(写真)1997年の北京商学院サッカー部
私には生涯の知己と呼べる中国人の親友が3人います。その一人が、「北京商学院」にルームメイトの黄くんを通じて知り合った天津人、盛くんです。
彼は毎日の様に私の宿舎に遊びに来ては一緒に勉強し、食事を共にし、時には杯を酌み交わし合いました。
午前中の授業が終わると宿舎に集合。学食に行って昼ご飯を食べたら、午後から勉強。私は漢語班、彼は本科生。勉強している内容は全く違いましたが、ほぼ毎日自習室に通って一緒に勉強していました。晩御飯でよく食べに行った学校近くの『肉饼(中華風牛肉包み焼き)』は今でも語り草になっています。
私と盛くんには共通の趣味がありました。サッカーです。私は彼の誘いで大学のサッカー部に入部する事になりました。実は、授業が忙しかったので、あまり乗り気ではありませんでした。しかし、単なる気晴らし程度にしか考えていなかったこのサッカー部への入部こそが、私の口語能力向上に絶大な影響を与えることになります。
小学校二年から始め今現在も続けているサッカーは私の特技。学校に部活動などが無い環境で育ったチームメイトとのレベルの差は歴然としていました。当時の中国人監督は私の技術を認め、私を「選手兼コーチ」に抜擢、中国人にサッカーを教える事になったのです。練習中における技術トレーニングは然る事ながら、毎週水曜日の夜に開いていたミーティングでは戦術面までレクチャーする羽目に。
「中盤で相手の選手にボールを奪われたら……」
「オフサイドトラップのかけ方は……」
私はサッカーの専門用語を勉強し、知っている知識のすべてを正確に伝えるよう必死でした。そのサポートをしてくれたのがやはり盛くんでした。サッカー用語を一つ一つ紙に書いてくれ、時には身振り手振りで説明してくれました。チームは強くはなりませんでしたが、私の口語能力は随分鍛えられたものです。
私の帰国後、盛くんとは手紙で連絡を取り続けました。彼からの手紙や同封してくれた卒業写真は、今でもアルバムに大切に保管してあります。大学卒業後一旦就職した彼は、2001年10月よりドイツに留学。2002年9月に北京再訪した私とはちょうど入れ違いになってしまい、残念ながら再会することはできませんでした。
彼と別れて12年後の2009年3月20日、ついに運命の再会(!)を果たします。8年間一度も帰国しなかった彼ですが、実家天津にどうしても帰らなければならなくなり、その際にわざわざ私に会いに北京まで来てくれたのです。
12年という歳月を経たにもかかわらず、まるでいつも顔を合わせているかのようななんとも自然な感覚。その日は、大学時代によく飲んだ「燕京ビール」を酌み交わしながら、語り尽きない思い出話に花を咲かせました。
1997年7月1日、一緒に天安門に行き、共に祝った香港返還。50周年記念も一緒に!と約束しています。
(写真)裴くんの結婚式会場
裴くんと初めて出会ったのは、2004年1月。別の場所で知り合った中国人友人の誕生日会の席でした。
当時、彼は某大学の教師でしたが、その後その学校を離れ博士課程へ。医学博士取得後、今では別の大学で副教授となっています。
彼の実家は私の宿舎の近所で、よく家に遊びに行ってはお母さんが作ってくれた料理を食べ、食後にみんなでマージャンをしました。
2006年1月に結婚した、裴くん。その晴れ舞台で、彼は私を『伴郎(新郎の介添え)』に選んでくれました。日本人ではなかなかできない貴重な体験です。せっかくなので、ここでその一部を簡単に紹介します。
結婚式前夜、彼の家に泊まり準備。翌朝、朝食を終え新郎の両親に挨拶したら、装飾を施したリムジン(!)に乗り新婦を実家まで迎えに行きます。新婦の実家では親せきや『伴娘(新婦の介添え)』が待機しており、わざと無理難題を言って家に入れさせません。ちなみにその時は、
「五か国語で『愛してる』を言え」
というものでした。その難関を突破した後は新婦の両親に挨拶し、再びリムジンに乗り込み式場へと向かいます。
北京の結婚式はホテルやレストランで行うのが一般的です。食事はもちろん中華料理で、8人~10人用の円卓にはお酒やタバコ、ヒマワリの種などが並べられています。当日飛び込み参加する人もいるようで、余分に2テーブルほど準備しておいたそうです。なお、新郎新婦や来賓の挨拶、指輪の交換などが1時間ほど続き儀式は終了、食事が運ばれその場で宴会が始まります。
その後新郎新婦は『伴郎』『伴娘』を従え大名行列。全てのテーブルを回り、参加者一人一人に『喜酒(酒)』『喜糖(飴)』、『喜烟(タバコ)』をふるまい、出席者はその場で『红包(祝儀)』を本人に手渡しします。
なお、終了時間は決まっておらず、祝儀を渡したら自由解散となります。裴くんの結婚式の際も、全てのテーブルを回り、気が付いたら半分以上がいなくなっていました。
裴くんとは何度か旅行に行ったことがあります。その中で最も思い出深いのが2008年7月~8月に行った新疆ウイグル自治区。北部のウルムチから入り、トルファンを経て南部へ。南部ではカシュガル、ホータンを回りました。
2008年8月と言えばオリンピックの時期。新疆では厳戒態勢が敷かれていました。ホータンからウルムチへは24時間かけて高速バスで帰ったのですが、その間の検問の数なんと10回。夜中でも平気でたたき起こされ身分証明書をチェックされました。その時です。事件が起こったのは。
「数日剃らなかったヒゲ+九州生まれの濃い顔」が災いし、現地人と間違われてしまいまったのです。パスポートをみせて説明しても
「偽物じゃないのか?日本人はそんなに中国語は話せないはずだ」
の一点張り。最終的には、私が持っていた大学の学生証をみせて何とか信じてもらえました。偽物が出回っているパスポートよりも、大学の学生証の方が役に立つのには閉口しました。それにしてもウイグル人って、トルコ系の顔してるんですけど、それと間違われる私って……
家族ぐるみのお付き合いをしている知己、裴くん。その時の話は今でも笑い話として語り継がれています。
(写真)三十路のバースデー『烤全羊』
酒逢知己千杯少
これは「知己と飲む酒は千杯でも足りない」と言う意味を表す中国のことわざです。この言葉を教えてくれたのが、互いを「兄弟」と呼び合う知己、郭くん。
彼との出会いは、2度目の留学で北京を再訪した直後の2002年10月。当時日本語を勉強していた郭くんとそのクラスメイト達が企画した「香山紅葉鑑賞ピクニック」に参加したのがきっかけでした。
お互い肌があったのか、あっという間に意気投合、毎週のように遊びに行くようになります。
彼は小さい頃から北京の胡同で育ったこてこての北京人。現在、私がしゃべる中国語は『京腔(北京なまり)』だとよく言われますが、彼から受けた影響が大きいのでしょう。また、言葉だけではなく北京の風習についても色々と体験させてくれました。
大晦日の夜は郭くんを中心とした仲間たちと集まります。以前も書きましたが、私の場合、蒋老師の家で『年夜饭』を食べ、その後、彼らと合流するのがいつものパターンとなりました。春節期間中に『庙会(春節期間中お寺などで開かれる縁日)』にもよく一緒に行きました。また、北京では長年禁止されてきた花火・爆竹ですが、2006年から時間限定で解禁されました。この時も真っ先に声をかけてくれたのが郭くんでした。
彼とはよく旅行に行きました。印象深いのは、2004年7月に行った河北省苟各庄。北京から片道7元の汽車に乗り約3時間、シャワーもない一泊10元の民宿に3日間泊まりました。その日は奇しくも私の三十路の誕生日。バースデーケーキ代わりに食べた羊の丸焼きの味は今でも忘れられません。
2007年5月、開通して間もない青蔵鉄道に48時間乗りチベットへ向かいました。標高世界一の塩水湖「ナムツォ(納木錯)」は今まで見た中でも最高級の景色、チベット族の貧しい子供や老人たちとも交流し、人生観を変えるような素晴らしい経験をすることができました。
また、私が中国人のコミュニケーション能力、交渉能力を垣間見たのもこの時です。我々一行は6人で、列車の一部屋のベッド数も6つ。しかし、旅行会社を通じて買った帰りのチケットは全員がバラバラという状況でした。日本人だったら、仕方がないと諦めてしまいそうですが、彼らは違います。同じ車両の旅客に片っ端から話しかけ、一人旅の旅行者を見つけだしてはベッドの交代を依頼、わずか10分足らずでバラバラだった6人を一つの部屋にまとめ上げました。なんとも心強い!
