百合子さんとカレが出会ったのは、93年。百合子さんが勤める下着メーカーにカレが中国担当として入社してきた。
日本の大学に留学後、カレはその会社に入社。1年ほど中国に長期出張をし、翌年、また百合子さんと一緒のフロアーで仕事をするようになる。そして間もなく、カレは百合子さんを食事に誘い、結婚を前提にした交際を申し込む。
「単刀直入で、びっくりしました」
いきなりの申し込みだったが、百合子さんもカレにそれなりに好感を持っていた。同僚からも「年回りもいいし、いい感じ」と祝福され、一緒に過ごす時間が増えたふたりは、翌95年に結婚した。
国際結婚を決めるにあたって、百合子さんには何の迷いもなかったという。
「私、大阪人だからか、あまり深く考えずこれからの中国はおもしろそうだから、このくじ引いてみよう、くらいの気持ちで決めてしまいました」
だが百合子さんのお父さんの大反対にあう。
「父は、昭和一桁の保守的な戦中世代の人です。外国人は厄介だと思っていたのか、猛反対。私の方も反発して、友人に頼んでバンを運転してきてもらい、荷物を全部のせて”家出”しました」
そこまでの決断を百合子さんにさせたカレの魅力とは、何なのだろうか。
「給料日まであと何日もあるのに数百円しかなくなってしまった時、カレはどういうふうに材料を買ってくるのか、いろいろ工夫して豪華な主菜を3つもつくって発泡酒までまかなえてしまう。カレのアイデアで、お金がないことがかえって楽しいイベントになるんです。そんなふうに、どんな状況でも創意工夫して問題を解決していける人。これまでにも何度か経済的や精神的に大変なことがありましたが、カレの生活力、サバイバル能力のおかげで、いつでもカレといれば大丈夫と思えるんです」
日本と中国の生活習慣の違いを感じるのは、どんな場面なのだろう。
「いちばん日本人との違いを感じるのは、カレが家族や友人にとてもよくしてしまうことです。こちらだって苦しいのに、友人にお金を貸したり、友人が勝手にカレの通帳からかなりの大金をおろして使ってしまったりしても、怒らないんです。『家族・親戚と親友は、血を売ってでも面倒を見る』と、カレが言ったことがありますが、そのあたりは日本人の感覚ではなかなか理解しづらい部分です」
カレがわんわん泣いた日
そんな感覚の違いから、ある時些細なことで大げんかになってしまった。
カレが中国で日本輸出向けの包帯などの衛生材料工場を合弁で立ち上げ、2004年に日本から北京に移ってきた頃のことだ。
「その頃、北京の生活は、電話を設置するのもガス代を払うのも、さまざまな日常生活が日本ほど便利ではありませんでした。また、中国語のコミュニケーションがうまくとれなかったりで、生活習慣の違いなどからストレスが溜まっていたんだと思います。それで、小さなことでカレとぶつかってしまいました」
「私、出て行く」
百合子さんがスーツケースに荷物をまとめだすと、カレが実家に電話していた。
彼女、出て行くから、子どもたちの面倒を見に上京して、と親に話している。
カレもそういうつもりなら、もう、出て行くしかない。
だが、出て行ったはいいが、行くあてはない。百合子さんは、住んでいる団地の敷地をスーツケースをごろごろ引っ張りながら何周かすると、結局部屋に戻った。
すると、カレが声をあげてわんわん泣いていた。
「君が僕と子どもを置いて出て行ってしまったことが悲しい」
と泣きながら話すカレ。両親からも‘彼女は経済的にも文化的にも違う外国から来て大変に決まっているのに、どうしてお前はそんな彼女を守ってやれなかったんだ’と叱られたというのだ。百合子さんは心配をかけたことをすぐに電話で両親に謝った。
時間の経過とともに北京の生活にも慣れ、今では中国で楽しく暮らせるようになったと話す百合子さん。カレとの結婚という”くじ”を引いて18年が経った。
くじの結果はどうだったのだろう。
「年末ジャンボとサマージャンボが一緒に大当たりした感じです」
反対していたお父さんも、だんだん百合子さんたちの結婚を認めてくれるようになったという。
「結婚して数年し、私たちが幸せそうにしているのを見て、父の気持ちも変わったみたいです。子どもにも会ってくれるようになったし。結局、親って子どもが幸せでいてほしいと願ってくれていたんですね」(文中は仮名)
SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト)