9月30日早朝、北京・天安門広場では、厳粛な雰囲気の中、「烈士記念日」の式典が行われていた。
習近平国家主席をはじめ、7人の最高指導部が、「人民英雄記念塔」に献花し、黙とうを捧げる。中華人民共和国の成立という「革命」に、命をささげた烈士たちを追悼する行事で、今年から国家の記念日に格上げされた。国営テレビで全国に生中継されるこの式典こそ、共産党が政権を握り続ける正統性を確認する、重要な行事といえる。
同じころ、遠く南に離れた香港では、本来ならば勉学に励むべき学生たちが、目抜き通りに座り込み、もう一つの「革命」を戦っていた。彼らは中国の国会にあたる全人代が制定した、香港行政長官選挙の方法を不服として、座り込みを始めたのだ。10月1日の国慶節から、金融の中心である「セントラル」を占拠する計画だったが、一部の学生が前倒しで、政府庁舎前の占拠を強行。香港警察は催涙弾で抵抗するなど、一触即発の状況が続いていた。
私が香港入りしたのはこの9月30日。早朝、人民大会堂での取材を終え、その足で香港へ向かった。着いた途端に「失敗した」と思ったのは、まず自分の服装だ。長袖シャツに長ズボン、さらには長袖ジャケットを羽織って香港に到着したのだが、まあ蒸し暑い。さらに言葉は広東語なので、標準の中国語はなかなか通じない。やっとの思いでたどり着いたホテルでは、大陸とコンセントの形がまったく違うことに気づき、あわててフロントでアダプターを借りる羽目に。「一国二制度」とはいえ、「ここは外国だな」と思ったのが、偽らざる第一印象だ。
ホテルに荷物を置き、まずはデモ隊の占拠現場を取材した。普段は歩けない車道のど真ん中を歩き、現場に向かう。近づくにつれ、黒シャツに黄色いリボンの「ユニフォーム」に身を包んだ学生たちが増え、喧騒が大きくなる。シンボルである「傘」を手にした学生も多い。政府庁舎前の大通りには、数万人が集まっていただろうか。ものすごい熱気に圧倒される。ただ驚いたのは、非常に秩序正しくデモが行われていたことだ。食糧や水を配る補給所も設けられ、警察の催涙弾に対抗するため、ゴーグルや雨合羽が整然と配られていた。
彼らは何に反対し、何を求めているのか。足が水ぶくれになるまで歩き、路上に一緒にしゃがみこんで、何十人もの人に話を聞いた。そもそも英国植民地時代、香港人による「民主」は認められていなかった。そのことをもって、新しい選挙制度は、「香港の民主にとって大きな一歩だ」と、中国政府は強調する。しかし、その選挙に立候補できるのは、親中派が多数を占める「選挙委員会」に指名された人物だけだ。そうなると、おのずと中国にものが言えない人物ばかりが立候補することになり、民主選挙の意味がないというのが学生たちの主張だ。
そしてその先に待っているのは、「香港の中国化」だと、一部の学生は強調する。フェイスブックがつながる香港、敏感な政治記事も新聞に載せられる香港、香港を香港たらしめてきたこれらの「自由」が、徐々に失われてしまうことに、学生たちは本能にも近い恐怖を感じていた。
客観的にみて、学生たちの運動が成果を勝ち取る可能性は極めて低いと思われる。中国政府は現時点では、事態の処理を香港政府に任せて、静観を決め込んでいるが、全人代の決定を覆す可能性はゼロに等しい。「座り込み」という不当な手段に屈し、譲歩したとなれば、中国全土で同様の事態が起こり得るからだ。無制限に「民主」を認めることは、すなわち共産党政権への挑戦を許すことになる。それだけは現政権も、絶対に避けたいと思っているはずだ。
ただし、天安門事件の時のように、すぐに強制排除はしないだろう。11月に北京APEC開催を控える中、学生たちを強制排除すれば、国際的な非難は免れない。デモの発生直後、催涙弾を使用し、学生たちに同情する世論を作ってしまった反省もある。香港政府は今後、学生と対話を続けながら、長期戦に持ち込み彼らを疲弊させ、世論を「反学生」に誘導したうえで、大手を振って「排除」に踏み切るだろう。
あらかじめ、「失敗が約束された」“革命”。黄色いリボンと傘の“革命”は、そう運命づけられているのかもしれない。その時「革命」は、単なる「騒乱」と名前を変え、刑事裁判の対象となるのだろう。
それでも私は、今回の行動は、決して無駄ではないと信じたい。一週間取材を続けて、デモ現場の至る所で、学生への応援メッセージが増え続けるのを、この目で確認した。たとえ不十分なものでも、「民主」制度が導入されれば、そこから突破口を見つけるやり方もあるはずだ。学生たちが本気で「自由」を求め、それを大多数の香港市民が支持した。その事実の重みを、香港政府と、大陸の中国政府に刻み付けることができたとすれば、この“革命”には、きっと大きな意味があったということになるはずだ。
(前回までのあらすじ)
~~ミャンマー・ネピドーで開催された、ASEAN関連会合の取材を終え、北京に帰ろうとした矢先、バンコク支局長に呼び出された筆者。そこで、突然のカンボジア出張を命じられることとなる。~~
「カ、カンボジアですか?」
「そう。変な事件の取材だけど、頑張ってね」
「はあ、事件ですか?」
どうやら、タイで代理出産を通じて多くの子供を設けたとされる日本人男性が、カンボジアにいる可能性があるらしい。簡単に言うと、その男性を探してくれというミッションだ。
国際会議の取材から、奇妙な事件の取材へと、頭の着替えは大変だが、これも少人数で広範囲をカバーする特派員の醍醐味だ。
当然、着る服も足りないので、ネピドーのスーパーで下着を購入。その後、あわただしく空港へと向かった。
移動には予想以上に時間がかかった。朝にネピドーを出発し、ヤンゴンとバンコクで2回乗り換え、プノンペンにようやくついたのは午後11時過ぎ。しかも空港では早速、スーツケースが届いていないことが判明。さらに、深夜にチェックインしたホテルでは、エレベーター内で突然の停電に遭遇し、数分間閉じ込められる事態に…。やれやれ、プノンペン、なかなかの強敵である。
次の朝、仕方なく前の日と同じ服を着て、私たちクルーは取材を始めた。カメラマンはベトナム人、助手はカンボジア人の、3か国混成チームだ。
今回の案件で、日本人男性は、明確に法的な罪を犯しているわけではない。代理出産というのは、他人の受精卵を自らの子宮に入れ、代わりに出産する技術で、不妊治療の一環として行われている。
しかし、明らかに奇妙なのは、生まれた子供の数だ。一説には、男性は代理出産の技術を使って、16人もの子供の父親になっていたという。目的はなんなのか?疑問に思いながら、われわれは男性が登記していた会社住所周辺へと車を走らせた。そこで聞き込みを始めると、すぐに多くの目撃情報が集まった。
「子供を連れて歩いている姿を何度も見た」と、バイクタクシーの運転手。
「日本人のような子供もいたし、タイ人のような子供もいた」と、近所の人。
さらに、近くでハワイ料理店を営む若い女性は、疑惑の男性と、直接話したことがあった。
「男性は、良くも悪くも人畜無害な人という印象だった」と、彼女は話してくれた。
また、子供を連れてくることもあったが、母親らしき女性が一緒にいたことは、一度もなかったという。さらに、職業を尋ねた彼女に、男性は興味深い答えを返している。
「(職業は)さすらいのスナフキンだからって。それ以上は聞いてはいけないような感じだったので、聞くことはやめました」
スナフキンとは、漫画「ムーミン」に出てくる孤独を愛する旅人だ。それだけ多くの子供を持つとされながら、自らを根無し草に例える男性の心に、底知れぬさみしさを感じた瞬間だった。
その後もカンボジアで取材を続けたが、男性を見つけることはできなかった。この原稿を書いている時点で、男性はマスコミの前に姿を現しておらず、タイ警察が求めている事情聴取も、いまだ実現していない。
男性の目的はいまだ不明だ。しかし、私見だが、やはり少し無責任ではないかと感じる部分が大きい。
私にも2人の子供がいる。子育ては、非常に骨の折れる仕事だ。帰りがどんなに遅くても、次の朝早く起こされ、遊んでくれとせがまれる。2人だと、けんかをすることもあるし、公平に扱わないと、どちらかが泣き出すこともしょっちゅうだ。なだめてすかして、子供と一緒に親も成長していくというのが、本来の子育ての在り方だろう。
ただし男性には、そういう気持ちはなかったのではないだろうか?16人もの子供をいっぺんに持って、その子たち一人一人に愛情をもって接することができるとは、到底思えない。
また、子供の外見に対する証言も「日本人風」「タイ人風」と様々で、一致しない。妻とは別の複数の受精卵を使って出産をした可能性もあるが、そこは憶測の域を出ない。子供たちが大きくなれば、きっと自分たちの母親は誰かが、気になるだろう。また、同じ年のころの兄弟が16人もいることに、疑問も感じるだろう。男性は子供たちに、どう説明するつもりなのだろうか?
代理出産技術の進歩は、不妊で悩んでいる夫婦が、子供を持つことを可能にした。そのこと自体は、喜ぶべきことかもしれない。ただし、その技術を安易に利用することは、生命倫理の崩壊につながる恐れがある。テレビゲームのように、簡単に死んだり生き返ったりできる命は、この世にはない。男性には自らの行為ときちんと向き合い、子供に対して責任を取る義務がある。
そして何より大切なのは、代理出産を使って生まれてきた子供たちそれぞれが、かけがえのない命ということだ。彼ら、彼女たちをだれがどのように育てるのかも含めて、きちんとしたアフターケアが必要だろう。
北京特派員のカバー範囲は、かくも広いのである。
先月このコラムで、北京支局の守備範囲は中国大陸の北半分だと書いたばかりだが、8月は珍しく東南アジアへの出張があった。
目的地はミャンマー。ASEAN(東南アジア諸国連合)関連会議の取材で、首都ネピドーを訪れた。首都といっても、軍事政権が何もない所に無理やり作った町で、のどかな田園風景に不釣り合いな巨大ホテルが立ち並んでいる。ミャンマー人ガイドは、「会議が終わったらホテルで働いている人たち、どうするんでしょうね、ハハ」と、あっけらかんと笑っていた。
8月7日~10日にかけて開かれたASEAN関連会議では、この人工的な首都に、東南アジアはもとより、日本、中国、韓国、アメリカ、さらには北朝鮮の外務大臣たちが集まった。まさにアジア・太平洋地域のプレイヤーが一堂に会する大舞台で、テレビ朝日も、バンコク支局を中心に、東京、ソウル、北京からも記者を入れ、総力取材の形を取った。
我々北京クルーの取材ミッションは2つ。「南シナ海問題」と「日中関係」だ。
前者の「南シナ海問題」については、ASEAN各国を分断する、中国の巧みな外交戦術が目立った。
最も中国に敵対的なフィリピンは、南シナ海での挑発行為を「凍結」するよう独自の提言を行った。この提言に関しては、アメリカも事前に賛意を示しており、会議前には、共同声明にフィリピンの提言内容が盛り込まれるのではという観測もあった。
しかしそこから、中国の猛烈な巻き返しが始まる。
巨額投資の効果もあり、「親中国」のラオスやカンボジアの支持を得たことはもちろん、フィリピンと共同歩調を取る恐れがあったベトナムの態度を、軟化させることに成功したのだ。
布石はあった。中国は会議に先立ち、ベトナムとの間で火種となっていた、西沙諸島近海の石油掘削施設を撤去していた。また、フィリピンとは行わなかった個別の外相会談を、ベトナムとは行っている。
さらに、中国は今まで消極的だった、南シナ海での「行動規範」作りに、積極的に関与する姿勢も示した。背景には、中国主導でルールを作り、アメリカの介入を防ぎたい思惑もあるだろう。王毅外相は会議で「南シナ海は基本的に平穏だ」と強調し、フィリピンやアメリカを念頭に「いくつかの国が対立をあおっている」と痛烈に批判した。
そして、議長国ミャンマーや、クーデターの影響で外交基盤が不安定なタイの協力も取り付け、最終的には、フィリピンの提案を、骨抜きにすることに成功したのだ。中国は今後も、「海のシルクロード」構想や、「アジアインフラ投資銀行」など、持てるリソースを最大限に使い、ASEAN各国の取り込みと分断を進めていくだろう。
一方、「日中関係」でも、重要な進展があった。岸田外務大臣と、王毅外相が現地時間8月9日深夜に「極秘会談」し、1時間以上も話し合ったのだ。
この日は私も、朝から王毅外相を追いかけまわしていたが、日本との接触については何度聞いても、「何も予定はない」としらを切っていた。ただ、以前の強硬なトーンはなりを潜め、「日中関係の改善を日本が本当に望むなら、いつでも会う」とまで話していた。
また、テレビ朝日のスタッフは、「極秘会談」の前に、廊下ですれ違った岸田外務大臣と王毅外相の姿を目撃している。助手によると、岸田氏が先に手を振り、王氏が簡単な挨拶を返したということだ。
今思えば、この時すでに「極秘会談」は決まっていたのだろう。しかし警備が厳しい国際会議の会場では、自由に代表団の車を追いかけることはできない。2人は周到に別々のタイミングで会場を抜け出し、人目に付きやすい両国代表団のホテルを避けて面会した。事前に会談に気づいていたマスコミはいない。そして、宿舎に戻った岸田外務大臣が記者団の前で話して初めて、「極秘会談」が明らかとなった。
不思議なのは、隠し通そうと思えば隠し通せた「極秘会談」を、岸田氏がわざわざマスコミに明かしたことだ。
翌日には中国側も、「極秘会談」の事実を認めた。あくまで“非公式”に、日本の要請で“仕方なく”会ったというニュアンスたが、「極秘会談」を最後まで隠し通しはしなかったのだ。
おそらく日中両国とも、国内世論の影響などを考慮して、マスコミの前で堂々と会うにはまだ機が熟していないと考えたのだろう。だが一方で、「大臣同士が会えないわけではない」と、段階的に関係改善をアピールする必要もあった。「極秘会談」をわざわざ明かした背景には、「微妙なさじ加減」で、日中関係を改善していく目的があるのだろう。
ASEAN関連会議の前には、福田康夫元総理も「極秘訪中」し、習近平国家主席と会談している。ゴールはもちろん、11月に北京で開かれるAPEC首脳会議での、日中首脳会談の実現だ、日中が間合いをつめていく中で、最大の懸案事項、「島の問題」と「歴史問題」について、どういう歩み寄りができるのかが、今後の焦点となる。
と、ここまで会議を取材して、私は北京に戻る予定だった。
ところが、バンコク支局長の一言で、事態は思わぬ展開を見せる。
「冨坂、悪いけど、カンボジア行ってくれない」
「カ、カンボジアですか??」(次回に続く)
北京支局の守備範囲はどこですか?とたまに聞かれることがある。テレビ朝日系列の場合は、上海にも支局があるので、おおざっぱに言うと中国大陸の北半分が守備範囲だ。
しかし、取材対象は中国1か国だけではない。もう1つの大きな取材対象は、21世紀で最も神秘的な国家・北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国だ。
中国と北朝鮮は冷戦時代、ともに共産主義陣営に属し、朝鮮戦争を戦った「盟友」だ。日本や韓国と北朝鮮の間に、人の往来はないが、中国と北朝鮮の間には定期便が飛び、人的往来が今も続いている。そのため、日朝協議などはお互いの国から行き来しやすい、中国国内(北京や瀋陽など)で行われることが多い。日本の報道機関の北京支局や、北京の日本大使館に、朝鮮語を使いこなせる人員が配置されているのはそのためだ。ただし、テレビ朝日中国総局の3人の記者に、朝鮮語を使えるものはいないので、朝鮮族の助手と協力して、取材活動を行うことになる。
北朝鮮関連で、取材する機会が最も多いのは、北京首都空港の第2ターミナルだろう。ここは北朝鮮の航空会社「高麗航空」の定期便が発着する場所で、要人の往来などを確認するために、我々報道陣も定期的に取材に行っている。面白いのは、このターミナルには、韓国からの航空便も発着しており、まさに「北」と「南」から中国に来る人間たちが交差する場所となっていることだ。
ある時など、北朝鮮の要人を待ち構えている我々のテレビカメラの横に、韓流スターの追っかけと思われる若い女の子が陣取ることもあった。カラフルな服で着飾った韓流スターと、地味な色のスーツに身を包み、金正日バッジをつけた北の要人が、共存する場所は、世界広しといえども、ほかにはないだろう。両者のあまりのギャップに、南北分断の長い時間を感じざるを得なかった。
そんな朝鮮半島を含めた東アジア情勢に、いま大きな変化が起きている。日本と北朝鮮の対話が進む一方で、中国と韓国が接近の度合いを強めているのだ。
日本と北朝鮮の対話は、今年3月に中国東北部・瀋陽市内で開かれた日朝赤十字協議から始まった。私も取材したが、北朝鮮の政府担当者から、「皆さんも(取材が終わったら)一杯やってくださいね」と、記者をねぎらうような言葉をかけられたことが、非常に印象に残っている。
そこから日朝政府間協議の再開→北朝鮮による拉致被害者を含めた再調査の確約→日本独自の制裁の一部解除と、とんとん拍子に話が進んでいる。夏の終わりごろには、北朝鮮の調査結果の第一弾が発表される予定で、安倍総理訪朝のうわさが、いろんな場所で飛び交っている状況だ。
一方、現在の中国と北朝鮮の関係は“微妙”だ。北朝鮮の3代目の最高指導者、金正恩第一書記は、就任して2年以上になるが、いまだ中国を正式訪問していない。それどころか、去年12月には、中国との関係が深いとされる、側近の張成沢(チャン・ソンテク)氏を粛正するという暴挙に出た。核やミサイルの問題に関しても、中国の忠告に「われ関せず」の姿勢で、習近平国家主席にとっては、悩みの種だろう。
対照的に、中国と韓国は「戦後最も仲がいい」と言われている。7月初め、習近平国家主席は中国の最高指導者としては極めて異例なことに、北朝鮮よりも先に韓国を訪問した。韓国にとって中国は最大の貿易相手国であり、「歴史問題」などで、ともに日本に対抗しようという動きもある。
ただし、私も同行取材をして感じたことだが、両国間には、まだ微妙に温度差があるというのが実情だろう。
韓国の最大のジレンマは、安全保障をアメリカに頼っているという現実だ。経済は中国、安保はアメリカと、二股外交を続けていけば、いずれはどこかで限界がくるのは明白だろう。さらに、長い歴史を通じて中国大陸からの脅威を受け続けてきた韓国の国民には、中華民族に対する反発があることも事実だ。ある経営者は、「商売をしなければいけないから中国語を勉強しているけど、日本の方が中国より好きだよ」と、率直に語ってくれた。
「近くて遠い」。東アジア情勢を語る上で、これまで何度も口にされてきた陳腐なフレーズだが、その状況は根本的には変わっていない。それどころか、心理的な距離がますます遠ざかっているような感覚さえある。
去年12月、ユネスコの無形文化遺産に、日本の「和食」が選ばれた。実はその時、同時に韓国の「キムチ」、中国の「珠算(そろばん)」も、無形文化遺産に選ばれていた。テレビ局の人間として自戒も込めて言うが、自国の文化については大きく報道しても、他国の扱いは小さくなってしまいがちだ。でも、よく考えたら、キムチだって、そろばんだって、日本人の生活に欠かせない。大切なのは相手との違いを理解したうえで、尊重することだろう。
日本、中国、韓国、北朝鮮、東アジアの4つの国が、「近くて近い」国になる日がくることを、願ってやまない。
この連載を始めた際に、3月は「政治の季節」と書いた。私見だが、同様に6月は「民主の季節」といえるだろう。
6月4日は「天安門事件」が起きた日だ。「六四」という単語は、中国では今でも公の場で言うことははばかられる。もちろん、ネットで検索しても事件の情報はほとんど出てこない。
「民主と自由」を求めて天安門広場に学生たちが集まったのは1989年。私が13歳、中学校に進学したばかりの時だ。当時、幼いながらも中国で大変なことが起きていると感じたのを、うっすらと覚えている。新聞で、テレビ欄とスポーツ欄以外を読むようになったのは、そのころからだろうか。
あれから25年が経った。中学生のころは想像すらしなかったが、私は中国特派員となり、当時のことを知る人たちを取材する機会に恵まれた。中国の人たちは、「政治的風波(もめ事)」と評価されている天安門事件を、もちろんおおっぴらに評価することはできない。
ただし、当時の指導部で、「民主化」を目指そうとした、胡耀邦氏や趙紫陽氏をしのぶ声は、私が思った以上に強かった。趙紫陽氏の政策ブレーンをしていた男性は、厳しい監視の中で取材に応じてくれ「歴史にイフはないが、天安門事件がなければ、中国は今と全く違った姿になっていただろう」と、率直に答えてくれた。
25年前と比べて、中国の民主化は進んだのだろうか?私は中国外務省の会見で、報道官に直接聞いてみた。彼らの答えは当然「イエス」だ。中国がまとめた人権白書には、全人代(日本の国会に相当)の委員の選出方法がより「民主的」になったことなど、具体的な成果が縷々述べられている。
しかし実際には、一般人が党の後ろ盾もなしに立候補し、全人代の委員に当選することは非常に困難だ。それどころか、民主制度に不可欠な「自由」な言論については、現在の体制になって、締め付けがさらに強まっているように感じる。
5月3日、天安門事件に関する討論会を開いたことが原因で、著名な人権派弁護士の浦志強氏ら5人が拘束された。「騒動を挑発した」という容疑だ。その日から、当局の「圧力」は目に見えて強まっていく。
浦志強氏の弁護士や、彼を取材していた日経新聞の助手までも、次々と拘束された。毎年北京で追悼活動を行っていた「天安門の母」とよばれる遺族の一部は、北京に近づくことさえ許されなかった。
ネット上では勇敢にも、90年代生まれの若者5人が、浦志強氏の解放を求めて写真を投稿した。もちろん、写真はすぐに削除されたが、私は彼らの行動の原動力が知りたかった。直接天安門事件を知らない彼らが、どうしてそんな行動を取ったのか?すぐには手に入らない「民主」や「自由」を求めても、かえって面倒なことが増えるだけではないのか?
幸運にも彼らとは連絡がつき、取材の約束をすることができた。しかし、取材予定日の前日になって、突然、予期せぬショートメッセージが入ったのだ。
「当局にお茶に誘われている。どうしたらいいだろう?」
『お茶に誘われる』というのは、隠語で「当局に面会を求められ、余計なことをしないよう圧力を受ける」という意味だ。彼らに迷惑をかけたくはないので、我々は仕方なく取材をあきらめた。当局が取材直前に彼らを「お茶」に誘ったのは、電話が盗聴されていたからかもしれないが、確たる証拠はない。
「民主」制度は、確かにリスキーではある。有権者が常に正しい判断をするとは限らないからだ。戦前のドイツも日本も、「民主主義」の国家だったが、大衆の支持のもと、戦争へと突入した。
また、アメリカ流の民主主義を、他国に無理やりあてはめることがいかに難しいかは、イラクやエジプトの混乱を見れば一目瞭然だろう。中国が自らの国情にあった民主主義を段階的に目指すという方向は、理解できないこともない。
しかし一般の人には、深刻な悩みがある。家が借りられない、物価が上がっている、大学を出ても、仕事がない。そんな悩みを、どう解決すればいいのか。上からの政策を待っているだけで、本当に自分たちの暮らしは良くなるのだろうか?
彼らの声を政策に反映させるためにも、私は言論・表現の自由に関しては、もう少し広く認めるべきだと思っている。そうしなければ、現状に不満を持つ人たちは、「ペン」ではなく、もっと過激な手段で自分たちの要求をかなえようとするかもしれない。少なくとも、25年前の事件について討論会を開いただけで、「騒動を挑発した」とするのは、少し無理があるように思える。
胡耀邦氏の三男である胡徳華氏は、我々の取材に対し、「中国の民主化は30年近く、何も進んでいない」と断言した。その上で、民主化に最も重要なのは、「指導者の決断」だと、力強く答えてくれた。
今回は会えなかった90年代生まれの若者たち。しかし、いつかはきっと、コーヒーでも飲みながら、彼らと自由に話ができるようになると信じたい。
この1カ月の間に、新疆ウイグル自治区の中心都市・ウルムチで、2件の爆発事件が起きた。
1件目はメインターミナルであるウルムチ駅を出てすぐの駅前広場で、2件目は公園近くの朝市で発生。いずれも人が多く集まる場所を狙った犯行で、複数の容疑者がその場で自爆し、死亡している。1件目では2人が自爆し、1人の市民が死亡、2件目は4人が自爆し、39人もの市民が犠牲になった(数字は5月26日現在)。
私は1件目の事件が起きた直後に、ウルムチに入って取材をした。駅前広場は銃を持った特殊警察が闊歩し、カメラを出して少し撮影するのも、はばかられるくらいの緊張感があった。そこで我々は外の取材をいったんあきらめ、警備の目をかいくぐりながら、周辺の建物を中心に聞き込みを続け、爆発現場の目の前の旅館を取材することに成功した。2階の部屋の窓ガラスは窓枠から外れ大破しており、衝撃の激しさを物語っていた。旅館の主人は、血まみれで運ばれていく女性を目撃したという。 この1件目の事件は、習近平国家主席がウルムチ市を視察した直後に起きた。完全にメンツをつぶされた習近平指導部は、「テロリストを断固として打倒する」という声明を発表。事件の早期解決と再発防止を誓っていたが、2件目の事件を防ぐことができなかった。しかも2件目の事件も、習主席が上海の国際会議で高らかと、「アジアの安全観」を打ち出した直後の犯行だ。2度までも、顔に泥を塗られた習主席は、「テロとの戦争」を宣言、なりふり構わずテロ対策を強化する姿勢を示し、まさに「いたちごっこ」の様相を呈している。
新疆ウイグル自治区でここまでテロが頻発する理由として、少数民族であるウイグル族と、漢族の対立が理由に挙げられる。ウイグル族の「自治区」と言いながら、トップは常に中央から派遣されてくる漢族で、ウイグル族は最高でもナンバー2止まり。街中には漢字の看板が乱立し、中華料理の店もどんどん作られている。そのような境遇を不満に思っている一部のウイグル族が、過激なイスラム思想に影響され、テロを起こしているという説明だ。
もちろん、どんな理由があれ、無辜の人を巻き添えにするテロが許されていいはずはない。しかも、このようなテロが起こるたびに、漢族とウイグル族の対立はますます深まっていく。北京でも、人ごみの中にウイグル族がいるだけで、恐怖を感じると、真顔で語る漢族の知り合いは多い。特に屋台でスイカや羊の串焼きを売っている人たちは、刃物を持っていることが多いから、彼らがこちらに向かってこないかと、気が気でないのだという。
こうした偏見が、また差別を産み、そしてさらなるテロの悲劇を生む。まさに「負のスパイラル」だ。テロリストたちは自らの「命の価値」を顧みず、せっせと「負のスパイラル」を大量生産している。自らは「ジハード」が終われば天国に行けると思っているのだろうが、死後の世界のことなど誰もわからない。というかたぶん、死後の世界など存在しないだろうから、死んだら死ぬだけのことで、それ以上の意味は何もないのだろう。その上で周りに迷惑をかけ、不幸にしているのだから、全く意味のない人生を送っていることになる。
しかし、テロリストのエゴのために犠牲になる一般市民の人たちは違う。彼らは毎日泣き笑い、一生懸命生活してきた人たちである。彼らの「命の価値」は、決して奪ってはいけない貴重なものだ。日本で事件や事故の報道をするとき、被害者についてどう伝えるかは、記者なら誰しも直面する問題だろう。彼らの生前の姿をしっかりと伝えることで、我々は命の尊さを伝えることができると、私は先輩から教わった。遺族の方の家のピンポンを押すのは、非常に躊躇することだ。しかし、前に述べたような理由があるからこそ、我々は遺族の方に許していただける範囲で、被害者の方の実名を出させてもらい、生前の様子を紹介する。
しかし、中国では事情が違う。今回の事件にしても、犯行を起こしたとされる容疑者の名前は公表されたものの、39人の被害者に関しては、性別も、年齢も、民族も、名前も、何一つ公表されないのだ。人の命は「39」という数字だけで測れるものではない。事件の悲惨さを伝える上でも、被害者の情報を伝える意義は大きい。たとえば被害者がウイグル族であれば、テロリストたちは全く無差別に犯行を起こしたことがわかり、彼らの大義名分も色あせることになる。(ちなみに、南京大虐殺の資料館などでは、犠牲者の方について、非常に細かい資料を用意し、実名を挙げて展示しているので、中国政府としても、TPOで使い分けているのかもしれない)
民族問題が絡んだ事件など、敏感なテーマに関しては、我々外国人記者は、なかなか自由に取材をすることは難しい。ただ、何とか犠牲者の人の肉声を伝わるような、そんな事件報道を目指せればと思う。
突然ですが皆さんは「9月18日」が何の日か知っているだろうか?
私も赴任前は知らなかったが、「9月18日」は、1931年に、満州事変のきっかけとなった、柳条湖事件が起きた日だ。「918」といえば、中国人にはピンとくるが、日本人になじみは薄い。また「7月7日」も、七夕だけではない。日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が起きた日で、これも中国人なら知っている。
というわけで今回は、中国人と日本人で認識が全く異なる「歴史」の話を述べたいと思う。
中国外務省の報道官は、日本に対してほぼ毎日「歴史を正視せよ」と言い続けている。「9月18日」に何が起きたかを知らない日本人の態度は、彼らから見れば「侵略の過去を忘れ、歴史を正視しようとしない」態度となるのだろう。
この発言からもわかるように、中国は日中間の対立の舞台を、「島の問題」から、「歴史の問題」へと、大きく拡大しようとしている。特に安倍総理が靖国神社に参拝した去年12月以降は、「歴史戦」という言葉が、新聞紙面を飾ることも多くなった。
「歴史戦」とは、簡単に言うと、戦争の加害者であり敗者である日本と、被害者であり勝者である中国、という構図の下で、中国に有利な世論を作り上げようという戦いだ。過去を変えることはできないので、中国側に非常に有利な論理構成なのだが、その歴史戦の舞台は多岐にわたる。
まずは「司法」の場での歴史戦だ。これまでは裁判所が受理してこなかった、日中戦争時の強制連行に対する損害賠償請求訴訟を、今年に入って初めて北京の法院が受理し、同様の訴訟が相次いでいる。中国でも、「司法の独立」が建前だが、政治的な判断が訴訟受理につながったことは想像がつく。
次に、「メディア」を巻き込んだ歴史戦だ。中国外務省は今年に入って、外国人記者向けの歴史問題取材ツアーを、3回も開催している。1回目は遼寧省の捕虜施設などに、2回目は「南京大虐殺記念館」に、外国人記者を招き「歴史を正視」させた。さらに3回目は、吉林省長春市の「吉林省資料館」の取材機会を設け、私もその取材に参加した。
長春市は旧満州国の首都だった街で、日本のお城のような旧関東軍司令部がそのまま残っている。関東軍は終戦時に自分たちの資料を焼却したり、土に埋めたりしたのだが、1950年代に、その資料が地中から発見された。そしてその資料の一部が今回、「日本の戦争犯罪の証拠」として、外国人記者に公開されたのだ。かなり以前に発見された資料が、60年以上も経ったいま公開されるというのも、「歴史戦」の一環とみれば納得がいく。
さらに、「国際社会」を舞台にした歴史戦も展開されている。一例が、1月に完成した「安重根記念館」だ。伊藤博文を暗殺した安重根は、韓国の歴史ではヒーローだが、日本の歴史では犯罪者だ。第三国の中国は、今まで表立って安重根を評価してこなかったが、朴槿恵大統領の提案を習近平国家主席が受け入れ、「愛国の義士」として、急ピッチで記念館を完成させた。「歴史戦」における、韓国との連携が始まったといえる。また、デンマークの女王が「南京大虐殺記念館」を訪問したことも、国際社会を舞台とした歴史戦の一端だ。
では、このように多岐にわたる「歴史戦」の中で、日本は何をすべきなのだろうか?私見だが、自らの立場を繰り返し愚直に説明し、国際社会の理解を得ることが、遠回りに見えて、一番確実な方法なのだろうと思う。
その好例が、4月に日本大使館の堀之内秀久特命全権公使が出演した、香港フェニックステレビの討論番組だ。ほかの出演者がほぼ中国人という「完全アウェー」状態で、堀之内公使は日本の平和主義が戦後一貫していることや、軍国主義化する懸念は不要だといったことを、流ちょうな中国語でジョークも交えながら力説した。テレビ番組の出演は、悪意を持って編集される可能性があるため、リスキーな行為ともいえるが、今回の番組は編集も非常に中立的で、出演する意義は大きかったと思われる。
最後に、「歴史戦」そのものをなくす方法を、提案したいと思う。
そもそも、歴史を正視することは難しい。正視というのは正しく見ることだが、正しいか間違っているかは非常に主観的だからだ。先に述べた関東軍の資料であっても、立場によっては解釈が180度変わってくる。そこで私は、吉林省の資料館で、担当者にこう質問してみた。
「これらの資料は中国側だけ研究したのですか?日本と共同で研究したのですか?」
担当者の答えは、「中国側だけで研究したもので、今後も共同研究の予定はない」というものだった。毅然とした態度だったが、それは学術的な態度というよりは、政治的な態度のように見えた。
共同で歴史を研究し、日中で一つの結論を得ることができれば、歴史戦の火種は消える。しかし、歴史戦の舞台を最大限利用しようとする現在の中国においては、それはできない相談なのだろう。
私は日本人は、過去の行為をもっときちんと知った上で、反省すべき点はしっかり反省すべきだと思っている。一方中国の人には、過去の行為だけを見るのではなく、これからの未来の可能性にも、目を向けてほしいと思う。
過去にこだわりすぎる中国と、過去にこだわらなさすぎる日本。お互いが「正視」する歴史の距離を、一歩ずつ縮めていった上で、歴史戦という不毛な戦いが一刻も早く終わることを、心から望んでいる。
今月から連載をすることになりました、テレビ朝日中国総局記者の冨坂範明と申します。このコラムでは、私が中国での日々の生活や取材の中で感じたことを、「ひとりごと」として、書きたいと思っています。読者の皆さんが、中国の姿を知るお手伝いができればと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。(このコラムで述べる見解は個人の見解であり、所属するテレビ朝日の見解ではありませんので、ご理解ください)
<以下本文>
3月は中国では「政治の季節」だ。日本の国会にあたる「全人代=全国人民代表大会」と、共産党以外の政党も含めた団体、業界の代表者らが話し合う「政協=政治協商会議」と呼ばれる2つの会議が北京で開かれるからだ。この2つの会議は「両会」と言われ、委員の数は合わせて、およそ5000人に上る。各地の有力者が北京に集結してくるため、宿泊するホテルや市内の警備も厳しくなり、新聞やテレビも「両会」の関連報道一色となる。
去年の7月に赴任した私にとっては、初の「両会」取材だ。いつも前を通るだけだった、「人民大会堂」の中にも、初めて足を踏み入れた。重厚な石造りの建築物である点や、赤じゅうたんが敷かれている点などは、日本の国会議事堂と似ているが、規模はこちらの方が数倍大きいだろう。3000人近くの代表が党・政府の指導部と向かい合う様は、まさに壮観だ。
記者にとっても、「両会」は貴重な取材機会だ。「全人代」や「政協」の代表には、政治家だけではなく、IT企業の社長や、ジャッキー・チェンのような有名人も含まれる。正式に取材を申し込んで許可が下りそうもない相手でも、大会堂から出てくるところを直撃することができるのだ。また、それぞれの省が開く「分科会」の一部は、記者にも開放され、質疑応答の機会も設けられている。記者たちは千載一遇の機会を逃すまいと、司会者から一番目立つ場所で、競って手を挙げるのだが、この記者会見が実は曲者だ。
実は中国のメディアは、大きく2種類に分けられる。「新華社通信」や「人民日報」、「CCTV(中国中央テレビ)」と言った、“官製”メディアと、「南方週末」など、独自の報道を重んじる“その他”のメディアだ。そして、“官製”メディアは、読者や視聴者に向かい合う一方で「党」や「政府」とも向かい合っている。わかりやすく言えば、「報道機関」である一方で「宣伝機関」でもあるのだ。
地方から出てきて記者会見を開くリーダーとしては、余計な質問が飛んできて、面倒な事態になることを避けたい。かといって、分科会を記者に開放しないと、閉鎖的だと批判を受ける。そこで彼らがよく使う手は、“官製”メディアと談合して、あらかじめ質問する記者と内容を決めておくというものだ。
当然、質問は「今年の目標は何ですか?」と言った、生ぬるいものとなり、答えるほうはあらかじめ用意してある解答を長々と答え始める。そのたびに、ほかの記者からは失望と怒りのため息が漏れるのだが、質問した“官製”メディアの記者は涼しい顔だ。ひどい記者になると、まだ会見が続いているのに、自分が質問を終えるといなくなってしまうこともある。それでも、ほかの記者は必死で手を挙げつづける。司会者が間違えて自分を当ててしまう「万が一」の可能性に望みをかけて…
しかし時は無情に過ぎていく。たいていの場合はそのまま時間切れとなるのだが、私が取材していた四川省の会見では、ちょっとした異変があった。会見を打ち切ろうとした司会者に対して、当てられていない記者たちが大声で質問を浴びせかけたのだ。
「反腐敗の問題を話してくれ!」「腐敗問題について一言!」
これには伏線がある。実は四川省は、去年から今年にかけて、党や政府の高官が相次いで腐敗問題で失脚しており、その背景にはかつての共産党最高指導部の一人、周永康氏の汚職問題が関わっているとされる。四川省の分科会に詰めかけた内外メディアの記者たちは、汚職問題についての見解を聞こうと、待ち構えていたのだ。
記者たちの怒声にも似た叫びを聞いた四川省トップは少し考えた後、立ち去ろうとして浮かした腰を椅子に戻した。そして、おもむろに答え始めたのだ。
「多くの高官が調査されているが、それは四川省を代表するわけではない。四川省は反腐敗の旗を高く掲げる」
やりとりとしてはわずか2分くらいで、無難な答えだったが、それでも四川省のトップが記者たちの叫びに耳を傾け、向かい合ったことを、その場の記者たちは評価していた。
私は日本でも政治家を取材した経験があるが、政治家へのアクセスは、中国よりもずっと簡単だ。国会の廊下でぶら下がることもできるし、許可を得て議員会館の部屋にお邪魔することもできる。一年生記者が総理や官房長官に質問をすることだって可能だ。しかし中国はこの「政治の季節」を逃すと、政治家へのアクセスが非常に難しくなる。だからこそ、彼らは必死でネタを捜し、政治家たちを追いかけ、会見で手を挙げ続けるのだろう。
もちろん、“官製”メディアの中にも、自分のテーマを真剣に追いかけ続ける優秀な記者もいる。“官製”メディアの在り方に疑問を感じて、辞めた記者もいる。
今回の「両会」が開かれている最中に、中国人100人以上が乗ったマレーシア機が突然連絡を絶った。乗客の家族が滞在するホテルには、「両会」の記者証を胸に着けたままの記者が多数詰めかけた。ホテルのロビーに座って仮眠をとり、乗客の無事を祈りながら取材を続ける記者の間には、“官製”や“その他”といった区別はない。結局は「正確な情報」を「より速く」伝えることが、何よりも大切なことなのだろう。私もホテルのロビーに座りながら、そんなことを考えていた。
2011年9月1日正午、私を乗せた飛行機は北京空港に降り立った。天気は快晴。これから一年間の中国生活、一体何が待ち受けているのか?期待と不安が入り混じった心境で、入国審査を済ませた私を、大学の先生が迎えてくれた。聞くと、彼は私と同じ36歳だということだ。
「北京は秋が一番いい季節だよ。でも秋はとても短い。暑い夏が終わると、すぐに寒い冬が来る」簡単な挨拶と自己紹介を済ませ、私たちは車に乗り込んだ。そこで開口一番、彼が発した言葉が、今でも強く印象に残っている。
「日本の総理は今誰だっけ?どうして毎年総理が変わるんだ?」
折しも前日、国会で野田佳彦総理が選出されたばかりだった。野田総理は、私が記者として担当したこともあったので、彼の人となりについて、先生に教えてあげることができた。しかし、「どうして首相が毎年変わるのか?」という素朴な質問については、すぐに答えることが出来なかった。そこで私は、逆に先生に聞いてみた。「どうして中国のリーダーはずっと変わらないんですか?」先生は本気か冗談かわからない口調でこういった「それはとても優秀だからだよ」
なるほど、13億人から選ばれているリーダーだから、やはり優秀なのか。でもどうやって選んでいるんだっけ?それとも、彼は冗談を言っていて、私は笑ったほうがいいのだろうか?
そんなことを考えているうちに、車は大学へとたどり着いていた。
大学についてからの手続きはまさに「中国式」の連続だった。聞くと、本来入れるはずの部屋がまだ工事中で、部屋がないのだという。じゃあどこに住むのか?授業はいつから始まるのか?授業までに何をすればいいのか?慣れない中国語でどんどん要求しなければ、事は何も運ばない。「待っていては駄目」というのが、中国に到着してまず得た教訓だ。
翌日行われた身体検査でも、トラブル発生。ビザを取るために預けたパスポートが、何日待っても帰ってこないのだ。挙句の果てには「本当に預けたのか」とこちらが疑われる始末…。結局、大学の先生にも協力してもらい、何度も当局に足を運んで、ようやくパスポートを取り戻すことができた。でも、担当者が「对不起(すみません)」と謝ってくれることはまず無い。やれやれ、なんだか疲れるなあ〜。
そんな私を癒してくれたのは、実は中国の屋台だった。祭りの縁日くらいしか屋台が出ない日本と違って、大学の西側には毎日屋台が何台も並び、非常に賑やかだ。しかも、とても安くて美味しい。「羊肉串」(羊の串焼き)「糖葫芦」(あんず飴)「臭豆腐」(その名の通り臭い豆腐。でもうまい)などなどが、私のお気に入りだ。中国の人たちと道端に座って屋台で買った食べ物を食べているときが、私にとっての至福の時間だ。そういえば、買い食いなんて、しばらくしていなかった。
こうして北京をぶらぶらする中で、私はまたあることに気がついた。物の値段の感覚が日本とぜんぜん違うのだ。屋台の食べ物はだいたい5元程度(70円程度)、地下鉄は2元(30円程度)で乗り放題、でも最新のiPhoneは平気で6000元(8万円以上!)くらいする。そして、屋台で買い食いをしている人たちの中も、平気でiPhoneを操作している人がいる。ものすごい勢いの経済成長は、明らかな貧富の差を生み出した。だから彼らは、お金についてはとても敏感だ。仲良くなれば、お互いの給料を聞くことも、別におかしいことではない。後から知ったことだが、一旗揚げるために北京に来る若者たちを「北漂(ベイピャオ)」というのだという。北京の街全体を覆っている活気の正体は、実は「漂流している」彼ら一人一人が発している「焦り」のオーラなのかもしれない。
こうして私の留学生活は始まった。もちろん、中国の人も日本の人も千差万別、一括りにして話すことはできない。だからこの連載では、私が実際に出会って、話した人との思い出を中心に書きたいと思う。そこから皆さんが、日中の相互理解に役立つ何かを見つけてくれれば幸いだ。
ところで最後に、皆さんに聞きたいことがあります。どうして日本の総理は、毎年変わるんですか(笑)?
私はテレビ局で働いている。なので、テレビ事情には関心が強いのだが、中国で真っ先に気になったのが、ゴールデンタイムのドラマの特殊性だ。
日本のドラマは恋愛ドラマが主流で、次に来るのが刑事ドラマ、病院ドラマといったところ。しかし、中国では先の日中戦争を描いたドラマが非常に多い。このようなドラマは「抗日ドラマ」と呼ばれている。もちろん、日本人は悪役で、劇中では「日本鬼子」と呼ばれる。もはや人ではなく鬼だ。毎日こういったドラマを見ていれば、私だって日本人が嫌いになる。
ただ翻って考えると、日本人の中国人観にも、画一的なイメージが無いだろうか?「マナーが足りない」「大声」などだ。それはきっと我々日本のマスコミにも一因があるのかもしれない。限られた電波を使って、多面的に物事を伝えることは、非常に難しいことだ。
そんな「偏った」状況の中でも、日本に興味や関心を持ってくれている大学生がたくさんいることに、私は感動した。彼らの興味のきっかけは、主にアニメやファッション、ゲームなどだ。個人的に彼らと交流することで、私自身が抱いていた中国像もやはり偏っていたことを痛感させられた。マクロな分析も大事だが、一番大切なのは、人と人との生の交流なのだろう。そう思い、私はなるべく多くの人と交流するように心がけた。そんな中で参加した、ある病院のボランティア活動の思い出が、強く心に残っている。
私が参加したのは、[临终关怀]というボランティアで、簡単に言うと、日本でいうホスピスのような病院に入院しているお年寄りの方をお見舞いする活動だ。入院されている方の多くは、癌のような治らない病気を抱えている。なので、私はある程度悲壮感が漂う雰囲気を想像したのだが、実際に訪れた病院は、非常に明るく清潔で、患者さんもとてもリラックスしているように感じられた。 日本人ということもあり、私たちが通されたのは、日本語を話せるおじいちゃんの部屋だった。「お名前は何ですか?」と私が尋ねると、「王です」とはっきりとした日本語で答えてくれた。聞くと、東北地方の出身で、かつての満洲国で暮らしていたという。満洲国のことは、もちろん歴史の勉強で知っている、ただ、実際に満洲国で暮らしていた中国の人と会うのは、初めての経験だ。何と話していいのかわからない私を尻目に、おじいちゃんはこう切り出した。
「日本の歌を歌えますよ。一緒に歌いましょう」。
そして、私が首を縦に振ったのを確認すると、おじいちゃんはゆっくりと歌い出した。
「き〜み〜が〜よ〜は…」
おじいちゃんが歌えるという歌は、日本の「君が代」だった。おじいちゃんに合わせるように、私もゆっくりと大きい声で歌った。「君が代」を歌うのは、何年ぶりだろうか?周りにいた中国の人達も、この歌が日本の国歌だということは、うすうすわかっているようだった。ただ、嫌な顔ひとつせず、一緒に手拍子をしてくれた。
「ありがとうございました」
私が歌い終わったおじいちゃんにお礼を言うと、間髪入れずに婦長さんが切り出した。
「じゃあ次は、中国の歌を歌いましょう」
そして、自ら手拍子を取り、歌い出した歌は、中国の国歌だった。
「起来〜!不愿做奴隶的人们!」
おじいちゃんも歌い出し、周りの中国の人も歌い出し、病室は大合唱となった。もちろん、私は歌えないので、一緒に手拍子を取るのが精一杯だった。
実は中国の国歌は、抗日戦争の時の軍歌がそのまま使われている。「奴隷になりたくなければ、立ち上がって戦え」という歌詞だ。2つの国の国歌を歌えるおじいちゃんは、きっと2つの国の間で翻弄された人生を送ってきたのだろう。
病室の他の人達も、孫の世代の大学生たちに色々な話をしてくれた。英語が堪能で、香港や上海で翻訳として活躍していたというおばあちゃん、文化大革命の時に大変な思いをしたという知識層のおじいちゃん、彼ら一人一人が、戦争や内戦の混乱を乗り越えた、まさに波乱の人生を送ってきていた。
最後に病室を出る時、あるおばあちゃんが私にこう話しかけてきた。
「中国語を勉強しているのですね。じゃあ一つ言葉を覚えて帰って下さい」
彼女が教えてくれた言葉は「一衣帯水」という言葉だった。日本と中国の関係は、まさに一つの帯のような川で隔てられているだけで、交流するのに何の障害もないという意味だ。ただし、その川は時には激流となり、両岸の人たちの運命を翻弄してきた。
日中両国の国歌を聞いた中国人の学生たちも、色々と感じるところは大きかったようだ。
これからの21世紀、日中の間に流れる川はどんな姿を見せるのだろうか?きっと、なるべく多くの橋をその川にかけて、なるべく多くの船をその川に浮かべることが、私たちの世代にとって大切なことなのだろう。帰りのバスで、多くのおじいちゃんおばあちゃんの話を思い出しながら、私はそんなことを考えていた。