彼とはよく私の部屋で盃を交わし、夜遅くまで語り合いました。家族の話や恋人の話、友人に裏切られた話など、何でも私に喋ってくれました。泣きながら相談を受けた事もあります。
「ここまで分かり合え、何でも話せる友人は中国人でもなかなかいない。」
彼がよく口にする言葉です。実は最初のことわざは続きがあります。
话不投机半句多(話が合わねば半句も多し)
話の合わない人、口も利きたくないような人というのは同じ国籍でも数多くいます。そのような中、異国の地で心から分かり合える知己と出会えるというのは本当に幸せな事です。
(写真)2009年の優勝メンバー
留学中に仲良くなる友達は中国人だけではありません。いえ、語学クラスの授業に出席するのは留学生だけですので、一般的には他国の留学生と仲良くなる人の方がずっと多いでしょう。私も例に漏れず、世界各国の友人ができました。
「北京商学院」時代では、なんといっても半年間ほぼ毎日寝食を共にしたルームメイト、インドネシアの黄くん。あの半年間における中国語の飛躍的な向上は、彼なしにはあり得ませんでしたし、パソコンのブラインドタッチを教えてくれたのも彼でした。
8年間の「対外経済貿易大学」時代では、数えきれないほどの友人ができました。それもそのはず、この大学には世界約130カ国から3000人近くの留学生が一堂に会しており、「ミニ国連」の様相を呈しています。留学生総数100人に満たない当時の北京商学院とは比較にならないスケールです。
「対外経済貿易大学」で最初に仲良くなった留学生は、韓国人本科生(学部生)の朴くんでした。彼とは、一緒に食事したり、スポーツをしたり、また北京郊外まで植樹にも行きました。中国で一番多い留学生は韓国人。その後も多くの韓国人留学生と知り合いましたが、気が合って仲良くなったのは不思議と彼だけでした。
アメリカ人のCarrieさんとは相互学習をしました。中国語学習のために他の言語を完全に忘れ去っていましたが、大学院入学前に英語のレベルアップが必要となり、偶然知り合った彼女と相互学習をすることになったのです。彼女が英語を、私は中国語を相手に教えました。日本人が母語ではない中国語を教えるのも変ですが、彼女曰く、
「外国語として習ったことのない中国人より、中国語を基礎から勉強したハイレベルの外人に習った方がわかりやすい」
とのこと。その時すでにHSK11級を持っていたので、きっとそれが魅力的だったのかもしれません。
小学校二年から始め今現在も続けているサッカーがここでも大活躍。2006年から2009年までの4年間、全ての留学生が所属する「国際学院」サッカーチームのキャプテンを務めました。サウジアラビアのAzizくん、イタリアのAlexくん、ベトナムのAshengくん、タイのTitくん、ラオスのJunchengくん等々、多くの素晴らしいチームメイトに恵まれ、学内大会で4年連続の優勝を達成しました。
大学院時代は、タイ、インドネシア、アメリカ、カメルーン、アルジェリア、アゼルバイジャンなど世界各国から、修士・博士学位を求めて集まった多くの留学生クラスメイトとも親睦を深めました。
海外留学の魅力は語学力の向上だけではありません。異なる国から来ている学生を通じて、今まで知らなかった新しい世界に触れることができます。また、世界各国の留学生との交流は、グローバル人材に必要な国際的素養や感覚を養うと同時に、国際的コミュニケーション能力の養成・向上に資するでしょう。
各分野のグローバル化が急速に進む中、まさしく今日本で求められている人材です。
海外留学は最高の自己投資だと思います。
(写真)対外経済貿易大学の学生寮
中国の大学は原則的に全寮制で、大学関係者の住まいも学内にある大学があり、敷地そのものが「住」「食」「学」一体の一つの街となっています。
今の中国人学生寮は4~5人部屋が一般的。約15平方㍍のワンルームに下が机となっているロフトベッドが人数分おいてあるだけの無機質な空間です。バス・トイレは共同で、シャワー、洗濯は有料制、夜の23時には消灯し午前零時になると門が閉められてしまいます。テレビも無ければ、クーラーも無ありません。共同部屋のためプライバシーも皆無に等しいでしょう。
実はこれでも随分改善されており、1996年に知己の盛くんの部屋にお邪魔した時に見た光景は凄まじいものでした。
「き…きたない…」
8~10人の学生が二段ベッドにすし詰め状態、部屋は「素敵な香り」を放っていました。1996年当時は、あまりお風呂に入らない人が多く、夏場に乗った満員バスがあまりに臭くて、耐えきれず一駅で降りた記憶もあります。毎日のように私の寮にシャワーを浴びに来ていた綺麗好きの盛くんにとっては、耐え難いものがあったことでしょう。
それに比べると留学生寮は快適です。様々なタイプがありますが、一般的なのは、ワンルームにベッドや机が二つずつ並べてあるタイプです。各部屋に、テレビやクーラーが設置されており、バス・トイレも完備されています。
このタイプの寮は設備的には問題ないのですが、それ以外に大きな問題が。それは、
全く異なる文化で育ち、異なる生活習慣をもつ初対面の二人が同じ空間で生活をすることによる摩擦
部屋が仕切られていないので、部屋にいる間は四六時中顔を合わせます。このシステム、気が合わない者同士だと最悪です。
私の場合、北京商学院時代は以前紹介したインドネシアの黄くんととても充実した日々を過ごしました。また、対外経済貿易大学に来てからの初のルームメイトはカンボジア人。それから一年後に代わって入ってきたのはベラルーシ人でした。私は運がいいことに、彼らとは大きな摩擦も起こらず平穏に暮らすことができましたが、そうでない人もたくさんいます。その摩擦の要因はというと、たとえば、
●部屋を汚すだけ汚してちっとも掃除しない
●音楽がうるさくて勉強できない
●朝から便所に入って出てこない
などなど。まあ理由は些細な事なんですね。恐らく、人間的に気に入らないから、些細な事にも腹を立ててしまうのだと思います。ただ、あまりにもストレスをため込みすぎてしまい、爆発して、殴り合いの喧嘩になったケースもあります。
やはり、改善してほしい点をしっかりと相手に伝えることが大切です。それでも改善しなければ、部屋を代わればよいだけの事。大したことではありません。
日本人は基本的に自己主張が苦手です。日本人同士であれば、「空気を読む」とか「相手を察する」といった方法でコミュニケーションがとれるのかもしれません。しかし、世界に出ると違います。ここぞという時には自分の意見をしっかりと相手に伝える必要があり、それを実践しなければなりません。
留学生活では、勉強以外にも多くの事を学ぶことできるのです。
(写真)北京の最新ニーハオトイレ
一昔前、中国政府は外国人が住める場所を厳しく制限していました。今でも原則的には「外国人用マンション」に住まなければならないことになっているようですが、北京などの大都市ですと、公安局の許可を得れば、比較的安いローカルのアパート・マンションに住めるようになりました。それに伴い、多くの留学生が学外の居住地を求めるようになっています。
学外での生活はそれなりのコストもかかりますが、留学生だらけの寮生活ではできない、貴重な経験を得ることができるという点で魅力的です。
マンションには、『塔楼』と呼ばれる高層タイプと、『板楼』と呼ばれる比較的低い(通常6階程度)タイプのものがあります。また、北京の胡同でよく見かける『四合院』を改造したタイプなども人気です。
また、外国人にはあまり縁がないと思うのですが、『筒子楼』と呼ばれる集団宿舎のようなタイプの住居もあります。友人の日本人女性が1年ほど住んだことがあるというので話を聞いてきました。
彼女が住んでいたのは3階建ての『筒子楼』。六畳一間の部屋にベッドが置いてあるだけの簡素なもので、家賃はひと月500元。トイレは共同、しかもニーハオトイレ。隣に並んで座っている人に用を足しながら
「今何時?」
と声をかけられることも日常茶飯事だったそうです。洗濯は共同の洗面台での手洗いで、蛇口は2つしかないため早い者勝ち。風呂はなく、歩いて約2分の場所にある大衆浴場。北京の冬は日中でも氷点下という極寒です。歩いて帰ってくる間に、髪の毛はカチンコチンに凍ってしまいます。
『筒子楼』の欠点は隣人の行動が、いちいち生活に影響を及ぼすことです。外から帰ってきてなんか目が痛いなぁと思ったら、お隣さんが唐辛子をふんだんに使った料理を作っていたそうです。
このように、生活条件は決してよくはありませんが、中国人の友人ができやすいというメリットもあります。彼女が生活した『筒子楼』は「ほのぼのとした人と人の距離が近い」環境で、日本人の彼女に対してもとてもよくしてくれたそうです。中国人は一旦仲良くなると、とことん面倒見てくれる人が多いのです。
仲良くなった友人たちとの交流で中国語力は飛躍的に上達します。語学力を短期間で高めたいという人にはもってこいの環境と言えるかもしれません。
留学期間中にどこに住むか。与えられたものだけに縛られるのではなく、自分の条件に基づいて、色々と検討してみるのもいいかもしれません。
(写真)学生でごった返す経貿大学学生食堂
民以食为天(民は食を以て天となす)
その国の食べ物が合うか否かという問題は、長期的な留学生活ではとても重要なポイントですね。
中国といえば「中華料理」を思い浮かべると思います。留学で中国に来たら毎日この中華料理をたらふく食べれるのかなぁと。まぁ、ちょっと考えればわかる事ですが、日本人用に改良されたレストランで食べる中華料理と、実際に一般の中国人が食べている料理は似て非なるもの。過度な期待は禁物です。
それでは大学の中はどうでしょう。
「食」の場は基本的に学食です。価格は約4~8元で、私が初めて留学した90年代と比較すると、近年はメニューの多様化も進み、定食、丼、面類など以外に、串焼きや鍋料理なども提供しています。
私も普段から学食で食事をする機会が多いのですが、お世辞にも「美味しい!」とは言えません。中国人の学生や同僚に話を聞いても、「まずくて高い。仕方がないから食べている」とぼやいていました。
では留学生はどうか。
私の知っている限りでは、留学生のほとんどがこの学食では食べていないようです。学生時代、私は毎日のように食べていましたけどね……
それでは、何を食べているのかというと、学校付近のレストランが多いようです。人が多く集まる学校の近くでは、必然的に外食産業が発達。今では中華、和食、洋食、何でもあります。
中華料理といえば円卓を囲むイメージがありますが、最近は個食化が進んでいます。90年代には、あまり見かけなかったラーメンや丼を提供する中華ファストフードの店がかなり増えてきました。年々加速し続けている北京の生活リズムを反映しているのでしょう。
また、北京のセブンイレブンでは、温かい惣菜料理も提供しています。冷たいものを食べない中国人への配慮でしょうか。
さらに最近では、デリバリーが随分発達してきました。私が学生の頃はよく韓国料理のデリバリーを頼んでいましたが、最近では和食や洋食もあります。また、マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンなどは、インターネットでもデリバリーを受け付けていますので、中国語ができなくてもクリック一つで注文可能です。
あぁ、なんと便利な世の中になったものでしょう。
ただ、便利になった反面、語学習得、国際交流という観点からは負の影響も否定できません。私の場合、96年当時、一人で分厚い辞書を片手に食堂を訪れ、片言の中国語で必死にコミュニケーションをとっていました。
それが今では全く喋らずに用事を済ませることが可能となっています。語学力が伸びる瞬間。それは、どうしても中国語を使わなくてはならない状況に自分を追い込み、その壁を乗り越えた時に最も顕著に感じることができます。
留学期間中にその「快感」を、是非味わっていただきたいものです。
(写真)老北京ジャージャー面
中国語に『吃货』という言葉があります。原義としては「無駄飯喰い」「穀つぶし」といった意味があるのですが、最近では「食いしん坊」のような意味でよく使われています。私は『美食家(グルメ)』ではありませんが、かなりの『吃货(グルマン)』です。
「文化を理解するには、まずは食文化から」
食文化ほど地域に根ざした文化はありません。中国には山東、四川、江蘇、浙江、広東、湖南、福建、安徽の『八大菜系』と呼ばれる著名な料理がありますが、その中に中国の首都北京を代表する『京味(北京料理)』は含まれていません。そんなマイナー(?)な北京料理ですが、北京留学の際には是非食べてもらいたい料理があります。ジャージャー面です。
ジャージャー面は中国語で『炸酱面』と書きます。読んで字の如く、油で炒めた味噌を『菜码儿』と呼ばれる具と麺の上にかける料理です。この『菜码儿』を「中日辞典(小学館)」で調べてみると「めん類にそえたり混ぜたりする具。野菜を千切りにしたものなど」とありますが、そのような単純な付け足し的なものではなく、季節によって内容を変えるなど、北京人はこの『菜码儿』にこだわりがあるようです。
麺のゆで方もこだわりがあるようで、冬の寒い時期にも湯で麺を一度水通ししたものを食べる人が多くいます。茹で上がった面を水にさっと通すことにより、面にハリが出て、最後の一本まで歯ごたえを楽しむことができるのです。
このジャージャー面は標準的な北京の家庭であればどこでも作れるようで、それぞれ作り方が微妙に異なるため、味が各家庭で違うのが特徴。つまり、北京版「おふくろの味」です。私も多くの北京人のお宅でいただきました。
最近食べたのは、親友の郭くん家のジャージャー面です。『菜码儿』はキュウリ、モヤシ、大豆、赤カブ。麺は自家製ではなく、市販のもので、一斤(500g)約5元で手に入ります。肝心の味噌ですが、北京では有名な老舗『六必居』の『黄醤(大豆と小麦粉で作った甘辛い味噌)』を使う家庭が多く、郭くん家でもそれを使っていました。具材も、肉、卵を両方入れ、さらに椎茸やネギをいれていました。
折角の中国留学です。日本料理もいいですが、「食」を通じてご当地の文化に触れあい理解することも大切です。また、北京人の友人ができたら、
「あなたの家のジャージャー面が食べたい」
とアタックしてみてはいかがでしょう。北京版「おふくろの味」は、きっとお腹も心も満たしてくれるはずです。
(写真)対外経済貿易大学の留学生卒業式
留学とは、よその土地に在「留」して「学」ぶこと。つまり勉強こそが一義的な目的です。私は10数年間北京の大学に籍を置いていますが、その中で多くの外国人留学生と交流してきました。
「中国に行けば中国語が喋れるようになる」
うーん甘い考えですね。
しかし、このように安易に考えている留学生は少なくありません。語学学習はそんなに甘いものではありません。実際、数年も中国にいるのにほとんど中国語をしゃべれない外国人をたくさん知っています。逆に、中国に来て数か月しか経っていないのに、自在に中国語を操ってコミュニケーションをとっている人もいます。
彼らの違いはどこにあるのでしょう。
実際住んでみるとわかるのですが、現在の北京では中国語を全く話せなくても生きていけます。スーパーやコンビニは充実しており、ネットで何でも買い物できます。日本料理屋も数多くあり、毎晩日本人でにぎわっています。
以前はなかなか手に入らなかった日本の食材や加工品も、日系のスーパーや百貨店の出店に伴い充実してきました。今では刺身や納豆、生で食べられるたまごさえも簡単に入手できるようになりました。
外務省の統計によると、中国の邦人数は平成23年10月1日現在で140,931人、その内上海が56,481人、北京が10,355人となっています。ここまで邦人数が拡大すると、日本人向けのサービスが充実するのは当然です。
また、フリーペーパーをみれば県人会や同窓会、趣味サークル等の広告がたくさん出ています。寂しくなったら日本人のコミュニティに行けば、日本語で会話を楽しむことができます。
このような日本人にとって便利な環境が、語学習得、国際交流に与える負の影響は無視できないレベルにまで達しています。私の場合、1996年当時、一人で分厚い辞書を片手に食堂を訪れ、片言の中国語で必死にコミュニケーションをとっていましたが、それが今では全く喋らずに用事を済ませることが可能となっています。趣味のサッカーを通じて多くの中国人と交流を深めましたが、今では日本人チームがいくつも存在します。日本の情報もインターネットで検索し放題。中国にいるのに全く中国語を喋らず、中国人と接することなく生活できるのです。
同じ留学に来ている人でも、伸びる人とそうでない人の違い。一言で言えば「気持ち」です。
「絶対に習得してやる!」
という気持ちが無ければ、このような日本とほぼ変わらない便利な環境の中で語学力を高めることはできません。私は精神論者ではありませんが、私が約二十年間真剣に取り組んできた語学学習に関してだけは、自信を持って言えます。上達するか否かは本人のやる気次第だと。
心地よい環境に甘んずることなく、自らを律し「日本」と適度な距離を置く。その上で、中国人のコミュニティに果敢に飛び込み、異文化交流の輪を広げ、語学だけではなくリアルな国際感覚を養いたいものです。
そのような人材をグローバル社会は求めているのです。
(写真)街中で中国将棋に興じる人々
海外留学の最大のメリット。それは何と言っても、外国語に触れ合う機会が圧倒的に増す事でしょう。日常的に外国語と接することにより、当然語学力は飛躍的に高まっていきます。
簡単に説明すると、中国の留学カリキュラムは、通常『学歴生』と『非学歴生』に区分されます。前者は、『本科生(学部生)』や『研究生(修士・博士課程)』といった学位の取得を目的とする留学生。中国で博士号を取得した私の場合はこれに該当します。後者は、『漢語班』などに通う「語学の習得」を目的とする短期の留学生を指します。
全体的にみると、日本人留学生の場合、『学歴生』は比較的少なく、多くが語学上達のための『漢語班』に在籍しています。
この『漢語班』で教えている先生は対外漢語のプロ。つまり外国人を相手に中国語を教える専門家です。熟練の先生になれば、どの国の学生がどのようなミスを犯しやすいのか、発音にどのような癖があるのかといった細かい点までわかるようになります。実は、これが結構曲者なのです。
漢字文化の日本人は、中国語は読めば何とか理解はできます。また、1,2カ月もすると耳も慣れてきて、先生が言っていることが徐々にわかるようになってきます。そうなってくると、
「お、中国語って楽勝!」
と勘違いしてしまう人がいるのです。実は、対外漢語のプロの先生は、使う中国語を厳選してわかりやすく話をしますし、発音の癖もわかっているので、多少つたない中国語でも理解してくれます。
実際街に出てみると、タクシーの運転手やお店の店員が喋っている事がわからない。上級者においても、TVやラジオのキャスターが喋る標準語はわかるのに、『相声(中国漫才)』やドラマ、映画等が聞き取れない、という事はよくあることです。つまり、教室で使う「お客様用の中国語」はわかっても、実際に使われている「本場の中国語」は理解できていないのです。
これを解消するには、多くの中国人との「生きた会話」を積み重ねるしかありません。
私の場合、初心者の内はできるだけタクシーを利用し、助手席に座りつたない中国語で運転手に語りかけました。もともとそんなに高くないタクシー代ですが、レッスン料と考えれば安いもの。北京のタクシーの運転手は、ほとんどがネイティブの北京人です。中には発音を矯正してくれたり、北京語などのスラングを教えてくれたりした運転手さんもいました。
また、北京語以外の、訛りのある標準語にも対応できるようにと、街で座っておしゃべりしている高齢者の方々や、暇そうにしている出店のおばさんにもよく声をかけました。とても優しく丁寧に対応してくれたのが印象的でした。さらに、中国将棋を指している人を取り巻き討論している人たちの中に入って聞き取りの練習もしました。おかげで、ある程度の訛りのきいた中国語でも聞き取れるようになりました。
語学習得に近道はありません。単語一つ一つ、言葉一つ一つをコツコツと積み上げていくしかないのです。せっかくの中国留学です。果敢に街に飛び出して多くの中国人との会話を楽しんではいかがでしょうか。