは、中国のビジネスは、商品ありきではなく、まず人ありきということなのです。人間関係ができているからこそビジネスが成立するのです。それを忘れてはいけません。
もちろん人脈だけではなく、中国企業と伍していくために、自社の強みを磨きつつ、製造コストの低減に努めることが重要です。この点で言えば、最初は苦労していた前職のカナダ企業も、価格面で中国企業に対抗するためコア技術以外を中国内での調達・生産に切り替えて以降、中国での売り上げが伸び始めました。

 
Qせっかく軌道に乗り出した会社を辞めてMBAを学ぼうと決めたのはなぜでしょう?

確かに小さい会社でしかも外資系だったため、責任も大きくやりがいもありました。しかし、小さな会社だったからこそ、会計、人事管理、また対外交渉等、経営全般に関して体系的に学ぶ機会が少なかったのです。そこで、それらを一から体系的に学ぶためにMBAに進学する決心をしました。

 
Q.今後のキャリアについて教えてください

フランス語の強みを生かすべく、フランスの高級アパレルブランドに興味を持っています。今年9月からHEC ParisのMBAに1年間通う(Dual Degree)ことが決まっているので、フランスのアパレルブランドでマーケティングの仕事を探してみようと思っています。

 
Qダンナさんとは別居婚の予定ですか?

夫とはつき合い始めて約7年目、結婚して約1年半ですが、今まで一度も長期間一緒に暮らしたことがないんです。しかも、現在彼は香港にある投資会社で働いています。一方、私は今年9月からHEC Parisに進学します。そしてそのままフランスで仕事を探す可能性もあります。そうなった場合は、私の仕事(フランス)を優先するか、彼の仕事(香港)を優先するか考えないといけないですね。ただ彼は、私がフランスで仕事を見つけたら、一緒にフランスに移住してフランスで仕事を探すよ!と言ってくれているので、職場を中華圏に限らず、あくまで「やりがい」を軸に仕事を探すつもりです。


第2回 清華大学MBA Mike(男性)29歳 ー 医療業界コンサル、市場制覇の野望

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

クラスでは「Mr.ハンサム」と呼ばれている彼。突然の写真撮影にも関わらず、気さくに応じてくれました。さすがMr.ハンサム!

<プロフィール>
1982年陕西省生まれ。両親は共に政府系公務員。父親が中国有数の美術協会の会長ということもあって、当時としては珍しく、父親は彼に画家になってほしいと望んでいた。しかし、彼は天津大学で薬学を学び、卒業後、医療系コンサルティング会社に就職。その後、3M、ジョンソン&ジョンソンを経て清華大学MBAに入学。今はまだ入学したばかりなので勉学に集中しているが、すでに会計士のクラスメートと一緒に医療系の経営コンサルティング設立の準備を始めている。

 
 
Q.薬学部を卒業したのに、なぜ製薬会社に就職しなかったんですか?

薬学部にいる学生のほとんどはそのまま大学院に進学します。しかし、私はあくまでビジネスに興味があったので、当初は医療・製薬業界で仕事を探そうと思っていました。ところが、調べれば調べるほど、中国における医療・製薬業界で働くことに魅力を失ってしまいました。
まず1つ目の理由は、研究職ではなく、ビジネスの第一線で活躍したかったので、営業職という選択肢が濃厚でした。しかし、中国における医療・製薬業界での営業職は、病院の先生と時には袖の下を使うなりして個人的にも仲良くして製品を買ってもらう、という傾向が根強くあります。当時の私はまだ若かったので、そういう仕事には気が進みませんでした。
2つ目の理由は、私が就職活動をしていた2006年、中国政府による医療・製薬業界への規制が強化されたため、業界が不景気に陥っていました。元来、医療・製薬業界は政府の監督が強い業界ですが、実は当時、製薬業界の監督官庁である国家食品药品监督管理局(SFDA)の局長が汚職の罪で逮捕され、さらに規制が強化されたため、製薬業界の景気が一気に冷え込んでしまったんです。

 
Q.だから、医療系のコンサルティングに就職したんですね。

そうなんです。就職活動をしていた当時、偶然Emergoというアメリカの医療系コンサルティング会社の中国法人社長と出会い、意気投合して入社することに決めました。Emergo中国法人の主なビジネスは1.法律や認可に関する政府当局との折衝に関するコンサルティング 2.中国企業による海外進出、もしくは海外企業による中国進出に関わるコンサルティング 3.HRやマーケティング等の所謂経営コンサルティング です。当時のEmergoは中国にコンサルタントが60名いて、中国国内において、アメリカ系で最大手の医療系コンサルティング会社でした。

 
Q.しかし1年半で転職していますが、やはりコンサルティングの仕事って大変でしたか?

A.いえいえ、非常に充実した日々を過ごしていました。3か月の社内研修と社長によるメンターシッププログラム後、いきなり現場に放り込まれましたが、その3か月後には営業成績第一位を獲得することができました。ちなみに、3か月の研修で約半数の10名の新卒社員がクビになり、さらにその3か月後には会社に残っている人はほとんどいませんでした。あそこまでやれたのは、顧客の幹部にあっても物おじせずに意見を言えること、それと、日本人と違って中国人はしたがらないですが、週末含めた時間外勤務も厭わずに仕事ができること、こういった私の性格が仕事に合っていたからじゃないでしょうか。

 
 
3Mのトップポジション、認可取得で中国企業に勝つ

 
ではなぜ3Mに転職したんですか?

3Mは前職のコンサルティング会社の顧客だったこともあり、社内の雰囲気については事前に多少知っていました。さらに給与が3倍、ポジションも経営幹部を除く中で最も上位のスペシャリストというポジションでのオファーだったので、転職することにしました。また当時から最終的には医療業界でコンサルティングという仕事をやっていきたい、という気持ちがあり、そのためにはFortune 500に名前が載るような会社で実務の経験を積みたいという思いもありました。
3Mでも前職に引き続き、中华人民共和国卫生部(MOH)や国家食品药品监督管理局(SFDA)といった当局との許認可に関する折衝に関する仕事をしました。
特に印象に残っているのは、「N97」という工業用マスクについてです。中国ではSARSや鳥インフルエンザの脅威が時々報じられますが、2008年にも鳥インフルエンザの脅威が伝えられました。「N97」はウイルスの飛沫感染対策に有効ということで売り出そうとしていたのですが、当局からの認可に時間を要していました。そこで、私を含め数人でプロジェクトチームを組み、今までのネットワークをフル活用して、5か月で認可を得ることができたのです。もちろん、政府もウイルス性の病気に対して対策を急いでいたこともありますが、中国企業が同種の商品の認可に2年もかかっていたことからすると、驚くべき短時間での認可でした。その甲斐あって、ウイルス対策マスクとしてほぼ独占状態、売上、利益率とも過去には類を見ないものとなりました。
順調にキャリアを積んでいましたが、最終的には医療業界のコンサルティングをやりたかったこと、そのためにファイナンスや会計等の知識が不足していたこと、上司や同僚にMBAをとっている人がいて、彼らから学ぶことが本当に多く、自分もMBAを取得したかったこともあり、清華大学のMBAを受験し、見事に合格することができました。

 
Q.あれ?たしか3Mと清華大学MBAの間にジョンソン&ジョンソンで働いていましたよね?

そうなんです。清華大学MBAの入学まで1年間あったので、その期間に3Mを辞めてジョンソン&ジョンソンで働いていました。3Mはどちらかと言うとイノベーションを重視する会社ですが、ジョンソン&ジョンソンはマーケットシェアを重視する会社なので、どのように中国で売り上げを伸ばしているかに興味があり、1年間だけ働いてみることにしたんです。入ってみて、この会社はやり方がうまいな、と思わされました。彼らは病院の先生が必要としているモノを、上手く提供することでシェアを伸ばしています。何だと思いますか?それは勉強の機会です。高学歴の中国人が憧れるアメリカの大学院への留学を斡旋したり、逆にアメリカから中国に有名な教授を招いて授業を行ったりしているのです。アメリカの会社ならではの機転の利いたやり方ですし、正攻法で中国人のハートをつかむ上手な方法だと感心しました。

 
Q.最後に今後について教えてください。

現在クラスメートの会計士と一緒に医療系コンサルティング会社を設立する準備をしています。現在中国は高齢化も急速に進展していて、医療・製薬業界全体の底上げに対する政府のバックアップも増加しており、まさにこれからが勝負という時代になりつつあります。ちょっと詳しいことをお話しすることはできませんが、私の経験とネットワークを活かして、許認可プロセスを中心としたコンサルティングから始めようと思っています。


第3回 清華大学MBA Patrick(男性)31歳 ー 就活に失敗!?外資系への転職で給与2倍に

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

パッと見は「IT系」の風貌ですが、実は話好きで、笑顔が素敵なナイスガイ!テスト期間中に2回もインタビューしたのに、その度に快く引き受けてくれました。

<プロフィール>
1981年陕西省生まれ。父親は地方政府、母親は中国建設銀行で働いていたが、現在は定年を迎え、悠々自適の生活を送っている。また8つ離れた弟も中国建設銀行で働いている。学生時代は物理が得意科目で、大学の専攻は情報工学。インタビュー中には奥様の話がチラホラ。更に奥様から何度か電話もあり、結婚5年目を迎えても色あせないその夫婦愛には脱帽!

 
 
Q.2003年に卒業したということは、ITバブル崩壊直後に就職活動をしたのですね?

その通りです。ITバブルのおかげで就職は楽勝だろうと思っていた私は、明らかに準備不足でした。当然ながら、同級生に人気のあった中国移動といった大手国有通信企業はことごとく不合格。
最終的には先輩のコネで民航数据通信有限责任公司(Aviation Data Communication Corporation)という会社に入社しました。航空業界に関わるほぼ全ての情報処理システムを独占的に扱う国有企業です。従業員200名程度の小さな国有企業だったので、初任給はたったの3000元(約4万円)!それでもこの会社を選んだ理由は、北京市の戸籍(户口)を優先的にもらえるからです。私の場合、入社前から手続きを始めてもらったので、入社2か月後には北京市の戸籍を得ることができました。
北京市の戸籍は2つの意味で重要です。1つ目は私自身に関することで、例えば北京市で社会保障や年金を受けられたり、北京市で自家用車と自宅を購入できるようなったりします。2つ目は子供の教育に関することで、北京市内の公立学校に通えるようになります。もし北京市の戸籍がない場合は、学費の高い私立学校、もしくは無認可の学校に通うしかないのです。

 
Q.小規模な国有企業では新入社員研修があるのでしょうか?

正直言って研修らしい研修はありませんでした。会社と業界全体の説明、簡単なビジネスマナー研修を1週間受けて、いきなりプロジェクトに配属されました。
そのプロジェクトとは、北京首都国際空港の管制システムの開発です。各空港には管制空域というのが定められていて、「どの航空機が、いつ、どこからどこへ侵入する」という情報を管理する必要があります。驚くべきことに、当時の北京空港ではこれを「手書き」で行っていました。この管理システム作成は会社にとっても私にとっても初めてのプロジェクトでしたが、配属された3人で協力し、スムーズに完成させることができました。その後も、多数のプロジェクトに配属されましたが、軌道に乗るにつれて上司がそれを自分の手柄にしようとして、順調なシステムに対して自分の不必要なアイデアを取り入れろ、と強要してくるようになったのです。

 
Q.結果を出しているのに、給与が低く人間関係もややこしい。それはモチベーションが下がりますね。

それだけではありません。この会社は航空システムの独占企業だったため、競争がなく、業務の効率性を高めたり、最新のシステムを導入したりすることに後ろ向きでした。また、国有企業であったため、日本の会社と同じで(笑)、昇進も昇給も遅いのが実態です。
最終的には2005年には離着陸を管理するシステムの開発プロジェクトに配属されましたが、それが終了する直前に、2年間勤めたこの会社を辞めることにしたのです。
上述のような理由で退職したので、実力と実績で昇進昇級が決まるフランス系のエアバスに転職しました。同じくアメリカ系のボーイングという選択肢もありましたが、第一にエアバスのオファーは役職こそ変わらないものの、給与は前職比で約2倍の月給7000元(約9万円)。さらにボーイングは企業体質が古く、当時使っていた技術もアナログの要素が多い一方、エアバスは比較的若い会社で、最新の技術を積極的に導入していました。

 
Q.エアバスに入社後、どのような仕事をしていたのでしょうか?

2011年までエンジニア向けのテクニカルサポートやトレーニングシステムの管理をしていました。優秀な同僚が多かったので、自分が成長できる環境だと感じていましたが、満足できない部分もありました。それは駐在員と現地採用された中国人の給与格差です。例えば、本社から派遣されていた駐在員の給与は、同じ仕事をしても私の3倍から4倍。また、本社から出張で来ていたあるシニアエンジニアは1日4時間しか働いていなかったのに日給1000ユーロ(約11万円)だと言っていました。出張なので特別手当が出ていたのだと思いますが、私は彼の2倍働いても給与は10分の1以下。私は中国で現地採用されたので、彼らのような給与をもらえる可能性は低い。このような状況に納得がいかないのは、みなさんにも理解してもらえるのではないでしょうか。

 
Q.外資系企業で、中国人と外国人(駐在員)の能力はそんなに差がないのに、給与に大きな差があって、中国人が大きな不満を抱える・・・日系企業で聞かれる問題と同じですね。だから心機一転、清華大学のMBAを目指したのですね?

直接のきっかけは違います。2年前、社内でオペレーションマネージメントに関するグローバル研修があったのですが、そこでプロジェクトマネージャーを任されました。プロジェクトの成功には多様な国籍やバックグラウンドを持つエアバスの社員を束ねていく必要がありましたが、マネージャー経験が初めてだった私は、異なる意見の取りまとめに相当な時間を費やしてしまいました。最終的にプロジェクト自体は成功したのですが、その時の経験を踏まえて、経営の勉強を一からやってみたいと思ったのです。

 
Q.卒業後の進路は何を優先しますか?

月給4万元(約50万円)以上という給与水準です!・・・というのは冗談で、もちろん長期的なキャリア形成を重視しています。あえて選択肢の幅を狭めず、航空業界に戻ったり、インターンシップ先の投資会社でソフトウェアや航空関連業界の投資に携わったり、ソフトウェアの知識と経験を活かして起業したり、ということも念頭に置きながら将来のことを考えたいと思っています。


第4回 清華大学MBA Lina(女性)27歳 ー 「国内組」のエリート、外資系投資銀行を渡り歩く

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

その愛嬌のある笑顔からは想像もつかない程、授業中のコメントは鋭く的を得ている。2011年春北京郊外にて。

<プロフィール>
1985年宁夏回族自治区银川市生まれの一人娘で、両親とも電力網の管理を行う国家电网に勤務。大学受験に必須の「中国高考」(全国統一大学入試)で「状元」(統一大学入試の実施区画ごとの成績最優秀者)を獲得し、北京大学光华管理学院へ。外資系投資銀行、英国大使館勤務を経て、清華大学MBAに入学。興味のある授業しか出席していないのに、成績は抜群に優秀で、次学期からはイエール大学に交換留学予定。

 
 
Q.中国人の成績優秀者の多くは海外留学を目指しますが、Linaは長期で海外留学したことがありますか?

実は長期で海外留学をした経験はないんです。しかし今までで留学するチャンスはありました。例えば、北京大学の入学予定者は、中国本土で香港大学の入学試験を受験する資格が与えられ、一部の入学予定者は香港大学に進学するケースがあります。ところが、当時の私はその情報を知らず、香港行きのチャンスを逃してしまいました。ただし、合格して香港大学に進学したかと言われれば、そうでもないですね。これは今だから言えることかもしれませんが、中国本土にいても外資系企業で働ける機会は存分にありますし、中国での人脈を広げることもできます。なにより北京大学で夫と出会うことができました。

 
Q.それにしてもLinaはネイティブ並みに英語が上手ですよね。それはなぜですか?

最大の理由は、中学生のときの恩師にあります。親の薦めで英語の塾に通っていたのですが、その先生の英語学習法は、英文を読んで録音し、先生と一緒に発音チェックをして、また録音する、という作業をひたすら繰り返すものでした。さらにアメリカの最新の話題や考え方を授業の教材として使っていたため、当時の私にとって非常に新鮮で刺激的な内容でした。
更に、大学生の時に2度短期留学を経験しています。1度目はカナダに3か月間留学。2度目は日本に留学し、九州大学の教授のご自宅で2か月間ホームステイさせていただきました。だから日本の文化や人々を心から尊敬しています。留学中は、学部の授業はそっちのけで、午前中は日本語の勉強、午後は茶道などの習い事をしたり、農場に行って農業を手伝ったりと充実した日々を過ごしていました。特に思い出に残っていることは3つ。1つ目は、近所で共産党が選挙活動をしていて、中国以外でいまだに共産党が存在していることに驚いたこと。2つ目は、東京を訪れた際に地震に遭い、日本は地震国であることを身をもって体験したこと。そして、長崎市の原爆資料館を訪れ、日本人の戦争体験を知ったことです。

 
 
入社早々、学生気分が吹き飛ぶ社内政治を体験

 
Q.就職活動では、得意の英語を活かせる職場を探したのですか?

英語というよりは、専攻が金融論だったため、金融機関を全般的に探し、オランダ系金融グループ・ABNアムロの投資銀行部門から内定を得、2007年7月に上海オフィスに入社しました。
1年目は、4つの部署を3か月ずつデスクローテーションしました。RM(大手顧客担当営業部)、GM(市場取引部)、Transaction Brokerage(大手顧客銀行取引部)、Rep Desk(投資銀行部)の順に配属されました。特に印象に残っているのは、最初のRM部で社内政治に巻き込まれたことです。学生気分が一気に吹き飛びました。英語を流暢に話せること、金融の知識があったこと、そして、睡眠以外は夜中も週末も仕事に励んだので、部署のマネージャーに非常に良くしてもらいました。彼女から社会人としてのイロハを学び、出張にも同行させてもらい、そして某大手保険会社IPO(株式公開)のデューデリジェンス(企業価値算定)を任せてもらうことになりました。しかし、その保険会社の案件とは別に、同部署の先輩から、今後も明らかに取引がないと思われる別の会社の調査を依頼され、そちらに相当な時間を取られてしまいました。後から判明したのですが、その調査は先輩がマネージャーの許可もなく勝手に命令してきたもので、実は某保険会社IPOの案件の足を引っ張るための罠だったのです。
2年目はM&AやIPOを扱う部署で、ある中国企業の香港上場を手伝っていましたが、5か月後にABNアムロの経営危機により上海オフィスは閉鎖になり、従業員は一部を除き全員解雇されることになりました。私は他のオフィスに異動する選択肢もあったのですが、当時モルガンスタンレー上海オフィスに勤務していた彼(北京大学の同期、現在の夫)が北京にある政府系最大手の投資ファンドに転職することになっていたので、北京で仕事を探すことにしました。
2009年3月より働き始めた北京の英国大使館では商務庁(Office of Government Commerce)のデスクに配属され、イギリス企業が中国展開する際の支援や中国政府に対するロビー活動を行っていました。英国大使館というと非常に洗練されたイメージがありますが、ここでも政治的な駆け引きがあり苦労も多かったです。

 
Q.なぜ清華大学MBAに入学したのでしょうか?

結婚を機に2011年5月に大使館を退職したとき、ファイナンスの世界に戻るためにMBAで経営やファイナンスを勉強し直そうと決意しました。
「なぜアメリカのMBAに行かなかったのか?」という質問をよく受けるのですが、答えは簡単です。特にファイナンスの分野では今後10年の変化の多くはアジア、特に中国で起こると思っています。そんな時に2年超もアメリカに行ったらせっかくの機会を逃してしまうかもしれないじゃないですか!更に清華大学に進学することで、北京大学のネットワークに加え、清華大学のネットワークも得ることができます。

 
Q.今後のキャリアプランを教えてもらえますか?

ある米系投資銀行の香港オフィスから夏期インターンシップのオファーをもらっているので、ファイナンスの世界に戻るきっかけにできればと考えています。もし香港で働くことになれば、夫も別の米系投資銀行の香港オフィスからオファーをもらっているので、夫婦とも香港で働くことができて、それはそれでラッキーです!
しかし、ファイナンスの世界は変化が激しいので、夫婦一緒に暮らすことにはこだわらず、まずはキャリアを優先して仕事を探そうと夫とは約束しています。
ただし、いずれにせよ最終的には中国本土でファイナンスの仕事をするつもりです。金融に関する規制が緩和された時に、経験を活かしてチャンスをつかむ。これが私のキャリアプランです。


第5回 清華大学MBA Shawn(男性)28歳 ー 大手国有企業の最年少副部長、将来は「カイゼン」のプロに

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

いたずら好きなクラスのムードメーカー!2010年内モンゴル自治区の海拉尔にて。

<プロフィール>
1983年江苏省太仓市生まれ。1人息子で、父親は元陸軍所属、現在は税務局勤務。母親は会計事務所勤務。上海のトップ校である上海交通大学電気工学部を卒業後、上海电气を経て清華大学MBAに入学。今夏よりマサチューセッツ工科大学(MIT)とのダブルディグリー・プログラム(2年間で清華大学とMITの2つの学位を取得するプログラム)のためアメリカに出発予定。

 
 
Q.名門MITとのダブルディグリー・プログラムに合格した秘訣は?

一番の決め手は、国内電機最大手の国有企業、上海电气での経験をアピールできたことだと思います。入社直後の1年半は、ディーゼルエンジンの組み立て工場でオペレーション管理をしました。トヨタ方式を重点的に学びラインの効率化に努めましたが、導入するのがなかなか難しく、一筋縄ではいきませんでした。というのも、中国の工場労働者の多くは農工民(農村からの出稼ぎ労働者)で、所得も低く、教育もまともに受けたことがありません。そのため、自分たちに与えられた最低限の仕事しかやろうとしませんし、中長期的な視点がないため、組み立てラインの改善案をなかなか理解してくれないのです。入社間もない私には実務経験がなかったため、とても苦労しました。

 
Q.日本企業が中国で工業労働者の管理に苦労している話は よく聞きますが、同じように中国の方も苦労しているのですね。

そうですね。中国人同士でも育った環境の異なる人に考え方を理解してもらうのは骨が折れます。ところが、現場での苦労が絶えない中、2008年にディーゼルエンジン部門が自動車大手の上海汽车集团に買収されることが決まりました。私は新会社に移るか、上海电气に戻るか選ぶことができたので、上海电气に戻ることにしました。ディーゼルエンジン部門では苦い経験が多く、上海电气に戻れば設立されたばかりの風力部門にいくことができたからです。

 
Q.風力部門での仕事はどうでしたか?

設立されたばかりで人数も少なく、また安全管理や「カイゼン」の仕組みも整っていませんでした。そこで、ディーゼルエンジン工場での経験を活かして、自主的に安全管理や生産性向上に関する「カイゼン」レポートを役員会に提出しました。そんな折、作業員が風力発電機の設置の際にセーフティベルトを着けずに作業をし、発電機から転落し死亡するという事故が発生してしまいました。これは、安全管理に関するマニュアルがなかったために起こってしまった事故です。このような背景も相まって私の書いたレポートが風力部門の总经理(社長)の目に留まり、当時最も強化が必要であった営業部門に副部长(副部長)として転籍することになったのです。

 
 
部長の励ましに泣いた日

 
Q.25歳で副部長に昇進、しかも経験のない営業とマネジメントですか?

そうなんです。営業マンとしては、国有企業の電力最大手である华能,华电,大唐等を担当し、私自身が技術畑出身だったこともあり、顧客には非常に重宝されました。しかし、副部長としては、私より年上の部下が多く、どのように接してよいか困惑していました。ある時、年上の部下の営業成績が悪く営業報告も時間通りに出さなかったので、問い詰めるような態度で話し合っていたところ、その部下が急に大声で私を罵り始めたのです。この口論はオフィス中に響き渡り、当時の部長が飛んできて仲裁に入ってくれました。厳しく叱責されると思っていたのですが、「人生は長く厳しいから、そんなに慌てなくても良いよ。」という意外な言葉をかけてもらい、ここだけの話ですが、思わず泣いてしまいました。このときの部長の言葉は、私の営業マン、マネージャーとしての原点です。
その後、部下の扱いには徐々に慣れてきてきたのですが、一方で高圧的な副总经理(営業統轄役員)には苦労させられました。熱血営業タイプであることはよいのですが、突然、週末に8時間に及ぶ営業報告会を始めたのです。最初は営業統轄役員の思いつきでその日のテーマを決め、方向性もないままダラダラ議論をする週末が続きました。多くの不満が寄せられたのですが、一党独裁体制の中国では、国有企業では上司の考えに反対するというのは自分の立場を著しく危うくする行為です。そこで、報告会自体を廃止するのではなく、会議の効率化を提案しました。事前に議題を決め情報収集と資料作りをする、時間を区切る、そして会議の進行役を私がするなど、「カイゼン」をしたことで、2時間以内に収まるようになりました。また、上司も部下も納得して会議に参加するようになったことで、次第に営業部全体の成績向上に大きく寄与する会議となってきます。風力発電事業に対する政府支援もあって、売上は副部長に就任した2008年の約7000万元(約8億4000万円)に対し、2011年は40億元(約480億円)と、4年間で約60倍という伸びを記録することができました。

 
Q.なぜ清華大学MBAに入学しようと思ったのですか?

工場の組み立てラインでオペレーション管理を、更に副部長としてマネジメントを経験し、それらをMBAで体系的に学び直したいという気持ちがありました。実は清華大学を受験した際は、パートタイムMBA(働きながら夜間と週末に通うMBA)で合格したのですが、フルタイムだと清華大学で人脈を広げられたり、中国の経営を学べたりするだけでなく、MITとのダブルディグリー・プログラムで本格的な経営の勉強もすることができるという環境があったため、会社を辞めて、フルタイムの英語クラスに転籍することにしたのです。

 
Q.今後の方針は?

9月から約1年間のMITの授業が始まるのですが、まずは6月からハーバード大学のサマースクールに通う予定です。将来的には、私のエンジニア、営業、そしてマネジメントという多様な経験を活かして、調達・生産から販売に至る広範なサプライチェーン管理のプロフェッショナルになって、1950年代以降トヨタ自動車を始めとする日本企業に生産現場の統計的管理手法を指南したW・エドワーズ・デミングのように、中国の品質改善や生産性向上に貢献したいと思っています。


第6回 清華大学MBA Crystal(女性)26歳 ー 清華高→清華大→清華大MBA→MIT→清華大教授!?

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

近々、彼氏の両親に挨拶に行くらしく、そちらも「合格」間近。公私ともに順調なCrystalを教室にて直撃撮影。

<プロフィール>
1986年辽宁省葫芦岛市に一人娘として生まれる。父親は元海軍の连长(中隊長)で現在は北京市平谷区にある町の镇长(町長)、母親は会計事務所に勤務。清華大学附属高校、清華大学会計学科卒業後、4大会計事務所の一つ、アーンスト・アンド・ヤングを経て、清華大学MBAに入学。今夏よりマサチューセッツ工科大学(MIT)とのダブルディグリー・プログラム(2年間で清華大学とMITの2つの学位を取得するプログラム)のためアメリカに出発予定。

 
 
 
 
Q. 1学期目の成績はダントツでNo.1(100点満点中、全科目平均98点)でしたね。小さい頃から頑張り屋だったの?

昔から学校で一番の成績を取ると、両親が私の大好きな串焼き屋に連れて行ってくれて、おかげで勉強に対するモチベーションを保つことができ、成績も常にクラスで1、2番でした。清華大学入学後は勉強だけでなく、演劇部の活動に熱中したり、大学3年生の時はシドニー大学に留学したりと、学生生活を謳歌しました。しかし、私が所属した会計学科は1学年51人いたのですが、最終的な成績は不本意ながら17位。また、修士課程に進学することが内定していたのですが、海外留学中に別の同級生にそのポストを横取りされてしまいました。更に海外留学のため、就活にとっても最も重要であるインターンシップの機会を逃し、投資銀行に就職するという希望もかなわず、一方で私より成績が悪い人でも投資銀行に進む人が多くいて、悔しい思いをしました。そこで清華大学MBAでは少しでもよい成績を取って、将来のキャリアにつなげたいと思い、課外活動も行いながら、勉強に注力しています。

 
Q.なぜ新卒時に会計士事務所に勤めようと決めたのですか?

専攻が会計学科だったのとため、また他の職種より給与がよかったため、第二希望の業界であった会計士事務所のアーンスト・アンド・ヤングに就職しました。恥ずかしながら、大学で会計学科に進んだ理由はちょっと不純で、高校生の時に清華大学の大学生との交流会が頻繁に行われていて、進路の相談をしていた清華大学生から「今、最も人気のある学部は、情報工学、自動車、電子工学、そして経済管理学院の4つ。しかし、最初の3つの学部は、それこそ朝から夜まで勉強漬けで寝る暇もないから、経済管理学院がお勧め。更にその中に、金融学科、経済学科、情報経済学科、会計学科があって、金融学科は数学がかなり得意でないと厳しいから、2番目に人気のある会計学科が君にはピッタリだよ!」とアドバイスをされ、母親も会計士事務所で働いていて馴染みもあったので、会計学科に進むことにしました。

 
Q.会計士資格(CICPA)はいつ取得したのですか?

就職後2年目に取得しました。新入社員の多くはCICPAを保有していないので、働きながら取得を目指すことになります。新卒が入社する7月は、中間決算(6月末)が終わったばかりで、業界全体がちょうど閑散期に入る時期です。この時期には勤務時間中の勉強や有給休暇の消化が奨励され、多くの新入社員がこの時期に勉強をします。
しかし、私は閑散期にも関わらず色々な部署に顔を出して、コピー取りなどの雑用からから書類作成まで労をいとわずに行っていました。そのおかげで、多くのマネージャーと知り合いになることができ、後に様々なプロジェクトに採用してもらえることにもつながりました。

 
 
解雇の嵐を乗り越え、アーンスト・アンド・ヤング中国のトップ社員に

 
Q.新卒1年目は主にどんなプロジェクトに参加していたのですか?

私は製造・運輸系企業を担当するグループに所属していて、その中でも国際部、つまり中国企業の国外子会社、もしくは外資系企業の中国子会社の会計処理を担当する部署にいました。最初はSavcorというNokiaの部品会社の中国子会社の会計処理を担当するチームに加わり、銀行取引確認書のチェックや、簡単な監査を行いました。5人の小さなチームでしたが、当時のリーダー(女性)は今でも社会人として尊敬する人物です。通常、中国の会社では結果さえ出していれば、勤務態度を厳しく問われることはありません。しかし、彼女は職場での私用電話や私用インターネット閲覧を固く禁じ、信賞必罰という方針が明確で、部下に対しては積極的にフィードバックをしてくれました。皆からとても尊敬されていた彼女ですが、金融危機のあおりで、2009年に解雇されてしまいました。この年、私のグループは約200人中80人が解雇されるという悲惨な状況で、彼女のように仕事ができてもCICPAを保有していない人は解雇されたのです。
2年目は、上記の通り多くの人が解雇されたため、いくつかのプロジェクトで私しか詳細を熟知していないという状況になり、逆に有利な仕事環境になりました。上述のSavcorの中国子会社に関しても、私はリーダーではなかったのですが、私が最も会社について熟知し、且つ人間関係もすでに出来上がっていたため、私が顧客との対応窓口になり、実質的にはチームを主導する役割を担いました。また、天津荣程联合钢铁集团という大手鉄鋼会社の国外子会社の会計処理は退職時までチームリーダーとして担当し、その後も多くのプロジェクトでリーダーを務めることになりました。
3年目には上記の荣程联合钢铁のプロジェクトで必要だったオーストラリアの会計士試験にも合格し、約60人いた同期の中、最速でシニア・アカウンタントに昇進しました。またアーンスト・アンド・ヤング中国(台湾、香港、マカオ含む)全社員の1%しか選ばれないトップパフォーマー賞を受賞し、給与も同じポジションの同僚より30%上乗せしてもらえました。

 
Q.順風満帆な社会人生活に見えますが、なぜ清華大学MBAに進学したのですか?

一つ目の理由は、リーダーを任されるようになって出張が多くなり、年の半分は北京以外で過ごし体調を崩しがちになったため、二つ目は、婚約者との時間をもっと大切にしたいと思ったためです。MBAに進学した理由は、憧れの諸葛孔明のように、分析的に物事を考えられる戦略立案者になりたいと思い、官僚、コンサルタント、もしくは大学教授を目指していたためです。しかし、最近重慶市で起こった事件(重慶市委書記だった薄熙来がすべての職務を停止された事件)を垣間見て、政治の世界は何が起こるか分からないということを感じました。今は、清華大学の教授になることを目指していて、そのためにはアメリカでの教授経験が必要になるので、今夏からMITに留学している1年の間に、まずは博士課程進学を目指して一生懸命勉強しようと思っています。


第7回 清華大学MBA Leon(男性)26歳 ー ビジネス界の「太子党」、人脈をフル活用して起業準備中

2016年9月11日 / 清華大MBAリアルトーク

日本のマンガ「スラムダンク」の影響でバスケットが大好きというLeon。いつもクールで、クラスでもNo.1のオシャレさんです!

<プロフィール>
1985年北京市生まれの一人っ子。父親は時価総額中国No.5(2012年5月22日現在)の中国石油化工(シノペック)の華北地区(中国北部)副社長、母親は北京市某区の副区長。中国No.1高校との呼び声が高い北京师范大学附属实验中学(高校に相当)卒業後、北京邮电大学、中国电信(チャイナ・テレコム)を経て、清華大学MBAに入学。今夏よりマサチューセッツ工科大学(MIT)とのダブルディグリー・プログラム(2年間で清華大学とMITの2つの学位を取得するプログラム)のためアメリカに出発予定。

 
 

Q. Leonはオシャレで自然体、どちらかと言うと外国人に近い雰囲気ですよね。どういう学生時代を過ごしたのですか?

一般的に中国の中学生、高校生は課外活動もせず、ひたすら勉強をするのですが、私の場合は遊びまわっていて、中学生の時には両親から途中でより厳しい学校に編入させられる程でした。高校では名門の北京师范大学附属实验中学に入学しましたが、高校の場所が金融街や官庁に近い西单という場所にあり、且つ中国のトップ校であったため、同級生の多くは政治家や富裕層の子弟(中国語:太子党、富二代)でした。中国では「富二代」というと、努力もせず、親の七光りで社会的な地位が高いために嫉妬や批判の対象になりがちです。しかし、少なくとも私の同級生は非常に勉強熱心で、多くの友人が海外の大学に進学し、現在では官僚になったり、起業したり、投資銀行やコンサル業界で働いていたりと様々な業界で活躍しています。高校の同級生はいまだに最も重要な友人たちであり、中国国内だけでなく世界中に華人ネットワークをもっていることは自分の強みの一つだと思います。

 
Q. 中国社会では人脈が大事だと聞きますが、学生時代から意識的に人脈をつくるものなんですか?

私は特に意識していました。例えば、高校生の頃からインターネットビジネスに興味があったため、北京邮电大学の信息管理学部(情報経営学部)に入学、大学では学級委員長になったり、学生会に入会しスポーツや社会活動(ボランティアやインターネットビジネス勉強会)等を企画したりして、自分自身の成長と人脈づくりに努めました。
また大学4年の2007年1月から、就職前提に就活の第一希望だった中国电信(チャイナ・テレコム、中国最大の固定通信会社)の北京オフィスでインターンシップをする機会を得ることができたのですが、ここでは両親と友人の人脈を駆使して、自分が希望する法人営業部への配属と、給与水準も初任給150,000元/年(当時の日本円で約225万円。尚、大卒初任給の北京市における平均は約36,000元/年)という破格の待遇を得ることができました。

 
 
Youku(优酷)、Tudou(土豆)、CCTV!中国有数のコンテンツ企業を顧客に

 
Q. なぜ法人営業部を希望していたのですか?

2007年当時、中国のインターネット業界は発展期にあり、特に動画共有サイトが急速に人気を集めていました。一般的に動画共有サイトが使用する通信量は非常に大きいため、それに応じて十分な帯域幅(通信などに用いる周波数の範囲)を確保する必要性があります。私が就職した中国电信はその帯域幅の使用権を持つ最大の国有企業であり、インターネット業界では強い影響力を持っています。そのため中国电信の法人営業部は大手インターネット事業者の社長や役員に直接アプローチできる格好の部署だったわけです。

 
Q.具体的にどのような会社を担当しましたか?

インターンシップ開始後、3か月間のOJT(オン・ザ・ジョブ・トレイニング)を経て、動画共有サイト向けの法人営業部に配属され、最初から動画共有サイトの最大手であるYouku(优酷)を担当しました。彼らのビジネスモデルはアメリカのYoutubeと同じで、採算度返しでもいいからまずは視聴者数を増やすという戦略で、基本的には赤字体質です。そのため値引きの要求をされることが多いのですが、一方で、「国家の資産を安売りしてはいけない」という政府方針があり、結局は直接的な値引きの代わりに付随する製品やサービスを格安で提供することで顧客の要求に応えていましたが、その板挟みで悩まされることも多くありました。

 
Q.担当先は1社だけだったのですか?

Youku以外の顧客は新規開拓する必要がありました。UGC(ユーザーによって作られたコンテンツ)最大手の一つであるKu6.com(酷6网)は北京に本社機能があり入社1年目に新規契約を獲得できました。しかし、他の多くの新興系インターネット企業は上海や広州に本社があり、基本的に華南(中国南部)は中国联通(2008年に帯域幅を保有する中国网通を買収)が圧倒的シェアを誇っています。更に、社内の上海オフィスや広州オフィスとも新規顧客の奪い合いをしていました。そこで友人や担当先の役員の紹介で、当時すでに動画共有サイトの最大手の一つに成長しつつあったTudou(土豆)にアプローチし、それこそ接待から、付加サービスの一部無料化、通信品質の保証までを提供することで、競合である中国联通から契約を奪い取ることに成功。その後も人脈を駆使してTOM.COM、S6.cn(顺六中国网)、iQIYI.com(爱奇艺)といったインターネット系から、CCTVといった大手テレビ局まで、多くの顧客を獲得することに成功しました。

 
Q.なぜ清華大学MBAに入学したのですか?

近い将来に中国国内で起業を考えていて、中国电信で働いてきた約4年半の経験を体系的に学び直したかったのと、特にファイナンスや会計など知識的に不足している部分を補いたかったため、2011年8月に中国电信を退職、その翌月に清華大学MBAに入学しました。最初は起業の準備をしながらMBAの勉強をしてようと思っていたので、パートタイムMBAに入る予定でしたが、入学直前に、IT分野で有名なMITに入学するチャンスのあるIMBAに変更しました。卒業後は、前職での社内人脈や顧客ネットワークを活かして、中国电信から帯域幅の使用権を買い取り、それを小口化して、起業したばかりのインターネット系ベンチャー企業に販売する会社を始める予定です。