(写真)北京で行われた東日本大震災チャリティイベントに参加してくれたクラスメイトたち。いち早く日本が復興できると彼らは信じてくれています。
<プロフィール>
1982年生まれの一人っ子、湖南省出身。地方企業に勤める両親のもと、比較的貧しい家庭に育つ。大学では珍しく中国農業大学で栄養学科を選択。母親の影響もあり、食品に興味があり、大学卒業後はカップ麺や飲料で有名な康師傅(カンシーフー)でプロダクトマネジャー、乳製品大手の中国蒙牛乳業でブランドマネジャー、アサツーディ・ケィ(北京支社)で広告マンを経験し、長江商学院MBA入学。クラスメイトをとても大事にし、元広告マンらしくとてもおしゃれなバーリンホー。
親から口酸っぱく言われたのは、「お金のために働くな。人を大切にし、社会に貢献せよ」
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 父親は印刷会社、母親は食品会社で働いていた。家庭環境は平均以下で、比較的貧しい家庭だったと思う。中国はここ10年、金持ちになることが大きなゴールと考えられているが、私の母親は「家族・人を大切にし、社会に貢献することが一番大切だ」と私によく言ってくれ、今の私の考え方に大きな影響を与えている。両親は私の教育に関しては厳しくはなかったが、独立心を持ち、責任感を持って生きるようによく言われた。
Q. 中学、高校、大学時代はどんな生活だった?
A. 中学、高校は数学が得意だったが、MBAの同級生と比べると成績はそれほどよくないと思う。田舎育ちだったので、大学はとにかく憧れの北京に行きたかった。当初は大学でエンジニアを専攻したかったが成績が届かず、結局、母親の影響で食品に興味があったので中国農業大学栄養学科を選んだ。全体で68名、男女比は1:1、ほとんどが北京以外出身で地方色豊かだった。大学でもよく勉強した。英語に関しては、同級生の多くが海外への留学を希望していたので、私も負けないようにしっかり勉強した。卒業後、女性の半分は大学院へ、男性の大半は就職、3人が大学院へ海外留学した。
若くしてブランドマネジャー、ADKで広告マンを経験。将来は急成長する中国食品市場で自らコンサルティング会社を設立するのが夢
Q. これまでのキャリアは?
A. 卒業後は、栄養学科で培った食品の知識を活かすべく、中国最大手の食品事業グループ康師傅(カンシーフー)(台湾企業)でアシスタントプロダクトマネジャー(北京担当)として働き始めた。ここの上司が素晴らしい人で多くのことを彼から学ぶことができた。上司の推薦で、その後、乳製品メーカー大手の中国蒙牛乳業にプロダクトマネジャーとして転職。あの頃の食品産業は中国の経済成長に伴い、急速に発展しておりどんどんマーケティング施策が功を奏し、とても楽しかった。蒙牛では中国全土をカバーでき、1年後にはブランドマネジャーに昇格。マーケティングの立案、予算の作成・実行とブランド全体のマネージができた。蒙牛は設立1997年で従業員が比較的若く、若手にどんどん仕事を任せてくれる元気のある企業だった。蒙牛在籍時に既に長江商学院MBAに入学が決まっていたが、入学までまだ1年あった。ちょうどその時、蒙牛の広告代理店だったADK(アサツーディ・ケィ)(北京支社)のジェネラルマネジャーから、MBAに入学するまでの間ADKで働いてみないかと誘いを受け、働くことに決めた。これまでのメーカーサイドからコンサルティング・サービスサイドへの転職はとてもよい経験になった。ADKは職場の雰囲気がよく、楽しく生き生きと仕事ができた。
Q. これまでのところ長江商学院MBAはどんな感じ?
A. とても満足している。最も貴重な財産は優秀なクラスメイトに尽きる。この家族的なつき合いが好きだ。将来は彼らと一緒に協力してビジネスを手がけていきたい。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、マッキンゼー、ボストンコンサルティングなどマネジメントコンサルティング会社でまずは働き、自分に箔をつけ、マネジメントに関するコンサルティング力をつけたいと考えている。なぜなら、将来は自分で会社を持ちたいと考えており、中国企業の大半を占める中小企業をターゲットに、コンサルティング、特に成長著しい食品関連やマーケティングのコンサルティングを手がけていきたいからだ。
(写真)第7回に登場したクラスメートのココと北京コンシェルジュ勤務の孫さんの結婚披露パーティー。クラスメートと北京コンシェルジュの皆さんで彼らの新たな門出を祝いました。
<プロフィール>
1979年生まれの一人っ子、北京出身。両親、祖父母ともに高等教育を受けた家庭に育ち、学生時代、勉強は常にトップ。一方、ヴィオラ奏者として北京で最も有名な楽団で演奏を6年間続けた。大学・大学院は北京航空航天大学で飛行機に応用される自動制御工学を専攻。卒業後は、ドイツ系ロジスティクス企業DHLでプロジェクトマネジャーを経験。MBAでマネジメントを学び、今度は中国企業(ベンチャー)で会社全体をマネージするのが目標。
教育熱心な家庭に育ち、勉強は常にトップ。学生時代一番夢中になったのはヴィオラ
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 父親は共産党員、エンジニアとして政府系通信社の新華社に勤務、母親は薬剤師として病院に勤務していた。祖父も新華社勤務で、日本で8年働いたことがある。祖母は学校の先生だった。両親、祖父母ともに高等教育を受けた家庭に育ったので、教育に関しては厳しかった。一方、母親からはバイオリンを習うように薦められ、8歳の頃に習い始めた。その後、北京で一番有名な楽団にヴィオラ奏者として参加し、度々大きな舞台で演奏できたのはとても楽しかった。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 親の影響もあり勉強はよくしたし、いつもクラスでトップだった。ヴィオラは、平日は自分で練習し、週末にオーケストラメンバー全員で練習した。とにかくオーケストラの先生は厳しいことで有名で、たくさん彼女に叱られ、わんわん泣いた思い出があるが、その分、厳しい環境の中でヴィオラを6年以上続けたことで忍耐強くなり、それが今の私の強い精神力につながっていると思う。それに、その先生があまりにも人に対して厳しい人だったので、私は人に対しては寛容にしようと決めたのを覚えている。仕事をしているときも顧客や同僚、部下に対しては寛容で、相手の気持ちを考えて行動できるようになった。
大学は、当時(1997年)人気があった自動制御工学(Automatic Control)を専攻するために、中国最高峰の航空宇宙分野の高等教育機関である北京航空航天大学に入学した。大学でもトップの成績で、大学院に進学するときは無試験で入れた。勉強以外に、大学時代は合唱団に入り指揮者をしたり、卓球クラブに入ったり、大学院時代は劇団に入団し、劇を演じたりして幅広く活動した。これらも小さいころからヴィオラの厳しい練習に耐え、厳しい先生の下で鍛えられたおかげだ。でも一番好きなのはヴィオラじゃなく、ダンス!大学で社交ダンスを習い、MBAに入学してからはベリーダンスを楽しんでいる。
ドイツ系ロジスティクス企業でプロジェクトマネジャーを経験するも、外資系企業に限界を感じ、MBAに入学。卒業後は、中国企業で自分の力を思いっきり試したい
Q. これまでのキャリアは?
A. 卒業後は、ドイツ系ロジスティクス企業のDHLで6年間働いた。当初はソフトウェアエンジニアとして働き始めたが、次第にプロジェクト全体を任せられるようになり、入社3年後にプロジェクトマネジャーに昇進した。とても優れた会社で大きく成長できたし、仕事内容も満足している。6年目には週1回中国全体の経営戦略会議に出席でき、上司も私のことを高く評価してくれていたが、上司は外国人が多く、戦略も他の国のものに従うことが多く、中国にある外資系企業の窮屈さを感じざるを得なかった。やりたいことができないし、自分のキャリアの天井が見えたという感じだろうか。もっと責任があり、仕事が任せてもらえるポジションに就きたいと思い、長江商学院MBAに入学し、マネジメントや戦略を学び、ステップアップしたいと考えている。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、私営の中国企業に勤めて(ベンチャーでもいい)、自分の力を思いっきり試したいと思っている。とにかく会社のゴールの設定から、戦略立案・実行、ファイナンスまで経営に関わることすべてに関わっていきたい。長江商学院EMBAの卒業生からはこのようなオファーはたくさん貰っているので、卒業までに自分に合う一番の企業を選びたいと考えている。
(写真)授業中の質問回数はクラス一。成績、同級生と学校からの評価もクラス一のロバート
<プロフィール>
1980年生まれの一人っ子、遼寧省丹東出身。両親ともに同じ国営製紙メーカーに勤め、普通の家庭に育つ。学業は常にトップ。大学は清華大学生物医学部に入学。大学時代は、生体の機能・役割を科学的なアプローチで研究、コミュニティ活動では会長を経験。卒業後は、医療ビジネスに興味が高かったので、東芝(メディカル部門)、アメリカ系Chindex社、中国系Mindray社でマーケティングディレクターを務める。とにかくチャレンジ大好きで、クラス一の秀才。妻と子供と3人暮らし。
根っからの秀才タイプで、清華大学生物医学部に楽々入学。卒業後、渡米し博士号を取得する多くの同級生とは違って、医療ビジネス界で活躍を目指す
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 両親ともに国営製紙メーカーで働いていた。地方では大きな会社で、雇用は安定していた。しかし、1980年代半ばから中国が計画経済から市場経済に移行したのを機に、会社の業績は一気に悪化し、午前中だけの勤務になったり、50歳の頃に退職を強いられるなど、家庭環境はそれほどよくなかった。親の教育に関しては、私は勉強がよくできたので勉強に関して親から特に指示されたことないが、生活習慣などのしつけに関しては厳しかった。早寝早起き、礼儀正しさ、指示に従うなど基本的なことだが、徹底的に親がしつけてくれた。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 中学、高校は勉強一本だった。他の同級生も皆同じ。当時、中国、特に私の地方では勉強だけが豊かな人生を送れる唯一の道だったと思う。常にクラスでトップだった。大学は競争倍率100倍以上の清華大学生物医学部に入学。この学部は生物学と医学を組み合わせ、科学技術を用いて生体がどんな機能や役割を有するのか研究する学問。大学時代は生物医学にとても興味があったので勉強はよくしたが、パートタイムジョブやコミュニティ活動の会長を経験するなど積極的に勉強以外の活動に参加した。卒業後、同級生の半分は研究と博士号の取得にアメリカに行った。中国では教授やエンジニア・科学者はとても尊敬されており、私もその道に行こうと考えたこともあったが、自分はビジネス向きだと認識していたので、卒業後すぐに働き始めた。
とにかくチャレンジングな会社で働きたい!Mindray社勤務時代はタイ支社を自ら設立、20代ながら20人をマネジメントした
Q. これまでのキャリアは?
A. 大学卒業後、北京にある東芝(メディカル部門)で働き始めた。大学時代、生物医学を専攻したため医療ビジネスに興味があり、当時、中国の医療ビジネスで先頭を走っていた東芝に決めた(2002年7月)。東芝は1980年から中国でビジネスを開始し歴史が長く、GEなど欧米系大手メディカル企業は後発組だ。現場の社員はほぼ中国人、日本人は管理職が多かったので、現場で働いていた私にとっては中国企業色が強かった。入社半年は研修で、その後、山東省や河北省のセールスを担当した。東芝で1年が経ち社会人生活もようやく慣れてきた頃に、会社から中国南西部への赴任を命じられ、恋人や北京から離れるのが嫌だったので、アメリカ系Chindex社に転職した(2003年7月)。
ここではセールスを経験後、マーケティング部に移動になり、中国国内のマーケティングを徹底的に学ぶことができた。約3年が経過したとき、医療業界で急激に業績を伸ばしていた中国企業Mindray社が国際マーケティングの職を募集していたので、得意の英語とこれまでのマーケティング経験を活かしたいと思い、Mindray社に転職した(2006年2月)。
Mindray社は2006年にニューヨーク証券取引所に上場、年率50~80%の成長率を達成、数少ない中国企業でグローバル化に成功した企業だ。コアコンピタンスは、日米欧に比べて安い労働力(研究開発費)と日米欧が積極的ではない新興国にターゲットを絞った点だ。1991年設立と比較的新しい企業だが、品質面もようやく日米欧企業に劣らない水準まで来ていると思う。私はアジア全域を担当し、よく日本にもビジネスで行ったが、結局、日本の当局の販売許可が下りず、日本は断念したのを覚えている。タイでは自ら支社を開設し、そこのトップを務めた。ローカル人材も採用し、20名をマネジメント、とてもやりがいと責任のある仕事をできとても満足している。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A. きっかけは、ここ数年会社の成長速度が落ちてきて、以前ほどチャレンジングな仕事ではなくなった点だ。長江商学院は英語で行われ、ビジネスにフォーカスした学校なので、とにかく教授の質が高い。ここに集まるクラスメイトの質も高く満足している。8月から交換留学でコロンビアビジネススクールに3か月ほど行くので、アメリカの医療ビジネス業界を研究してきたい。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、とにかく勢いのある医療ビジネスを行う企業で会社全体をマネジしていくポジションに就きたい。私はとにかくチャレンジングな仕事が好きなので、どんどんチャンレンジさせてくれる企業がいい。将来は(40歳以降)、小さい頃の夢だった教授になるか、チャンスがあれば自らビジネスを立ち上げる予定だ。
(写真)留学生にとことん親切なペニー。チューリップ満開 の北京森林公園で
<プロフィール>
1979年生まれの一人っ子、江蘇省出身。父親は軍事医、母親は中国語の教師で、高等教育を受けた両親のもとに育つ。学生時代は英語が大好きで、度々英語スピーチコンテストに出場し、賞を獲得。大学卒業後は、中国系、米系のソフトウェア企業でマーケッター、特にPRスペシャリストとして勤務。既婚で、子育てと勉強を両立させつつMBA生活を送っている。
中学1年時で早くも留年を経験し、人生の大きな転換点に。学生時代は度々英語スピーチコンテストで賞を獲得
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 父親は共産党員、軍事医として長い間軍隊で勤めていた。退役後は国営病院を経営するポジションに就いた。母親は中国語の教師だった。両親ともに普段は教育、しつけは厳しくなかったが、私が小学校では遊んでばかりであまり勉強せず、中学に入っても勉強に集中していなかったので、母親が教師と相談し、私を2年生に進級させず、1年生をもう一度させることに決めた。私はとてもショックで、同級生に対しても恥ずかしかったが、この時から勉強に一気に集中するようになり、その後はずっと成績はトップクラスだった。これは人生の大きな転換点だった。それと、両親は医者や教師として勤めた経験から人に対する思いやりや責任感が強く、私の個性によい影響を与えてくれている。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 前述の中学1年時で出会った人生の転換点から、中学、高校ではよく勉強した。特に英語が好きで、よく英語のスピーチコンテストに出場し、多くの賞を取った。これは小学校の時にコーラス部に入って歌を歌うのが大好きで、人前で披露するのが得意だったことも影響していると思う。大学は中国語と英語をさらに深く勉強したかったので、北京第二外国語学院に進学し、国際コミュニケーション学を専攻した。中国語クラスは中国文化、文学、歴史など、英語クラスは総合英語で幅広い教養を勉強した。大学でも引き続き英語スピーチコンテストに度々出場し、学内コンテストで2番の賞を取ったときはとても嬉しかった。
得意の英語とコミュニケーションスキルを活かし、外資系企業のマーケッターに。ただし、外資系企業の昇進基準に不満を抱き、MBAで人生ひと休み
Q. これまでのキャリアは?
A. 英語でのコミュニケーションが得意だったので、マーケティングが自分に合っていると思い、大学卒業後、中国系ソフトウェア企業Beyondsoft社でマーケティング担当として働き始めた。1年後、もっと英語を活かしてマーケティングをやりたいと思い、米系大手ソフウェア企業Sybase Software社にPRスペシャリストとして転職した。ここでPRに関わる仕事をひと通り経験できたのは良かったが、PRエージェンシーに頼ることも多く、主体的にビジネスを回せていたとは言いがたい。社員はとても優れており、いい人が多かったので、不満に思いつつも4年間も働いた。ちょっと後悔。その後、米系半導体ソフトウェア企業ALTERA社でシニアマーケティングコミュニケーションスペシャリストとして働いた。ALTERA社は世界中でビジネスを展開しており、マーケティング担当として常に海外オフィスと連絡を取りながら仕事をし、グローバルな環境の中、得意の英語とマーケティングをフルに活かせ、とてもやりがいがあった。ここでも約4年間働き、多くの経験が蓄積でき、満足している。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A. Sybase社やALTERA社でも同じことが言えるが、外資系企業の場合、どうしてもキャリアに天井が見え、かつ、昇進の尺度が不明確で、昇進に関して不満があった。それと、2009年に子供が生まれ、大学卒業後9年間働き続けひと休みしたかったので、MBAで人生の休息を取りつつ、新たな道を探そうと思い、ビジネスでは有名な長江商学院MBAに入学した。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、マーケティング部門のマネジャーポジションにまずは就きたい。遠い将来は子ども教育のビジネスを自分でやりたい。具体的にはこれまでも英語が得意だったので、小学入学前の子どもに対する英語教育に力を注ぎたいと考えている。
(写真)クラスメートとスペインのバルセロナ旅行へ出かけたTony。 8月から交換留学のためニューヨークへ。常に世界を見据えています
<プロフィール>
1984年生まれの一人っ子、北京市出身。両親ともにエンジニアとして長らく国営企業勤務。その後、父親は起業し、会社経営に従事。学生時代は知的好奇心が強く、勉強だけでなく、水泳、合唱団を経験。特に大学時代は朝から晩まで図書館に入り浸るのが大好きだった。大学卒業後、父親の会社でエンジニアとして約4年間勤務。長江商学院MBAに入学し、エンジニアからファイナンスの世界へキャリアチェンジを目指す。四川省出身の美人な嫁がいる。
厳しい教育・しつけの両親の下、6歳から英語漬け。学生時代は勉強、水泳、合唱団とマルチタレントを発揮
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 父親は国営企業(重工業)で長らくエンジニアだったが、2年間ハルビンで技術経営を学んだ後は起業し、エンジニアとして現場で働きつつ、マネジメント職に就いた。母親も国営企業でエンジニアをしていた。教育・しつけに関しては、母親はすごく厳しかった。小学校に入る前に母親から英語を勉強するように催促され、友達が遊んでいるのを横目に英語の勉強をしていた。当時としては珍しかったと思う。ただ、私の性格上新しいことにチャレンジするのが小さい頃から好きだったので、自ら進んで英語の勉強を続けることができた。父親は寛容で、私の選択をいつも支持してくれた。父親からは新しいことにチャレンジする大切さを教わった。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 高校時代は、周りの生徒たちと同様によく勉強し、歴史が大好きだった。歴史は繰り返すものなので、歴史を勉強していると、現在や未来のことがある程度予測できるのがとても面白い。歴史上の人物では、社会を良くするために革命や改革を起こした人たちが好きだ。スポーツは水泳が大好きで、家の近くにあった水泳場に毎日のように通って練習していた。高校時代の同級生の7割以上はエンジニアになるため、技術系の大学に。私もエンジニアであった父親の影響があり、エンジニアを目指し、北京航空航天大学に入学した。大学時代もよく勉強したが、図書館にいるのが大好きだった。本当に様々な本を読んでいた。歴史や経済を中心に、授業がない日は一日中図書館にいて本を読んだ。ここで自分の知的好奇心の強さに気づくことができた。新しいことを学ぶのは本当に楽しい。また、大学の時はコーラスクラブに入って合唱にのめりこんだ。3年生の時に副部長に昇進し、クラブの管理全般を担当し、組織を運営していく大変さを学ぶことができた。また、コーラスクラブではチームワークの大切さを学んだ。コーラスでは個々のパートだけが飛びぬけてはダメで、全体のバランスを保つこと、チームが一丸となって調和することの大切さを学んだ。あのときは皆必死に最高の合唱をしようとして、素晴らしい一体感だったと思う。この経験から、中国人は決してチームワークが不得意なのではなく、一つにまとまるゴールや目標が少ないために、チームワーク力が醸成されにくいのではと思う。
父親の会社でエンジニアとして働くも、自分はエンジニアに向いていないことに気づき、長江商学院MBAに入学し、キャリアチェンジ
Q. これまでのキャリアは?
A. 卒業後は父親の薦めから、父親の会社(測定器製造販売)とその関連会社でエンジニアとして約4年間働いた。プロジェクトマネージャーとしてチームを率いたり、開発に従事したりと、やりがいのある職場だったが、徐々にエンジニアの仕事は退屈だなぁと感じてもいた。毎日同じことの繰り返しで、ロボットのような一面があると思う。そう感じるということは私には向いていなかったということだろう。私の性格はとにかく効率を追求し、どんどん自分で仕事を片付けていき、成長・変化していくのが好きなタイプだ。国営企業のような大きな会社よりも小さな会社やチームで仕事を効率よく仕上げていき、社会にインパクトを与えることができる仕事がしたいと感じていた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A. とにかくキャリアをエンジニアからファイナンスに変えたかったのと、私と同じような考えをする仲間を見つけたかったのが大きな理由。長江商学院は豊富なビジネスネットワークがあるので、様々な業界、年齢、異なるバックグランドの人たちに出会え、私の知的好奇心が満たされ、とても楽しい。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、投資銀行でバンカーか株式アナリストになりたいと思っている。この二つとも幅広い企業にアクセスでき、私の知的好奇心が大いに発揮できる領域だと考えている。それに、効率を求める、優秀な人たちと仕事ができるのが特に楽しみだ。遠い将来は、ウォーレン・バフェットのように、ファンドを立ち上げ、世界中の企業に投資していきたい。
(写真)8月から交換留学に行く同級生のためのフェアウェルパーティーで。いつもオシャレなSophieはこの日もとってもきれいです。
<プロフィール>
1977年生まれの一人っ子、遼寧省鞍山出身。父親は営業マンから脱サラして会社経営者、母親はファッションデザイナーなどを経て、今は父の会社の社長に。学生時代は勉強があまり好きではなく、バスケットボールに熱中したり、大連にてファッションモデルの派遣ビジネスを企画・実行したりするなど、人をまとめるのが得意だった。大連工業大学卒業後は、中国最大の電子情報メーカーHuawei Technologies、米系UTStarcom、友人が起業したベンチャー企業でジェネラルマネージャーを務める。8月からアメリカへ交換留学予定。
バイタリティあふれる母親に刺激され、常に「楽しい」を追求し、自分らしい学生生活を送る
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 私が生まれた1977年はまだ一人っ子政策はまだなかったが、家庭が貧しく、両親が全力を注いで私を育てたいという気持ちから第二子は産まなかったと聞いている。両親の気持ちは理解できるが、やっぱり一人っ子は寂しいので、弟妹が欲しかった。私が小さい頃、母親はファッションデザイナーや縫製工場のマネージャー、父親はガラスメーカーの営業マンだった。私が大学生の頃(1997年)、父親は脱サラして建築資材の販売会社を起業した。父親は中卒、母親は家庭が貧しかったため小学校2年生までの教育しか受けておらず、両親ともにハングリー精神で自分の道を切り開いていったのは本当にすごいと思う。その後、母親は父親の会社に移り、今は社長として会社経営をしている。母親のことはすごく尊敬しているし、人生の目標とする人だ。私に対する教育やしつけは厳しくなかったが、とにかく後悔だけはしない自分の人生を歩めと諭してくれたことは特に印象に残っている。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 高校時代、北京大学や清華大学など一流大学には興味はなかったので勉強はあまりしなかった。その分、熱中したのはバスケットボールで、「楽しく」をモットーに練習に励み、多くの仲間と青春を過ごすことができたのは最高の思い出だ。バスケはチームワークの楽しさを味わえるし、うまくプレーした時は皆から褒めてもらえるので大好きだった。これも一人っ子で寂しかったからかもしれない。
大学は実家から近かった大連工業大学に進学し、専攻は電子工学。特に興味はなかったが、両親が薦めてくれた。1年生の時からあまり勉強せず、キャンパスライフをエンジョイしていた。2年生のときに4年生の彼氏ができて、彼と一緒に過ごす時間がぐっと多くなった。彼はプロ並みのバスケットボール選手、成績はトップクラス、学生会の会長を務めるなどとても素敵な人だった。勉強以外では、大連はファッションビジネスが盛んで、私もファッションモデルに挑戦し、自動車展示会などに出演していた。ただ、自分はファッションモデルよりもその子たちを束ねる方が好きだったので、ファッションモデルの派遣会社みたいな仕組みを考えだし、大学できれいな女子学生を探し出し、20人ほど登録してもらって、いろいろなイベントに派遣していた。これも両親が独立して会社経営をしていたので、それが大きく影響していると思う。
母親のように将来起業家になることを意識して、着実にステップアップを図る
Q. これまでのキャリアは?
A. 大学卒業後は、中国最大の電子情報メーカーHuawei Technologiesを選んだ。大学の時からつき合っていた彼氏はすでに働いていたが、私が深圳にあるHuaweiに決まった時、両親や彼は大連からは相当遠いので当初は反対していた。しかし、私が熱心に説得した結果、彼は会社を辞めHuaweiに転職し、彼と一緒に行くことになった。Huaweiは北京大学や清華大学など超エリートが集まる会社で、上司や同僚はとても素晴らしい人たちだった。そのおかげで、私はぐんぐん成長でき、プロジェクトマネジャーとして部下を率い、多数のプロジェクトを成功に導くことができた。3年後、米系UTStarcomにプロジェクトマネジャーとして転職し、給料は2倍になった。英語が社内公用語で、上司はアメリカ人というグローバルな環境で5年間仕事をすることができ、仕事内容は満足していた。しかし、ジェネラルマネジャーまで昇進するためには後5年待つように上司から告げられ、当時29歳だった私はもっと早くジェネラルマネジャーに就きたかったため、転職を考えていた。その時、ちょうどHuawei時代の友人が独立し、彼がエンジニアだったので、私に会社全体をマネージするポジションを引き受けてくれないかとの依頼があり、ジェネラルマネジャーになれるチャンスだと思い、立ち上げたばかりの彼の会社に転職した。当時の従業員は30人だったが、今では150人まで拡大し、採用、オペレーションなどマネジメント経験を多く積むことができた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A. ジェネラルマネジャーの仕事をひと通り経験してみて、すべてのマネジメントの仕事は私にはできないし、足りない分が多いと気づき(特にファイナンス)、MBAでしっかりとマネジメントを学びたいと考えた。なぜ長江MBAを選んだかというと、アメリカや香港のMBAも検討していたが、MBA後は中国で仕事がしたいと考えていたので、中国でのビジネスネットワークが築ける中国国内のMBAが賢明だと考えた。その中で、長江MBAと上海にあるCEIBSからオファーをもらったが、CEIBSはコンサルや投資銀行で働きたい若手が多く自分とは目標が違うなぁと感じていた。一方、長江MBAは中国ビジネス界でのネットワークがかなり強く、EMBAでは多くの起業家が入学・卒業しており、EMBA卒業生とのネットワークを考えるとこちらの方が私には合うと感じ、長江MBAに決めた。
Q. 卒業後の進路は?
A. 卒業後は、大企業ではなく、スタートアップ企業など小さな企業でジェネラルマネジャーに就き、長江MBAで学んだことを活かしつつ、マネジメント力をさらに磨きたいと考えている。長期的には、母親のように成功した起業家になりたい。
(写真)スペインで思いっきりリラックスし、鳥さんとツーショットのSasha。「楽しく」「幸せ」が生きるモットー
<プロフィール>
1984年生まれの一人っ子、甘肃省出身。両親は地元のアルミニウム生産工場に勤務、普通の家庭に育つ。学生時代、勉強はトップクラスで、大学は上海外国語大学に入学し、英語とロシア語を専攻。上海で行われた国際会議やイベントの通訳や翻訳のボランティア活動に従事し、3年生時には代表を務める。大学卒業後は、上海建工集团に勤務し、コマーシャルマネジャーとしてマカオに赴任。4人の部下を率い、マカオでカジノやホテル建築プロジェクトに従事。会社全体のマネジメントを学ぶために、長江商学院に入学。
大学時代は数々の国際会議やイベントの通訳や翻訳のボランティアを務め、社会活動に貢献
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A. 両親ともにアルミニウム生産工場に勤務していた。当時、甘肃省は中国の中で最も貧しい省のひとつで、この境遇を抜け出すには必死に勉強して、トップ大学に入る以外に術はなかった。しつけに関しては、特に言われたことはない。父親は麻雀が大好きで、仕事が終わって家に帰るとよく夜中まで仕事仲間と麻雀をしていた。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A. 小中高時代、勉強はよくでき、甘肃省全体(15万人)中、20位くらいだった。当時は勉強の毎日で、放課後のスポーツなどのクラブ活動はなく、勉強以外は友達と遊んだり、テレビを見ていた。高校の時は学級委員長を務めた。話は飛ぶが、「楽しさ」や「幸せ」は本当に生きていくうえで大事な要素だと思う。私は楽観的に物事を考えることが好きで、いつも前向きに生きていきたいと思う。大学入学は成績と出身地が重要で、例えば北京大学や清華大学は北京在住の生徒の方が入学枠が多く、一方、地方出身者の枠は少なめで、成績も高い水準が要求される。私の成績は北京大学や清華大学の入学レベルに十分に届いていたが、当時祖父母が上海在住、両親も以前上海在住しており、上海は私にとって故郷のようなもので、上海の大学に行きたかった。そして、上海外国語大学に入学し、英語とロシア語を専攻した。大学時代は英語とロシア語を集中的に勉強しつつ、3年生の時に社会活動クラブの代表を務め、ロシア語から中国語への通訳や翻訳のボランティアをよくしていた。上海は国際会議や国際的なスポーツ大会が多く催されており、通訳者や翻訳者が必要で、それをボランティアで引き受けていた。テレビや新聞に私の翻訳がよく載っていて、とても充実したクラブ活動だった。他に、地方の貧しい地域に行き、小学生に中国語や英語を教えたこともあり、社会活動に夢中になっていた。こうした社会活動のおかげもあり、英語、ロシア語ともに国内の語学検定試験で最高ランク(レベル8)に合格できた。卒業生の多くは、同時通訳者や外交官になっており、今の外務省トップは私の大学の卒業生だ。
マカオでカジノやホテル建設プロジェクトに従事し、猛烈に働く。MBAで会社全体のマネジメントを学びつつ、人生ひと休み
Q. これまでのキャリアは?
A. 卒業後は、上海建工集团に就職した。なぜかというと、2006年に私は大学を卒業したが、その年は中露友好の節目の年で、この会社がロシア関連の建設プロジェクトを多数抱えており、ロシア語が流暢にできる学生を探していたためだ。この会社は上海にある有名な建築物の多くを手掛け、中国でもトップの建設会社だ。入社後はロシアに出張し、ロシアの不動産市場調査などに従事したが、当時はマカオ関連のプロジェクトも多く、ロシアと違って、マカオや香港は効率重視の仕事姿勢で、マネジメント力を含め多くを学べると思ったので、マカオに赴任することに決めた。マカオではコマーシャルマネジャーとして、カジノやホテルの建設プロジェクトに従事し、コスト・収益・予算管理、市場可能性調査、事業開発などを担当した。4人の部下を率い、土日関係なく、猛烈に働いた。その甲斐あって、2008年には会社から海外プロジェクトのベスト賞を獲得できた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A. 会社で4年間働いたが、プロジェクトベースの仕事が多く、会社全体を見る機会が少なく、もっと大きな視点で会社を見たかったのでMBAに入学することを決めた。ただ、ハードワークな日々だったのでリラックスしたかったのも理由のひとつ。マカオや香港はハードワーカーの集まりで、非常にストレスフルな仕事場だと思う。
Q. 卒業後の進路は?
A. いろいろと悩んでいるが、前の会社に戻ることを考えている。会社全体を見るポジションに就くことも可能だし、給料も2倍くらいに上がる可能性があり、魅力的なポジションだ。8月から12月までアメリカへ交換留学に行くので、アメリカ中を旅行してリラックスしたい。とても楽しみにしている。
(写真)トップクラスの成績を誇り、発言力も抜群のGerry。ヘビーMacユーザーの一面も。初めての米国に内心は期待と不安でドキドキしています。
<プロフィール>
1983年生まれの一人っ子、広州出身。両親は大学の教師。小学校の頃から、ピアノと水泳を習い始め、どちらも10年間以上続ける。水泳は大学時に広東省大会で2位を獲得。高校時代は化学が大好き、広東工業大学では化学に関係したマクロ分子工学を専攻。卒業後は、世界4大監査法人であるデロイトに2年間勤務し、監査やM&Aなどのアドバイザリー業務、その後、ATM製造で国内2位の広州御銀科技股份有限公司で投資やIR関係業務を手掛ける。次は投資銀行家にステップアップしたく、ファイナンスを鍛えるために長江商学院MBAに入学。8月から米国コーネル大学に交換留学。
学生時代は勉強はほどほどにして、ピアノと水泳に熱中。水泳は大学時、広東省大会2位を獲得
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.両親ともに大学の教師で、父親は数学、母親は機械工学を教えていた。しつけは厳しくなかったが、自分を律することの大切さを学んだ。例えば、小学生から水泳とピアノを習い始め、10年間以上続けられたのは自分を律することができたからだと思う。そして、両親が教師だったので、勉強の仕方、時間の過ごし方、計画の立て方など様々な生きる術を両親から教えてもらった。両親にはとても感謝している。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.母親の薦めで小学校の時からピアノを習い始め、高校を卒業するまで10年間以上続けた。ピアノが大好きで、弾いているととても楽しい気持ちになれる。私は約40名のオーケストラの中でピアノを担当していた。指揮者が全体をまとめ上げ、調和していく過程は本当に楽しい。ピアノを通して協調性の重要性を学べた。勉強はほどほどにして学校で上位20%内で、北京大学などトップスクールにはそれほど関心はなかった。勉強のために自分を犠牲にするのは嫌で、趣味や遊びとのバランスを重視してきた。水泳も小学校から大学卒業まで10年間以上続けた。大学でも毎日欠かさず練習し、大学3年時に広東省大会でシルバーメダルを獲得できたときは本当に嬉しかった。何事も好きでないと続けられないし、好きであることが最も重要だと思う。好き、固執、集中、効率などが、私が何かをするときに大事にしている要素だ。高校の時は化学が大好きで、化学だけは成績はいつも一番だった。大学は広東工業大学で、化学に関係しているマクロ分子工学(Macromolecular Engineering)を専攻した。プラスティック、ポリマーなど物質・材料の応用に関する研究がテーマだ。ただ、2年生の終わりごろからこの研究に対する興味が徐々になくなってきて、経済系の科目に関心が移り始め、経済学部の授業を多く受講するようになった。3年時にベンチャーキャピタルでインターンシップを経験し、4年時に世界4大監査法人のひとつであるデロイト(Deloitte)から内定をもらった。私は理系で金融が専攻でもないのに難関のデロイトから内定をもらえたのは、水泳で大きな賞を獲得したり、単位が出ないにもかかわらず経済系の科目を受講して、積極的に勉強してきた熱意があったからだと思う。
理系ながらもビック4の監査法人に勤め、ファイナンスを専門とする。将来は、中国国内で米国人に負けない投資銀行家を目指す!
Q. これまでのキャリアは?
A.デロイトには2年間在籍したが、多くのことを学べた。金融専攻ではなかったので、金融、会計、監査など専門知識を深く学べたし、プロフェッショナルマインドや激務にも耐えうる根性や忍耐を身に付けることができた。その後、監査よりも事業会社でのビジネスに興味が移り、国内2位のATM製造会社の広州御銀科技股份有限公司(Guangzhou KingTeller Technology)の証券開発部に転職した。他社との提携・出資やIRなど上場周りの仕事を主に担当した。ここに在籍した2年間は、仕事は充実し、上司からも信頼されていたが、自分の目標とする場所ではないと感じていた。もっとグローバルに、プロフェッショナルに、効率よく仕事がしたくなった。具体的には投資銀行で働いてみたくなり、そのためには私の大学時代の専攻やこれまでの職務経験では不足している能力を高める必要があり、MBAを取ることに決めた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?MBA生活はどう?
A.ファイナンスが強いことに尽きる。世界中の有名大学MBAで教えている中国人教授が授業をもっており、投資銀行で働くのに十分な知識を得ることができる。8月から5ヵ月間、米国コーネル大学に交換留学するので、長江で履修できる授業はすべて終わったが、教授やクラスメイトの質の高さ、ここで学べたことは本当に満足している。
Q. 卒業後の進路は?
A.ゴールドマンサックスやモルガンスタンレーなどグローバル投資銀行で働いてみたいが、国内トップの投資銀行であるCICCやCITICでも十分に満足だ。実際、ここ中国の金融業界は政府の規制が厳しく、外資系投資銀行に不利なビジネス環境であるし、上海証券取引所がグローバル化されれば、もっと国内系投資銀行にチャンスがやってくるはず。中国人は頭脳や根性などファンダメンタルの面でアメリカ人に負けていないし、十分に勝負できると思っている。
(写真)頭脳明晰に加え、心も優しいJudy。エリートキャリアを追求しつつも、家庭との両立を目指す
<プロフィール>
1984年生まれ、河北省出身、両親と弟の4人家族。両親は教師で、恵まれた教育家庭に育つ。中学・高校は勉強に専念し、難なく清華大学工学部に入学。大学時代は勉強に専念しつつ、動物愛護協会の代表を務める。大学院を卒業後、GEに入社。3年間、ソフトウェアプロダクトマネージャーとしてマーケティング職に従事後、長江商学院MBAに入学。8月から米国コーネル大学に交換留学。
勉強だけが豊かに暮らすための唯一の道。猛勉強の末、清華大学に進学
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.父親は中学校で数学の先生と事務職を兼務、母親は小学校の先生だった。両親は私の教育やしつけに関しては口うるさくはなく、私に任せてくれていた。私は自分を律するのが得意だと思う。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.中学、高校の時はとにかく勉強しかしていない。私の町は小さなところで、北京のような大都市と違って、遊ぶところは少なく、学校にはクラブ活動もなかった。学内の寮に住んでいて、学校と寮の往復の毎日だった。唯一の趣味は読書で、図書館から借りてきた海外作家の小説をよく読んでいた。当時の中国はとにかく勉強して、いい大学に入ることがよい人生を暮らす唯一の方法だと信じられていて、子供に勉強以外のことを薦める親はほとんどいなかったと思う。よく勉強した甲斐があり、中国の最高学府の清華大学に進学することができた。私の高校からは800人中3人が清華大学に進学。
清華大学では自動化工学(Automation)を専攻し、基本は高校同様に勉強に専念した。そのおかげで2年次、3年次にトップ10%に与えられる奨学金を得ることができた。勉強以外では、ある人の影響で動物保護協会を立ち上げ、私は代表として、メンバー約20人とともに活動した。大学の同級生の半数以上は大学院に進学していたので、私も大学院に進学した。大学院の時にGE(General Electric)で3か月インターンする機会があり、インターン後、GEから内定を獲得し、卒業後はGEで働くことにした。同級生は卒業後ほとんどが外資系企業か国営の大企業で働き始めた。特に当時はIT企業が人気で、グーグルやマイクロソフトなど米系企業が中心だ。
GE時代は専攻を活かしたマーケティング職に従事。MBA卒業後に狙うは、外資一流コンサルティングファーム
Q. これまでのキャリアは?
A.GEではソフトウェアプロダクトマネージャーとして、マーケティングサイドの仕事に就いた。大学ではオートメーションを専攻したが、私は特にプログラミングが嫌いで、専攻を活かしたマーケティングサイドの仕事の方が自分には向いていると思う。市場や競合分析を通してマーケティング方針を決定し、営業部隊と綿密に連携し、商品を市場に送り出す仕事だ。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?長江での生活はどう?
A.3年間GEでマーケティングの仕事をし、仕事内容、職場環境ともに満足していたが、取扱い商品が狭く、もっと大きな舞台で仕事をしてみたくなった。MBAを通して、マネジメントコンサルティング業界にキャリアチェンジするのが目的だ。MBA卒業後は中国で仕事をしたいので、当初から欧米のMBAは選択しなかった。特に長江はビジネスネットワークが魅力的で、将来のビジネスを考えるとここがベストだと思う。実際に長江で授業を受けた感想は、教授や学生の質はしっかりしており、クラスサイズが小さいため皆と深い関係になれたのがよかった。8月から5カ月間コーネル大学で交換留学があるので、今はとても楽しみにしている。
Q. 卒業後の進路は?
A.卒業後は、マッキンゼーやボストンコンサルティングなど外資系一流コンサルティングファームで働きたい。既に結婚しているので、早めに子供を生み、仕事と家庭を両立させたい。
(写真)万里の長城近くの鉄道路線で一休みするConan。山登りが大好きです
<プロフィール>
1982年生まれの一人っ子、四川省自貢出身。両親はメーカー勤務でごく普通の家庭に育つ。6歳の頃から母の薦めで読書を始め、学ぶことが大好きになる。学生時代、成績は常にトップ、高校時代に英語クラブを仲間と立ち上げ、総勢100名を束ねる副代表を経験。大学は北京大学で化学を専攻。大学時代はロッククライミングに没頭する。大学卒業後、P&Gに就職し、R&Dマネジャーとして消費者調査や製品デザインの仕事に5年間従事。MBAを通して、消費材ビジネスから環境ビジネスへキャリアチェンジを図る。長江商学院MBAでは、エネルギー・環境クラブの代表を務める。
読書が秀才への第一歩。北京大学時代はロッククライミングに夢中になる
Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?
A.両親ともにメーカー勤務で、私が小さい頃は製品の品質保証を担当していた。1990年代半ば以降、中国の経済政策が計画経済から自由経済へと大きく変化し始め、国が抱えきれなくなった国営企業の多くは、国の管理から離れ、証券取引所に上場したり、他社に買収されたりして、急速に合理化が進められた。父のメーカーも一時経営難に陥ったが、1997年に上海証券取引所に上場して、2000年以降は業績が上向き始め、父はこの会社を勤め上げた。母のメーカーは倒産に至り、母はその後様々な職業を経験し、最後は地元の自治体のリーダーとして地域のために仕事をしていた。なので、決して恵まれた家庭ではなかった。普通の家庭ながらも、両親は私の教育に投資は惜しまず、いつも私の意思を尊重してくれた。教育やしつけに関して特にうるさく言われたことはない。学校の成績が小学校の頃から常にトップだったのも、親を安心させた要因かもしれない。
Q. 学生時代はどんな生活だった?
A.6歳の頃、両親が私を図書館に連れて行ってくれ、そこで様々な本を読み始め、夏休みや冬休みは図書館にこもってずっと本を読んでいた。学校の成績がこれまでいつもトップだったのは、小さい頃に読書の習慣がつき、学ぶことが大好きになったからだと思う。中学・高校の頃は数学や化学のオリンピック大会のために必死に勉強したのを覚えている。
高校2年生の時に英語を勉強するクラブを友人と立ち上げ、副代表として活動した。新聞、ニュース番組、映画などを題材にメンバーと楽しみながら勉強した。メンバーは約100人まで増加し、チームでクラブを運営したり、勉強する楽しさや苦労を学ぶことができたのはとてもいい経験になった。私の高校は比較的オープンカルチャーでこうしたクラブ活動に対しても寛容で、みな生き生きと高校生活を送っていた。一般的に、中国の高校は生徒を勉強だけに専念させ、勉強以外のクラブ活動などはさせないのが普通だ。
大学は北京大学に進学し、化学を専攻。化学は常に高校で1番だったので、大好きな科目だ。当時(2001年)、四川省全体から北京大学と清華大学にそれぞれ50名弱進学することができ、私の学校からは600名中、私を含め4名が北京大学に進学した。北京大学時代は、もちろん大好きな化学を必死に勉強したが、勉強以外では、大好きな山登りとロッククライミングに多くの時間を費やした。1年生から山登りクラブに入部し、週2回、50人ほどのメンバーで北京西部の山に出掛け、仲間と楽しい時間を過ごした。私の学部の3分の1は米国へ修士号と博士号を取得へ、3分の1は国内の大学院や中国科学院で科学者への道を選んだ。私は3年生の時に科学者になるより、ビジネスサイドの方が向いていると思い、米国への留学を辞め、卒業後は会社で働くことに決めた。化学を専攻していたので、化学製品を多く取り扱うP&Gに就職することに決めた。
P&GでR&Dマネジャーとして成長著しい消費財ビジネスに従事。MBA後は、中国が抱える環境問題を解決する環境ビジネスに挑戦
Q. これまでのキャリアは?
A.P&GでシニアR&Dマネジャーとして5年間働いた。主な仕事は、マーケティング部とR&D部を繋ぐ仕事、消費者調査や製品デザインを担当した。具体的には、ある商品のブランド差別化戦略の構築、製造ライン拡張のための予備調査と実行計画策定、消費者への定量及び定性インタビュー、それに続く製品開発計画への落とし込み、東南アジアへの市場参入計画などだ。P&Gで消費財ビジネスに5年間従事し、成長著しく面白い分野ではあるが、興味としては中国が抱える環境問題を解決するビジネスに移っていった。ビジネススクールを通して、消費財ビジネスから環境ビジネスにキャリアチェンジしようと考えた。
Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?
A.将来は中国でビジネスをやりたいし、長江商学院の起業家のネットワークは中国で最強なので、このネットワークに入るべく、ここのMBAを選んだ。当初より米国は考えておらず、また、北京大学を卒業したので、北京大学が持つネットワークは既に持っており、北京大学のMBAには興味はなかった。
Q. 卒業後の進路は?
A.クリーンテック企業など環境ビジネスに特化した企業で働きたい。そして、10年以内に起業して、自分の会社を持ちたい。人生を楽しみつつ、社会に貢献した人生を送っていきたい。