第一回 私の人生を変えた留学

2016年6月21日 / 留学のすゝめ

「留学」は私の人生に大きな変化を与えました。

1995年、大学3年生の夏休み。大学主催の「海外事情研修」で行った深圳大学での約一カ月の短期留学が、人生の大きなターニング・ポイントとなりました。

当時の深圳といえば、1992年の鄧小平「南方講話」を受け沸きに沸いている時期。

ベンツやBMWといった名だたる高級車がクラクションを鳴らしながらひしめき合っている公道。当時『大哥大』と呼ばれていた大きな携帯電話を片手に 大声で「何か」を喋っている若者。その横で必死に物乞いをするホームレスの子供たち。九州熊本で育った田舎っ子の目に映る「新世界」はとても刺激的で魅力 的でした。

「なんだここは…。す…すごすぎる!この国をもっと知りたい!!」

これが私と中国の出会いです。一目ぼれと言ってもいいかもしれません。

深圳での短期留学を終えた私は首都北京での長期留学を決意します。短期留学中に全く喋れず悔しい思いをした中国語の勉強を本格的に開始、それと同時 に留学の手続きを独自で進めました。学校のカリキュラムに大学4年での留学は当然無く、休学留学という選択肢しか残っていません。そのため、国際交流セン ターの先生が個人的に手伝ってくれる以外は、大学は基本的にノータッチ。自分自身で資料請求や申込み全てを行う必要があったのです。

当時はインターネットが無く情報はほぼ皆無に等しい状態。しかも電子メールが無いので中国とのやり取りは全て手紙です。大学の図書館で留学指南本を 借りて、『尊敬的外事办老师,您好!……』と何が書いてあるか意味も分からない中国語を丸写し、数校に資料請求をしました。今では随分改善されています が、95年当時の中国の郵便サービスは整っておらず、頻繁に紛失事故が起きていました。その時も、10校近くの大学に資料請求したのですが、実際に返事が 来たのは4校でした。

その数校の中から選んだ大学は「北京商学院(現北京工商大学)」。地元のタクシー運転手も知らないような小さな大学です。そこを選んだ最大の理由 は、日本人がほとんどいないこと。「北京大学」や「北京語言学院(現北京語言大学)」は素晴らしい語学カリキュラムがある反面、日本人も数多くいました。 「日本語を極力喋らない中国語漬けの環境」こそが、私にとって最大の魅力だったのです。

このようにして始まった留学生活。まさか累計9年間(!)も続くとは夢にも思いませんでした。

1996年9月から1997年8月までを「北京商学院」で、2002年9月から2010年7月までを現在の職場でもある「対外経済貿易大学」で留学生として過ごしました。

このBillion Beatsでは、私がこれまでの約9年間の留学生活で出会った中国人や外国人留学生、異国の生活の中で実際に見たことや感じたことを綴っていきたいと思います。


第ニ回 壁

2016年8月9日 / 留学のすゝめ

(写真)90年代の庶民の足『面的』

1996年8月から始まった長いながい留学生活。最初にぶつかった壁。それはやはり言葉の壁でした。

深圳での短期留学後、一年間必死で中国語の勉強に励みました。今と違い条件は限られてはいましたが、大学の授業、市民講座、家庭教師など利用可能なリソースは全て使い、中国語に触れない日は一日もありませんでした。それでも言葉の壁は高かった。

一人で降り立った北京首都国際空港。当然迎えなどありません。人だかりのタクシー乗り場はまるで戦場。なんとかタクシーに乗り込んだのですが、ここで「最初の壁」の登場です。擦り切れるまで繰り返し聞いたカセットテープの標準的な中国語と人間が話す生きた中国語のギャップは想像を遥かに超えていました。タクシー運転手が話す『儿化』の効いたこてこて北京語、内容の半分も理解できませんでした。

「次の壁」は更に高いものでした。1956年に制定された『普通话』と呼ばれる中国語の標準語は、「北京発音を標準に、北京方言で使用される単語を基礎とし、模範となる現代の口語小説を文法の手本とする言語」とされています。つまり、タクシーの運転手が話していた北京語と標準語はいわば兄弟、比較的聞き取りやすい中国語の範疇に入ります。

その北京語よりも強敵の「次の壁」とは、地方出身者の訛りの強い中国語でした。タクシーに揺られ何とか学校にたどり着きましたが、時間はすでに21時を回っており、事務所は開いていません。仕方なく直接宿舎に向かったのですが、そのフロントのお兄さんの訛りの強さと言ったら……結局ほとんど聞き取れないまま部屋に案内されました。

食堂にも「壁」が聳え立っていました。当時はコンビニなど全くなく、ファストフードのお店もほとんどありませんでした。結局学内外にある食堂やレストランに行くしかないわけです。その時代には電子辞書という便利なものは存在しません。分厚い辞書を片手に一人で食堂に通い、メニューと辞書をにらめっこ。当時のメニューには写真などありませんし、しかも中華料理の多くが、字面からは何なのか想像できないのです。

『宫保鸡丁』?「お宮を保護する?はぁ?鶏が?」

『鱼香肉丝』?「魚と肉か?何の香り?」

結局知っている食べ物と言えば『炒饭(チャーハン)』くらい。毎日毎日メニューと辞書をにらめっこしては、最後に注文するのはいつもチャーハン。そんな私を不憫に思ってくれたのか、ついに食堂のお姉さんが声をかけてくれました。これが美味しいよ、と勧めてくれたのが

『西红柿炒鸡蛋』

「美味い!!鶏卵とトマトを炒めているだけなのに!」

お腹も心も満たされ、とってもご満悦の私。この『炒饭』+『西红柿炒鸡蛋』セットが数日続いたのは言うまでもありませんね。


第三回 負けず嫌い

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)今は無き『北京商学院』の校舎

私が留学先に選んだ「北京商学院」は地元の人もあまり知らないような小さな大学です。留学生数も少なく、「初級」、「中級」、「上級」、「最上級」の4クラスしかありませんでした。

私は1年間みっちり勉強し、ある程度の自信がありましたので、「上級」からスタートし、一年間で「最上級」の修了を決意します。

意気込んで臨んだ初授業は、郗老師の『综合汉语』。その日の出来事を今でも忘れることができません。授業も終盤を迎えそろそろ教科書を片付けようかとしているその刹那、郗老師がみんなの前で私に向かって質問してきました。

『你听懂了百分之多少?』

郗老師が喋る中国語はとてもきれいな『普通话』です。こてこての北京語や地方出身者の訛った中国語のような「壁」とは違います。留学準備期間に毎日のようにカセットテープを聞き、ヒアリングの勉強を繰り返してきた私ですが、さすがに短期間では「耳」は慣れませんでした。

「え?は?あ?う?」

聞き取れていない私が返答できずに狼狽していると、私より半年早く中国に来てすでに「中国語耳」ができていた唯一の日本人クラスメイトの耳打ちが後ろの席から聞こえてくるではありませんか。

「先生は『何パーセント聞き取れた?』って言ってるよ」

その時の悔しさ、情けなさといったらとても言葉で表現することができません。この瞬間です、私の「負けず嫌い」に火がついたのは。家庭教師、相互学習等、授業以外で一日平均7時間勉強の日々が始まったのはこの直後の事でした。

この猛勉強が奏功し留学後3ヶ月足らずでHSK6級を獲得することができたのです。気をよくした私は、更に上を目指し、帰国までにHSK8級(中級最上級)取得の目標を立て、モチベーションを高めるためクラスメイトに宣言しました。それを聞いた韓国人クラスメイトから、

「俺は2年も北京にいてやっと7級なんだよ。1年で8級なんてとても無理だね」

と、鼻で笑われました。

あぁ、火をつけてくれてありがとう。

一旦燃え上がった「負けず嫌い」の炎はとどまることを知らず、瞬く間に広がりをみせました。半年で7級取得、そして8か月でついに8級に合格したのです。

「負けず嫌い」というものは度が過ぎたり、表に出しすぎたりすると、周囲の人間に嫌悪感を与えてしまいます。しかし、それを巧みにコントロールし自己のモチベーション向上にうまく利用できれば、爆発的なエネルギーとなって背中を押してくれるのです。


第四回 老師(1)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)今でも大切に保管している1996年の香山紅葉

「北京商学院」留学期間中、多くの先生方にお世話になりました。不慣れな異国での生活を強いられる留学生にとって、勉強だけでなく、生活面でもバックアップしてくださる中国人の先生方は本当にありがたい存在です。多くの先生の中でも、特にお世話になった先生が2人います。その先生方とは今でもお付き合いがあり、定期的にお宅を訪問しています。

一人目は、『听和说(ヒヤリング・スピーキング)』、『阅读(リーディング)』担当の杜老師です。女性の先生で、当時50歳前後だったと思います。すでに定年退職され、旅行と写真を趣味に、晩年を悠々自適に過ごされています。

杜老師はもともと学部生に「中国文学」や「作文」を教える副教授。プロの中国語の先生です。忙しい授業の合間をぬって、留学生の授業も兼任されていました。

とても真面目な杜老師は、教科書の内容をただ教えるだけではなく、中国語の歌の練習なども授業に取り入れ、留学生の興味を引き出そうと試行錯誤されていました。

走走走走走啊走、走到九月九♪
 
授業中に教えていただいた『九月九的酒』は15年経った今でもはっきりと覚えています。
 
1996年12月のクリスマスの時期、北京では珍しく雪が降りました。大雪だったことに加え、前日クリスマスパーティで大騒ぎしていた他の留学生は全員欠席。結局、唯一出席していた私と杜老師の一対一の授業となりました。その時何気なく話した、父が病気で入院していたため母が女手一つで育ててくれたという生い立ちや家族の事、私の将来の目標に心を動かされたようで、それ以降は生活面でも実の息子のように可愛がってくれました。

1997年11月には、私の事をテーマに書かれた杜老師の散文『我的东洋弟子』が、北京郵電大学出版社から出版された散文集に掲載されています。プレゼントしていただき読んだのですが、風邪をひいても休むことなく授業に出席し続けた私のことや、植物人間となった夫のために20年以上休むことなく看病に行く私の母のことが書かれていました。私もとても感動し、すぐに全文を日本語訳し母に郵送しました。

一年間の留学生活を終え、帰国を間近に控えた1997年7月3日。杜老師が私のために、「誕生パーティ+送別会」を開催してくれました。杜老師宅に十数名の先生方が集結、テーブルに乗りきれないほどの手作り料理は私のお腹と心を満たし、とても幸せな気分になったのを覚えています。

帰国後も春節には毎年電話をかけ新年のあいさつをしました。2002年の北京再訪の際に真っ先に会いに行ったのも杜老師です。

杜老師からいただいた香山の紅葉は、今でも私のアルバムに大切にしまってあります。


第五回 老師(2)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)蒋老師宅の『年夜饭』

お世話になった先生のもう一人は、当時『外事办公室』で事務を担当されていた蒋老師です(中国では事務職員も「老師」と呼ぶんですね)。この方も女性で、当時40歳過ぎくらいでしょうか。

蒋老師はとても優しい世話好きな方です。「北京商学院」時代もすごくお世話になったのですが、2002年9月からの「対外経済貿易大学」での再留学以降、さらに密なお付き合いをさせていただいています。

蒋老師には私より10歳年下のひとり息子がいます。名前を崔くんといいます。中国では、結婚後も女性の名字が変わらないので、息子の名字が違うんですね。崔くんは映画やパソコンゲームが大好きで、よく私を家に招いては映画上映会や遊び方の「指導」をしてくれました。

「これは興行収入全米No.1の映画さ」

「敵が来たらライフルで打つんだよ」

笑顔の素敵な彼は当時20歳、毎日のように部屋にこもって“オタク的生活”を送っていたようです。

その彼も、素敵な女性に出会い2012年5月に結婚。北京の地下鉄沿線に購入した1LDKが愛の巣となっています。また、北京では、2011年1月からナンバープレートの抽選発行方式を導入し、一カ月に2万台、年間24万台に新車登録台数を抑える政策がとられていますが、最近幸運にも当選した彼は早速MAZDA6を買ったようです。持ち家+マイカー、典型的な『小康家庭(ゆとりある家庭)』を築き、幸せに満ちた甘い生活を送っています。

蒋老師家族はよく色んなところに遊びに連れて行ってくれました。中でも思い出深いのは2008年に開催された北京オリンピック。わざわざチケットを手配してくれ、陸上や水球などを一緒に観に行きました。男子200m決勝。ジャマイカ代表のウサイン・ボルト選手の世界新記録「19.30秒」を、ゴール前という最高のロケーションで目の当たりにし、興奮したことも昨日の事のように覚えています。

家族を重んじる中国人にとって、春節は一家団欒の極めて重要なイベントです。『年夜饭』と呼ばれる大晦日の晩ご飯を家族全員で食べるのが慣わし。この『年夜饭』は一般的に鶏や魚などを食べるのですが、その料理は地方によって異なります。南方では一年が甘くなるようにと甘いものを食べる習慣があるらしく、湖南省出身の蒋老師のお宅では『八宝饭』と呼ばれる甘いご飯を食べるそうです。

食後は日本の紅白歌合戦に相当するテレビ番組『春节联欢晚会』を鑑賞しながら一家団欒を楽しみます。

「大晦日に何も予定がないんだったら家に遊びに来て下さいね。『年夜饭』を一緒に食べましょう」

蒋老師は、一人での年越しは可哀そうだと、毎年私を家に招待してくれました。私の事を家族の一員として見てくれているのです。

家族のようにお付き合いしてくれる中国人老師やその家族たち。私の一生の宝物です。


第六回 室友

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)黄くんと見に行った、緑色の花びらを咲かせる桜(北京玉淵潭公園)

「北京商学院」に来て約3か月、「中国語耳」もある程度でき、授業にも何とかついていけるようになりました。

そんなある日、授業が終わって『综合汉语』の郗老師とおしゃべりしている時の事。何気に言った先生の一言が、重くのしかかります。

「西村君は、多くの単語を知ってて文法もとても素晴らしい。ただ、口語の表現力が乏しいね。」

ビンゴ!

毎日7時間の勉強のほとんどが、授業の予習復習、テレビやラジオでの「中国語耳」育成に費やされており、「おしゃべり」の練習が極めて疎かになっていたのです。家庭教師や相互学習もしていましたが、一週間に2回、一回2時間程度。焼け石に水状態です。

せっかく中国に来ているのに、日本でできるような勉強ばかりしていてはダメだ。

そうです。教科書の勉強なんて日本でもできます。中国のラジオやテレビもお金を払えば、日本でも受信可能。日本人が少ないからと言って選んだはずの名もなき大学のはずなのに……

あぁ。なんともったいない事をしていたのでしょう。

中国留学の醍醐味はより多くの中国人と接して、言葉だけではなく、彼らの良い所を余すことなく吸収する事。何事も忌憚なく話せる同世代の友達が欲しい!しかし、どうやって中国人の友達を見つければいいのでしょうか。

プランA:「歩いている学生を捕まえて「友達になってください」っていう。
⇒うーん、変態と間違われるかも?

プランB:「中国人の彼女を作る」
⇒どうやって?中国人の友達に紹介してもらう?その友達がいないのに……?

色んな案が出ては消えていきます。そして、最終的に私が選んだ方法は、

中国人の友達がたくさんいる留学生とルームメイトになる

でした。外国人が中国語を習うクラス(語学班)ではなく、中国人学生と一緒に授業を受けている本科生(学部生)は中国人友達が多いはず、と考えました。しかも、中国語のレベルも格段に高いはずなので、口語の勉強にもうってつけです。

当時、「北京商学院」には数名の本科留学生がいました。私が選んだのは、その中でも断トツの実力を持っているインドネシア系華裔、黄くん。その時一緒に住んでいた彼のルームメイトもちょうど出ていくことになり、残りの半年を黄くんと暮らすことになったのです。

この作戦が大当たり!寮は十数畳ほどのワンルームにベッドが二つ並べてある部屋なので、日々顔を合わせておしゃべりするし、何より中国人の友達が多いのなんの。毎日のように中国人学生が部屋に遊びに来るのです。彼を通じて知り合った中国人の友達は十数人に上りました。

その中にいました。一生付き合っていける生涯の知己!彼との物語は後日ゆっくりさせていただきます。


第七回 知己(1)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)1997年の北京商学院サッカー部

私には生涯の知己と呼べる中国人の親友が3人います。その一人が、「北京商学院」にルームメイトの黄くんを通じて知り合った天津人、盛くんです。

彼は毎日の様に私の宿舎に遊びに来ては一緒に勉強し、食事を共にし、時には杯を酌み交わし合いました。

午前中の授業が終わると宿舎に集合。学食に行って昼ご飯を食べたら、午後から勉強。私は漢語班、彼は本科生。勉強している内容は全く違いましたが、ほぼ毎日自習室に通って一緒に勉強していました。晩御飯でよく食べに行った学校近くの『肉饼(中華風牛肉包み焼き)』は今でも語り草になっています。

私と盛くんには共通の趣味がありました。サッカーです。私は彼の誘いで大学のサッカー部に入部する事になりました。実は、授業が忙しかったので、あまり乗り気ではありませんでした。しかし、単なる気晴らし程度にしか考えていなかったこのサッカー部への入部こそが、私の口語能力向上に絶大な影響を与えることになります。

小学校二年から始め今現在も続けているサッカーは私の特技。学校に部活動などが無い環境で育ったチームメイトとのレベルの差は歴然としていました。当時の中国人監督は私の技術を認め、私を「選手兼コーチ」に抜擢、中国人にサッカーを教える事になったのです。練習中における技術トレーニングは然る事ながら、毎週水曜日の夜に開いていたミーティングでは戦術面までレクチャーする羽目に。

「中盤で相手の選手にボールを奪われたら……」
「オフサイドトラップのかけ方は……」

私はサッカーの専門用語を勉強し、知っている知識のすべてを正確に伝えるよう必死でした。そのサポートをしてくれたのがやはり盛くんでした。サッカー用語を一つ一つ紙に書いてくれ、時には身振り手振りで説明してくれました。チームは強くはなりませんでしたが、私の口語能力は随分鍛えられたものです。

私の帰国後、盛くんとは手紙で連絡を取り続けました。彼からの手紙や同封してくれた卒業写真は、今でもアルバムに大切に保管してあります。大学卒業後一旦就職した彼は、2001年10月よりドイツに留学。2002年9月に北京再訪した私とはちょうど入れ違いになってしまい、残念ながら再会することはできませんでした。

彼と別れて12年後の2009年3月20日、ついに運命の再会(!)を果たします。8年間一度も帰国しなかった彼ですが、実家天津にどうしても帰らなければならなくなり、その際にわざわざ私に会いに北京まで来てくれたのです。

12年という歳月を経たにもかかわらず、まるでいつも顔を合わせているかのようななんとも自然な感覚。その日は、大学時代によく飲んだ「燕京ビール」を酌み交わしながら、語り尽きない思い出話に花を咲かせました。

1997年7月1日、一緒に天安門に行き、共に祝った香港返還。50周年記念も一緒に!と約束しています。


第八回 知己(2)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)裴くんの結婚式会場

裴くんと初めて出会ったのは、2004年1月。別の場所で知り合った中国人友人の誕生日会の席でした。

当時、彼は某大学の教師でしたが、その後その学校を離れ博士課程へ。医学博士取得後、今では別の大学で副教授となっています。

彼の実家は私の宿舎の近所で、よく家に遊びに行ってはお母さんが作ってくれた料理を食べ、食後にみんなでマージャンをしました。

2006年1月に結婚した、裴くん。その晴れ舞台で、彼は私を『伴郎(新郎の介添え)』に選んでくれました。日本人ではなかなかできない貴重な体験です。せっかくなので、ここでその一部を簡単に紹介します。

結婚式前夜、彼の家に泊まり準備。翌朝、朝食を終え新郎の両親に挨拶したら、装飾を施したリムジン(!)に乗り新婦を実家まで迎えに行きます。新婦の実家では親せきや『伴娘(新婦の介添え)』が待機しており、わざと無理難題を言って家に入れさせません。ちなみにその時は、

「五か国語で『愛してる』を言え」

というものでした。その難関を突破した後は新婦の両親に挨拶し、再びリムジンに乗り込み式場へと向かいます。

北京の結婚式はホテルやレストランで行うのが一般的です。食事はもちろん中華料理で、8人~10人用の円卓にはお酒やタバコ、ヒマワリの種などが並べられています。当日飛び込み参加する人もいるようで、余分に2テーブルほど準備しておいたそうです。なお、新郎新婦や来賓の挨拶、指輪の交換などが1時間ほど続き儀式は終了、食事が運ばれその場で宴会が始まります。

その後新郎新婦は『伴郎』『伴娘』を従え大名行列。全てのテーブルを回り、参加者一人一人に『喜酒(酒)』『喜糖(飴)』、『喜烟(タバコ)』をふるまい、出席者はその場で『红包(祝儀)』を本人に手渡しします。

なお、終了時間は決まっておらず、祝儀を渡したら自由解散となります。裴くんの結婚式の際も、全てのテーブルを回り、気が付いたら半分以上がいなくなっていました。

裴くんとは何度か旅行に行ったことがあります。その中で最も思い出深いのが2008年7月~8月に行った新疆ウイグル自治区。北部のウルムチから入り、トルファンを経て南部へ。南部ではカシュガル、ホータンを回りました。

2008年8月と言えばオリンピックの時期。新疆では厳戒態勢が敷かれていました。ホータンからウルムチへは24時間かけて高速バスで帰ったのですが、その間の検問の数なんと10回。夜中でも平気でたたき起こされ身分証明書をチェックされました。その時です。事件が起こったのは。

「数日剃らなかったヒゲ+九州生まれの濃い顔」が災いし、現地人と間違われてしまいまったのです。パスポートをみせて説明しても

「偽物じゃないのか?日本人はそんなに中国語は話せないはずだ」

の一点張り。最終的には、私が持っていた大学の学生証をみせて何とか信じてもらえました。偽物が出回っているパスポートよりも、大学の学生証の方が役に立つのには閉口しました。それにしてもウイグル人って、トルコ系の顔してるんですけど、それと間違われる私って……

家族ぐるみのお付き合いをしている知己、裴くん。その時の話は今でも笑い話として語り継がれています。


第九回 知己(3)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)三十路のバースデー『烤全羊』

酒逢知己千杯少
これは「知己と飲む酒は千杯でも足りない」と言う意味を表す中国のことわざです。この言葉を教えてくれたのが、互いを「兄弟」と呼び合う知己、郭くん。

彼との出会いは、2度目の留学で北京を再訪した直後の2002年10月。当時日本語を勉強していた郭くんとそのクラスメイト達が企画した「香山紅葉鑑賞ピクニック」に参加したのがきっかけでした。

お互い肌があったのか、あっという間に意気投合、毎週のように遊びに行くようになります。

彼は小さい頃から北京の胡同で育ったこてこての北京人。現在、私がしゃべる中国語は『京腔(北京なまり)』だとよく言われますが、彼から受けた影響が大きいのでしょう。また、言葉だけではなく北京の風習についても色々と体験させてくれました。

大晦日の夜は郭くんを中心とした仲間たちと集まります。以前も書きましたが、私の場合、蒋老師の家で『年夜饭』を食べ、その後、彼らと合流するのがいつものパターンとなりました。春節期間中に『庙会(春節期間中お寺などで開かれる縁日)』にもよく一緒に行きました。また、北京では長年禁止されてきた花火・爆竹ですが、2006年から時間限定で解禁されました。この時も真っ先に声をかけてくれたのが郭くんでした。

彼とはよく旅行に行きました。印象深いのは、2004年7月に行った河北省苟各庄。北京から片道7元の汽車に乗り約3時間、シャワーもない一泊10元の民宿に3日間泊まりました。その日は奇しくも私の三十路の誕生日。バースデーケーキ代わりに食べた羊の丸焼きの味は今でも忘れられません。




(写真)チベットの『ナムツォ(納木錯)』


2007年5月、開通して間もない青蔵鉄道に48時間乗りチベットへ向かいました。標高世界一の塩水湖「ナムツォ(納木錯)」は今まで見た中でも最高級の景色、チベット族の貧しい子供や老人たちとも交流し、人生観を変えるような素晴らしい経験をすることができました。

また、私が中国人のコミュニケーション能力、交渉能力を垣間見たのもこの時です。我々一行は6人で、列車の一部屋のベッド数も6つ。しかし、旅行会社を通じて買った帰りのチケットは全員がバラバラという状況でした。日本人だったら、仕方がないと諦めてしまいそうですが、彼らは違います。同じ車両の旅客に片っ端から話しかけ、一人旅の旅行者を見つけだしてはベッドの交代を依頼、わずか10分足らずでバラバラだった6人を一つの部屋にまとめ上げました。なんとも心強い!

