その4 結婚の「あるべき論」をカレとシェアするチャレンジ — 園田律子さんの場合 —

2016年9月1日 / カレは中国人

 園田律子さんと6歳年上のカレとの出会いは、2001年、律子さんが 21歳で北京に3ヶ月の留学をした時だった。ふたりは運命的なものを感じた。 
 カレのもとに行きたくて、律子さんは2003年に再度北京に1年間留学した。休みの日や仕事や学校が終わった後、ふたりは時にキャンパスで、時に公園で、喫茶店で、または近くの病院の庭で、時間の許す限り会っていた。けれども、なかなか中国語は通じない。お互いに辞書を持って筆談で会話をしていた。
「大阪出身なので、時々私の大阪弁が辞書に載ってなくて彼が困った時もありますが、ほとんどすべてのことを私たちは意思疎通できていました」
 律子さんはこう分析する。
「コミュニケーションって、相手を知ろうとすることが大切だと思います。日本人同士は、言葉は通じても心は遠いと感じることがあるのですが、外国人だとお互いのことを理解しようと努力するところから始まるので、かえって心は通じやすいことがあるのかもしれません」
 この年の終わりに、律子さんはカレからのプロポーズを受ける。

 律子さんは、外国への留学経験が多い。ハワイに1年半、韓国にも短期留学をしている。 ハワイ留学時代には大学生向けの結婚カウンセラーのアシスタントとしてボランティアもした。 律子さんはカレを選んだ理由についてこう話す。
「必要なことは、ちゃんと表現しないとわからないと思います。日本人男性は言葉も愛情表現も少ない。かといってアメリカ人は、私には、表現が軽すぎるように感じました。一般的に中国人男性って、ちょうどその間くらいのような感じがします。彼は中国人としてはおとなしい方ですが、誕生日や記念日などのポイントポイントで、ちゃんと愛情表現をしてくれるので、私にはちょうどよい気持ちの触れ合いが持てる人でした。それにカレ、私が言うのもなんですが、私の父に似ていて、彫りの深い東南アジア系ハンサムなんです」
と、律子さんははにかんだ。
 
 2003年、律子さんは留学を終えて帰国。
 2004年はじめ、カレが、ちょっと桜でも見に行こうかな、くらいのノリで日本に遊びに来た。そして日本で就職。ふたりは入籍し家族としての暮らしがスタートした。その後、男の子と女の子をもうけた。
 1年前、カレは貿易関連、律子さんは日系の飲食産業で仕事を得て、家族は北京で暮らし始めた。今は、5歳の男の子と4歳の女の子の子育てと午前10時から夜9時までの仕事の両立に忙しい。
「お兄ちゃんは、彼に似て優しい子ですが、食べ物の好みは私と一緒で、みそ汁や茶碗蒸し、野菜など淡白なものが好き。妹は、とても芯の強い子。中華や韓国料理など味が濃く辛いものが好きなところはカレ譲り。年子でも、性格や好みは全然違うんです。子どもっておもしろいですね」

きれいごとも、時には大切

 律子さんはハワイ留学時代、カウンセラーのアシスタントのボランティアで、どうすれば理想的な結婚ができるかということを学生と一緒に考えた。不倫はだめ、離婚もだめ。自己中心的ではだめ、まわりのことを考えて一日一善——。そこで到達した結論はというと、「結婚はゴールではない、結婚後もお互い内面も外見も磨く努力を続けなくてはいけない」という、いささか教科書的な「あるべき論」だった。
「でも、人にはきれいごとって、大切なんじゃないかと思うんです。どうやって人に接するのがよいのか、カレとはコンサルタントのアシスタントの時からよく話し合っていたのですが、お互いの価値観がとても似ていました」
 将来は中国でふたりで何かビジネスを立ち上げられたらと考えている。
 自分次第でどこの国で暮らしていても、楽しく、素敵な時間を過ごせる自信があるという律子さん。
「北京で暮らす中で、これから子育てや仕事など、問題が出てくるかもしれませんが、苦労は覚悟していますので私は大丈夫だと思っています。何があってもその時々で一番いい道を探して行けばいいと考えています」(文中仮名)


SadoTamako

投稿者について

SadoTamako: フォトグラファー 北京大学留学後、’99年より北京在住。中国関連の写真とエッセーを内外のメディアに発表している。 『NHK中国語会話テキスト』、『人民中国』の表紙写真、『読売新聞国際版』リレーエッセーを連載。 著書に『幸福(シンフー)?』(集英社)など多数。(ウエッブサイト