その5 カルチャーギャップから孤独に。不安埋めるため 選んだ離婚と再婚。— 大泉奈美さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 大泉奈美さんとカレが出会ったのは、1994年、奈美さんが大学在学中に北京に留学した時だ。北京のあるクラブで、長身の目がクリッとした木梨憲武似のカレと知り合った。その時の印象を奈美さんは話す。
「とてもピュアな人で、すごく感動したんです。いつでも、私と話す時は顔を真っ赤にしてはずかしそうに、でも、すごく素朴に、好きです、とか、今度会いましょうとか、なんの駆け引きもなく話す人で、そういう純粋な人に日本では出会ったことがなく、ぐーっと魅かれました」
  
 1年後、日本の大学に戻った奈美さんは、卒業後、北京に赴任する仕事を探す。HSK(漢語水準考試)の8級を持つ奈美さんにとって、それは難しいことではなかった。 
 97年、衣料メーカーの生産管理責任者として北京に赴任した。北京では、カレの婚約者としてカレの実家で両親と一緒に暮らした。けれどもそこで、家族との大きなカルチャーギャップに奈美さんは打ちのめされる。
「いちばん耐えられなかったのは家の中で私の物がなくなるということです。親戚でも友人でも、日本から来た私の持ち物は珍しかったらしく、ブランドの服や小物を勝手にカレのお母さんが人にあげてしまったり、親戚が黙って持っていっちゃったりするんです。最後には、日本から持って来たノートパソコンとカレが贈ってくれた指輪もなくなりました。それには私も我慢できず、お母さんに大抗議しました。でも、お母さんはなんで私がそんなに怒るのかわからないという態度です。カレに言うと、大事な物をなんでスーツケースに入れて鍵をかけておかなかったんだと、逆にたしなめられました。中国って、家族の物は自分の物という考えがあるようですが、私はどうしてもそれを受け入れることができませんでした」
 
 日本企業から赴任している奈美さんは、経済的に余裕があった。ひとりでアパートを借り、そこに、カレが実家から通う形でふたりの生活をリセットした。
 その頃カレは何度も結婚したい、子どもがほしいと言ったが、奈美さんは、高卒の学歴でデパートの店員だったカレとは、まだ結婚に踏み切れなかった。

国際結婚は相手の国までまるごと受け止めないと難しいー

 その後、カレは奈美さんの要求に沿うようにと、演劇系の大学に進み卒業した。まだ、それほどの収入にはならなかったが、役者として活動も始めだした2003年、知り合ってから10年めにして、ふたりは別居結婚の形で入籍した。
 そして、30歳を超えた奈美さんは、そろそろ子どもがほしいと思った。けれども、仕事がちょうど軌道に乗り出したカレに、今は仕事に集中したいからと拒否された。
 経済的問題も奈美さんをいらだたせた。役者の卵として仕事を始めたカレだが、収入は少なく、ほとんど奈美さんがカレを養う形となっていた。奈美さんは、家計は二人で分担するか、または、どちらかというと男性が女性を養うものだというイメージがあった。カレの兄弟親戚はとても裕福なのに、日頃の生活費をなぜ、奈美さんばかりが負担しなくてはならないのか。しかし、まわりの中国人の友人に相談しても、中国では夫婦両方とも仕事をしているケースが多いので、お金がある方が払うのが当たり前と、カレを肯定することしか言われない。けれども奈美さんはどうしても納得できなかった。
 あるとき、カレが風邪を引いて、病院に行くお金数百元を奈美さんにせびった。奈美さんは「もういい加減にして!」と、頑としてお金を出さなかった。カレは「僕は病気なのにあまりに冷たすぎる!」と怒り、ふたりの関係に決定的距離が生まれてしまった。

 奈美さんは将来が見えないこの結婚の意味について深く長く悩みだす。そんな中、2005−6年には抗日運動、サッカーワールドカップの混乱などが続き、中国内で怖くて日本語が話せないような事件に遭遇した。中国で暮らしていても中国人ではない自分。しかし、この国では日本人として堂々と暮らすこともできない。中国では自分はやっていけないと感じはじめ、先の見えない不安と恐怖で奈美さんは精神不安に陥っていく。
 食欲はなく、眠れない、無意識のうちに涙が流れている。 既にこの頃には、事実上の結婚生活は終わっていた。奈美さんは、先の見える安定が欲しかった。そのために日本人男性との未来を求めた。それが、自分が自分らしくいられる最良の方法だと感じたからだ。そして、カレには感じなかった包容力のある日本人男性と知り合い、カレとは離婚の手続きをした。今は、その日本人の男性と家庭を築き、将来への漠然とした不安や恐怖というものもなくなり幸せに暮らしている。

 奈美さんは中国人のカレとの離婚を振り返ってこう話す。
「私は彼が好きだというだけでこの国に来ました。特に中国が好きなわけではなかったですし、両親と別居した時も、解決したつもりで、実はこの国の習慣から逃げていたのです。カレも、知り合って結婚していた13年間、何度誘っても、興味がないといって、一度も日本には行ってくれなかった。今振り返って離婚のいちばん大きな理由、それは、お互いがお互いの国,背景を受け入れようとしなかったことでした。国際結婚は、相手とともに、相手の国のことも理解し好きにならなければ成り立たないのです」
 
 離婚後、カレは不意にひとりで日本を訪れた。初めての渡航だった。その理由を聞くとカレは言った。
「一度、君のふるさとを見ておきたかったから」
 遅すぎた訪問だった。(文中は仮名)


SadoTamako

投稿者について

SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト