私が所属する対外経済貿易大学・国際経済研究院は大学院のみのコースです。つまり、所属する学生は本科生(学士課程の学生)ではなく、博士・修士課程に通う大学院生のみとなっています。大学院生の主な任務は研究。我々教師も日ごろの講義だけではなく、学生たちの論文指導も極めて重要な仕事となります。
中国において大学院生以上の学位論文の指導教官は国家資格となっており、博士課程、修士課程の指導教官はそれぞれ『博士生导师(博导)』、『硕士生导师(硕导)』とよばれています。『硕导』は副教授以上と規定されていますので、2013年に副教授昇進を果たした私が直接学位論文を指導した学生は多くありませんが、これまで合計4名の大学院生の指導教官をつとめてきました。
その中で初めて副指導教官として論文指導にあたったのが、当時博士課程に所属していた謝さんです。「副」がついているのは、私に『博导』の資格がないためで、彼女は他の教授に師事しながら、私から指導を受ける道を選びました。研究対象は、「為替レートのパススルー(為替レート変動がもたらす国内・輸出入価格の変化)」です。
初日に聞いたのは卒業後の目標、進路でした。
「北京の大学で働きたい」
彼女の返答は明確でした。ただ、北京の大学教師は海外帰国者も狙う狭き門、中途半端な業績ではとても入れません。その事実を伝え覚悟を求めました。彼女は迷いながらも「それでもなりたい」と私に告げたのです。これで私の覚悟も決まりました。
私にとって初めての学生、彼女の目標を達成させてあげたいと、一生懸命になりすぎてしまいかなり厳しく指導しました。自ら積極的に研究に取り組むような雰囲気を作り、定期的にミーティングを開いて議論を繰り返しました。目標を高く設定し、それに向かって努力するよう導きつつ、私自身もできる限りのバックアップを続けました。他の研究者との交流を深めさせるために、学内資金を工面し学会にも積極的に参加させました。
その結果、彼女は厳しい指導に耐え、三年間で4本の論文を中国国内の査読付き学術誌で発表、博士論文も無事に通過し、ついに自らの目標を達成して、昨年から北京の某大学で教師として活躍しています。
「私が大学教師になれたのは西村先生のおかげです」
本心かどうかはわかりませんが、そういってくれる学生がいるのは私にとっても大きな心の支えになっています。私の指導方法は間違っていなかったと。
時には優しく時には厳しく、学生目線に立ち、一人ひとりと真剣向きあう。決して押し付けず、自主性を重んじ、自由に取り組ませた上で、最終的な責任は指導教官である私が負う。これが私の教育スタイルです。
中国には『桃李满天下(自分の教え子が全国至る所にいる)』という言葉があります。
9月は中国の新学期。今年は二人の新入生が私の門戸をたたきました。今度はどのような「桃」、「李」に育ち、全国各地に広がっていくのでしょうか。
文・写真:西村友作
正直に言うと、このようなイベントへ学生を連れて行くということは、大学教員にとって余計な仕事を増やすだけです。しかし、私には
「日本の事を知らない中国人学生たちを日本に連れて行きたい」
という想いがあり、このお話をいただいた際、ためらうことなく二つ返事で引き受けました。
SRT2015のオファーを正式に受けたのが3月初旬。私が所属する学院の国際交流担当の責 任者と相談し、私が同行することで許可をいただきました。そこから学生募集を始めまし たが、その時期には多くの学生は夏季研修やインターンがすでに決まっており、全学の知 り合いに声をかけなんとか4名の参加学生を見つけることができました。
それから航空チケットの手配、ビザの申請などの事務処理を進めるわけですが、学生の 一人がパスポートを持っていない事が判明、ビザの申請開始が1か月ほどずれ込みました 。さらに、書類の不備などが重なり更に大幅に遅れてしまいます。さすがの私も不安にな り、大使館関係者に連絡を入れたり、学生を集めて指示をしたりと、色々と手を尽くし、 なんとか出発に間に合わせることができたのです。中国人を日本に連れて行くのは今でも 一筋縄ではいかないという事を再認識させられました。
SRT2015では、6か国・地域から集まった約60名の学生たちが約一週間、「教育」「環境 」「移民」「人権」の問題について英語で議論し、政策提言をまとめあげました。会議の 合間をぬって地元企業訪問や温泉も経験し、各国の文化交流も行いました。わずか一週間 という短い期間でしたが、異なるバックグランドを有する各国の優秀な学生たちが一同に 集い、一つの目標を達成するために力を合わせることで、私が連れて行った中国人学生た ちもこれまで国内では決して経験できなかった貴重な時間を過ごすことができたようです 。
閉会式では中国チームを代表してスピーチした女学生が別れを惜しんで泣き崩れました。日本語もできず日本の事はほとんど知らない中国人学生の日本初体験。この思い出は中国の次世代を担うエリート学生たちの若き心に深く刻まれ、彼らの将来に大きく影響してくることでしょう。
文・写真:西村友作
この第二弾となる企画、くまモン座@北京を開催する事になりました。くまモン座とは、薫堂さんプロデュースのショートフィルム「くまもとで、まってる」と「ふるさとで、ずっと」を鑑賞する会です。これらのフィルムにはsurprise & happinessがふんだんに散りばめられています。去年講演会・ワークショップで薫堂さんが本当に伝えたかったことを、学生たちに直感的に感じてほしいという想いから、この企画が実現したのです。
準備スタッフは対外経済貿易大学の日中両国の学生10名。字幕やポスターなど全て手作りでしたが、とても学生が作ったものとは思えないほどのクオリティの高いものができました。
ショートフィルムの鑑賞会では、私は学生たちがどのような表情で映像を観ているのかをつぶさに観察しました。薫堂さんが作り出す独特の世界を学生たちが理解してくれるのか不安でしたが、大きく裏切られる結果となりました。途中退出する人やおしゃべりする人、スマホを操作する人などは全くおらず、みんなスクリーンを食い入るように見つめていました。中には感動して涙を流す女学生も数名おり、薫堂さんのsurprise & happinessが中国人の学生の心にじんわりとしみわたっていく瞬間を目の当たりにしました。
次世代の中国を担う学生たち。彼らの心にまいたsurprise & happinessの種が芽吹く日が待ち遠しくてなりません。
2015年3月、第四回BB Caféが北京のNIWOTATAで開催されました。タイトルは「エリートバーリンホーのリアル」、長江商学院MBAホルダーである3名の中国人エリートが登壇しトークを繰り広げました。「ビジネス」や「環境」に関する質問が続々と出る中で、私が選んだ質問は「恋愛観」でした。
よく「80後(80年代生まれ)」や「90後(90年代生まれ)」といった異なる年代の中国人が、あたかも全く異なる人種であるかのような議論がなされています。私は職業柄、多くの「80後」、「90後」の中国人との交流の機会がありますが、世代間では説明できない事が数多くあります。その一つが「恋愛観」なのです。
中国において、失恋が原因で自殺を図る大学生のニュースを耳にする事がありますが、これは最近に限ったことではなく、過去においても明るみに出なかっただけした。事実、私も何度かその手の話を聞いたことがありました。また、先日17人の女性と同時に付き合っていた21歳の男性が話題になりました。話題になるだけあって驚愕の人数ですが、複数の異性と付き合っていた学生は十数年前にも一定数はいました。
「恋愛観」に対して異なる意識を有する中国人を観察してみると、世代間よりも出身地域や家庭環境の差異が大きく影響していると感じます。私の周りには、結婚するまでに一人としか付き合った事のない「80後」の友人がたくさんいますが、彼らに共通して言えるのは、ほとんどが地方の田舎の出身者であるという事です。同じ「80後」でも、北京の友人の多くは複数人との恋愛経験があります。
今回のトークセッションにおいても、私の
「あなたたちの周りで、恋人をあたかも洋服のように換えていた友人はいましたか」
との問いに対し、
「いましたよ」
と即答したのも北京出身のJuliaさんで、地方出身の二人からの返答はありませんでした。
中国は13億という莫大な人口を抱える巨大国家です。現代の中国人を理解する上において、「80後は~」、「90後は~」とステレオタイプに決めつけるのではなく、様々な世代、地域出身者一人ひとりと直に向き合い交流を積み重ねる事によって、隣人の実像が見えてくるのではないでしょうか。
文・写真:西村友作
「留学」は私の人生に大きな変化を与えました。
1995年、大学3年生の夏休み。大学主催の「海外事情研修」で行った深圳大学での約一カ月の短期留学が、人生の大きなターニング・ポイントとなりました。
当時の深圳といえば、1992年の鄧小平「南方講話」を受け沸きに沸いている時期。
ベンツやBMWといった名だたる高級車がクラクションを鳴らしながらひしめき合っている公道。当時『大哥大』と呼ばれていた大きな携帯電話を片手に 大声で「何か」を喋っている若者。その横で必死に物乞いをするホームレスの子供たち。九州熊本で育った田舎っ子の目に映る「新世界」はとても刺激的で魅力 的でした。
「なんだここは…。す…すごすぎる!この国をもっと知りたい!!」
これが私と中国の出会いです。一目ぼれと言ってもいいかもしれません。
深圳での短期留学を終えた私は首都北京での長期留学を決意します。短期留学中に全く喋れず悔しい思いをした中国語の勉強を本格的に開始、それと同時 に留学の手続きを独自で進めました。学校のカリキュラムに大学4年での留学は当然無く、休学留学という選択肢しか残っていません。そのため、国際交流セン ターの先生が個人的に手伝ってくれる以外は、大学は基本的にノータッチ。自分自身で資料請求や申込み全てを行う必要があったのです。
当時はインターネットが無く情報はほぼ皆無に等しい状態。しかも電子メールが無いので中国とのやり取りは全て手紙です。大学の図書館で留学指南本を 借りて、『尊敬的外事办老师,您好!……』と何が書いてあるか意味も分からない中国語を丸写し、数校に資料請求をしました。今では随分改善されています が、95年当時の中国の郵便サービスは整っておらず、頻繁に紛失事故が起きていました。その時も、10校近くの大学に資料請求したのですが、実際に返事が 来たのは4校でした。
その数校の中から選んだ大学は「北京商学院(現北京工商大学)」。地元のタクシー運転手も知らないような小さな大学です。そこを選んだ最大の理由 は、日本人がほとんどいないこと。「北京大学」や「北京語言学院(現北京語言大学)」は素晴らしい語学カリキュラムがある反面、日本人も数多くいました。 「日本語を極力喋らない中国語漬けの環境」こそが、私にとって最大の魅力だったのです。
このようにして始まった留学生活。まさか累計9年間(!)も続くとは夢にも思いませんでした。
1996年9月から1997年8月までを「北京商学院」で、2002年9月から2010年7月までを現在の職場でもある「対外経済貿易大学」で留学生として過ごしました。
このBillion Beatsでは、私がこれまでの約9年間の留学生活で出会った中国人や外国人留学生、異国の生活の中で実際に見たことや感じたことを綴っていきたいと思います。
(写真)90年代の庶民の足『面的』
1996年8月から始まった長いながい留学生活。最初にぶつかった壁。それはやはり言葉の壁でした。
深圳での短期留学後、一年間必死で中国語の勉強に励みました。今と違い条件は限られてはいましたが、大学の授業、市民講座、家庭教師など利用可能なリソースは全て使い、中国語に触れない日は一日もありませんでした。それでも言葉の壁は高かった。
一人で降り立った北京首都国際空港。当然迎えなどありません。人だかりのタクシー乗り場はまるで戦場。なんとかタクシーに乗り込んだのですが、ここで「最初の壁」の登場です。擦り切れるまで繰り返し聞いたカセットテープの標準的な中国語と人間が話す生きた中国語のギャップは想像を遥かに超えていました。タクシー運転手が話す『儿化』の効いたこてこて北京語、内容の半分も理解できませんでした。
「次の壁」は更に高いものでした。1956年に制定された『普通话』と呼ばれる中国語の標準語は、「北京発音を標準に、北京方言で使用される単語を基礎とし、模範となる現代の口語小説を文法の手本とする言語」とされています。つまり、タクシーの運転手が話していた北京語と標準語はいわば兄弟、比較的聞き取りやすい中国語の範疇に入ります。
その北京語よりも強敵の「次の壁」とは、地方出身者の訛りの強い中国語でした。タクシーに揺られ何とか学校にたどり着きましたが、時間はすでに21時を回っており、事務所は開いていません。仕方なく直接宿舎に向かったのですが、そのフロントのお兄さんの訛りの強さと言ったら……結局ほとんど聞き取れないまま部屋に案内されました。
食堂にも「壁」が聳え立っていました。当時はコンビニなど全くなく、ファストフードのお店もほとんどありませんでした。結局学内外にある食堂やレストランに行くしかないわけです。その時代には電子辞書という便利なものは存在しません。分厚い辞書を片手に一人で食堂に通い、メニューと辞書をにらめっこ。当時のメニューには写真などありませんし、しかも中華料理の多くが、字面からは何なのか想像できないのです。
『宫保鸡丁』?「お宮を保護する?はぁ?鶏が?」
『鱼香肉丝』?「魚と肉か?何の香り?」
結局知っている食べ物と言えば『炒饭(チャーハン)』くらい。毎日毎日メニューと辞書をにらめっこしては、最後に注文するのはいつもチャーハン。そんな私を不憫に思ってくれたのか、ついに食堂のお姉さんが声をかけてくれました。これが美味しいよ、と勧めてくれたのが
『西红柿炒鸡蛋』
「美味い!!鶏卵とトマトを炒めているだけなのに!」
お腹も心も満たされ、とってもご満悦の私。この『炒饭』+『西红柿炒鸡蛋』セットが数日続いたのは言うまでもありませんね。
(写真)今は無き『北京商学院』の校舎
私が留学先に選んだ「北京商学院」は地元の人もあまり知らないような小さな大学です。留学生数も少なく、「初級」、「中級」、「上級」、「最上級」の4クラスしかありませんでした。
私は1年間みっちり勉強し、ある程度の自信がありましたので、「上級」からスタートし、一年間で「最上級」の修了を決意します。
意気込んで臨んだ初授業は、郗老師の『综合汉语』。その日の出来事を今でも忘れることができません。授業も終盤を迎えそろそろ教科書を片付けようかとしているその刹那、郗老師がみんなの前で私に向かって質問してきました。
『你听懂了百分之多少?』
郗老師が喋る中国語はとてもきれいな『普通话』です。こてこての北京語や地方出身者の訛った中国語のような「壁」とは違います。留学準備期間に毎日のようにカセットテープを聞き、ヒアリングの勉強を繰り返してきた私ですが、さすがに短期間では「耳」は慣れませんでした。
「え?は?あ?う?」
聞き取れていない私が返答できずに狼狽していると、私より半年早く中国に来てすでに「中国語耳」ができていた唯一の日本人クラスメイトの耳打ちが後ろの席から聞こえてくるではありませんか。
「先生は『何パーセント聞き取れた?』って言ってるよ」
その時の悔しさ、情けなさといったらとても言葉で表現することができません。この瞬間です、私の「負けず嫌い」に火がついたのは。家庭教師、相互学習等、授業以外で一日平均7時間勉強の日々が始まったのはこの直後の事でした。
この猛勉強が奏功し留学後3ヶ月足らずでHSK6級を獲得することができたのです。気をよくした私は、更に上を目指し、帰国までにHSK8級(中級最上級)取得の目標を立て、モチベーションを高めるためクラスメイトに宣言しました。それを聞いた韓国人クラスメイトから、
「俺は2年も北京にいてやっと7級なんだよ。1年で8級なんてとても無理だね」
と、鼻で笑われました。
あぁ、火をつけてくれてありがとう。
一旦燃え上がった「負けず嫌い」の炎はとどまることを知らず、瞬く間に広がりをみせました。半年で7級取得、そして8か月でついに8級に合格したのです。
「負けず嫌い」というものは度が過ぎたり、表に出しすぎたりすると、周囲の人間に嫌悪感を与えてしまいます。しかし、それを巧みにコントロールし自己のモチベーション向上にうまく利用できれば、爆発的なエネルギーとなって背中を押してくれるのです。
(写真)今でも大切に保管している1996年の香山紅葉
「北京商学院」留学期間中、多くの先生方にお世話になりました。不慣れな異国での生活を強いられる留学生にとって、勉強だけでなく、生活面でもバックアップしてくださる中国人の先生方は本当にありがたい存在です。多くの先生の中でも、特にお世話になった先生が2人います。その先生方とは今でもお付き合いがあり、定期的にお宅を訪問しています。
一人目は、『听和说(ヒヤリング・スピーキング)』、『阅读(リーディング)』担当の杜老師です。女性の先生で、当時50歳前後だったと思います。すでに定年退職され、旅行と写真を趣味に、晩年を悠々自適に過ごされています。
杜老師はもともと学部生に「中国文学」や「作文」を教える副教授。プロの中国語の先生です。忙しい授業の合間をぬって、留学生の授業も兼任されていました。
とても真面目な杜老師は、教科書の内容をただ教えるだけではなく、中国語の歌の練習なども授業に取り入れ、留学生の興味を引き出そうと試行錯誤されていました。
走走走走走啊走、走到九月九♪
授業中に教えていただいた『九月九的酒』は15年経った今でもはっきりと覚えています。
1996年12月のクリスマスの時期、北京では珍しく雪が降りました。大雪だったことに加え、前日クリスマスパーティで大騒ぎしていた他の留学生は全員欠席。結局、唯一出席していた私と杜老師の一対一の授業となりました。その時何気なく話した、父が病気で入院していたため母が女手一つで育ててくれたという生い立ちや家族の事、私の将来の目標に心を動かされたようで、それ以降は生活面でも実の息子のように可愛がってくれました。
1997年11月には、私の事をテーマに書かれた杜老師の散文『我的东洋弟子』が、北京郵電大学出版社から出版された散文集に掲載されています。プレゼントしていただき読んだのですが、風邪をひいても休むことなく授業に出席し続けた私のことや、植物人間となった夫のために20年以上休むことなく看病に行く私の母のことが書かれていました。私もとても感動し、すぐに全文を日本語訳し母に郵送しました。
一年間の留学生活を終え、帰国を間近に控えた1997年7月3日。杜老師が私のために、「誕生パーティ+送別会」を開催してくれました。杜老師宅に十数名の先生方が集結、テーブルに乗りきれないほどの手作り料理は私のお腹と心を満たし、とても幸せな気分になったのを覚えています。
帰国後も春節には毎年電話をかけ新年のあいさつをしました。2002年の北京再訪の際に真っ先に会いに行ったのも杜老師です。
杜老師からいただいた香山の紅葉は、今でも私のアルバムに大切にしまってあります。
(写真)蒋老師宅の『年夜饭』
お世話になった先生のもう一人は、当時『外事办公室』で事務を担当されていた蒋老師です(中国では事務職員も「老師」と呼ぶんですね)。この方も女性で、当時40歳過ぎくらいでしょうか。
蒋老師はとても優しい世話好きな方です。「北京商学院」時代もすごくお世話になったのですが、2002年9月からの「対外経済貿易大学」での再留学以降、さらに密なお付き合いをさせていただいています。
蒋老師には私より10歳年下のひとり息子がいます。名前を崔くんといいます。中国では、結婚後も女性の名字が変わらないので、息子の名字が違うんですね。崔くんは映画やパソコンゲームが大好きで、よく私を家に招いては映画上映会や遊び方の「指導」をしてくれました。
「これは興行収入全米No.1の映画さ」
「敵が来たらライフルで打つんだよ」
笑顔の素敵な彼は当時20歳、毎日のように部屋にこもって“オタク的生活”を送っていたようです。
その彼も、素敵な女性に出会い2012年5月に結婚。北京の地下鉄沿線に購入した1LDKが愛の巣となっています。また、北京では、2011年1月からナンバープレートの抽選発行方式を導入し、一カ月に2万台、年間24万台に新車登録台数を抑える政策がとられていますが、最近幸運にも当選した彼は早速MAZDA6を買ったようです。持ち家+マイカー、典型的な『小康家庭(ゆとりある家庭)』を築き、幸せに満ちた甘い生活を送っています。
蒋老師家族はよく色んなところに遊びに連れて行ってくれました。中でも思い出深いのは2008年に開催された北京オリンピック。わざわざチケットを手配してくれ、陸上や水球などを一緒に観に行きました。男子200m決勝。ジャマイカ代表のウサイン・ボルト選手の世界新記録「19.30秒」を、ゴール前という最高のロケーションで目の当たりにし、興奮したことも昨日の事のように覚えています。
家族を重んじる中国人にとって、春節は一家団欒の極めて重要なイベントです。『年夜饭』と呼ばれる大晦日の晩ご飯を家族全員で食べるのが慣わし。この『年夜饭』は一般的に鶏や魚などを食べるのですが、その料理は地方によって異なります。南方では一年が甘くなるようにと甘いものを食べる習慣があるらしく、湖南省出身の蒋老師のお宅では『八宝饭』と呼ばれる甘いご飯を食べるそうです。
食後は日本の紅白歌合戦に相当するテレビ番組『春节联欢晚会』を鑑賞しながら一家団欒を楽しみます。
「大晦日に何も予定がないんだったら家に遊びに来て下さいね。『年夜饭』を一緒に食べましょう」
蒋老師は、一人での年越しは可哀そうだと、毎年私を家に招待してくれました。私の事を家族の一員として見てくれているのです。
家族のようにお付き合いしてくれる中国人老師やその家族たち。私の一生の宝物です。
(写真)黄くんと見に行った、緑色の花びらを咲かせる桜(北京玉淵潭公園)
「北京商学院」に来て約3か月、「中国語耳」もある程度でき、授業にも何とかついていけるようになりました。
そんなある日、授業が終わって『综合汉语』の郗老師とおしゃべりしている時の事。何気に言った先生の一言が、重くのしかかります。
「西村君は、多くの単語を知ってて文法もとても素晴らしい。ただ、口語の表現力が乏しいね。」
ビンゴ!
毎日7時間の勉強のほとんどが、授業の予習復習、テレビやラジオでの「中国語耳」育成に費やされており、「おしゃべり」の練習が極めて疎かになっていたのです。家庭教師や相互学習もしていましたが、一週間に2回、一回2時間程度。焼け石に水状態です。
せっかく中国に来ているのに、日本でできるような勉強ばかりしていてはダメだ。
そうです。教科書の勉強なんて日本でもできます。中国のラジオやテレビもお金を払えば、日本でも受信可能。日本人が少ないからと言って選んだはずの名もなき大学のはずなのに……
あぁ。なんともったいない事をしていたのでしょう。
中国留学の醍醐味はより多くの中国人と接して、言葉だけではなく、彼らの良い所を余すことなく吸収する事。何事も忌憚なく話せる同世代の友達が欲しい!しかし、どうやって中国人の友達を見つければいいのでしょうか。
プランA:「歩いている学生を捕まえて「友達になってください」っていう。
⇒うーん、変態と間違われるかも?
プランB:「中国人の彼女を作る」
⇒どうやって?中国人の友達に紹介してもらう?その友達がいないのに……?
色んな案が出ては消えていきます。そして、最終的に私が選んだ方法は、
中国人の友達がたくさんいる留学生とルームメイトになる
でした。外国人が中国語を習うクラス(語学班)ではなく、中国人学生と一緒に授業を受けている本科生(学部生)は中国人友達が多いはず、と考えました。しかも、中国語のレベルも格段に高いはずなので、口語の勉強にもうってつけです。
当時、「北京商学院」には数名の本科留学生がいました。私が選んだのは、その中でも断トツの実力を持っているインドネシア系華裔、黄くん。その時一緒に住んでいた彼のルームメイトもちょうど出ていくことになり、残りの半年を黄くんと暮らすことになったのです。
この作戦が大当たり!寮は十数畳ほどのワンルームにベッドが二つ並べてある部屋なので、日々顔を合わせておしゃべりするし、何より中国人の友達が多いのなんの。毎日のように中国人学生が部屋に遊びに来るのです。彼を通じて知り合った中国人の友達は十数人に上りました。
その中にいました。一生付き合っていける生涯の知己!彼との物語は後日ゆっくりさせていただきます。