彼とはよく私の部屋で盃を交わし、夜遅くまで語り合いました。家族の話や恋人の話、友人に裏切られた話など、何でも私に喋ってくれました。泣きながら相談を受けた事もあります。

「ここまで分かり合え、何でも話せる友人は中国人でもなかなかいない。」

彼がよく口にする言葉です。実は最初のことわざは続きがあります。

话不投机半句多(話が合わねば半句も多し)

話の合わない人、口も利きたくないような人というのは同じ国籍でも数多くいます。そのような中、異国の地で心から分かり合える知己と出会えるというのは本当に幸せな事です。


第十回 留学生の友人

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)2009年の優勝メンバー

留学中に仲良くなる友達は中国人だけではありません。いえ、語学クラスの授業に出席するのは留学生だけですので、一般的には他国の留学生と仲良くなる人の方がずっと多いでしょう。私も例に漏れず、世界各国の友人ができました。

「北京商学院」時代では、なんといっても半年間ほぼ毎日寝食を共にしたルームメイト、インドネシアの黄くん。あの半年間における中国語の飛躍的な向上は、彼なしにはあり得ませんでしたし、パソコンのブラインドタッチを教えてくれたのも彼でした。

8年間の「対外経済貿易大学」時代では、数えきれないほどの友人ができました。それもそのはず、この大学には世界約130カ国から3000人近くの留学生が一堂に会しており、「ミニ国連」の様相を呈しています。留学生総数100人に満たない当時の北京商学院とは比較にならないスケールです。

「対外経済貿易大学」で最初に仲良くなった留学生は、韓国人本科生(学部生)の朴くんでした。彼とは、一緒に食事したり、スポーツをしたり、また北京郊外まで植樹にも行きました。中国で一番多い留学生は韓国人。その後も多くの韓国人留学生と知り合いましたが、気が合って仲良くなったのは不思議と彼だけでした。

アメリカ人のCarrieさんとは相互学習をしました。中国語学習のために他の言語を完全に忘れ去っていましたが、大学院入学前に英語のレベルアップが必要となり、偶然知り合った彼女と相互学習をすることになったのです。彼女が英語を、私は中国語を相手に教えました。日本人が母語ではない中国語を教えるのも変ですが、彼女曰く、

「外国語として習ったことのない中国人より、中国語を基礎から勉強したハイレベルの外人に習った方がわかりやすい」

とのこと。その時すでにHSK11級を持っていたので、きっとそれが魅力的だったのかもしれません。

小学校二年から始め今現在も続けているサッカーがここでも大活躍。2006年から2009年までの4年間、全ての留学生が所属する「国際学院」サッカーチームのキャプテンを務めました。サウジアラビアのAzizくん、イタリアのAlexくん、ベトナムのAshengくん、タイのTitくん、ラオスのJunchengくん等々、多くの素晴らしいチームメイトに恵まれ、学内大会で4年連続の優勝を達成しました。

大学院時代は、タイ、インドネシア、アメリカ、カメルーン、アルジェリア、アゼルバイジャンなど世界各国から、修士・博士学位を求めて集まった多くの留学生クラスメイトとも親睦を深めました。

海外留学の魅力は語学力の向上だけではありません。異なる国から来ている学生を通じて、今まで知らなかった新しい世界に触れることができます。また、世界各国の留学生との交流は、グローバル人材に必要な国際的素養や感覚を養うと同時に、国際的コミュニケーション能力の養成・向上に資するでしょう。

各分野のグローバル化が急速に進む中、まさしく今日本で求められている人材です。

海外留学は最高の自己投資だと思います。