金子恵美さんは、小さな頃おじいさんから出兵した経験を聞いて中国に興味を持っていた。96年9月、大学在学中の19歳で北京に留学し、知人から家庭教師として一人の中国人学生を紹介された。恵美さんが初めて話をしたその中国人青年が、2006年に恵美さんと結婚をすることになるカレだった。当時、北京の学生の服装は一目で中国人とわかるものだったが 、長髪でギターを弾いていた奥田民生似のカレは、アーミールックを着こなし、まったく日本人と変わらない外見だった。
日本に彼がいたが、中国語を教わったり買い物や観光に連れて行ってもらったりして一緒に過ごすうちに恵美さんの気持ちはカレに接近していった。罪悪感と裏腹に、人ごみを利用してカレの腕をとったり、カレのほほにお休みのキスをしてみたり、カレに近づく行動をとっていた。
当時のうぶな中国人学生が反応しないはずはない。あるとき、混雑したバスの中でカレは恵美さんを強く抱きしめた。恵美さんはふと我に返った。
「でも、私には日本に彼がいる」
するとカレはカレの日本語で言った。
「君がそういうことを言うと、こころが寒い。俺にも競争に参加する権利がある」
その年の12月のことだった。
事件が起きた。大学の試験でカレがカンニングの疑いで退学処分となったのだ。田舎から駆けつけたカレの母親が、息子の将来は終わりだと宿舎の前に座り込んで泣いている。恵美さんは思わず彼の母親に声をかけていた。
「カレを日本に留学させましょう。私が絶対手伝いますから、私を信じて下さい」
98年、恵美さんは本当にカレを日本に呼び、自分の実家に住まわせた。その後カレは日本の大学に合格。恵美さんは大連に1年間留学、先に大学を卒業すると、東京の会社に就職した。2003年にカレも日本の大手メーカーの東京本社で採用されるが、すぐ駐在員として北京に赴任する。
気持ちが戻らないカレを待った長い時間
日本の大会社の社員として好条件で駐在するカレは、中国人女性の憧れの的。毎晩のようにカラオケバーなどを飲み歩き、この頃からカレの態度が変わり始める。恵美さんと一緒になることが最良の選択なのか悩みだしたのだ。中国人女性と一緒になった方が、自分らしく生きられるのではないかーー。電話やメールの反応は鈍く会話も弾まない。急速にカレの愛情は冷めていった。けれども、恵美さんはこれまでの絆を捨てることはできない。カレもそうだったのだろう。関係は冷えていたが、2年後、カレは恵美さんとの結婚を決断する。2006年、恵美さんは北京にやってきた。
結婚式の夜、恵美さんの携帯に見知らぬ中国人女性から電話が入った。カレの浮気相手だったその女性は嫌みたっぷりに結婚のお祝いを言った。パニックになった恵美さんにカレは「あ、それ、無視していいから」と説明すらない。カレの母親は「バカ息子!」と恵美さんを抱きしめて一緒に泣いた。母親は言った。
「なんであれ、息子はあなたとの結婚を選んだのだし、あなたには妻の座がある。彼女の攻撃は無視しなさい」
だが、新婚なのに会話もセックスもない。冷めきった生活に耐えきれず、アパートを探し始めた恵美さんに、
「あなたは中国をなめている。外国人の女性が1人で暮らすなんて危険すぎる。出て行くのなら私もついて行く」
と言うと母親は続けた。
「ここにいれば家賃もかからない。あなたは生きる武器として、明日からでも自分でお金を稼ぐ技術を身につけなさい。男に頼らず自立しなくてはだめ」専業主婦の母親のもとで育った恵美さんにとって、カレの母親からの言葉は思いも寄らぬことだった。中国人女性の強さを知り、中国にお嫁に来たら自分も強くならねばならないと知った。
すべてを打ち明けた恵美さんに、実家の父は「彼もわかっているはずだ。彼を責めるようなことは言うな。言えば言うほど、男は離れていく」と諭した。
恵美さんはこの時気がついた。自分は、常にカレの人生を決めてきた。日本に来ることも、大学の学部の選択も、仕事も、結婚の時期も。結婚するんだったら、最低でも日本人の平均以上の給料と肩書きがないと見下されてしまう、と要求ばかりしていた。カレは疲れ、自分の人生を生きてみたいと思ったのだろう、と。
10年で積み上げてきた信頼と愛情は一瞬で簡単に崩れると知ったが、何年かけてももう一度積み上げたいと恵美さんは思った。
北京で結婚生活を始めた1年後、カレは東京に帰任したが、恵美さんは北京に残り仕事を続けた。その間はメールや電話などで「北京は今秋空が気持ちいいよ」、「庭に桃の花が咲いたよ」など、心がぬくもる言葉だけをカレに送り、詮索は控えた。そんなさりげないコミュニケーションを重ねるスタンスを3年間保った。
「少しずつですが、彼の気持ちが戻ってきました。そして、失って初めて気がつきました。カレの笑顔を見ること、カレからメールをもらうことが、こんなにもうれしいんだと」
今年の始め、カレは東京の会社を辞めて北京の恵美さんのもとに戻ってきた。関係はずいぶん修復されたが、昔のような熱い関係には戻らない。カレが夜帰ってこなくても、話をしてくれなくても、恵美さんはずっとカレの気持ちを尊重し続けた。
そして取材した日のちょうど1週間前、カレは恵美さんに言った。
「そろそろ子どものこと、考えようか」
カレが、恵美さんと前向きにやり直すと決めた宣言だった。(文中は仮名)
SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト)