習近平政権が発足して以降、徹底して進めているのが「反腐敗」運動だ。
上はかつての最高指導部の面々から、下は市や村のレベルの役人まで、新聞やテレビでは、連日のように幹部たちの失脚のニュースが流れている。
処分を受けた党員の数は、2015年だけでおよそ3万4000人。
というわけで、たいていの失脚のニュースには驚かなくなっているのだが、移動中の車の中で知ったこのニュースには、久々に驚いた。
スマホの速報ニュースの画面には、こう書かれていたのだ。
「国家統計局長の王保安が、厳重な規律違反の疑いで、現在組織的な調査を受けている」
なんと、失脚したのはGDP(国内総生産)などの重要統計を担当する国家統計局長で、しかも、数時間前まで、目の前にいた人物ではないか…
突然の失脚劇の日付は1月26日だった。
その1週間前、1月19日に王局長によって発表された2015年のGDP成長率は、6.9%と、7%を割り込み、天安門事件の影響を受けた1990年以来の低水準となった。これまで世界経済を引っ張ってきた中国の成長に「かげり」が見え始めたとして、世界各国のメディアは大きく取り上げたが、それが王局長には気に入らなかったのかもしれない。GDPを発表したわずか一週間後に、メディア向けの記者会見をもう一度開くと言ってきたのだ。
午後3時から統計局の会議室で開かれた会見では、王局長は終始上機嫌だった。会見開始前には、メディアのテーブルを回って一人一人と握手をし、会見中は中国経済について、大演説を繰り広げた。習近平国家主席の言葉を引用し、様々な政策について語る王局長の姿をみて、「統計局長なのに、まるで首相気取りだなあ」と思ったのが、いまでも記憶に残っている。会見後も、報道陣のぶら下がり取材を気さくに受けていたが、取り巻きに促されて部屋を出て行った。その際の一言は、意味深にもこんな言葉だった。
「これから会議があるので、私はもう行きます」
失脚が発表されたのは、それからわずか2時間後のことである。
統計局長の失脚の理由は、まだ明らかになっていない。ただし、証券会社で幹部を務めていた妻も調査を受けているというから、インサイダー取引がらみの話かもしれない。いずれにしても、ただでさえ低い中国の統計の信頼度が、また下がってしまったのは、まぎれもない事実だ。そして、自信満々だった統計局長の突然の失脚は、いみじくも、今年の中国経済の先行きを、暗示しているように思えた。何しろ、今年の中国経済は、不安要素のオンパレードなのだ。
まずは、乱高下が続く上海の株式市場だ。去年1月に3200ポイントから始まった上海総合指数は、6月には5200ポイント近くまで上昇した。しかし、そこからは下り坂で、今年の2月5日の終値は2763ポイントと、半値近くまで値下がりしている。まさにジェットコースターだが、そんな上海の株式市場について、とある政府高官は、「実体経済を全く反映していないから、気にするだけ無駄だ」と言い放った。投資家に「株主」といった意識は希薄で、どこまでも「ばくち」感覚なのかもしれない。そんな上海市場が、世界経済を一喜一憂させるのだから、大変な時代になったものだ。
さらに、不安定な人民元の為替レートも、中国経済の不安要素だ。去年8月に、政府が定める人民元の基準値を、市場の実態に近づける制度が導入されたが、それ以降、人民元安が大幅に進行した。そのため、大規模な元買い介入が行われたとみられ、世界一の規模を誇る中国の外貨準備高も、大幅に減少している。世界の基軸通貨の座を狙う人民元だが、その道のりは決して平たんとは言えないだろう。
そして最も大きな不安要素が、不動産の在庫の積み上がりと、鉄鋼や石炭などの生産過剰だ。政府は過剰な生産能力の調整を進める予定で、その過程で数万人の失業者が出る可能性も指摘されている。李克強首相は「大衆による起業、大衆によるイノベーション」をスローガンに掲げ、インターネットなどを利用した新たな産業が勃興することで、それらの失業者たちを吸収できるとしている。
しかし、本当にそんなバラ色の解決策があるのだろうか?
私が去年取材した、広東省で零細工場を経営する男性は、苦しい胸の内をこう明かしてくれた。
「40を過ぎてとても新しい仕事なんてできない。先が見えなくても、この仕事をつづけていくしかない」
一つだけ言えるのは、これから中国が経験するだろう改革は、
昔の日本で流行ったキャッチコピーのように「痛みを伴う改革」になるだろうということだ。
「みんなが貧乏」だった計画経済の時代から、「先に富める者が富む」改革開放の時代へと、中国経済は猛スピードで駆け抜けてきた。
その過程で、富める者と貧しい者の格差はどんどん開いていったが、それでも「次は自分の番」との思いが、社会に満ち溢れていた。
しかし、もうそのスピードは期待できない。統計局長は変わっても、経済の実態は何も変わらない。
2016年も、習近平政権は、難しいかじ取りを迫られ続けることになる。
「おいおい、一体どこまで行くんだ?」
12月12日、我々のクルーは北京市西部のホテルから出発した北朝鮮大使館の車を追いかけていた。乗っているのは北朝鮮の「美女軍団」の誉れが高い、モランボン楽団のメンバーたち。この日は初の海外公演となる、北京公演の初日で、多くの日本メディアが、早朝からホテルを張り込んでいた。
公演の時間は午後7時から。しかし、モランボン楽団が出発したのは、午前11時ごろだった。私は、劇場に行くには早すぎるから、市内観光か、もしくは北朝鮮大使館に表敬訪問にでも行くのだろうと気軽に考えていた。しかし、車は市の中心部を通り過ぎ、どんどん北へと走っていく。そろそろ空港に着くというときに口をついて出た言葉が、冒頭のセリフだ。
「誰かのお迎えだろうか?」
空港に着いたモランボン楽団のメンバーたちは、表情一つ変えずに隊列を組んで行進していく。その周りを中国の私服警官が取り囲み、カメラを回そうとする我々を一人一人排除していく。もみくちゃになりながら、彼女たちが向かった先は、航空会社の貴賓室だった。この時点でも、私はモランボン楽団が公演をドタキャンして帰るなどとは夢にも思っておらず、北朝鮮から偉い人が来るので、お迎えに来たのだろうとばかり思っていた。
しかし結果は、皆さんご存知のとおりである。モランボン楽団は北京公演をキャンセルし、飛行機に乗り込みそのまま北朝鮮へと帰ってしまったのだった。
考えてみれば伏線があった、早朝ホテルにいたカメラマンが、モランボン楽団がどこかから衣装を抱えて戻ってくる様子を目撃していたからだ。となると、すでに前日の夜のうちに、帰国に向けた指示が出ており、あとは粛々と帰る準備を進めていたということだろう。
この2日前、モランボン楽団が北京に到着した時は、様子は全く違っていた。当時も我々は取材をしており、団員の一人から、インタビューを撮ることに成功した。彼女は少し照れた様子で、我々のカメラに向かって、こう答えてくれたのである。
「こんなに歓迎してくださって、とてもありがたく思います。素晴らしい公演にするために頑張ります」
改めておさらいすると、モランボン楽団とは、金正恩第一書記が2012年に、肝いりで結成したガールズグループで、北朝鮮国内では絶大な人気を誇っている。また、今年10月に平壌で行われた軍事パレードの際など、北朝鮮の重要な国家行事のたびに登場することでも有名だ。さらに、団長の玄松月(ヒョン・ソンウォル)さんは、金正恩第一書記の元彼女だと、まことしやかにささやかれている。まさに北朝鮮にとって、唯一無二の女性グループであり、その海外初公演が北京になるということは、外交的にも大きな意味があった。つまり、改善の兆しが見え始めた中朝関係を一気に加速し、まだ外交デビューを果たしていない、金正恩第一書記の初訪中に向けたムードを作るということだ。玄団長は、ドタキャン前日の昼間に、中朝関係についてこう答えていた。
「(金正恩第一の訪中の地ならしかどうか)そんなことはわかりません。
私たちは両国の親善のために、歌を聞かせに来たのです。
中国に来てわかったことは、両国の親善は、思ったよりずっと熱いものだということです」
その“熱い”友好ムードは、一晩のうちにすっかり冷めきってしまい、前代未聞のドタキャン騒動となってしまった。理由については諸説あるが、有力なのは、楽団の演奏中にプロジェクターに流される映像が、北朝鮮の核開発を讃える内容で、懸念を示した中国側が、最高指導部の出席を取りやめたのが原因だという説だ。金正恩第一書記としては、拍手をしながらモランボン楽団の演奏を見る中国の最高指導部の映像を全世界に流すことで、「中国から核開発のお墨付きを得た」との印象を与えようとしたのかもしれない。しかし、やり方が少々稚拙だった。結局、公演内容の変更を飲むわけにもいかず、「それなら帰ってこい」と、逆ギレして見せたのだろう。
前にもこのコラムで書いたことがあるが、自由に見に行くことができない北朝鮮は、真相をうかがい知れない「不思議の国」である。ただし北京には、北朝鮮大使館があり、平壌との定期便があるので、そこを行き来する人たちをウォッチすることで、我々はその不思議の国の姿を垣間見ようとする。例えると、わずかに空いた「窓」の隙間から、部屋の中を覗きみる感じだろうか。今回はその「窓」の隙間から、めったに見ることができない美女たちの姿を拝むことができたが、美女たちはあっという間に消えてしまった。
まもなく2015年が明け、2016年を迎える。金正日総書記の死去から4年がたち、今後は金正恩第一書記が、父の影響を抜け出し、自らのやり方で国を治めようとする機会が増えるだろう。彼にどのくらいの力量があるかはわからないが、我々北京の記者たちは、一生懸命北朝鮮の「窓」を覗く機会が増えそうだ。
11月7日、シンガポールの小高い丘の上にあるシャングリラホテルは、世界各国から集まってきた報道陣でごった返していた。この日、「中華人民共和国」の習近平国家主席と、「中華民国」の馬英九総統が、1949年の国家分断以降、初めての会談を行うからだ。
2人の会談は午後3時からの予定だったが、午後12時にはすでに安全検査に長蛇の列ができていた。歴史的な会談をより良いポジションで収めるための、し烈な争いの幕開けだ。我々もギリギリで2人をカメラに収められる位置を確保したが、そのあとからも続々と報道陣が詰めかけてくる。
広い部屋はすぐに報道陣でいっぱいになったが、そこで小さなハプニングが起きた。
「後ろに下がれ」「後ろに下がれ」
後列の報道陣から、前列に居座っているテレビカメラに対して、抗議の声が上がったのだ。最前列にいたのは、中国中央テレビ(CCTV)の中継カメラ。そして、抗議の声を上げているのは、主に台湾から来たメディアのようだった。
実は中国国内(大陸側)では報道陣に「序列」が定められている。新華社や人民日報、CCTVなどの政府や党のメディア(官製メディアと呼ばれることも多い)は、並ばなくてもカメラポジションなどで優遇されるほか、会見などの内容も事前に教えてもらえることが多い。彼らの仕事は「報道」であると同時に「宣伝」でもあるからだ。それに引き替え、我々外国メディアは肩身が狭い。北京ではたらく記者はいつしかそういった「序列」に慣れてしまうのだが、自由な台湾から来た報道陣は、そうは考えなかったようだ。
「後ろに下がれ」「後ろに下がれ」
怒声はどんどん大きくなる。しかし、CCTVのカメラマンも折れる様子はない。何しろ天下のCCTVなのだ。見かねた報道担当者が出てきて、前列のカメラマンの三脚を少し低くすることで、ようやく折り合いがついたが、大陸と台湾の違いを実感したような瞬間だった。
カメラマンたちの争いがおさまるとすぐ、共産党を象徴する真っ赤なネクタイを締めた習近平国家主席と、国民党のシンボルカラーである青のネクタイを締めた馬英九総統が、姿を現した。会場に緊張が走る。カメラのフラッシュが一斉にたかれる中、2人の「リーダー」は、1分近くお互いの手を握りしめ、報道陣に手を振る余裕も見せた。馬主席はカメラ移りを気にしたのか、握手をしながらスーツのボタンをはずしていたのが印象的だった。その後2人はお互いに並んで、隣の会見室へと移っていったが、その場面を見る限り、2人の立場は対等に見えた。
この「対等」という言葉が、今回の会談のキーワードだったように思う。2人のリーダーはお互いを「さん」づけで呼び合い、肩書を付けなかった。また、その後に行われた夕食会の費用も、「割り勘」だったという。会談で両者は「1つの中国」の理念を再確認し、お互いに交流を深めていくことで合意した。
ただし、報道陣との接し方に関しては、両者は全く違っていた。
会談後に馬総統は会見を開き、ユーモア交じりに記者たちと、丁々発止のやり取りを繰り返した。一方、習主席は報道陣の前に姿を見せることはなく、どこかの秘密の通路から、こっそりとホテルを後にした。「開放的」な台湾の指導者が、俳優のような印象だったのに対して、「近寄りがたい」大陸の指導者には、まさに皇帝のような印象を受けた。13億の民を引っ張っていくためには、やはり威厳も大切なのだろうか?
今回、取材に来た台湾の記者たちとも多く意見交換したが、彼らも複雑な思いを持っていた。交流が深まる中で、経済的には大陸無しでは成り立たなくなってはいるが、やはり13億の中国大陸の人民に「飲み込まれてしまう」恐怖というのが、潜在的にあるようだ。1949年の分断で、大陸から逃げてきた国民党の人たちは「外省人」と呼ばれ、昔から台湾にいた「本省人」と区別されてきた。ただし今では、両者の中に「台湾人」という意識も、育ってきているという。習主席は香港のような「一国二制度」での台湾統一を目指しているが、香港でも「大陸化」に懸念の声が強いことは、去年学生たちが主導した「雨傘革命」が、如実に示している。
私も台湾に旅行をしたことがあるが、コンビニの接客態度一つをとっても、非常に「日本的だ」と感じたのを覚えている。どちらかというとサービスが雑な大陸の人と比べて、非常にキメが細かいのだ。また、日本の植民地支配を経験していたにも関わらず、親日的な人も多い。そして何より、台湾の人たちは、自由に自分たちの意見を表明し、選挙によってリーダーを決める権利を持っている。民主化が進んでいない中国大陸の制度を押し付けられることに、抵抗が強い人がいることは、容易に想像ができる。
今後大陸と台湾が、どのような関係を進めていくにしても、今回の会談は非常に大きな意味を持つだろう。まずは来年1月の台湾総統選挙に、今回の会談がどう影響するか、台湾の人たちの民意に注目したいと思う。
この記事を書いているのは9月11日。中国・天津の開発区で起きた大爆発事故から、およそ1カ月が経った。事故の死者数はすでに、165人に増えていたが、中国当局はもう一つ、大きな決断をした。残り8人の行方不明者について「生存の可能性はない」と結論付け、死亡宣告の手続きに入ったのだ。事故現場の跡地には、天津市主導でエコパークを作る計画がすでに発表されている。1カ月という区切りを境に、事故を乗り越え前に進んでいこうという意気込みは感じられるが、インターネット上では「原因究明もまだなのに、スピードが速すぎる」と言った批判も相次いだ。
それにしてもこの1カ月、色々なことが起きた。爆発事故のすぐ後には、上海市場で株価が大暴落し、「中国ショック」が世界中を駆け巡った。そして9月に入ると、習近平国家主席肝いりの軍事パレードが、天安門で大々的に行われた。通勤で使っている道がパレードのために封鎖され、遠回りを強いられるたびに「面倒くさい国だ」と、つくづく思ったものだ。気が付くと、街には秋風が吹き、季節はすっかり変わってしまっていた。ただ、爆発事故を取材した8月13日の光景は、今もはっきり思いだすことができる。
北京を出発したのは朝の7時、現場に着いたのは、午前10時ごろだろうか。車を降りてまず目に飛び込んできたのは、もくもくと立ち込める黒い煙。そして積み重なった、コンテナの山だった。すぐ横には、巨大なトレーラーが横転しており、運転席のガラスは全て割れて無くなっていた。
「まるで映画だな」
中国人カメラマンが、誰に言うでもなくつぶやいた一言が忘れられない。匂いはあまりないが、歩いているだけで、目がショボショボしてくる。有毒な気体が出ている可能性もあったので、我々クルーはPM2.5に対応した分厚いマスクを、もう1枚重ねることにした。
取材した近くの小学校は、爆発で被害を受けた人たちの、臨時の避難所となっていた。校舎の壁には、探し人の張り紙が何枚も張られており、その多くが消防士だった。
校内には、1000人以上の人がいただろうか。校庭にも、びっしりとテントが設営され、一つのテントにはおよそ10人近くの人が、一緒に寝泊りをしていた。
「何が起きたか全くわからなかった。作業場の宿舎も、ボロボロに壊れてしまった。仕事もなくなるだろうから、とりあえず田舎に帰るしかない」
最初に話を聞いたのは、田舎から出てきて、工事現場の作業員として働いている、いわゆる「農民工」と呼ばれる人だった。爆発が起きたのは天津市の開発区だったので、全国各地から多くの「農民工」が集まって働いていた。中国経済の原動力ともいえる「農民工」の人たちだが、労働環境は決して恵まれているとは言えない。寝泊りをしているのはプレハブ小屋のようなところなので、今回の爆風では、ひとたまりもなかっただろう。彼らの多くは半強制的に田舎に帰らされ、また一から仕事を探すことになる。
それ以上に悲惨だったのは、爆発現場の近くにマンションを買った住民かもしれない。かなり離れた場所のマンションでも窓ガラスは割れていたし、化学物質による汚染も心配だろう。
「家の近くにあんな危険物の倉庫があるなんて、考えもしなかった。しかもあんな大爆発を起こすなんて、危険物の管理はどうなっていたのか?全く理解できない」
多くの人がカメラの前で怒りをあらわにし、政府に補償を求めるデモを起こした人もいた。そもそも本来ならば、危険物の倉庫から1キロ以内に住宅があってはならないはずだが、今回の事故では1キロ以内に多くの住宅があり、大きな被害を受けていた。
結局、許可を与えた当局と、倉庫の会社双方に「癒着」があった可能性が指摘され、多くの関係者が刑事手続きを受けている。また、被害を受けた住宅は、市場価格の1.3倍で買い取られることとなった。
しかし1カ月が過ぎた今もなお、事故が起きた原因ははっきりわかっていない。消防士たちの勇気は大きく称えられているが、彼らがなぜ爆発に巻き込まれなければいけなかったのか、消火のプロセスに問題はなかったのか、十分な検証が行われたという報道もない。
習近平国家主席は、就任以来一貫して「安全」をスローガンに掲げてきた。そのことは、2014年に立ち上げた「国家安全委員会」のトップに、自ら就任したことにも現れている。裏を返せば、それだけ中国が「安全」ではないということを、自覚している証だと言えるだろう。
爆発事故の前から、食の安全や、大気汚染の問題は、毎日のように取り上げられていた。長江では船の転覆事故もあったし、エスカレーターの踏み台が外れて、女性が犠牲になる痛ましい事故も起きた。その都度、責任者は処罰され、原因究明が行われたが、改善の兆しはない。人々が安心して暮らしていける国になれるのか?当たり前のことのようだが、中国が真の大国を目指すうえでの、解決しなければならない大きな課題と言えるだろう。
「どうすればいいんだ、説明してほしい!」
6月2日、南京市内のホテルの会議室には、怒号が飛び交っていた。
前日夜、天候不良の中、長江を航行していた豪華客船「東方の星」が転覆してから24時間。
乗客家族の控室として使われていたこの会議室には、200人以上が集まった。
政府の担当者が入れ代わり立ち代わり説明をするが、彼らにも情報がないのだろう。要領を得ない。
「何もわからないのなら、私たちを早く現場に連れて行って!」
あちこちから、すすり泣く声が聞こえる。いつまでに、どういった手段で、現場に連れていってもらえるのか?具体的な提案を求める家族に対して、政府からの回答は、最後までなかった。
そのころ、部屋の大型テレビには、現場で陣頭指揮を執る李克強首相の「雄姿」ばかりが、繰り返し放送されていた。対照的に、家族の怒りや悲しみは、ほとんど放送されることはなかった。
翌朝、しびれを切らした家族たちは、具体的な行動に出た。自力でバスをチャーターし、現場へ向かおうというのだ。我慢強く行政の支援を待つ日本の被害者と違って、行動力の速さと、団結力の強さは、実に中国的だ。家族の安否を一刻も早く確認したいという気持ちに加え、自分たちが動くことで、行政を動かすという計算もあるのだろう。大型バス2台に分乗した家族たちは、政府の制止を振り切り、湖北省の現場へと向かうこととなる。
江蘇省の南京市から、湖北省の現場まで、車でゆうに10時間はかかる。朝10時に出発した家族たちが現場近くの街に着いたのは、夜の8時すぎ。もちろん、現場への道には規制線が張られていて、一般の人は近づくことは出来ない。私はてっきり、その日の夜は現場近くの街に泊まって、次の日に現場に近づけるよう、政府などへ要望するのかと思っていた。しかしここでも、家族の行動は電光石火だった。
「いまから歩いて、転覆現場に近づこうと思っています」
最初に聞いたときは、耳を疑った。あたりは真っ暗なうえ、規制線が張られている中で、どこまで近づけるか保障はない。前の日もほとんど寝ていないだろうし、この日も長時間バスで移動してきたばかりだ。それでも、彼らは行くのだという。
「家族が船の中で生きているかもしれない。今が一番肝心なんです」
南京から追いかけてきた我々も、同行させてもらうことにした。途中、武装警察が行く手を阻もうとしたが、家族たちは一塊になって、大声を上げて突破していった。メディアがいることもあり、武装警察は手荒な真似をせず、家族たちの突破を許した。そこからは、真っ暗な道をひたすら、ひたすら歩き続けた。家族たちは泣き言ひとつ言わず、足の遅い年長者に合わせて休憩を取りながら、少しずつ進んでいった。その歩みが止まったのは、午前3時を過ぎたころ。先回りしていた政府の担当者が、彼らの前に現れ、説得を始めたのだ。
「皆さんの気持ちはよくわかります。今は暗いし、歩いてはとても現場にはたどり着けません。
明日の朝に皆さんを現場に連れて行くことを約束します。だから今日はお休みください」
一部の家族はそれでも現場に向かおうとしたが、ほとんどの家族は政府の提案を受け入れた。疲れ果てていただろうし、翌朝に現場に行くことができるという約束こそ、彼らが夜通し歩いて手に入れた成果だったのだから。ただし、政府の担当者は、その様子を撮影していたメディアには厳しかった。
「現場に行けるのは家族だけです。撮影を今すぐやめなさい。外国メディアは家族の気持ちを利用して面白おかしく騒ぎ立てるだけだ。日本メディアもいるようだが、我々南京市民は、南京大虐殺を決して忘れない。そうでしょう、皆さん」
船の転覆事故の取材で、南京大虐殺を持ち出されるとは正直思わなかったが、担当者は、怒りの矛先を少しでも別に向けたかったのだろう。家族の邪魔をするつもりは毛頭ないので、我々は撮影をやめ、街に戻ることを決めた。救いだったのは、政府の意見に同調する家族がほとんどいなかったことだ。ある家族は、市の担当者には聞こえないように、こっそり話しかけてくれた。
「なんで大虐殺なんだ?意味不明だな。とにかく、ちゃんと取材してくれてありがたかったよ」
その後、中国政府はメディアツアーを組むなどして、一定の取材を認めるようになった。家族たちの悲しみの声も、選別された上だが、報道され始めた。しかし、結果は残酷だった。最終的な生存者はわずか12人で、残り442人は全員死亡。生存者数は当初は14人とされていたが、事故から10日以上たって、急きょ2人減らされた。生存者数がいきなり減るなど、ありえないことで、管理のずさんさが露呈した形だ。
7月1日、事故から一カ月がたったが、中国のマスコミは沈黙を続けている。政府の調査チームが結果を発表するまでは、独自の報道を控えるように、お達しが来ているのだろう。しかし、その裏で、闇に葬られてしまう事実は、本当にないのだろうか?家族にとっても、取材者である私にとっても、事故はまだ終わっていない。
オーストラリア、オーストリア、アゼルバイジャン、ブラジル…
アジアの国が多いが、アフリカやヨーロッパの国の名前も見える。実はこの日、中国主導で設立される「アジアインフラ投資銀行(以下AIIB)」の、第4回の設立準備会議が行われていた。
AIIBという、聞きなれない銀行の名前を習近平国家主席が初めて口にしたのは、2013年10月。それから1年後、北京で行われた設立覚書の合意式典には、ASEAN諸国を中心に、21か国が参加した。
「所詮は中国主導の国際金融機関。海のものとも、山のものともわからない(国際金融筋)」
そのころまでは静観の構えを見せていた日本政府だったが、今年に入って状況が大きく変わった。3月にG7(主要7か国)の一角であるイギリスが参加を表明、フランス、ドイツ、イタリアも後に続き、ドミノ倒しのように、加盟ラッシュが起きたのだ。最終的に、創設メンバーに申請した国の数は、57か国にまで膨らんだ。
はたして、AIIBとはどんな金融機関なのか?入ったほうが得なのか、入らないほうが得なのか?
日本はアメリカとともに創設メンバーへの申請を見送ったが、いまも賛否両論かまびすしい。設立準備会議はマスコミ非公開だったが、それでも多くの日本メディアが金融街のホテルに集まった。いやむしろ、加盟申請をしていない日本のメディアだけが、必死に取材を試みていたというのが、的確な表現だろうか…
「今は設立協定について話し合っている段階だけど、すべて順調だよ。」
会議を終えた東南アジアのある国の担当者は満足げな表情でこう答えた。
また、南アジアのある国の担当者は、AIIBにおける中国の役割に、不安はないと言い切った。
「中国は発展途上国のリーダーだ。我々は中国の主導的な役割を期待している」
一方、欧州各国の担当者は取材に対いて口を堅く閉ざした。AIIBは5月にも、シンガポールで会議を行い、6月末までに設立協定をまとめる予定だ。
現時点までに、日本がAIIBに加盟しない理由は大きく二つある。
一つは、日米が主導する「アジア開発銀行(=ADB)」が既に存在するからだ。AIIBとADBがどう住み分けるのか、果たして共存できるのか、そのあたりがいまいちはっきりしない。
そしてもう一つは、運営の仕組みに、透明性を欠くという理由だ。日本がAIIBに参加する場合、国力に見合うだけの出資金が必要となるが、その額は3000億円~6000億円と言われている。それだけ巨額の資金を出しても、中国に都合よく使われてしまうだけではないかという懸念が、いまだ払拭しきれていない。
「AIIBの運営基準の透明性に問題はありませんか?」
中国政府系シンクタンク主催の勉強会で、私は率直な疑問をぶつけてみた。
すると、そのシンクタンクの女性所長からは、非常に明快な答えが返ってきた。
「なぜまだ出来てもいない銀行の基準が『不透明』だとわかるのですか?心配なら参加すればいいでしょう。参加もせずに批判ばかりするのは間違いです。それに、AIIBとADBは完全に異なるものです。アメリカの基準を取り入れているADBと違い、AIIBはアジアにふさわしい基準を作ろうとしているからです。」
エキサイトしてきたのか、声が大きくなる。
さらに畳み掛けるように、日本こそAIIBに加盟すべきだと、私に向かって促した。
「日本はアジアという大きな市場に、必ず参入しなければならないでしょう。アベノミクスは3本の矢だといいますが、AIIBへの加盟が、まさに4本目の矢となるでしょう!」
アベノミクスの4本目の矢かどうかは別にして、中国側が日本の加盟を切望しているのは、たぶん偽らざる本音なのだろう。日本にはこれまで開発金融の舞台で活躍してきた経験が豊富にある。それに加えて、国際的な信用度は、中国より格段に高い。習主席がインドネシアで、安倍総理と2度目の首脳会談を行った背景には、AIIBについて日本の加盟を促す意味も大きかったと思われる。
「創設メンバーにならなくても、日本の重要性は全く変わらない。じっくり待って考えればいい」
ある日本の関係者は、AIIBに加盟しないからといって、いま焦る必要は全くないと話した。中国は大国としての大きなビジョンを語ることは得意だが、それをうまく運営するソフトパワーが追いついていないというのが、彼の分析だ。
ただ日本も、様子見を決め込むだけでは無責任だ。巨大なアジアのインフラ需要に対して、どのように貢献し、どのようなリターンを得ていくか。そのビジョンを固めたうえで、必要ならAIIBに加盟すればいい。中国と日本は世界で2位と3位の経済大国だ。その2つの国が、お互いに排除するのではなく、補完しあう関係を、金融の舞台でも作り上げていってほしい。
日本の国技、大相撲。
外国に住んでいるからだろうか?大相撲中継を見ると、どこかほっとする。もちろん、私は報道記者なので、相撲の知識は素人同然だ。しかし今回、モンゴルの国民栄誉賞を受賞して、凱旋帰国する横綱・白鵬関を取材する機会に恵まれた。
北京空港から2時間半。モンゴルに行くのは初めてだったが、親しみはずっと持っていた。小学校の教科書で「スーホの白い馬」という話を読んで、馬頭琴(ばとうきん)という楽器が出てきたことを覚えている。顔つきもどこか日本人に似ている。何しろ、我々黄色人種は「モンゴロイド」と呼ばれるくらいだ。あとは、やはりチンギス・ハーン、騎馬民族のイメージが強烈だ。
ウランバートルの空港から市内に向かうまでの間、周りには何もなく、赤茶けた大地が広がっていた。市内に入ると、看板はすべてロシア語だ。異国に来たことを実感する。
「モンゴルはロシアの衛星国だったからね。でも今は中国語の看板もどんどん増えてきているよ」
コーディネーターによると、モンゴルが独立を保てたのは、地理的要因が大きいという。中ソがそれぞれ「緩衝地帯としてのモンゴル」を必要としたというのだ。その後モンゴルはソ連の庇護で発展してきたが、1990年代初めに社会主義陣営は崩壊し、民主化の道を歩み始めた。
そして、大相撲でのモンゴル勢の躍進だ。私が熱心に相撲を見ていた1990年代は、外国勢は曙や武蔵丸といったハワイ勢が主流だった。それが今や、3横綱はモンゴル勢が独占している。今回は、その強さの秘密を探ってみたいとも思っていた。
まず訪れたのは、白鵬の通った小学校だ。校内には、特大の写真が飾られている。担任だった先生は、去年白鵬から日本に招待され、直々に労をねぎらわれたと感動していた。この人柄の良さに加え、父親も金メダリストという血筋の良さもあり、白鵬はすでに、モンゴルでは国民的英雄となっていた。
翌日は、いよいよ授賞式だ。大統領の宮殿に、民族衣装をまとった白鵬が登場した。授賞式中、私は彼の一挙手一投足に注目していたが、きっちりと背筋を伸ばし、微動すらしなかった。さすがは横綱の威厳である。ただ一瞬、大統領から勲章をつけてもらうとき、横綱の目が潤んだようにもみえた。わずか29歳で国民の英雄となった若者は、何を思ったのだろうか……。
今回の授賞前、白鵬は、歴代最多の優勝がかかった大一番で取り直しを命じられことについて審判を批判し、問題になっていた。
スポーツの世界では、審判は絶対だ。ましてはしきたりに厳しい大相撲だ。白鵬はテレビ番組で謝罪したが、きちんとした謝罪になっていないとして、一部の日本メディアから叩かれ続けていた。
授賞式を終えた白鵬は、吹っ切れたような表情で、笑顔も見せていた。審判批判についても、「もう終わったことなので、この勲章に恥じないように頑張っていきたい」と、落ち着いて答えてくれた。
会場には元横綱・朝青龍も姿を見せた。審判問題に関しては、朝青龍もツイッターで「審判部の間違いはある」「白鵬をいじめるな、マスコミたち」と白鵬を擁護している。彼自身、横綱としてその言動がしばしば批判されてきただけに、白鵬の気持ちがよくわかるのだろう。雲一つない青空の下で、笑顔で写真に納まる2人の姿が、非常に印象的だった。
授賞式の後は、モンゴル相撲の会場へと向かった。小学生から青年までが、上半身裸で取り組み合っている。日本の相撲と違って、土俵があるわけではなく、レスリングのような大きな会場で、何組もが同時に戦っている。あちらで投げられ、こちらで投げられ、かなりの迫力だ。
取り組みが終わったばかりで、息が切れている若い力士たちに話を聞いたが、日本の大相撲が目標だという答えが多かった。
「大相撲で活躍して、白鵬の記録を今度はぼくが塗り替えたい」
金銭面の魅力に加えて、朝青龍や白鵬の人間的魅力にひかれている若者が多かったことが印象的だった。大相撲でモンゴル勢が活躍する時代は、もうしばらく続くのかもしれない。
最後に、モンゴルの街を歩いている際に、どこかからか聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。
♪♪トンボのメガネは水色メガネ~
みると、日本のごみ収集車が、ウランバートルの街で元気に頑張っているではないか。
モンゴルはやはり「遠くて近い国」だ。そんな実感を持ったモンゴル出張だった。
2015年、中国経済は幸先の悪いスタートを切った。1月20日に発表された2014年のGDP=国内総生産の伸び率が、前年比7.4%と、24年ぶりの低水準に落ち込んだのだ。
「この7.4%は困難と圧力を克服した結果の7.4%だ」
国家統計局の局長は、いつもよりハイテンションで、7.4%という数字は、決して低くないと強調した。そして、ある単語を何度も繰り返したのである。
「中国経済は“新常態”に入った。私たちは“新常態”に慣れ、“新常態”を正しく認識する必要がある」
その単語とは“新常態(しんじょうたい)”という単語だ。日本語に訳すと「新しい普通の状態」とでもいえるだろうか。具体的には、中国はこれまで続けてきた高度成長段階を終え、中程度の成長段階に入った、という意味で、数字が多少低くてもガタガタ騒ぐなというニュアンスが含まれている。こういった新語を作り出す中国の官僚の能力はなかなかのもので、実際は大したことを言っていないのだが、わかったような気分になるから不思議である。
ではその“新常態”の中国経済で、一体何が起きているのか?テレビ朝日は、河北省のある街を取材した。
その街とは、秦の始皇帝の出身地としても有名な、河北省の邯鄲市(かんたんし)だ。街のあちこちには、建設の止まったマンションが、廃墟のように立ち並んでいる。ショールームのドアは固く閉ざされ、中にはごみが散乱する。見るも無残な状況だ。
「工事が止まって、俺たちはほったらかしだ。食べるものも水もない。」
工事現場の取材をしていると、すぐに工員たちに取り囲まれた。周辺の農村から出稼ぎに来た、農民工(のうみんこう)と呼ばれる人たちだ。工事が止まり賃金が出なくなったが、行くあてもないので、仕方なく工事の再開を待っているという。
「3年で完成する予定だったが、もう6年だ。不動産会社が金を集めるだけ集めて、逃げてしまった。早く引っ越したいのに、引っ越せなくてつらいよ。」
新築のマンションで、息子夫婦と同居する予定だった72歳の男性は、涙で声を詰まらせた。去年7月に、不動産会社の社長が夜逃げをしたため、そこからすべての工事が止まったのだという。
ではなぜ、不動産会社の社長は夜逃げに追い込まれたのだろうか?その理由を探るうちに、地方都市が抱える構造的な問題が、浮かび上がってきた。
「不動産会社は民間から金を集めて工事を始めた。全部売れればマンションを完成できただろうが、あまり売れなくて、資金が回らなくなった。それでゴーストタウンさ。」
実は、社長が夜逃げした不動産会社は、民間に募って、高利で資金を調達していた。銀行を通さない、いわゆる「影の銀行」だ。月に3%~5%という高い利子につられて、多くの人がなけなしの金を不動産につぎ込んだ。また、金額が大きいほど金利が上がる仕組みなので、友達や親戚など、知り合いからも金を集め、焦げ付かしてしまった人も多く存在した。
「みんなの金を集めて1000万元(2億円)以上投資した知り合いもいる。半数以上の市民が何らかの影響を受けていると思うよ」
不動産に詳しい人物は、影響の大きさをこう語った。市民から吸い上げた資金で、不動産会社は次々とマンションを建設したが、飛ぶように売れたのは、最初の一時期のみ。最終的には、需要をはるかに上回る供給が行われたため、資金繰りがとん挫してしまったのだ。地元メディアによると、無造作に建てられたマンションはいま、年間販売量の10倍の在庫を抱えているという。
「会社も政府も何も答えない。負債がどれだけあるのか、誰も教えてくれない。」
社長が夜逃げをした不動産会社の周辺には、毎日債権者たちが集まり、抗議を行っている。また、政府に対策を求めて、デモ行進をするものもいる。しかし、解決のめどは立っていない。同様の状況は中国各地で起きており、今年に入ってからも、江西省や広東省で、大手不動産会社の倒産が相次いだ。
地方政府が借金を肩代わりして救済するのかどうかも焦点で、その場合は地方政府の借金が大きく膨らむ危険性が指摘されている。
一方、中央のエコノミストたちは総じて強気だ。GDPの発表後、取材した清華大学の教授は、自信満々にこう話していた。
「地方政府が問題に直面することは大歓迎だ。痛みがなければ改革は進まない。病気だって熱が出なければ直しようがない」
“改革に伴う痛み”日本でも聞いたことがあるようなフレーズだ。そして彼は、こう続けた。
「地方が困っても、中央には巨額の資金がある。銀行にも巨額の預金がある。全体でみれば全く問題ない」
マクロ経済で見れば、彼の言うとおりコントロール可能な状況なのかもしれない。しかし邯鄲市で出会った人たちのように、ミクロで見れば、困っている人たちは確実に存在する。それらの人たちの不満が爆発するのが先か、中国経済のソフトランディングが先か。“新常態”のもとでの中国経済は、まだまだ難しいかじ取りを迫られているといえそうだ。
便りは、いつも突然やってくる。
12月22日、冬至の日。支局で一人、夜のニュースを見終わって、帰り支度をはじめた私の携帯電話に、続々とニュース速報が入ってきた。
「令計画(れいけいかく)氏が重大な規律違反で調査を受けている」
令計画氏は前の国家主席・胡錦濤(こきんとう)氏の最側近だった人物だ。中央弁公庁主任として、胡氏のスケジュールを隅々まで管理し、外遊などには常に同行していた。そんな重要人物までが、「反腐敗」の荒波を避けることができず、ついに失脚することになった。政治的には非常に大きなニュースで、私は帰り支度をやめ、すぐに原稿に取り掛かった。
具体的な規律違反の内容は不明だ。しかし、伏線はいくつもあった。2012年の夏、令氏は中央弁公庁主任の職を解かれ、統一戦線工作部の部長に就任している。統一戦線工作部は、中国共産党と党外の各会派との調整を担当する部署で、あまり重要なポストとは見られていない。いわゆる「左遷」だが、この「左遷」につながったとされるのが、令氏の息子が同年3月に起こしたフェラーリ事故だ。
事故が起きたのは真夜中の4時。香港メディアなどの情報を総合すると、令氏の息子は、当時飲酒しており、フェラーリには全裸に近い女性が2人同乗していた。スピードを出しすぎコントロールを失ったフェラーリは、側道の壁にぶつかり大破、令氏の息子は即死し、女性のうち1人も病院に運ばれ、のちに亡くなったという。そして、事故を重く見た令氏が、当時公安部門のトップを務めていた周永康氏に、もみ消しを頼んだという噂が、まことしやかにささやかれていた。
さらに、もう1つの伏線として、令氏の親族が次々と失脚したことがあげられる。令氏は山西省の出身で、父親は、新聞によく出てくる単語から、子供たちの名前を付けた。「令方針」「令政策」「令路線」「令計画」「令完成」の5人兄弟だ。そのうち兄で、地元山西省の幹部を務めていた「令政策」氏と、弟でビジネスマンだった「令完成」氏が、すでに調査を受けている。令氏の地元・山西省の出身者たちが集まり、様々な情報を交換し合う「西山会」という組織が、腐敗の温床となったという報道もある。
息子の事故による左遷と、家族に及ぶ調査の網。そんな状況でも、令計画氏は淡々と仕事をこなしていたが、やはり失脚は避けられなかった。
令氏が事故のもみ消しを頼んだとされる周永康氏も、今月5日に党籍をはく奪され、逮捕が決まった。周氏はかつて最高指導部である「中央政治局常務委員」を務めていた。以前は、「常務委員は刑を受けない」という不文律があったとされているが、習近平国家主席は、そのタブーに、敢然と立ち向かったことになる。
「トラもハエも叩く」と高らかに宣言した習主席は、まさに破竹の勢いで汚職撲滅を進めている。広がる一方の格差の下、特権階級に怨嗟の声を上げる一般庶民は、「トラ退治」を拍手喝さいして喜んでいる。インターネットには、習氏夫妻を称える歌のアニメまでが登場した。
汚職に立ち向かう習主席の姿勢は、まさに「光」に見えるが、「光」あるところ常に「影」がある。習主席が汚職撲滅を進めれば進めるほど、「ほかも皆やっているのではないか」と疑心暗鬼を呼び、その矛先が、いつ自分に向かってくるとも限らない。
さらに問い詰めれば、何匹もの「大トラ」を生んだ共産党の統治体制そのものが、間違っていたのではないかという結論にまで達しかねない。習主席もその危険をわかっているのだろう。10月に開かれた共産党の重要政策を決める「四中全会」では、「法治」という概念を前面に打ち出した。
これは裏返せば、これまで「法治」の概念が非常に希薄だったことを表している。日系企業に聞くと、どれだけ頼んでもダメな許認可が、ある中国人を通せば簡単に下りるといった例は、枚挙にいとまがないそうだ。背後で、有形無形の利益が動いているのだろう。まさに「法治」ではなく「人治」の典型だが、習主席の就任以降は、そのような事例は非常に減ったという。末端の意識が変わり始めたという点では、「法治国家」への改革は、非常に有意義な性質を持っていると言える。
もちろん、習主席の目指す「法治」は、「中国の特色ある法治」であり、「共産党の指導のもとの法治」である。もろ刃の剣がいつ自分に跳ね返ってくるかわからない状況で、来年以降も厳しいかじ取りは、続いていくのだろう。
2年前、令計画氏の息子が事故を起こした市内北部の幹線道路を、今回改めて訪れてみた。事故現場は名門大学が立ち並ぶエリアで、令計画氏の息子も、北京大学に通っていたという。
ここであの事故が起きなければ、令計画氏は失脚せず、中国指導部の顔触れも変わっていたのだろうか。それとも、事故自体が権力闘争のパズルの1ピースとして、仕組まれていたものだったのか?今となっては、それは誰にもわからない。
11月6日、午後9時過ぎ。ひっそりと静まり返る中国外務省の中に、日本大使館の車が入っていった。乗っているのは、東京から出張してきた外務省の幹部や、日本大使館の担当者だ。この日、日本と中国の当事者間で、翌日発表されることになる合意文書を巡って、ギリギリの調整が続けられていた。協議は深夜まで断続的に続き、双方が合意に達したのは、日付が変わった後だとされている。
翌7日早朝、北京空港のVIP搭乗口に姿を見せた谷内正太郎・国家安全保障局長の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。帰国後、谷内氏は安倍総理大臣と面会し、訪中の成果を報告。その直後に、「日中関係の改善に向けた話し合い」という文書が発表され、報道各社は「北京APECで日中首脳会談実現へ」と、一斉に速報を流し始めた。
その速報を、私はAPEC会場の一つである国家会議センターで眺めていた。心の中では「ついに来たか」と思いながらも、どこか実感がわかない。いつしか、会場モニターに流れていた中国中央テレビも、日中合意について報じ始めた。欧米の記者たちが、ざわつき始める。しばらくして、岸田外務大臣が会見場に現れ、正式な日中外相会談がセッティングされたと発表した。
「日中関係改善のギアチェンジとしたい」
大臣の言葉をメモしながら、私は自分が北京に赴任したころのことを思い出していた。私が赴任したのは、2013年7月。前年の尖閣諸島国有化により日中関係が冷え切っていたころで、国際会議でも外相、首脳同士が言葉を交わさない状態がすでに当たり前となっていた。そして、2013年12月には、安倍総理が靖国神社参拝を強行。中国側は猛反発し、日中関係は「戦後最悪」と言われるほどに冷え込んだ。
島の問題と、歴史の問題。お互いに譲れない問題を抱えながら漂流する日中関係の中で、北京で開催されるAPECはいつしか、“最後の砦”のように感じられるようになった。私はこの1年間、機会があるたびに、日中の外交関係者に、「APECで安倍さんと習さんは会いますかね?」と尋ねてまわったが、確信をもって「会うだろう」といった人はほとんどいなかった。ただ、この機会を逃すと、日中関係の改善は、大幅に遠のいてしまうという“危機感”は、日中ともに共有していたように感じる。
その危機感の共有から、ギリギリのところで生み出されたのが、今回のガラス細工のような合意文書といえるだろう。
合意文書では、歴史問題について、こう書いている。
『双方は,歴史を直視し,未来に向かうという精神に従い,両国関係に影響する政治的困難を克服することで若干の認識の一致をみた』。
この一文にある「若干の認識の一致」などというフレーズは、日本語としてはほぼ意味不明だが、その思いは十分に理解できる。お互いに「一歩も譲っていない」という主張を行いながらも、玉虫色の解釈ができる、ギリギリの着地点を探したのだ。
ただその後も、日中首脳会談の実現までには紆余曲折があった。
11月8日の日中外相会談で、王毅外相は「日本の平和国家としての歩みが大切だ」と再三にわたって強調した。
翌9日、安倍総理の日程に比較的余裕があったにも関わらず、首脳会談はセッティングされなかった。この時点で、外相会談が不調だったため、首脳会談はお流れになったのでは、という情報も流れている。2人の首脳がようやく顔を合わせたのはさらに翌日、10日の昼過ぎだった。日本の総理大臣と中国の国家主席が正式に会談するのは、2011年12月以来ほぼ3年ぶりのことだ。
2人の会談時間は25分間。通訳がいたことも考えれば、深く立ち入った話ができなかったことは容易に想像できる。しかし、この「3年ぶりの25分」こそが、今回のAPECのハイライトであったと、私は考える。首脳同士が合うことで、日中関係の「ギア」が、大きく動いたということを、お世辞抜きで実感できたからだ。首脳会談が終わった後、澄み切ったAPECブルーの空の下で、いつもの北京の風景が、きのうまでとは全く違って見えた。後ろを向いて走っていた電車がようやく向きを変え、前に進みだした感覚だ。
もちろん、今回の会談はあくまで第一歩に過ぎない。ガラス細工のような合意文書は、玉虫色なだけに、お互いが都合よく解釈できる余地を残している。島の問題にしても、歴史の問題にしても、何も解決したわけではない。
前回、上海APECを主催した2001年、中国はようやく世界貿易機関(WTO)に加盟し、「世界経済の仲間入り」を果たしたばかりだった。それから13年、驚異的な成長を続けた中国は、自らを「大国」と位置付け、アメリカ中心の世界秩序に挑戦するまでになった。APECのもう一つの会場となった北京市北部の雁栖湖(がんせいこ)には、唐代を思わせる巨大な塔も建設され、まさに「東洋の大国」ぶりを、存分にアピールしていた。
とりあえず、首脳どうしが会うことは出来た。ただ、「新しい日中関係」をどう築いていくかに関しては、まだ明確な道筋は見えない。
「強くなった中国と、どう付き合うか?」
今回のAPECは、21世紀の日本に課された大きな宿題の、ほんの1ページ目なのかもしれない。